Page 6 : 暗転






 セルドはテーブルの上にあったリモコンに手を取ると、赤くて一番大きなボタンを押した。見えない赤外線がテレビまで一瞬にしてたどり着き、急に死んだようにテレビは静かになる。途端に部屋の中は静寂に包まれ、一種の寂しささえも感じることができた。
 先程までずっとアニメを見ていたがそれはとっくに終わった。ラーナーに頼まれていた鍵を閉めると、つまらないし他の番組でも見ようと思ってテレビをつけていたが、どうも面白そうな番組が無く、切ってしまった。
 何となく辺りを見回す。壁にかけられた小さな時計に目を向けると7時20分と指していた。
 そういえば買い物に行ってたな、と思い出し彼は浅く短い溜息をついた。
 テーブルの上に投げ出された食材達の存在にセルドは気づくと顔をしかめ、少し考えてから大きな溜息をつく。しぶしぶ椅子から立ち上がり、出してある食材をとりあえず全て紙袋の中に入れなおすと、それを持って冷蔵庫へと近づく。
 冷蔵庫の扉を開けると紙袋を床に下ろし、野菜や肉などカラフルな食材を次々と中にしまっていく。どこに何を入れるかが分かっているようだった。やけに慣れた手つきで作業は進んでいく。
 最後に残ったのは箱に入ったクッキー。それを見つけるとセルドのしかめ面は一気に明るくなる。冷蔵庫の扉をとりあえず閉めると、厚紙でできた箱を開けて中にある袋に包まれたクッキーを一つ出した。箱の方は別の戸棚の中へと入れる。
 仕事を終えると満足そうにセルドは笑って、さっき取ったクッキーを取り、袋を開ける。バニラクッキーで、表面は柔らかさを感じさせるほど綺麗な色で焼けていた。
 夕食前にお菓子を食べるといつもラーナーに口うるさく怒られるので普段はしないが、彼の腹の虫はテレビを観賞していた終盤から大合唱を続けているのだ。もう我慢できない様子である。
 歯で半分くらいかじり、奥歯でゆっくりと噛む。まろやかな甘みが口の中に溶け込み、食べている方を幸せの渦に誘う。ケーキ屋等で売っているような少し高いものではなく市販のものであるが、この味がセルドは大好きだった。今も大好物を味わえて彼の気分は高潮している。
 食べながら椅子に戻る。そこでようやくテーブルに置かれたひまわりに気付く。
 夏の代名詞とも言えるその大きな花は、黄色い花びらを堂々と広げ、エアコンの涼しい風に微かに揺れていた。
 セルドは目を細めた。高揚していた心は少し冷えて、力無く手を膝に乗せる。窓の外から夏の虫の声が小さく鳴っているのが彼の耳に届いた。
 今日が特別な日であったということを、改めて実感する。だからラーナーが朝早くから家を出た理由もセルドはよく知っている。

「母さんと、父さんの、命日か……」

 ひまわりは彼等の両親の好きな花だった。
 漢字で書くと向日葵。別名日輪草。また英語ではサンフラワーと呼ばれる。その名の通り、黄色い花びらを持つその大きな花の姿は、確かに世界を照らす太陽を連想させる。
 セルドにとってはその煌びやかさや堂々たる姿がむしろうっとおしくて、そんなに好きな花ではない。
 どうしてこの花が好きだったんだろう、そう思ったことが今まで何度あったか。手で数えられる数はゆうに超えている。けれど聞くことはできない。聞いても答えてはくれない。何故ならもうこの世の人ではないのだから。
 ただ一度だけラーナーに聞いたことがある。何故か、と。けれど彼女は少し驚いた顔をして、すぐに薄い笑顔で分からない、と言葉短く答えた。その時の目がセルドには印象的だった。淋しそうに揺れるその栗色の瞳が、セルドを拒絶しているようにも見えた。その瞬間怖くなって以後は聞いていない。
 今ではその時の様子をいまいち覚えていないというのが事実だが、子供心で何かを感じ取ったのだろう。
「なんだかなあ」
 少し虚ろな視線を向日葵に向けたまま一枚目のクッキーを食べ終えて、二枚目にかじりつく。一袋二枚入りのクッキーは、いつのまにかもう終わってしまいそうだ。
 外はすでに暗闇に包まれていて、そろそろラーナーも帰ってくる頃だった。むしろ少し遅いくらいだった。
 恐らく商店街の米屋に行っているだろうから、あそこならさほど時間はかからずに着くことができるはずだ。
 彼のクッキーを食べるその硬い音だけが部屋に響いている。

 その時、リン、と鈴が鳴った。訪問者を示す音だ。外のドアの横にあるチャイムのボタンを押すと、この音が部屋中に高らかに鳴る。
 ようやく帰ってきたか、と思い慌ててクッキーを全て口の中に入れると、急いで胃に流し込む。
 リビングから出ると、エアコンのかかっていない廊下は相変わらず暑かった。もう一度鈴が鳴る。慌てなくてもいいのに、と半ば思いつつ鍵を開ける。
 が、扉を開いて目の前に居たのは、ラーナーではなかった。
「宅配便でーす」
 夜の暗闇をバックに、緑と白を基調とした専用服に身を包み深く帽子をかぶった男性だった。若いとも老いてるとも言えない微妙な顔つき。体つきが良く、腕で大きな段ボール箱を抱え込んでいる。
 なんだ姉ちゃんじゃないのかと思いつつ、はい、と彼は男性に応答する。
「サイン宜しいですか?」
「あ、ちょっと待ってください」
 一度扉をセルドは閉めると、扉のすぐ傍にある靴入れの棚の上に手を伸ばす。
 花の入っていない綺麗な小さな花瓶の隣にあるこれもまた小さなペン立て。セルドはそこに入っている黒いボールペンを手に取った。
 その後扉を再び開く。お願いします、と男性は笑顔で言って段ボール箱を少し前に突き出す。
 ラーナー宛てだった。シーザー・アボットという人から来ているようだ。心当たりがないが、ラーナーの知り合いなのだろうと思いつつサインを書く場所を探す。
「ここです」
 男性は人差し指である場所を指す。サインを書く場所らしく、点線で四角く区切られた空白があった。
 なるほど、と思い彼はサインをしようとボールペンのノックを押し、自身の名前を書き込もうとする。
 早く姉ちゃん帰ってこないかなとそんなことを頭の片隅で思いつつ。
 男性は、ニッコリと笑みを浮かべた。


 *


 結局こんなのに何の意味があったのだろう。いや意味がないのは最初から分かっていたけど。ラーナーは心の中で自身に毒づく。
 ラーナーの手のひらには、朝に自分がポケットに乱暴に入れた赤い星のキーホルダーがあった。
 運命の出会いがあるかもなんて言うし何より十二位という悲惨な結果だったし、信じては無いと思いながらも何となく心の片隅で占いを信じていたのだろう。
 少し遅くなっている足取りで彼女は深い溜息をついた。道を行く人が思わずラーナーに視線を何となく当ててしまうほど大きな溜息であった。馬鹿みたい、と小さく呟いて、再びポケットに戻した。
 本当に今日は彼女にとって、十二星座中十二位という結果にぴったりな一日だった。
 寝坊。花の買い忘れ。米の買い忘れ。変な男の子。米の買い物だってこんなに時間をかけるつもりは彼女にはなかったのに、米屋の主人の妻と時間を忘れて話をしていたのだった。主婦の話はためになる。特に両親のいない彼女にとっては、家事全般の大先輩でもあるのだ。今日もたくさんの事を教えくれたが正直無駄話も多く、いつもより幾分長く感じられた。
 おかげでこんな暗い夜道を歩くことになった。
 空には星が煌めいており、道は街灯のおかげでようやく辺りが見えた。市街地の中心ならもっと明るいだろうが、住宅街はさすがに暗い。
 彼女の腹の虫が鳴る。五キロの米は重い。いつもならここまで感じないのに、今日はやけに重く感じていた。
 ようやくラーナーの住むアパートの前に来る。米の入ったビニール袋を持ち直し、自分の扉へ向かおうとしたその時目を丸くする。
 自分の部屋のドアが開いている。こぼれた光に照らされて、見覚えのあるユニフォームを着た男の人がいた。段ボール箱を持っていることから、宅配便の人だと気付く。
 セルドが応答しているようだ。急ぐ必要もない。ラーナーは米を持っていくのを最優先に、重い足取りで廊下を進もうとする。

 瞬間。








 帽子の下で男性は口元に笑みを浮かべた。
 セルドは目を見開いた。
 何が起こったのか分かったのは遠くだったからだろうか。近ければ、灯台下暗し、見えなかったかもしれない。
 段ボールで隠されているようにさえ見える。けれど確かにその茶色い箱の下から見えたのは、赤いもの。噴き出しているようだった。セルドの顔がだんだんと蒼白になっていく。そして彼の口から突如飛び出したのは、鮮血。ラーナーの体がびくんと震えあがり、突然のことに目を見開かせた。息が止まり身体が固まる。
 前かがみに倒れ始めるセルド。ラーナーには全てがスローモーションで動いているように見えた。
 目に映る状況を完全に把握できない。体はぴくりとも動かない。脳が状況についていかない。ただ呆然としていた。
 床に、落ちた音がした。セルドが一度ダンボール箱にぶつかってから床に倒れ、血が弾け跳んだ。

 男性は段ボールをセルドの手前側に置く。他人から見えないようにしたいのか。
 彼の右手には、明りに煌めくナイフが一本、血塗れになって握られていた。持つ手も赤黒く染まっている。男性は相変わらず笑っている。ラーナーは息を呑んだ。
 どうやら男性はラーナーには気付いていないようで、セルドの横を通り抜けると、中へと素早く入っていった。
 弾かれたようにラーナーの眼に意志が戻り、米を乱暴に廊下に投げるように置く。
 一番奥の部屋であったことに彼女は後悔した。こんなにも廊下が長く感じたのは初めてだった。走る、走る。息遣いは荒い。声が出ない。セルド、そう叫ぼうとしても悲鳴をあげたくても、何故か彼女の喉から声は出てこなかった。ただ心臓が高鳴っている。心拍数が激しくて苦しさがまとう。嫌な予感が胸をよぎって離れない。
 そしてドアの前に来る。肩が上下し、口を右手でそっと押さえた。その光景は、彼女には重すぎるものだった。
「せるど……?」
 辛うじて出てきた声だった。誰が聞いても明らかなくらい、震えた言葉だった。彼女の体も小刻みに震えている。
 横に向いた顔は血の気がなく、目はどこか彼方を見ているようで。
 口から飛び出していたのは赤い血。刺された胸から飛び出しているのもまた血。赤く煌めいて、生温かい。床に弾かれたような返り血がいくつもあって、彼女の踏んでいる場所もまた血があって、少し捻るとぬるりと気味が悪い感触が襲う。背筋に寒気が走る。思わず跳ね上がる肩。
 異臭が辺りを漂っていた。鼻を突く血の匂いにラーナーは思わずせき込んでしまう。猛烈に襲いかかってくる吐き気を押さえると、再びセルドをゆっくりと見る。
「あ…………あ……、あ」
 首を軽く振りながら、しゃがみ込み弟の顔を覗き込む。見開かれて意志の無い瞳はどこも見ていない。どうしたらいいのか彼女には分からなかった。思考がついていかない。目の前がグラグラとしている。頭痛が襲いかかる。
 セルドはほんの少しも動かない。周りにあるのは血だけ。ただ、少し開かれた口から虫のようなか細い呼吸をしているように見える。まだかろうじて生きている。
 突如脳裏を掠めたのは、少年の瞳。暗転、氷が背中に突き刺さったような感覚。
「殺されるよ」
 何度も響き渡る声。頭が痛い。ラーナーは手で頭を抱え込む。髪を握る様に乱した。目から涙が溢れだす。
 恐怖が包む。






「なんだ、こんなところにいたんだ」
 男の声。ラーナーは反射的に顔を上げた。涙が中の部屋の明かりに光る。
 逆光でよく見えないが、帽子の下に浮かんでいる不気味な笑みがラーナーには分かった。服には返り血と思われる赤いものが幾つもついている。右手に握られたナイフは血を拭きとったのか、刃が鮮明に光っている。
 彼は唇の横に付いた赤い液体を、舌を伸ばしそっと舐めた。舌の先についた血は彼の口の中へ潜り込む。ラーナーの心臓が跳ね上がり背筋が凍った。
 男性とラーナーの視線が合う。途端に彼女が感じたのは息苦しさ。首を絞められたような感覚。唾が口の中に溜まっていく。
 逃げないと。彼女は本能でそう感じ、素早く立ち上がり、後ろに走りだした。ラーナーにとって恐らく今まで生きていて一番のスタートダッシュだ。
 廊下を駆ける。足跡として血が残るが構わなかった。アパートを彼女は夢中で飛び出して、なるべく人のあるところへとウォルタの中心地への道を走った。
 走らなければ。逃げなければ。そうしなければ、確実に死ぬ。












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