Page 64 : 遺志





 暗闇の中で、感覚がおぼろげに帰ってくる。それを自覚した直後、転がりこむように痛みが体の中を突き抜ける。顔が歪み、閉じた瞼をゆっくりと開いた。眩しい昼間の光を嫌うように反射的に視界は細くなる。鼻腔をくすぐるのは草の匂い。頭部後ろには少し固い物質。眠気に似た怠惰と押し付けられているような頭痛のせいで体を動かそうという気になれなかった。思考も霧で四方八方塞がれているようにはっきりとしない。明順応が利いてきたところで何度か瞬きを繰り返す。ゆっくりと腹を膨らますように呼吸をしてみた。息ができる。一つ一つを確かめていく。静寂の中で耳をすませてみた。直上の木の葉が擦れる音がした。
 ここはどこだろう。
 彼女の頭の中に疑問がようやく浮かんできた。思考は回転を取り戻していく。
 僅かに体を動かすと、肌が露呈している部分が草に擦られるのが分かった。そこでようやく草原の上に寝転がっているのを実感する。
 と、体に細い何かが乗っかって、圧迫感が突如襲ってくる。思わず小さな呻き声を漏らした直後、視界の端っこから赤い目をした黒い何かが顔を覗かせる。元々大きな瞳は更に丸くなっていて、穴が空いてしまうのではないかと思うくらいに釘づけになっている。まだ完全に冴えていない脳ではすぐに識別をすることができなかったけれど、数秒おいてからそれがブラッキーであることに気が付いた。
「……」
 名前を呼ぼうとして、しかしうまく声が出ない。まるで喉の奥が痺れているよう。肺だけが震撼する。反射的にいくつかの咳払いが虚空に弾けた。特に何かが詰まっている感覚はしないが、違和感は拭えない。
「ラーナー!」
 直後、慌てた声は彼女の近くにて。
「クロ、ラーナーが起きた!」
 まだ幼い男子の声。聞き覚えがある。
 狭くて焦点がうまく合わせられない視界の中で、ブラッキーとエーフィと圭が揃って不安げな顔を見せていた。
 ラーナーの死角で、茫然と立ち竦むクロ。隣に立つポニータに思わず一瞬目配せした後、自然と肩を撫で下ろし、胸の中が弛緩していくのが分かった。


 *


 目覚めてからもしばらく気怠さに勝てずにいたが、圭たちの助けもあって、ラーナーはようやく隣の大きな幹に背中を預けた状態で起き上がることができた。それでもまだ感覚が不透明で寝起きのような状態だった。エーフィとブラッキーがまるで両隣から離れようとせず少し恥ずかしい思いになりながらも、気遣われているのは何だかんだで嬉しいもの。少しずつ元気を取り戻してきて、喉の違和感も数分前に比べれば随分薄くなっていた。
 咳払いの後、口を開いてみる。
「……あ、あー、あー」
 まるでマイクテストでもするように声を出してみると、風邪で喉をやられて掠れているようなものだったが、まったく出てこなかった頃に比べれば上々だ。緊張が続いていたその場の雰囲気が、一気に緩む。
「良かった……一応、ひどい後遺症もなんもなさそうだな」
 圭が安堵の表情で声をかける。
「うん……なんか、頭が痛いけど……記憶が曖昧で……」
「覚えてないのか?」
「なんか……」
 記憶の引き出しを開けようとするときんと脳裏に痛みが走る。それに耐えながら一つ一つ順を追って思い出していく。今どうしてここにいるのか。こうして倒れていたのは何故か。何があったのか。集中するためか、瞼を閉じる。すると、青い風景が見えてきた。青い、蒼い、空と、湖。身を寄せていた町――キリが面している湖だ。探していた。飛んでいた。銀色の体に乗って。そして叫んでいた。
 瞬間、ぱっと彼女の中で大きく閃き、同時に目が大きく開かれた。
「クラリスは……!?」
 まだ大きな声は出ないが故、悲痛を押し殺したような口調だった。まっすぐに見つめられた圭だったが、彼は逃げるようにその目を逸らし、代わりに少し離れたところで見守っていたクロに視線を移した。すぐにラーナーも追いかける。二人の集中攻撃を受けたクロは、至って冷静で無表情だった。いや、被っている帽子のおかげか感情に影が差しているようにも窺える。ゆっくりとその場を歩き、ラーナーの傍まで来ると、その場に座り込んだ。
「クラリスどころじゃなかった。ここはもうキリから距離がある。あそこは、もうあんたにとって居続けるべき場所じゃない。居ても、辛すぎるだけだ」
 淡々と彼は言う。感情を押し殺し、冷静に説明を重ねる。
 しかし記憶が途切れているとはいえ最後の印象に強く残っているキリの光景から既に離れているなど、ラーナーはどうしてすぐに納得できるだろうか。「嘘だ」そう漏らしたが、クロは即座に首を横に振った。ラーナーは顔を歪ませる。何か言いたげに唇を震わせ上下させながらも、現状を一刻も把握するしかない。そもそも問いただすような元気はほぼ失われた状態なのだ。クロの話を聞き続けるしか道は無い。
 素直になりきれないものの彼女が呑み込んだと見たクロは、再び口を開いた。
「あの時……あんたは、エアームドに乗ってクラリスを探しに行った。そこは覚えているか?」
「……うん」
「その後、電撃を受けたのを覚えているか?」
 ラーナーは黙り込み、記憶を改めて掘り返す。最後の景色は非常に曖昧で、殆ど残っていない。断絶されたように突然途切れている。返事が無い様子を見て、覚えていないのだとクロは断定する。
「とにかく、電撃を食らったんだよ。すごい風に押されてバランスを崩されて、その直後に」
「……風に、電撃」
 確認して飲み込むように復唱する。
「かなり、強いものだった。風は恐らく……あの家の結界的なものなんじゃないかって話に落ち着いた。近付いたものを、追い返すための。でも電撃は遠目で見てもはっきりと動きが分かるくらい、強烈なものだった。冷静になれば、ただの一般人のあんたが生身で食らって……ただで済むはずがないような」
 クロの脳裏には今もその光景が強く焼き付いている。柔らかな朝日が照らす穏やかな湖の上で、横方向に走った稲妻の衝動の軌跡。火花を撒き散らしながら迷うことなくラーナー達に槍の如く突き刺さる。幻聴か、嫌な音が聞こえたような気がした。収まった頃に僅かにか細く昇る灰色の煙。糸が切れたように堕ちるラーナー。その後彼自身の理性すら飛んでしまいそうになるほどの、喉が張り裂けるような怒号に似た叫び。色濃く残っている。まるで深く抉られて出来た傷のように。
 しかし、ラーナーはその話がまるで遠い別の人の話に思われた。当人であるが、目立った異常は喉が少々おかしいことくらいだ。
「でも、体は一応なんともないよ。まだ怠いけど」
「丸一日以上寝てるからそりゃあ怠いだろうな」
 一日。あの朝から一日経っている。と、いうことは。ラーナーは息を止める。
 クラリスの誕生日だ。
 そして、季節の変わり目と変わり目。夏が終わり、秋がやってきたという日。季節が確かに廻った日。
「……クラリス……」
 行きようもない悲しみは彼女の名前を呼ぶしかできなかった。
 必死に走り叫んだ努力はあっけなく水泡に帰した。離すまいと伸ばした手は叩かれた。クロは項垂れる感情を察することができたが、心をあえて鬼にする。
「……クラリスは、どうしようもなかった。俺達じゃ何もできない。あの家は、力が強すぎる。……それより、まずはあんたの話をしていいか」
 急くような口調だった。ラーナーはほぼ放心状態で、大人しく彼の誘導に従う他無かったのだった。
 落胆しながら頷くと、クロは話を再開させた。
「結果としてあんたは助かった。けど、それはおかしい。体に火傷の一つも残ってない。後遺症もない。正直、心臓が麻痺って止まってもおかしくなかったはずなんだ」
「……え」
 悪寒が走ってラーナーは咄嗟に自分の腕に視線をやる。そこには、いつも通りの肌があるだけ。外傷はまったく見当たらない。次にそっと胸に手を強く当ててみる。指先に僅かな鼓動が伝わってくる。正常なリズムだ。
 もう一度不審な目でクロを見る。素直に飲み込んでいけないラーナーは、流れてくる話がまるで別世界のことのよう。しかし、クロの鋭い話し方が、真剣な瞳の強さが、嘘を物語っているようには到底見えなかった。
「死んでたってこと?」
 ラーナーが恐る恐る尋ねると、クロはゆっくりと頷いた。
「多分、奴等だ」
「狙われてたんだよ」
 圭が悔しげに顔を歪める。無意識的に地面に置いている刀を握る力が強くなる。金属が掠れる音がした。冷たい殺気はそれだけじゃない。エーフィやブラッキーもそうだ。特に、ブラッキーは顔を強く歪め、砕けてしまうのではないかと思うくらいに歯を強く食いしばっていた。
 草原の上に似つかぬ息の詰まる沈黙に一層強い寒気が走る。
「……黒の団?」
「他にいない」
 クロのか細い溜息が、高まった緊張の中を滑っていく。
「あんなの、明らかな殺意だ。それに明らかな出力源があった。多分、ポケモンによるものだ。ほぼ確定だと思う。俺達が……確実に手を出せないところを狙ったんだ。確かに湖の真ん中の底に沈めば、死体隠蔽なんて簡単だし」
「湖に叩きつけられるのは、エーフィのサイコキネシスのおかげで回避したんだ。そこは、計算外だったのかもな。でも、その時ラーナーがはたして無事だったかどうかは、とても目視じゃ確認できないだろ。でも多分、その時には気を失ってたのは確実だと思う」
「何も覚えてない……」
 ラーナーは収縮していく心をなんとか保ちながら、声を絞り出す。時間が経って、彼等の言葉が重なるにつれて現実感が浸食してくる。自覚はなくとも、当人であるという事実が、全身が凍りつくような恐怖感と共に纏わりついてくる。
「でも」
 クロが流れをとぎる。ラーナーはふと視線を上げた。
「問題は……いや、全部問題だけど、その直後、あんたから突然光が発したんだ」
「……光?」
 思考がまた停止し、また考えるより先に反射的にラーナーは聞き返していた。
「そう、光。エアームドとかエーフィとか、全部巻き込んでしまうような、強くて……真っ白い光だった。太陽みたいに眩しすぎるものじゃなくて、直視しても安全な、優しいもの」
「何が、起こったの?」
「それがはっきり解ればいいけど……でも、ちょっと心当たりがあったから、勝手だったけど鞄を探らせてもらった」
「えっ」
 思わず声をあげる。旅に向けて最小限の荷物に抑えているとはいえ、鞄の中身を見られるのに強い抵抗感をあげるのは年頃の女の子として当然の反応だ。しかし、事情が事情であるがゆえに安易に怒りをぶつけることもできず、なんと返答したらいいのか解らない。
「……ごめん」
 さすがに申し訳なかったのだろう、クロは素直に謝罪の弁を述べた。先に謝られては手の打ちようもない。ラーナーは結局何も言えず、仕方なく諦めの道を進んでいく。
「いいよ……しょうがないし。それで、何か分かったの」
「もしかしたら、これが関連するかもしれない」
 そう言って、彼は上着のポケットを探り、青いハンカチにくるまれたそれを取り出す。ラーナーは一杯の興味と一抹の恐怖が混濁した中で、少しでも近くでも見たいと思ったのか前へ体を寄せる。クロもそれに気が付いてもう一歩分ラーナーに近づく。すぐ正面まで来たその時、彼は硝子製品でも扱うような丁寧で慎重な手際でハンカチを開く。
 視界にはっきりと入った瞬間、予想もしていなかった中身にラーナーは自分の目を疑った。
「それ、お母さんの……」
「そう、ニノのブレスレットだ」
 クロに自分の身元を隠すためときつく言われ、ウォルタを出て以来ずっと鞄にしまい隠しこんでいた、白い小さな石が一列に紡がれたブレスレット。他ならぬラーナーの母、ニノ・クレアライトの形見の品である。
「あの光はきっと……いや、間違いなくニノの光だ」
「お母さんの……?」
「ああ」
 淡々と肯定するクロだが、ますますラーナーは前も後ろも分からぬ混乱へと引き込まれていく。
「どういうことか、意味がわからない……。お母さんはもういないのに」
「そう、いない……だからそこが引っかかるし、謎なんだけど」
 間違いなくとはいったものの、完全なる確定事項ではないようだ。
 しかし、ラーナーは突然降りてきた自身の親に纏わる手掛かりに、戸惑いと興奮を隠せなかった。胸が高鳴る。知りたい。ただ知りたい。知らなかった母親のこと。知るべきだろう母親のこと。断片が顔を出している。目の前にある。
「俺が、ニノに命を助けてもらったっていう話は、したことあったっけ」
 慌ててラーナーは更に別の記憶の引き出しを探ることになる。しかし、聞き覚えはあった。確か、リコリスで圭から聞いた話だ。クロ本人からではないが、知っていることには変わりない。頷くと、そうか、とクロは呟いた。
「ニノは……このブレスレットで増幅させることで、治癒能力を発揮することができたんだよ」
「……えっ治癒!?」
 突然出てきた特殊な事象。突拍子もない、異常の印。クロもクラリスもそう。ラーナーはまだ知らないが、圭も該当する。そんな普通でないものを自分の母も持ち合わせていたことにラーナーは驚きを隠せない。俄かには信じられない。なにしろそんな話は微塵も聞いたことがないのだ。世話になった叔父叔母夫婦からも、知り合いからも、誰も話題の欠片すら見せていない。
「そう、驚くのも無理はないと思うけど、本当だ」
 クロは自分の右腕に手を当てる。その袖の下には、赤々と黒々と膨らみ弾けた火傷の跡が隠されていることを、ラーナーは既に知っている。
「俺も一番世話になったときは殆ど気を失っていた……この火傷は、そのときのものだ。時間がなかったのか、大部分の表面の火傷を治しきることはできなかったようだけど……破裂した内蔵や、顔とかどうしても露出する部分は治してくれた。多分、その気になれば全部完治させることができたと思う。何度か見たことあるけど、それぐらい強い力なんだ。まるで、白い光が吸収していくみたいに、治していく。その光と、あんたを包んだ光はまったく同じだった」
 クロは視線を落とす。
「俺も、あの時ニノが助けなかったら、確実に死んでた」
「……でも、お母さんがいなくても、それはできるの?」
「そこが最大の問題だ。けど、もしかしたら、ブレスレットにニノは何らかの方法で力を残していたのかもしれない。……きっとニノは分かっていたんだ。いつか、あんたやあんたの弟が命を狙われることを。……自分が死んだ後も、守れるように」
「……」
「これは、ただの憶測だ。本当のことは、ニノが死んでいる今、分かりようがない。けど、それしか考えられない」
 クロは自分の記憶と目撃を照らし合わせ、確固たる証拠がない中でそう言い切った。強い意志が込められた深緑の瞳から、ラーナーは目が離せない。
 不透明でモノクロだった母親の背中が、突然柔らかな光を帯びていくようにラーナーには感じられた。今まで縋りながらも中身が見えない人形のようだった親の形が、確かな肉として象られていくようだった。喉が渇いていく。脈は煌々と打たれる。
 その中で、ニノの手持ちであったブラッキーは静かに瞼を閉じた。口は強く縛ったまま。
 一番彼女の傍で長く居たブラッキーが何を考えているのか、何を思い出しているのか、それはこの場にいる者には誰にも解らない。
「あんたは、エーフィが間に合おうと間に合わないだろうと、あの電撃でかなり危険な状態になってた可能性が高い。でも……助けられたんだよ」
「……お母さんに」
 クロは頷いた。そして、ゆっくりとその手元のブレスレットを差し出した。ラーナーは周囲に目を配らせられる範囲内の者たちに視線をやった。誰もがラーナーを囲み、彼女を見つめている。冷たい真剣さが漂いながらも、矛盾するように温かに見守っている。
 無言に背中を押されたラーナーは、鉛のように感じられる自らの重たい腕を上げて、恐る恐るブレスレットを手に取った。クロは彼女の手をとり、無理矢理握らせるように補助をした。
 完全に彼女の手に戻されたとき、ラーナーは改めてそのブレスレットを見つめる。いつもよりその石は弾けるように輝いている。
 ――それでもセルドは救えなかった。咄嗟にラーナーは感じてしまう。あの時、ブレスレットをしたままセルドに近づいたはずなのに、何も救われなかった。何故か。分からない。けど、彼女は助けられた。クロの憶測が正しいというのなら、確かに救出されたのだ、記憶にほとんど残っていない自分の母親に。
「お母さん」
 僅かな穴を通り抜ける微風のような声を絞り出した。
 小刻みに震える体に、両隣のエーフィとブラッキーが更に其々の自らの体を寄せてくる。両者からの生きた温もりが伝わってくる中で、弟に対する悔しさを含んだ感動が、ラーナーの中で強く瞬いていた。












<< まっしろな闇トップ >>