Page 61 : 空にて、地上にて





「エアームド、出てきてください!」
 そう言ってクラリスはボールの開閉スイッチを押す。相変わらずなんてすごい装置だと感心しながら圭は眺める。どんなに巨大なポケモンであっても掌サイズに収めて持ち運ぶことができ、更にすぐに外に出すことができる。当たり前のように使っているが、科学の力に一種の恐ろしさすら感じてしまいそうになる。
 太陽光を眩しく反射する銀色の体、鋼鉄の翼。昨日クラリスが逃走を計ろうとした際に使ったポケモン、エアームドだ。
 談笑をしつつ昼御飯を済ませた後に、圭は昨日から興味をもっていたというエアームドを見せてほしいと言い出した。クラリスは反射的に何故だろうと思ったが、断る理由も無い。むしろ快諾し、今に至る。
「っはあー!!」
 圭は喜びを爆発させて声をあげ、エアームドにさっと駆け寄り爛々と輝いた目でその体を観察する。
「やっぱかっけえな、かっけえ! でけえ! この鉄の胴体、翼! 鋭い目! 強そうな風格! いいなあ! 昨日はあっという間だったしそれどころじゃなかったけど、昨日の夜思い返したらもう一度ちゃんと見てみたくなってさ。なあ、触ってみてもいいか?」
「大丈夫ですよ」
「よっしゃ。……おおお、つるつるだ」
 恐る恐る触れてみたところ、エアームドは特に暴れることも驚くこともなく、ただ不思議そうに圭を見つめていた。嫌がる素振りもせず少しも動かないのは、きちんと躾けられている証拠だと言えるだろう。
 圭は胴体から翼へと手を移す。羽はとても大きく、そして鋭い。まるで刃物そのものだ。触れ方を誤れば指を切ってしまいそうだ。エアームドがその気になれば、この翼は包丁や刀のように何かを切断することも容易だろう。実際、エアームドの羽は薄く鋭いため刀の材料として使われていたという話もある。そのことを圭は知らないが、自分と共通するものを無意識に見出しているようだった。
 圭の全身が熱で渦巻いていた。自然と頬が緩み、高揚感が一気に駆け上がっていく。自分より数十センチも背が高いエアームドの顔を見上げる。僅かに開いた口から見える尖った歯の並びすら、彼には魅力的に見えた。
「なあ、クラリス。エアームドってどこに生息してるんだ?」
 興奮を隠せない声音で尋ねると、クラリスは一瞬困惑する。
「俺、最初はポケモンなんて別にいいかなって思ってたけど、ちょっと気が変わってな。いろいろ考えたけど、せっかくキリに来たのも何かの縁だし、空を飛べるってかっこいいし、鳥ポケモンってすっげー魅力的だと思う。何の種類があるのかは全然わかんねー。けど、このエアームドって最高だと思うんだ! 多分、いや確実に一番いかしてる鳥ポケモンだ! 俺、エアームドを仲間にしたい!」
 自分の考えを素直に吐きだしきった圭を止めることはもうできない。ラーナーは呆気にとられていたが、自然と笑みが零れていた。
「なんか、圭くんらしいなあ。ぴったりだと思う」
「だろ!?」
 ラーナーの賛成も得られて更に圭は嬉しそうに笑う。まるで太陽のように眩しく弾けている顔だ。
「その、言い辛いんですけど……」
 一人笑えずに、クラリスは言葉を濁す。
「エアームドはキリの周辺には住んでいなくて……確か、アーレイスと李国の国境の山脈に生息しています。この子は私の家で生まれてるんですけど、捕まえようとしたらそこまで行かなきゃいけないかと……」
 ――現実は時に、残酷だ。
 圭は全身の筋肉が強張り、固まる。時間すらも静止したように感じられた。勢いよく垂直に空まで飛びあがって、そこから滝のように突き落とされたような気分だった。
「……まじで?」
 俄かには信じられなかったのだろう、足掻くように彼は尋ねる。しかし、クラリスは正直に頷いた。
「嘘を言ってもしょうがないので……」
 彼女の後ろめたそうな表情と口調が真実であることをありありと物語っていた。彼女は圭やラーナーよりもずっと勉学に励んで知識を詰め込んでいる。自信が無さそうな様子もない。恐らく、本当のことなのだ。
 喉が渇くのを圭は感じた。
「まじか……てっきり割と近くに住んでるものかと……」
「確かに山岳地帯に住んでそうだね……」
 ラーナーは改めて隣に立っているエアームドをまじまじと見つめる。
 キリは国境を跨る山脈からは遠く離れている。そこに出かけるのにも時間と費用がかかる上、山ともなれば自然の危険も伴う。圭はリコリスに住んでいた頃遠目でその山脈を眺めてきたが、そこに足を運ぼうと思ったことは、一度も無い。山というよりは切り立った崖のようだともルーク家の話で聞いたこともある。
 そこに、憧れているエアームドがいる。
 圭は自分の描いた夢と犠牲にする時間諸々を天秤にかける。感情が揺れるが、現実的な思考が嗤う。そんなの決まってるだろ、と。
「無理、かあ」
 糸が切れてしまったように一気に膝から崩れ落ちる。
「あーくそ、どうやって捕まえるのかとかそういうこと考えてたけど、それ以前の問題かよ……あー……」
「……どんまい」
 そうとしかラーナーには言えなかった。
「ああ、大丈夫、多分少ししたら立ち直れるから……」
 トーンの上がり下がりのなんて激しいことだろう。それが彼らしいといえば、そうなのだが。
「その……エアームド以外にも格好良い鳥ポケモンはいますから……あまり気を落とされないで」
「ああ、そうだな……」
 すぐに受け入れられるほど、圭の考えは軽薄のものではなく本気のそれだった。
 座り込む圭を取り囲む女性が一人とスバメが一羽。どうすべきか、クラリスはぐるぐると思考をフル回転させる。思い浮かばない中で冷や汗が額を襲う、その時。
 すば。
 小さな声がクラリスの顔のすぐ隣から囁いた。
 クラリスはちらと横目をやる。大切な相棒であるスバメが大きな目でクラリスを見つめ、またいくつか鳴いた。
「……あ、あの、良かったらエアームドに乗りますか? 気分転換というか、鳥ポケモンの良さの一つって、やっぱり一緒に飛べることですし、体感なさってみたらどうでしょうか。慣れるまでが大変ですが、楽しいですよ」
 圭は暗くなっていた顔を上げ、クラリスをじっと見つめた。クラリスは微笑み、エアームドに目配せをする。
「お……おう!」
 再びその顔に熱がこもり始める。
「じゃあ、少し離れてください」
 圭とラーナーにそう指示すると、慌てて圭は立ち上がり、二人は数歩後ろに下がる。直後、十分なスペースを得たエアームドは一気にその鋼の翼を広げる。銀色に光る羽の下に見えていた赤い羽が姿を完全に表す。圭は心臓が大きく跳ねあがったのを感じた。
 クラリスはエアームドとほぼ密着するような形で達、隣にくるよう圭を手招きする。
「翼は鋭利なので気を付けてください。こっちのやや後ろの方から前の方、体の向こう側に手を伸ばして……」
「で、一気に飛び乗ったらいいのか?」
 圭は居ても立ってもいられないようだった。まるで跳び箱でもするように両手を大きなエアームドの胴体に乗せる。説明を終えていないクラリスが止めようとしたが、気付いてか気付かずしてか、彼女の抑止をするりと抜けるようにその場を垂直に跳ぶ。瞬時に股を開いて、勢いを殺さないままに両手を軸に体を九十度に転換。翼には触れないようにして、軽々と鋼の鳥に乗ってしまった。
「……すごい、運動神経」
 茫然とクラリスは呟いていた。ラーナーもその一瞬の鮮やかな動作に言葉も出てこない。
 一方の圭は至って平然としていて、けろりとした顔で、しかし目だけは子供のようにきらきらと輝かせる。
「すげえ、たっけえええ!!」
 そう、景色が圧倒的に違うのだ。エアームドの平均身長は百七十センチで、このエアームドはそれより少し大きいくらいだ。一方圭の身長は百五十センチ後半。実際座ってみれば何十センチも高くなる。視界が一変するのは当然である。背が小さいことがコンプレックスである圭にとっては、まさに夢のようであった。
 圭は急かすようにクラリスを爛々とした目で見つめる。クラリスは諦めたように肩を落とし、二歩程その場から後ろに離れる。
「初めはゆっくり、バランスをとることに専念してください! それと、服の裾が長いのでそれにも気を付けて」
「オーケーオーケー」
 クラリスが右手を上げてエアームドに合図を出すと、エアームドは頷いて翼をゆっくりと羽ばたかせ始めた。
「うわ」ラーナーは風圧に驚いてたじろぐ。「圭くん、気を付けてね!」
「任せとけって!」
 どこから出てくるのか、彼は自信に満ち溢れていた。と、言った矢先。
「おっと」
「うわ!」
 エアームドが地上から離れようと大きく揺れた瞬間上半身がバランスを崩す。持ち前の運動神経ですぐに立て直したが、見ているラーナーの方がずっとおどおどとして怖がっていた。
「ほんと、気をつけてえ!」
 悲痛な懇願ともとれるラーナーの声が、羽ばたきの中で圭に届いただろうか。
 エアームドはまっすぐ上へと上昇していく。地上が離れていく。風景が変容していく。心臓が飛び抜けていってしまいそうだった。弾む心を抑えられない。一気に臓器ごと吐き出してしまいたいくらいだった。ラーナーやクラリスが、エクトルやネイティオが、瞬く間に小さくなっていく。
「すげえ……!」
 感嘆を絞り出す。湖を目の前いっぱいに広げ、少し目線を逸らせば町の建物の天井も自分の目線と同じになりそうだった。ゆっくり、ゆっくりと上昇していく中、もう圭は自分の欲望を我慢させることはできなかった。
「エアームド、俺なら大丈夫だ! もっとスピード上げて、飛び回ってみせてくれ!」
 声をかけると、エアームドは少し不安そうに圭の方に視線を向けたが、圭は思いっきり白い歯を見せる。
「俺の運動神経なめんなよ。このぐらいじゃ満足しない!」
 実際、余裕綽々というところか。体の軸はぶれていない。落ちる気配を感じさせない素晴らしいバランス感覚だった。
 圭の言葉に感化されたのか、エアームドは頷いてスピードを上げ、今度は前の方向へと飛んでいく。一気に風圧が正面から体当たりをしてきて、圭は両手に力を入れる。しかし負けじと咄嗟に体重を前の方にかけ、一番安定する方法を無意識のうちに探し、姿勢を少し低めに保つ。湖の上。町すら遠ざかっていく。直下、青く光る湖。直上、蒼く輝く空。息を呑む。空気すら違うものに感じられた。少なくとも感じる風は、違う。冷たく、尖り、突き抜ける。
「もっとだ、エアームド!」
 目をこれでもかと開いて見える全てを焼き付ける。
「最高だ! 飛ぶって、すげえ!!」
 舌が掻っ切れそうになろうとも、夢中になって叫んでいた。つられるように、エアームドも我慢しきれなくなったように甲高い声をあげた。
 銀と橙の鮮やかなツートンカラーが蒼の世界を羽ばたいていく。




「すごいですね、圭」
 クラリスは唖然として呟いた。
「ほんと、あのバランス感覚どうなってるんだろ……」
 不安でいっぱいだったラーナーも今はその心を忘れ、むしろ安心して彼の飛行の様子を眺めていた。
「私より御上手かもしれません。……あ、またスピードが上がりましたね」
「圭くん、楽しそう」
「エアームドも楽しんでます。あれだけ喜びを素直に大袈裟なくらいに表現する人を乗せてたら」
「そうだよね」
 エアームドは途中、ゆるやかに空に円を描くように旋回する。少し圭の体が押される。あっと声をあげぬ間に、すぐにまた姿勢を戻した。その様子をぼんやりと傍観していた。
「……クラリス」
「はい」
「私の方が年下だし、敬語とか、しなくていいんだよ」
「年下も年上もありませんよ。私の敬語は昔からの癖ですから」
「……そっか」
「ラナや圭がくだけた口調で話してくださるのは、とても嬉しいですから、このままでいいですよ」
「もう、ずるいなあ」
「ふふ」
 上品に笑う横顔は、シャープで凛としていて美人なものだった。同性であるラーナーも見惚れてしまう。彼女にはラーナーにない柔らかで品のある女性らしさがあった。ラーナーより成熟しているという年齢によるものもあるが、ラーナーは自分が成人を間近にしても、こんな風に綺麗な笑顔はできないだろうとぼんやりと考えた。
「ねえ、クラリス」
「はい」
「クロのこと、一目惚れしたの?」
「……え?」
 思わずクラリスはラーナーの方を振り返り、一瞬目を点にさせた。その後、瞬く間に顔はどんどん火照っていく。耳まで真っ赤にして、魚のように口を開いたり閉じたり、繰り返す。
「あ、あああああのそっそそそんな大それたつもりじゃないというか確かに一目見て舞い上がってしまったんですけど! あの」
「あははっ」
「わ、笑わないでください!」
「確かにクロ、綺麗な顔してるからね、腹立つくらい」
「……そう、ですね……」
「クラリスもすっごく美人だよ」
「――!? そんなことないです!」
「いや、ほんとに。旅している間にすごく足が長くてスタイルがいい女の子に会ったりもしたけど、クラリスは上から下まで整ってるというか……作法とかも含めて、ほんと、女の子らしいなって」
「……どうされたんですか? 急に褒め始めて……」
「ほんとに思ってることだよ」
 クラリスは透き通るような栗色の瞳に気圧されて、押し黙る。
「……ありがとうございます」
 小さな会釈をして、ラーナーは彼女の真似をするようにふふと笑ってみせた。
「あのね、エクトルさんとクロってちょっと似てると思う」
「……え?」
「ちょっと話してみて、思った」
「そうでしょうか?」
「うん。思っていたより、優しい人だった」
 ちらと二人はエクトルの方を見る。相変わらずラーナー達を観察していて、視線が向けられたことに気が付くと律儀にも軽くお辞儀をした。
「……だから、クロのことも誤解しないであげてね、なんて、何様って思われるかもしれないけど。クロはエクトルさんよりずっとずっと不器用だから」
 クラリスは少し収まった桃色の顔で、ラーナーの話をじっくりと聴く。
「いろいろクラリスには強く当たっちゃってたけど、元々あんまり人付き合いが得意じゃないみたいというか、だから……クラリスのことを嫌ってるわけじゃないよ。クラリスの事情を知れば、考えも改まると思う」
「……そうでしょうか」
「うん」
「私、恋愛感覚とか、よくわからないんです」
「……うん」
「ラナは、クロさんに恋愛感情を持ったことはないんですか?」
「うーん、ないかな」
 ですよね、と反射的に言おうとしたところを踏みとどまる。クラリスが予想していたものと反対の返答があまりにも簡単に淡々と滑り込んできたものだから、思わず耳を疑ってしまう。
「……即答ですか!?」
「いや、だって、実際そうだから」
「私に遠慮してとかそういうわけではなくて?」
「違う違う。ほんとに。すきとかそういうのじゃなくって……あれ、私、クロのことどう思ってるんだろ?」
「ええ?」
「改まって考えると、よくわかんなくなってきた。でも、そういうの、じゃない」
「家族みたいな感じですか?」
「家族……? いや、そこまで近くに考えられないかな。でも、友達って言葉じゃしっくりこないし」
「……難しいですね」
「すごく大切な人には間違いないんだけど」
「……それで十分なのではないですか?」
「そうなのかな」
「私にとってのエクトルも、そんな感覚ですよ」
「そっかあ」
 ラーナーはゆっくりと前へと歩みを進め始める。そして湖と地上を断つ木製の柵までやってきて、遠くを滑空する圭をじっと見つめてから、くるりと真逆へ方向転換し、背後のクラリスに向き合った。
「昨日ここに来て、こうやって後ろを見たとき、クロとクラリス、並んで立ってたでしょ」
「はい」
「なんか、画になるなって思って。嫌味とかそんなんじゃなくてね」
「あはは、叱られてしまってたんですけどね」
「私が男だったらクラリスみたいな子、鼻伸ばしちゃうのに、クロはデリカシー無いときはほんっと欠片も無いなあ」
「私はもうそこまで気にしていませんよ」
「クラリスは大人だね」
「どうでしょう」
 ラーナーは昨日の光景を思い返す。初めて間近で見た大きな湖。圭とはしゃいで、そしてふっと後ろを振り返ったその時の姿。何を話しているのかはよく聞こえなかったけれど、ただ二人そこに立っていただけなのに、心が静止した気分だった。憧れが瞬いたわけでも、妬ましさが渦巻いたわけでもないと自分に言い聞かせる。けど、形容しづらい気持ちが走った。
「……でも、ちょっとだけ、いいなあって思ったかな」
「え?」
 視線を足元に向けて、口元に落としただけの呟きはさすがにクラリスの耳には届かなかったようで、聞き返す。しかしラーナーは優しく笑うだけだった。
「なんでもないよ!」












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