Page 76 : 動きゆく





 明朝。まだ太陽が東より出てから時間は浅い。開け放った窓の外からは乾いた朝の香りが流れてきて、薄手のカーテンは控えめな所作で揺れている。しんとしている淡い光。冴え冴えとした静寂が物の少ないこの部屋の隅に至るまで染み渡っていた。
 真弥はリビングにて眠っていたクロと圭を起こす。眠りが浅かったのだろうか、名前を軽く呼ぶだけで間もなく目を覚ます。手が掛からなくていいな、と真弥は笑った。
 ラーナーは真弥の自室にてベッドで熟睡している。昨夜は知り合ったばかりの男性の部屋のベッドを譲ってもらうのには抵抗も見せていたが、真弥に押されるがままに渋々受け入れ、結局落ち着いて眠れているようだ。緊張以上に、連日の疲労が安眠を導いたらしい。なにはともあれ、今は彼女はこの場におらず、彼女を気にする必要も無いということだ。
 澄んだそよ風に当たりながら、窓際に座して彼等は向かい合った。
「よく眠れたか?」
「ん、まあ、一応。同じ寝袋でも、室内だとやっぱり落ち着くし」
「悪いね、客用の布団がなくて」
 聞けば、真弥とノエルの住んでいるこの部屋には滅多に来訪者がないらしい。宿泊したのはクロたちが初めてだということだ。他人に対して警戒心を強く抱いているノエルが同居していることに加え、真弥としても自分のテリトリーに容易に誰かを招き入れるのは好ましくない。いくら戦闘行為が禁じられている敷地内であっても、だ。結果、誰かが泊まることなど端から想定していない生活を送っている。しかし、クロも圭も屋根の下で寝れれば十分であり、気にする様子は見せていなかった。気にしていたのは、ベッドを譲ってもらうことになったラーナーの方だろう。
 真弥は長い息を吐き出した。それとなく、一種の合図であり、本題に入るだろうと予想できる空気が訪れた。
「今日の深夜、依頼でカンナギという組織のもとへ行く」
「かんなぎ?」
 まだ眠気が完全に冷めていないクロはどこかぼんやりとした口調で返す。
「知らないか。人間の子供の売買を主体とした組織で」
 真弥の声が一度休まる。一瞬耳を疑い、しかし理解した途端、クロと圭の背が自然と伸びる。晴れ渡った爽やかな朝には不釣り合いな話題だった。
 真弥は窓ガラスに肩から寄りかかりつつ、二人の興味を引いたことを確認して僅かに口元を上げた。緊張した空気が肌にも伝わってくるようだ。
「もともとトラブルはあったみたいなんだけど、このたび俺のところに……まあ、有り体に言ってしまえば上層部を殺せという依頼が来てね」
「……朝から物騒っすね」
 圭が苦々しく呟くと、真弥はおどけたように肩を揺らした。
「まあね。けど、言うタイミングがここしかないからさ。君らどうせ昼間は出るんでしょ? 俺は寝るし。急に夜に言ってもさすがに可哀想かなっていう、これでも配慮のつもりなんだよ」
「……と、いうと」俄かに頭が回転してきた。クロは耳聡く真弥の言葉に引っかかりを覚える。
「あ、もしや勘づいた? さすが、呑み込みが早い」
 クロは顔を顰めて、次に出てくる真弥の言葉を待つ。
「まあ、俺一人でも問題は無いけど、今回は人数がいた方が楽だと思ってね」
 ついてくるよね?
 と、言わずとも伝わってくる。長い睫毛の下に覗いている金色の瞳に首を掴まれる。
 クロの経験上正しく解釈すれば、ついてこい、だ。命令であり強制事項であり、拒否や異論は認めない。飄々とした態度なのに、打算的で高圧的。知っている。それが真弥だった。しかし彼らには突拍子も無い誘いであることに変わりはない。すぐに返答せず、惑う素振りを見せるようにクロは圭の様子をちらと窺うと、圭も同じようにクロの方に視線を寄越していた。言外に仄めかしている真弥の意を飲み込めているのかいないのか、圭の表情は曖昧に曇っている。
 返事がこないことに真弥は不満な色を一切見せない。寧ろ当然の反応だと納得していた。来い、と明確に言うのもつまらない。乗り気でないまま来られても面白くはない。
 こういう時は餌を蒔くのが効果的である。
「ノエルの調べでわかったんだけど、カンナギと黒の団には繋がりがある可能性がある」
 再び真弥に視線が集まった。
 決して嘘をついているわけではない。真弥は続ける。
「情報は多いに越したことはない。今回の件で、今後に繋がる何か手がかりを手に入れられる可能性がある。それに、仮に黒の団がカンナギからも子供を仕入れているのだとしたら、ここを断つことは奴らの実験や資源の足止めになるかもしれない」
 殆ど仮説であり具体性に欠けた内容だ。それは真弥もわかっている。それらしいことを丸め込んでいるだけである。それに、黒の団が今も人体実験を続けていると仮定すれば、確かにその資源である人間――子供がカンナギから流れ込んでいる可能性は考えられるが、現時点明らかになっているのは、黒の団で生み出された出来損ないがカンナギにいるということだ。現実は、逆なのである。その事実を真弥は伏せる。とっておきは最適の瞬間に残しておかなければ腐ってしまう。
「……黒の団がカンナギに紛れ込んでいる可能性は?」
 クロの問いに真弥の目が僅かに細くなる。相変わらず用心深くて、妙に勘が冴える瞬間がある。
「可能性は無くもないだろうけど、黒の団は、昔と体制が大きく変わっていなければ比較的少数人数の組織だしな。わざわざカンナギに潜伏させるほどの余裕や必要性は無いとみていいんじゃないかな」
「けど、なんらかの取引が行われている可能性がある、と」
「十中八九ね。そういう記録は確認済みだ。ノエルにはぎりぎりまで調べさせるつもりだけど」
 クロは俯いて、暫し考えに耽った後、わかりました、と応えた。
「今夜ですね。俺もついていきます」
「お、本当? 助かるなあ」
 白々しい言い方だとクロは内心悪態をつきたくなる。どうしようと連れて行くと決めていたはずだろうに。
「しかし、あっさりと言ってのけたね」
「……現状を確認するチャンスにはなるかもしれませんから。できるなら、自分の目で確かめたい」
 そう、と真弥は軽く流して頷いた。まっすぐとした若々しい意欲は悪いことではない。
「そっかあ」圭は妙に納得したように言った。「クロが行くなら、俺も行こうかな」
 ぐうんと天井に向かって大きな伸びをして、凝り固まっている体を解している。奔放で、それこそあっさりとした様子の圭にクロは怪訝な視線を寄越す。
「暢気に言うなよ、こんなこと」
 クロの声は呆れていた。即座に圭は首を横に振る。
「別に、そんなつもりじゃないって。百聞はなんとかに過ぎるっていうだろ」
「百聞は一見に如かず……」
「それそれ」
 からからと笑う圭がどうにも軽率に見えてならず、クロは肩を落とした。まるで子供の遠足みたいだ。朝は気分が落ち着きすぎていて、無性に上ってくる苛立ちの逃がし場所がない。
「二人とも話が早くて助かるよ」
 真弥は満足そうだった。
「で、俺たちはどうしたらいいですか」
「夜まで待っていたらいい。時間は……まあ、ノエルが一通り準備を終わらせてくれたら、かな。適当に声かけるから」
「了解です」
「……さて、じゃあラーナーが起きてきたら、俺は夜に向けて寝るかな」
 欠伸をかみころす。朝は始まり、夜に向かって歩き出していく。
 彼等の傍の小さな庭で、ざっくばらんに伸びている雑草に朝露の気配が染み込んでいる。ひやりとした空気は一日の始まりの合図。首都に入って初めて迎えた朝だ。真弥と再会してまだ間もないというのに、クロの考えていたよりも早く黒の団に近付ける可能性がやってきた。力が抜けそうになるほど、あっさりと。こんなに簡単に事が進んで――本当に、大丈夫なのか?
 振り返れない。しかし後戻りをすることもできない。


 *


 バジルは消耗した気力を回復させるように大きく息を吸った。大きく円を象ったその部屋は広々としていて、天井までが随分と遠い。元々は多分白い空間だったのだろう。時が経ち、誰かが歩き、使われていくほどに、擦れて汚れていき、こびりついた錆の臭いはあまりにも自然に空気に馴染んでいた。空気をつくる気体の組成、およそ八割が窒素、およそ二割が酸素、僅かなその他。そこに血の成分が割り込んできている。それが当然だとでも言いたげな空気を吸いながら、バジルは足下で歪に曲がった腕の子供を見下ろした。まだ年端のいかない少年だった。大きく開いた口のからとびだしている巨大な犬歯が鋭く尖っている。先程までは、それを剥き出しにして彼に襲いかかろうとしていた。少年の首にはきつく締め付けたような跡と、ぱくりと開き血が止めどなく流れ続ける傷口が同居している。目をあんぐりと剥き出しにして、既に絶命している。
「バジル」と、耳元で声がした。機械を通した音声。「死後間もなくの血液、それに歯もとってくれ。その膨張した犬歯と、他もいくつか……五本程度」
「了解です」
 内線を通して淡々と応える。ズボンのポケットに入れていた小型の試験管を取り出し蓋を開けると、今も流れ続けている首の傷口に当てた。傷だらけの手が一瞬で赤く汚れ、手の中に温もりが収まっていく。厚さ数ミリのガラスを間に挟んでいても、指の腹に伝わってくる。七割ほど取れたところで再び蓋をした。自分の掌と試験管が赤黒く同化したようだった。手元から、鼻から腹の底までまで一気に詰まるような臭いが溢れている。
 脳はとうの昔に痺れていた。一体何日、何週、何か月、何年、一人ずつ命を圧し折ってきただろう。きっとこれからも続いていく。終わることのない日常。人の欲に限りがないように、制御の出来なくなった出来損ないを殺して、指示された通りサンプルをとって、用済みとなった死体を廃棄する。この血が、歯が、後の何に繋がっていくかなんて興味が無い。どうでもいい。出来損ないではない自分には関係の無いことだ。命令をこなすことが、求められていること。ただそうしてさえいれば、ここに自分の存在を示していられる。
 バジルは試験管を別の袋に入れて、それから少年の歪に肥大した犬歯を掴んだ。掌に辛うじて収まる大きさで、顔ごと変形させるような巨大な歯だ。けど、解る。掴んで僅かに引いた瞬間に偽物だと分かった。密度が感じられない。見た目だけ強がって、威嚇するだけの弱い生き物。虚勢を張っているだけで、隙間だらけの繊維でできているのだろう。大して力も入れずに歯茎から落とせそうだ。人間としても出来損ない、獣としても出来損ない。何にもならず、死んでいった。本当に、どうだっていい。


 *


 飾り気の無い立方体の部屋は彼のもの。実験や解析を行っている研究室からは離れており、休憩や重要な議論を行う時にはいつもそこにいる。今は、バジルが搾取したサンプルの解析結果に目を通していた。一通り確認すると、彼は肩を落とす。黒縁の分厚い眼鏡を外し、目頭に指を当てる。
「惜しかったですね、ラルフォさん」
 データを報告した研究員が残念そうに言う。ラルフォは見た目としては三十代程度の顔つきをしているが、相手はもっと若い。出不精で健康に悪い生活を送っていても、まだ体力が残されているだけの若さが肌に認められる。そうだねえ、と彼、ラルフォは気怠げに呟いた。
「変形は関節と歯……検査値も今までと大きな差はないんだけど、暴走は酷かったね。目が覚めてすぐに同室のサンプルを喰いまわったのは流石に少々堪えた。まだ結果待ちもいたのに、勿体ない。制御もまったくできなかったし、失敗だ」
「まあ、元々かなり衰弱した子供でしたしね……」
「うーん……それも要因の一つかもしれないけど、根本の原因ではないだろう。成功例には死にかけもいるのだし」
「笹波白ですか」
「そうそう」ラルフォは長い溜息をついた。「君は本物を視たことがないんだっけね」
「はい……話には聞きますが」
 そうかあ、と、ラルフォは長い溜息をついて、背もたれに体重をゆっくりとかけた。彼は笹波白の話をするたび、優しさの滲んだような懐かしげな表情をする。
「彼によく似て、今は藤波黒と名乗っている子供がいてね」
「はい」
 何も言わずに研究員は相槌を打つ。噂でも、ラルフォ本人からも数回聞かされたことだった。
「僕もきっと彼が偽名を使っているに過ぎないと思っているのだけど、まあ、わからないよね。笹波白は死んだ、とまで言っているそうだ。自分のことを死んだなんて、そう簡単に言えるものなのかな。特に彼の生い立ちを考えると、もう少し自己顕示欲があってもおかしくないとは思うんだけど」
「まあ、何らかの理由とかあるかもしれないですけど、炎使うんでしょう、実際」
「火閃、ね」
「それです、火閃。それって、彼が何を言ったところで笹波白であることは確定じゃないですか。さすがに、力が受け渡されることは有り得ない」
「けど、ニノとラーナーの件がある。先日のロジェの報告が確かなのだとすれば、ラーナーはニノの治癒の力に救われた。力の譲渡は有り得るかもしれない。ニノが消息不明だった期間に、自分の子供に細工をしていた可能性もある。いやはや、いつ考えてもあの現象は興味深い。ただ、弟のセルドにはなんの異常も見つけられなかったし、ラーナーにだけ何施しているということがあるだろうか。そうするメリットが僕には思いつかない。まあ、どちらにしろラーナーの身体を過度に傷つけないよう言っておかないと。……僕はぜひニノにもう一人新たに子供を作ってほしかったところなんだけど……仕方ないんだけどね、惜しい人材をなくしたものだよ。実験後の血が子孫にどう繋がるかは興味深い。成功した試料も多くはまだ子供だけど、十分に成長した頃に試してみたいというのは前々から考えているんだ。バジルや七なんか、もう少ししたら、と思ってるんだけど、どうだろう。偶に年端のいかない母親が転がっていたりするから、それを考えれば十分ありだろうけど、さすがにリスクが高いか……人体生成とかクローン体は未だ有用な報告がないしなあ」
 独り言のようにぶつぶつと言い続けて、締めるようにラルフォは手元に置いてあったコーヒーを呷った。
「面白い。ポケモンの力も人間の力も未知数だし、僕達の実験もまた、未知の領域だ」
 爛々と輝く目で彼は言う。
 傍らに立つ研究員はどこかぞっとした心地で彼を見つめる。この上司は、自分達とは違う世界に立っている、と同業者であっても考えることがある。共に仕事をしているけれど、底知れない欲望や倫理観の欠如に、生唾を呑み込みたくなる瞬間がある。しかし、同時に未知の世界に胸が高鳴るのも、事実だった。その先、ラルフォが叶えようとしている目的も、果たされるのかもしれない。
「ああ、話がついずれてしまったね……笹波白は、先日回収に向かわせたんだけど、まあそんな簡単にはいかなかったよ」
「でも、常に場所がわかるようになっただけ昔よりましですよね」
「そうだね。今は首都にいるみたいだ。それも、真弥が住んでいるとされるアパートの座標に合っている」
 手元にあるパソコンでいくらか操作すると、画面に地図が表示された。首都のセントラルの地図だ。中心で赤い点が点滅している。拡大すると、真弥の住んでいるアパート近辺が詳細に表示された。
「うわ、本当だ……それは厄介じゃないですか?」
「まあねえ、好ましくない方向に傾く可能性もある。ここ最近で、急に集まっているね。でもこっちにとっても好都合だ。首都ならば僕も動きやすいし、こちらの誘導もききやすい」
「それって、カンナギのやつですか」
「……ああ、君にも話していたっけ。うっかりしていたよ」
「いや、すいません……室内で噂になっていて」
 研究員は萎縮したように肩を縮こまらせると、ラルフォは苦笑いをした。小さな組織では、時折話題が筒抜けになって一瞬で情報が行き渡ってしまうことがある。それだけ団の中でも注目されている話題ということでもあった。
「確かに、カンナギをここで捨てるのはいいとは思いますが……正直、引っかかりますかね。これうまくいったら団としてはいい話ですけど」
「かかるさ。餌だと気付かれたとしても、乗ってくるだろう。真弥の性格を考えれば」
「それって、嘗められていません?」
 どこか悔しい思いをしているのか、口を尖らせて言う。すると、ラルフォは一瞬不適な笑みを浮かべた。
「もっとどっしり構えるといいよ、ジル。大事なのは、最も効果的なタイミングを見極めることと、そのための準備を行っておくことだよ。それよりも僕たちは今回のサンプルに関する考察を進めるべきだね」
 ラルフォは目の前の資料を軽やかに叩いた。彼の芯は簡単にはぶれない。
 解析データに添えられた、くの字に曲がり歯が肥大化していき顔が歪んでいく様を追った写真。その隣、灰色の頑丈な山を背負っているかのような鎧の皮膚に覆われて、牙が逞しく覗いているサイホーンの写真。
「そろそろポケモンも足りなくなってきたかな。手に入れなきゃね」












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