Page 3 : 時






「すいません」
 そう軽く言ってからラーナーはヒョイと少年とポニータの横をあっさり通り抜け、また普通に歩きはじめた。
 変な人。こんなに暑いのに長袖に長ズボン。しかもポケモンを出してる。一瞬だけそう思いはしたラーナーだったが、すぐに脳内から忘れ去られる。
 道端で出会っただけの全くの赤の他人同士で、そんなに干渉し合うわけがないのだから。
 彼女の乾いた地面を歩いていく軽い音が、消えては出てきて、消えては出てくる。足元から飛び出すリズム。
 だんだんと少年から遠ざかっていく。行き先はとうの昔に決まっているし、そこに何度も彼女は行ったことがあるから道に迷うこともない。
 温い風が正面からやってきて、長い髪がふわりと揺れた。

 それに対して少年は、立ち止まっていた。動こうとせずに、ラーナーの向かっていった方を呆然と見つめていた。息を呑み、深緑の目は先程までの眠気を忘れたように見開いていた。彼女を見た途端に跳ね上がった心臓は今も激しい鼓動を続けている。
 頭の中に甦ってきた鮮明な記憶に沿いながら自分の状況を確認するように考え込む。
 強い日差しが彼らを刺すように当たり、立ち止まっているだけで汗が流れる。が、その汗もただ単に暑さから来るものだけではなく冷や汗も混じっていた。
 もちろん彼の瞳には、もうラーナーの姿は映っていない。彼女は角の向こうに姿を消した。
 太陽を反射して、彼の帽子の上にある大きめの黒いゴーグルが太陽の眩さを受け光る。
「……今の人って」
 思わず喉から飛び出してきた呟き。その言葉にポニータは少年を振り返る。
 彼女はただすれ違っただけの赤の他人。それは彼にとって何一つ間違いのないことだ。
 けれど。
「……ちっ」
 軽い舌打ち。ポニータはそれを見て、不思議そうに首を傾げる。それが視界の片端に入った少年はポニータに視線を移すとそっと白い首の毛並みを撫でて、下から視線を真正面から合わせる。
 何かを語るかのようにじっと。ただ、じっと見つめる。
 数秒、ずっとその状態のまま固まっていた。そのうちに、ポニータはさっきの少年と同じようにラーナーの消えていった方を見つめた。元々大きな瞳が、更に開かれている。
 風がそっと通り過ぎて、少年の髪を撫でるように揺らす。
「ほんとかどうかは分からない。だけど、顔が瓜二つだ。それに、あのブレスレットは」
 そこで一度言葉を止めて、ポニータと顔を見合わせる。それから厳しい表情を崩して溜息をついた。
「行くか」
 少々諦めたような声に、ポニータは溜息をつき、続けざまに欠伸をした。
 それにつられ眠気が戻ってくる少年の瞳。瞼が半分閉じているが、覗いている瞳は何か決意したように、一種の獣のように光っていた。
 歩き始める。方向はラーナーの向かった方。本来の彼等の行き先は、それとは全く逆の方向にある、静かに寝ることができそうな宿なのに。
 “赤の他人”を追いかけるように、少年とポニータは元来た道を辿っていくことにしたのだ。
 角を曲がる。が、ラーナーはもう既に見当たらない。
 不意に立ち止まる少年だったが、唇を噛みしめて目を閉じ、耳を立てる。少年の耳に多くの音の情報が飛び込んでくる。静かな集中力が一気に高まっていき、彼の周りの空気が急速に冷えていくような雰囲気で包み込んだ。
 ポニータは何も気にしていないのか、穏やかな目で少年を見つめていた。
 と、また瞼をそっと開ける少年。途端に、彼の周りの空気が何もなかったように正常に戻る。糸をピンと張ったような刹那の緊張感が消えた。
 しばらく静止していたが突然また歩き出し、ポニータは慌てて少し遅れて追う。
 独特の石の道路には人が誰もいない。川のせせらぎが彼方で流れている。涼しげで清流を思わせるような透明の音だ。近くに茂る林の青々しい木の葉が風に揺れ擦れ合い、音を立てる。自然の音と彼らが歩く音しか辺りには無い。
 荒々しい足取りは速い。
 そのうちに二つの右と左の分かれ道に出会う。正面には少し深そうな広葉樹の林が広がっていた。
 しかし彼は一瞬も迷う素振りを見せず、左には目も暮れずさっさと右の方へ歩みを進める。右は少しなだらかな上り坂。
 彼は正にラーナーの歩いていた道を辿っていた。彼女の行き先を知らないのに。彼女の足跡が残っているわけでもないのに。
 その道は、確かにラーナーの目的地への道だった。
「……くそっ」
 彼は苛立ちを露わに、少し歩くスピードを進めた。
 空は眩しいほどに青く、雲一つない日本晴れ。


 *


 彼女の腕の中には、数えきれない位のたくさんのシロツメクサがある。
 道中で咄嗟に草原から摘み取ったものだ。あまりにも急いでいたために花を用意しておくのを忘れていた。
 せめて、昨日にでも買っておけば良かったと後悔はした。が、きっと許してくれるだろうとあっという間に開き直った。
 それでもさすがに何も無いのは悪いと思ったから、溢れんばかりの白い花々を摘んできたというわけだ。歩いてきた道沿いに群れているように咲き誇っていたのだ。
 軽い足取りである。光と影の織り成す綺麗な木漏れ日の中を、絶えず笑顔をこぼしながら歩いていく。何がそんなに楽しいのか、それは彼女自身もよくわかっていない。
 風で木が揺れると、木陰も同じように柔らかく揺れる。それと同時にポニーテールの彼女の髪もさらさらと風になびいた。
 今までとは一転して砂利でできた道だったため、足音が辺りに分かりやすく響く。
 その彼女の歩く道沿いに連なるようにあるのは、紛れもなく墓、だった。灰色の大きな石の個体が静かに並んでいる。それは独特の雰囲気を醸し出し、言いようもない不気味さが漂っている。
 ラーナーが来ているのは、ウォルタ市街の外れにある、比較的小さな墓地である。
 朝早いせいなのかそれともただの偶然か、ラーナーの他に人はいない。いると言えば朝に可愛らしく鳴く小鳥くらいなものだ。少し時間がずれると、お年寄りが数人訪れ手を合わせている風景が日常的になるのだが、今は彼女一人。
 それはこの日だと毎年のことだから、ラーナーは何も気にしていないけれど。
 油蝉の声が辺り一帯に響き渡る。夏の真っ盛りの時期に比べればそれほどうるさくはないが、聞くだけで暑苦しくさせるのはどんな時も同じだ。よく聞いてみれば油蝉の他にもミンミン蝉の鳴き声も遠くからしている。
 鼓膜を揺らして頭の中を鳴らすようなその声だったが、もう彼女にとってはそれも慣れたことだ。
 ようやく、彼女の求めていた場所に来る。
 そこは少々広い墓地の中でも、かなり奥の方だった。
「ふう」
 少し安心したようにしゃがみ込む。同時にそっとシロツメクサの束を墓前に置く。その墓は他に比べると黒く、対する花の白さは、少し眩しすぎるくらいだった。
 と、思い出したように慌ててベージュのショルダーバッグの中を右手で探る。
 そして右手に握られて出てきたのは花の絵が掘られた懐中時計。金属製だが所々が錆びていて、とても新しいものとは思えなかった。
 かち、と上のボタンを押す音と同時に、閉じた貝がぱっと開くが如くに蓋が開く。時計の文字盤が姿を見せる。古いものだが働きは現役である。立派に秒針がかちかちと音をたてながら、時を刻んでいた。
 九時三十四分。もうすぐ長い針が七の文字を指そうとしているところだった。
 ほっとしたように彼女の口から安堵の息が漏れ、再び笑みがこぼれる。
 そして改めて墓を見た。灰色の石でできたその小さな二つの墓を。

 右の方には、リュード・クレアライト。
 左の方には、ニノ・クレアライト。
 そして両方に、ここに眠る、と彫られてある。

 ラーナーには秒針による時を刻む音が木が揺れる音よりも油蝉の声よりも何よりも大きく感じられた。
 その時、時計の長針が何事もなく七の文字を指した。 
 それを彼女は視界に入れると、そっと手を合わせた。静かに。
 風がそよそよとただ吹いていた。暑いけれど柔らかな空気。時が止まったようにただ静かで。
 瞼を閉じて祈るその表情は今までの笑顔とは一変して切なげで、悲しげである。
 ラーナーの周りだけ世界が、次元がまるで違うかのように。

 その間もひたすらに時は過ぎていく。立ち止まることのない時間の中、ずっとラーナーは止まっていた。
 息が詰まりそうなくらいに、ずっと。 
 人の名を刻まれた石碑は何も言わない。何も動じない。
 なにも。





 ザッ

 そっとラーナーが瞼を開いたそれと同じタイミングで、彼女の背後で砂利を踏む音がした。
 ほとんど無意識で彼女は振り返る、と同時に目の前の光景に眉を少しひそめた。
「……こんにちは」
 ぼそりと呟くように挨拶したのはラーナーではない。相手の方だ。少し苛立ちと戸惑いが混ざり合った低めの声。仏頂面を構えてラーナーを見つめている。
 彼女の目の前にいたのは、先程ラーナーと角でぶつかりかけた少年と、連れのポニータだった。












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