Page 45 : 死ねない





 ――要は、どこに行こうと自由なんて無いっていうこと。
 そんなことは無いと、彼は否定したかった。けれど彼は自分で自分に問うた。じゃあ、今お前は自由だっていうのか。三年も一人の人物を求めて歩き続けて進展も無く、命を狙われ、それでもどうして自由だと言える。何が自由なんだ。どうして、生きるんだ。問い続けてきた。李国を忘れ、アーレイスで旅を続けていれば答えは見つかるような気がしていた。信じていた、信じたかった、諦めたくなかった。けれど、ここも同じだった。ウォルタの傍、ぼろぼろになった服を着て裸足で虚ろに何か作業をしていた少女。ホクシアの路地裏、盗みを働き必死に逃げきろうとした少年。もっともっとたくさん見てきた。力の無い目、怒声、諦めの溜息。どこか見覚えのある光景だった。ああ、なら、きっとここでだって答えは見つからない。いや、答えならとうに断定していた。ただ認めたくなかっただけ。
 求めているものはきっと、手の届かない向こう側に。




 ザングースの群れは一気に襲い掛からず少しずつクロ達の前に飛び込んでくる。少しずつ、といってもその間は傍からすれば一瞬だ。最初の攻撃をクロは火閃で受け流し、ポニータは避けつつ炎であしらっても、次々とやってくる刺客に堪らなくなる。
 耳障りに重なる獣の奇声は耳元で巨大な羽虫が飛んでいるよう。閃いたのは恐怖だ。反射的にクロは混沌としたその場を後方に離れ間合いを取ろうとする。
「一から四、追え」
 混沌の中で凛と通る女性の声に、全体の丁度半分である四匹のザングースがクロを追いかける。スピードが抜きんでた一匹がクロに爪を振りかざす。その腹めがけてクロは蹴り上げる。
 直後二匹正面からやってきて刃を横一文字に振った、一匹、肉を捉える。鮮血が弾ける。隙を逃さんと四匹目。クロのみぞおちへと突進した。避けることは勿論、防ぐこともできない。更に後ろへと弾き飛ばされる。地面を転がりながらもすぐに体勢を立て直そうとすると休みなく奴等は追ってくる。
 火閃を真横にかざす。刃を覆う炎が膨れ上がった。脳内に技の光景を形作る。
「はああああ!」
 水平に空気を切り裂いた瞬間、膨張した火は三日月型の衝撃波をかたどり前方へと飛ぶ。
 二匹それに巻き込まれた。若干遅れて来た他二匹は“見切り”、それぞれ上下に避ける。生み出した隙に、慣れぬ左手で歪んだ円を地面に描く。円火鳳来。叫びは熱風に吸い込まれる。
 四つの炎の柱が立つが、止まらない素早い動きは捕えられない。
 先程避けた二匹のうち先に来た一匹にクロは狙いを定める。その場を走り出し、勢いのまま相手の片足を刃は捉える。悲鳴がつんざく。力の無くなった一つの足が空を飛ぶ。それが視界の端で弧を描いたのも束の間、もう一匹がクロの後ろに一瞬で回り込みその爪を立てた。避けようとしたが、体はうまく動かない。なにか、スピードが鈍い。背を抉る切り裂き。痛みにクロは声をあげた。
 すかさず前から、先程衝撃波を食らった二匹による合わさった電光石火。何もできず後ろに吹っ飛ばされ、オープンテラスの机と椅子をいくつも巻き込み倒れこんだ。
 全身を激しい痛みが貫く。
 ザングースのうち一匹は片足を失い地面にうずくまっているが、残りは一抹の慈悲も容赦も無くクロを逃さない。クロは頭からも血が流れ、体は痺れていた。無理矢理に動かそうとすると、背中が悲鳴をあげる。
 まだだ。
 蓋の開いたままのポーチの中から咄嗟に一つペーパーナイフを取り出し、瞬間真っ直ぐに投げる。その鋭い目に突き刺さる――こともなく、頑丈な爪によってあっけなく防御される。舌打ちの後、火閃を持ち直した。
 その時、ザングースを一瞬で追い越しクロの懐まで影が走ってきた。高速移動によってやってきたポニータは急ブレーキ。クロを狙ってくる獣のうち、お互い接近している二匹に向かって後ろ脚を蹴り上げた。ダイヤモンド以上の硬度と言われる蹄がそれぞれの顎を的確に捉える。もう一匹に向かってクロは痛みを忘れたような俊敏な動きで火閃を振り上げた。それに沿って血が跳ぶ。続けざまに力の限り横から蹴り、先程の自身がそうされたようにテラスの群へと叩きこんだ。
「ポニータ、ありがとう」
 咄嗟に礼を言い視線を向けた瞬間に息を呑む。ポニータの白毛は乱雑になり、いくつもの痣と切り傷がもう一方の戦いを物語る。震える足を畳みこみその場に膝をつく形になる。クロを手助けするためとはいえ、よく追いつけたものだ。異常な程の執着心すら感じる。
「くそ」
 クロ自身も右手は潰れ、背と頭、その他あちこちから流れ出る血は止まる気配が無い。
 ガラクタのように転がった椅子を支えにその場に立つ。大きく肩は上下し、また立ち上がるザングースの群れとの距離感すらあやふやだ。クロが相手にしていたものだけじゃない、ポニータが相手をしていた猫イタチ共も当然やってくる。
「止め!!」
 遠くから張り裂かれた声にクロは顔を上げた。
 ザングースの動きはぴたりと止まる。雑音は火をふっと消したように一瞬で黙り込む。
 火の粉がちらつく中をかつかつと音がする。数メートル距離を置いたところで彼女は手を服のポケットに突っ込んでクロを見つめる。余裕を持った表情である。当然だ。彼女は指示もまともに出しておらず、戦いには殆ど参加していないも同然なのだから。
「一度圧倒した子に痛みつけられるのは、どう。随分傷ついて、惨めだね」
 何も言葉が出てこず黙っていると、女性は一歩、また一歩とクロとポニータに近づいていく。
「ボロボロになってもまだ戦おうとするんだ。ますます白にそっくりじゃない」
 落ち着かない乱れたクロの呼吸。炎の揺らめきが視界を霞める。
 興奮するザングースの隣で立ち止まると、彼女はふぅと息を吐いた。
「このままだと死ぬね。こんな所で命を失うは惜しいでしょ」
 きっと最後の提示だろう。黒の団に入るか否か、生きたいのか死にたいのかという選択だ。頭が揺れる中でクロは考える。断ればその瞬間、ザングースに再び攻撃を支持するだろう。手負いなのも休んだのもお互い様だ、本当に死を覚悟しなければならない。
 ポニータはゆっくりと折っていた足を動かし、クロに視線を合わせる。さすがに最初ほどの元気は失われてしまったポニータは、必死に瞳で語りかけようとしているようだった。何を叫んでいるのか何を伝えようとしているのか、今のクロには分からなかった。けれどポニータは普段は出さない小さな声を漏らすほどに、メッセージをぶつけようとしている。たとえそれが明確に届かなくとも。
 その様子を見ながら、ふとクロは笑んだ。心身ともに限界が訪れると、やけになってしまうものなのか。でも、どうでもいいと投げてしまえるほど、彼はできた人間ではない。
 クロはポニータから目を離し、再び女性と向き合う。
「命なんてどうだっていい」
 クロは椅子についていた手を離して自分の力のみで立ち、呟いた。中身の空いたような掠れた声だった。
 女性は不審な目で彼を見る。クロは相変わらず何故だか笑っていた。
「だけど、死ぬわけにはいかない。お前等についていくわけにもいかない」
 矛盾した答えが、はじき出された。
 その直後、クロは上着のポケットから小さな球体を取り出す。付けられた詮である紐を思いっきり引き正面に投げた。その直後、玉は一気にエネルギーを放出して爆発の如く凄まじい閃光を発した。辺りが一面見えなくなるような強い光に包まれる。
 閃光弾を見た瞬間に反射的に体を反らし視力を守った女性は、数秒間の光が収まった後にクロとポニータの居た場所を確認する。予想通りといったところか、彼等は短時間でその場を逃げ出したようだ。思わず彼女は舌打ちをしたが、地面に落ちている血痕が彼等の足の軌跡を残しているのに気付く。ザングースの嗅覚を考えても、追うことは容易いだろう。
 炎が辺りのものを包み火種が跳ぶ音のみが佇む、そんな静寂が辺りを包み込む。
「……意味がわからない。それが答え? しかも、逃げるなんて」
 女性は呆れ、あからさまに溜息を吐いた。
「がっかり」




 異臭が漂う路地裏をクロはポニータに乗って走り抜ける。道の傍らに座る人々や、時折通り過ぎていく街に住み着いた鼠ポケモンには目もつけず、ただ走る。なるべく人目につかない所へ、なるべく遠いところへ。クロとポニータだけでは、あの異常な程戦闘意識を剥き出しにした八匹のザングースに対してまともに戦っても勝算など無いということを、先程のほんの瞬きのような戦闘で思い知ったのだから。
「ポニータ、大丈夫か」
 風が押し付ける中で声をかけると、必死の逃亡の最中にも関わらずポニータは彼の声を聞き届け力強く頷いた。必死と言っても、ポニータは怪我を負った彼がバランスを崩し落ちてしまわぬようある程度スピードは手加減していた。クロはそれにしがみ付くので精一杯である。
 その間、クロはこれからを考えようとするが、うまく頭が回らない。女性の声が纏わりつき、ザングースの叫びが今も耳元で聞こえてくるかのようだ。妄想による妨害を払おうとしても当然容易にできるものではない。
 どうすべきだ。どう動きべきなんだ。どうしたら切り抜けられる。
 わからない。

 その瞬間、クロは月が浮かぶ空に何らかの気配を捉えた。
 追手かと反射的に身構えその姿に目を凝らすと、すぐに違うことに気が付いた。独特な動きで宙を踊るように飛び、どんどん加速しながらこちらに近づいてくる。見覚えがあるその技は、蝶の舞。いくつかのポケモンの基礎能力を引き上げるそれは、素早さも上げる。
「アメモース!」
 クロは思わず歓喜のこもった声をあげた。
 豪速で空から滑り降りてくるアメモースはポニータの隣へやってきて並走する。珍しく汗をかいており随分と急いできたことが見て取れる。巨大広場の騒ぎを聞きつけて飛んできたのだろうか、何にしろ加勢は有難いことこの上ないものだ。少しでも数を増やすことができ、その上アメモースはまだ無傷である。それだけで僅かに希望の光が見えてくる。
 だがまだ状況は好転したわけじゃない。
 空に新たな生き物の影が現れる。今度は立派な大きさの鳥ポケモンだ。月の逆光の中、それは大きく翼を羽ばたかせ鋭い風の刃を作りだしクロ達を襲う。咄嗟に動いたのはアメモースだ。相手には及ばないが大きな触覚を力強く動かし、敵に劣らない風の衝撃波。二匹の繰り出したエアスラッシュが相対し、空中で衝突し爆発のような凄まじい風が周辺を襲う。
 巻き込まれたクロはポニータから落ち地面に強く打たれる。全身に痛みが張り裂け怯んだが、なんとか体勢を立て直す。その傍にすかさず彼のポケモン達はやってきて、まるでクロを守るようにその前に立つ。
 刺客であるピジョットの背から――正しく言えばピジョットに乗った女性の手から――四つの光が跳び出し、ザングースが狭い道に姿を見せる。残りが現れるのも時間の問題だろう。
 再びクロは左手に火閃を持つ。
 まだだ。
 目に垂れてきた血を袖で拭い、クロは心の中で小さく吐いた。
 まだ、俺は死ねない。












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