Page 97 : 笹波白





 突き抜けていくような澄んだ深緑の瞳が、まるで朝の光をそのまま閉じこめたような瞳が、ラーナーを、圭を、包むように捉えていく。それから視線を手元に落とすと、感覚を確かめるように右腕を軽く上げて、何度も手を開いては閉じて指を伸ばしては曲げて手首をくねらせて弛緩しては収縮する筋肉の動きを一筋一筋丁寧に繰り返す。痛みを感じないのか、鎮痛剤が効いているのか、白は顔色どころか表情もまったく変えずに動作を続けて、やがて落ち着いたように小さな吐息を落とした。
『……戻ってきたんだ』
 口から自然と出てきたのは李国語だった。実感をこめた声は、いつもの彼とまったく同じ声音だというのに、まったく別種のものであるということはラーナーにもなぜだか理解できて、弾丸のように彼女の胸を貫いた。
 立ち尽くすラーナーの横を圭が通り抜けて、ベッドの隣までやってくる。
『白、まさか、本当に』
 未だに信じられないように、見慣れている顔をまじまじと見つめる。
『……圭? ここは? 団?』
『病院だよ……』
 圭は苦くほころんだ。
『記憶が……無いのか。まさか、黒の団にいた頃で止まってるなんて』
『……違う。今、混乱してて……すごく、変な感じ……』
 そう呟いて瞼を指で押さえる。起きて間もない様子である。背中を丸め、所作の一つ一つが気怠げだった。
 その様子をじっと遠くから眺めていたラーナーの肩が叩かれ、反射的に慌てて振り返った。
「……大丈夫?」
 過剰な反応に驚いたように仰け反ったのは、真弥だった。アーレイス語にさり気なく安堵しつつ、迷ってから、ラーナーは素直に首を横に振る。
 深いわだかまりを抱えた雰囲気を挟み、ラーナーが無意識に動かした視線を真弥は追う。
「何があった?」
 来たばかりの真弥も違和感を汲み取ったのか、どこか仄暗い目で白と圭の様子を見つめている。二人は既に言葉を交わしている様子はなく、噛み合わない歯車のような空気感を漂わせている。
「私にも……何が何だか……」
「ふうん」
「……圭くんは、白、と呼んでました」
 え、と声を漏らした彼の顔は、純粋な驚きを浮かべ、目を細め白を見やった。
「……ああ、へえ。なるほどね」察したのか、納得したように頷いた。「笹波白、か」
「何か知ってるんですか」
「一応、ね」
 即答され、ラーナーは改めて真弥を見ると、澄んだ金色の瞳が試すような視線を送っている。
「知りたいかい」
 重々しい口調だった。
 怯みそうになりながら、ラーナーは白に視線を移した。クロと全く変わらない顔。垢抜けたような横顔。あの人がクロでないとするならクロは一体どうなったのか。どうしてこうなったのか。圭は、真弥は、何を、どこまで、知っていて、その一方、自分は、何も知らない。
「教えてください」
 真正面から真弥に対峙する。
「教えてください、何もかも」
 そうでなければ、納得できない。
 背中ごしに聞き耳を立てていた圭も、後ろを振り返る。ただひとり、白だけがラーナーを見ず、重く項垂れている。


 *


 白を病室に残し、診療所の入り口まで戻ると、一行はエレベーターではなく、その隣の扉の向こうにある階段を選ぶ。ところどころ錆びたような薄暗い場所は、白い蛍光灯に照らされた、滅多に使われることのない冷たく翳った空間だ。数段上がって踊り場へと足を運ぶと、耳を澄ませて人の気配が無いことを確かめる。真弥はひんやりとした手摺りにもたれ掛かり、緊張から解放されたように弛緩した。
「しかし、驚いたな」
「ああ」
 肯く圭の表情からは動揺が消えずにいる。
「今になって……まさか、もう一度会うことになるなんて思ってもなかった」
「俺、あっちとは殆ど会話したことないんだよね、多分。よく気付いたな」
「雰囲気が違うってラーナーが言ったから……」
 身体を強ばらせて踊り場の真ん中に立っているラーナーを見やる。彼女は力無く首を横に振った。勘が冴えた感覚も無く、あの姿を眺めて、思ったことをそのまま口にしただけだった。
「それに、クロの様子がちょっと違うのは、ここ最近感じてた。妙に弱々しかったり……今思うと、もしかしたら前触れみたいなものだったのかも」
 圭の指摘に、ラーナーは耳を持ち上げるような感覚を覚えた。
 心当たりはいくつかある。
 リコリスの、山脈に沈んでゆく燃えるような夕焼けと、影の対比、こうべを垂れている向日葵の大群、それらを揺らす夏の夕風、靡いている深緑の髪、座り込んで、やがて膝を抱えた弱々しい背中。しかし、どこかの瞬間、豹変して、鋭い刃を剥き出しにする。弱さと強さ。リコリスよりも前、トレアス全体を見渡せる遺跡のほとんど頂上付近で、じっとすべてを眺めトレアスの空気に溶けていた、その姿を見つめながら、身体が限界に近付いたり発作が起こると精神は極端に揺らぐのだと、嘗てアランは語った。ふとした弱さは、随所に現れていた。原因不明の発作や、黒の団との激しい戦闘で、心が乱れているのだと彼女は考えていた。すべてを繋げるのは乱暴だとしても、藤波黒の、もっと、ずっと奥にある根本が、恐らく大きな鍵を握っている。
 笹波白とは一体誰なのか、藤波黒とは一体誰なのか、二人の関係性は一体なんなのか、圭と真弥の会話に耳を立てながら、ラーナーにも漠然としたひとつの予想が浮かんできた。
「あいつに関しては、圭の方が知ってるだろう。一番近い場所にいたんだ。俺も、昔クロからぼんやり話してもらっただけだし」
「……うん」
 後ろめたげな表情を浮かべ、圭は深呼吸をした。遠い目をして、記憶を引き出し、何から話すか、しばしの時間を要した。縦に伸びた空間はとても静かで、しかし、無骨な場所であるせいか、閉塞的でもあった。
「白……笹波白というのは、あいつのほんとうの名前だ」
 そして圭は話し始めた。
「名前、というか、本物の方、といったらいいのかな。藤波黒っていうのは、もう一人の笹波白、いわゆる、二重人格っていうやつかな。元々は白のみだったけど、三年以上前、白は苦しみにどうしても耐えられなくて、自分の中に消えて、代わりに藤波黒という人格が生まれた」
 存外、強い衝撃を受けている感覚は無かった。目を逸らさず、ラーナーは唇を引き締めた。
「どうしてクロが生まれたのか、それは俺も完全に解っているわけではないけど、俺の中で整理している範囲で何があったのか説明しようとすると、クロや白のことだけじゃなくて、俺や真弥さん、あとニノ……ラーナーのお母さんのことも含めて、黒の団にも関わってくると思うんだ。話は少し長くなるけど」
「いいよ」
 即座に応える。
「教えて」
 欲求に急かされて、圭は苦笑を浮かべる。
「クロが、ラーナーにあまり言わなかった理由、今ならわかる気がする」
 寂しげに呟いた。
 以前、昔の話は得意ではないと仄暗い溜息をついた。記憶を伝える役割まで回ってくるとは彼も考えていなかった。また、繋げていく、重いものを胸に受け止めながら、再度口を開く。
「……ずっと前、李国で、黒の団と白の団という二つの組織が戦争をしていた。そのことは知ってる?」
「うん」
「それは知ってるんだな。……元々李国はかなり治安の悪い国で、そういう内戦も大なり小なりあって、別に珍しいことじゃないんだ。ただ、この二つの組織の戦いは、かなりひどい方だったと思う。裏社会でトップの権力持った組織だったから。あれは……権力争い、みたいなものだったのかな。相手を完全に潰すまで続ける、そんな戦いだった。長い間諍いをしていたけど、泥沼化していて、お互い消耗しつつもあった。黒の団の方は勝機を見出すために、今の黒の団の主要メンバーで、元々はアーレイスで活動していた研究グループを引き入れた。……この、研究の内容とか、何やってきたかとか、詳しいことは俺、正直全然わかってないんだけど……真弥さん、わかる?」
 たどたどしく尋ねると、真弥はほんの少し顔を伏せる。
「ポケモンの力、わざとか、進化とかを研究していたらしいよ。ポケモンって、人間の力や常識を超えた凄まじい力を持ってるでしょ。その正体が一体なんなのかとか、どういう風にエネルギーが回っているのか、調べていたって。……黒の団は、彼等の実験に協力し、まず前線で使っていたポケモン達の大幅な強化実験に成功した。野生としての本能を目覚めさせたり、セーブしてる力を限界異常に突破させる。ポケモンの力は自然の力。自然に人間は勝てないものさ。団内では滋養強壮とか、強制強化とか、いろいろ言われている。ただ、強大な力を限界以上に引き上げる代わりに、大半は理性を失う。自爆するポケモンもいた、耐えきれずに戦いに出される前に死ぬんだ。強力すぎて身体にはかなりの負担がかかってたんだろう。それに、せっかく莫大な力を得ても、理性を失っていれば指示が通らず、最悪の場合味方同士で殺し合いになることもある。敵味方の判別がつかないんだ。命令をきくことができても、かなり単純な指示でないとあっちは理解できない。実際穴だらけではあったと思うけど得られる力は強力だった。あれで随分白の団を消耗させることができた」
「……私、見たことあると思います」
「ん、そうなのか。そうか、ラーナーも何度か黒の団とは対峙しているもんな」
 ラーナーは目を伏せる。
「ホクシアで、相手が使っていたザングースの目が尋常じゃないほど血走っていて……理性は吹っ飛んでいるような、感じで」
「間違いないね。今はもう少し改良が重ねられてコントロールが効きやすくなっているかもしれないけど。……話しすぎた。どこまで話そうか」
「いいよ。俺が解るのは、戦いのことと、白とクロのことだけだ」
「わかった」真弥は苦笑する。「話が逸れたね。完璧とまでは言えなくとも充分に結果を出し、黒の団はその研究グループを信用し始めた。グループの頭は、ラルフォ・ヒストライトという若い研究者だ。若いけど優秀で、底なしの実験欲を持つ人物だった。……元々は、携帯獣学とやらの研究をしていたらしい。奴は黒の団に、理性を保ちながら強大な力を使える駒を作るため、人間も兵器にするため、……ポケモンの力を、やりようによって、人間も使えるのではないかと、人間とポケモンを合成させるという実験を提案した。人間をベースとしてポケモンの力も使える、化け物の作成」
「……」
「少し渋られた部分もあったらしいが、実際それができたという噂もあったからね。何より奴の強い要望で、実験は開始されることとなった。野生ポケモン、さっき言ってた薬等により力を増幅されながら結局使い物にならなかったポケモン、白の団から剥奪したポケモン、人間の方は主に李国の路上に住んでいた貧しい子供や内戦のどさくさに紛れて誘拐した子供が大半、偶に白の団の捕虜なんかが使われた。実験は、想像がつきにくいかもしれないけど、ポケモンの持っている、生命エネルギーという、ポケモンの命そのもののようなエネルギー……これが、ポケモンのわざの発動なんかにも関わっているらしいんだけど、これを人間に無理矢理流し込んで……合わせる、合成……定着させて、人間がポケモンの力を自在に操れるようにさせる、そういう実験が行われた。はっきり言って人道的では無かったよ。成功も失敗もあった。多くは失敗した。失敗作は出来損ないと呼ばれていて、これもまた多くは理性を失っていて、勝手に自分で死んでいたり、わけがわからず周りを破壊したり、意志が無くなってて抜け殻になっていたり、まあ、最終的には殺される。悲惨な末路だよ。一方の成功体は、次の段階としてエネルギーの解析やコントロールを行いながら、戦闘訓練を行い、前線に送られた」
 真弥は言葉を詰まらせて、ひとつ間を置く。圭と互いに視線を合わせてから、再びラーナーに向き合った。
「ラーナー。クロの火閃を間近で見てきた君のことだ、薄々感づいている部分もあるだろうけれど」
 ラーナーの唇が、きゅっと引き締まる。
「俺や圭、それにクロ……白は黒の団の一員だった。そしてその実験の成功体だ」
 その言葉を、ラーナーは、ただ黙って聞いていた。
 真弥の右手が上がる。長い袖が垂れ、手首につけている黒い腕輪が露わとなった。
「俺はアブソルとの合成体で、主に元々のわざの鎌鼬をベースとして、風の刃を起こすことができる。圭はフローゼルとの合成体で、刀にイメージを乗せることで水を操ることができる。何が実際できるようになるかは、本人の適応力や想像力にもよるし、蓋を開けてみなければ正直わからない。俺も、何もない状態で風を起こせるんじゃなくて、このブレスレットを媒介にして使うことができる。基本的には、何かしらの道具をベースとして、頭の中に具体的なイメージを描きエネルギーを流し込むような感覚が、人間がポケモンの力を使ううえで重要だと教えられている。慣れれば簡単なんだけどね。道具が何がいいのかは、人や力の性質にも寄る。俺みたいに道具を増幅器みたいに使って環境に作用させる奴もいれば、圭のように道具に直接力を注ぎ込んで扱う奴もいるし、あるいは自分自身にエネルギーが流れて肉体強化に特化している奴もいる。……といっても、よく、わからないだろうけどさ。あいつの場合は火閃という武器だ。ただ、クロは俺たちとでは一つ大きな違いがある。クロは、唯一の二重合成実験の成功者で、ストライクとポニータとの合成体だ」
 身を固まらせているラーナーの傍ら、真弥は圭に視線をやる。これぐらいで充分だろ、と語っているのを受け取って、圭は深い息をついて、口を開いた。
「クロ……違うな、……はは、なんか、つい癖で言っちゃうな。白の話を、するよ。
 あいつは李国の最底辺のストリートの出身で、母親も父親もいない、双子である笹波零と一緒に生きていた。話を聞いている分には、相当仲が良かったというか、依存関係というか……まあ、過酷な状況だったから、助け合わないと生きていけなかっただろうし。それが、白だけが黒の団にやってきて、そこですぐに実験を受け、まずストライクとの合成が成功した。けど、白はとても臆病で弱虫な性格だった。勿論戦闘も恐怖でしかなかった。白は誰も殺せなかった。……いや、一人だけ、いたんだけど……あそこは、誰かを殺さなければ生きていけない場所だった。だから、殺せない白には、他の奴らよりずっと苦しい日々だったと思う。黒の団では戦闘訓練の他に、暴力や自己否定やらで精神がねじ曲げられて、気付いたら殺しを躊躇わない兵器になってた、みたいな感覚なんだけど、白はそんなのだったから、処罰もずっと厳しくて、それでも殺せなくて自分の身体や力をうまく使えなくて余計に苦しんで……そして、ある戦いで相手の罠にかかって、爆発に巻き込まれて炎から逃げられず、全身に大火傷を負った。……そこを助けたのが、ニノだったんだよ」
「……」
「ニノは、……ニノも、黒の団の一人で、合成実験の成功者だった。それも、初めての成功者だったって……。ラーナーの持っているそのブレスレットは、俺の刀や、真弥さんのブレスレットと同じ。ニノは、それを媒介にして、対象を治癒することができた」
 無意識のうちに、ラーナーは手首に巻き付けている母の形見を掌で包んでいた。
 放心状態に傾きそうになるところを、辛うじて立ち続け、誰にも聞いたことのない真実を、ラーナーは静かに必死に、ありのままに呑み込もうと努めた。余計な思考が邪魔をしようとしているのではない。たたみかけてくる事実だけで精一杯だった、受け止められる限界を超えぬように踏みとどまろうとしていた。
「そのニノのおかげで、白はその場凌ぎでひとまず命は助かったけれど、危ない状態は続いて、団に連れ戻されてから、二重合成の提案がなされて、そのまま実験に入り、成功してしまうんだよ。それが、ポニータとの合成だ。それまでもほとんど再起不能になった成功体に何度か実験はされたけど、どいつも滅茶苦茶で……成功したのは白が初めてだった。けど完全に成功かというと、それは微妙なところだった。成功したら合成元のポケモンは死ぬはずなのに、ポニータも何故か生きているし。でも、火閃や、足し算したようなその他の飛躍的な身体の強化が、ポニータとの合成が成功していることを証明している。けど、知っての通りだけど、定期的に予防の薬を打たないと発作が起こって致命的なことにもなる。多分、二匹分のポケモンの命は身体には負担が大きすぎるんだ。それに、身体にも明確な変化が出た。あいつ、髪の毛や瞳が緑色だろ。あれ、元々は真っ黒だったんだよ。けど、ポニータとの実験後には変色していた。あと、顔つきも変わったし……ストライクの影響が、出てきたんだろうって。もともと、ストライクとの合成で身体能力が上がったり感覚が鋭くなったり、肉体特化型で、そのタイプは確かに外見が変わることもあるんだけど、後からくる変化って、出来損ないはしょっちゅうだけど、成功体には珍しいんだ」
 長い息を吐く。
「初の二重実験の成功体に待っていたのは、俺から見ても、文字通り地獄だったよ。白が完全にクロに入れ替わったタイミングはよくわからなかったけど、白は結局、いろんなことに、耐えられなかったんだと思う。藤波黒っていうのは、白が自分を守るために作り出したもう一人の自分。……或いは、白が願った姿だったのかも。強い、炎を恐れない、指示をこなせる、団の実験にも耐えられる、人を殺せる、ポケモンを殺せる、感情を殺せる、そんな、団の理想として白に求めた姿。クロは実際、強かった。ほんとうに、強かった。端から見れば、まるで別人だった。まさか、本当に別の人格になってるなんて思いもしなかったけど」
「……うん」
 脳裏に、熱風にはためいている彼の姿がよぎった。孤独な背中。獰猛な炎が膨れ上がり、他を拒む。
「結果的に、白の団の本拠地に攻撃仕掛けて、戦争には勝った。けど殺し合いは終わらなかった。残党も残らないように殺したし、手に入れたポケモンや人間を使って、あるいは別のところから仕入れて、実験も続いた。どのときだったかな……まともに口をきかなくなったあいつが、自分は笹波白じゃないってはっきり言ったのは。俺が、いつもみたいに、あいつの名前を呼んだ時に、白って言った時に、だよ。そりゃ、初めて聞いた時には何言ってんだこいつって意味がわからなかったけど、なんか、納得するところもあって、やっぱり、白とは全然、違ったから。俺は、昔は白のお守りでもやってるような気分で、そのぽやっとしたところに苛々してたから、クロに入れ替わったことでまともな連携がとれるようになっていて、端的に言ってあいつの方が強いし、まあ、正直都合いいって考えてたりもしてたんだけどさ……でも、そのうち、クロは実験や外出任務以外は地下牢に隔離されるようになって、ずっとそこで過ごしてきた真弥さんに会って……そして、黒の団を脱出することを決意して、それに、俺も含めて何人か協力した。その逃亡には成功し、その後はまとめて潰されないように、それから、それぞれ脱出してからは目的も違えば、そもそも俺みたいに団を出てからの目的なんて無いやつもいて、結局、散らばった。俺とクロは少しの間は一緒にいたけど、あいつが笹波零を探すために山越えして国境を渡るって言い出して、別行動になったな。もう、会うことなんて無いと思ってた。俺たちが黒の団に狙われるのは、黒の団の関係者そのもので、存在が危険だから。けど、運良く生き延びて、生き延び続けて……今ここにいる」
 圭は言葉を切り、口を閉じた。
 終わったのだと物語る空気を吸い込んで、ラーナーはじっと余韻に浸っていた。
 なにかを、返さなければならないと思った。受け止めて、応えなければならないと。けれど、なかなか言葉は浮かんでこない。彼等が語ったのは、彼女が焦がれ続けてきたものだった。決して届かなかった過去の情景。クロの背負っていた数々の謎。セルドが殺された理由、ラーナーが命を狙われた理由、それは、彼女が予想していた以上に黒の団と母親が密接な繋がりを持っていた過去に起因するだろうことは、想像に難くなかった。相手は、クロを匿っていたことを理由に一家まるごと殺害する者達だ。それにしても、凄惨な戦争の背景も、人体実験も、いつかクロにかいつまんだ話を聞かされたが、具体的な話はされてこなかった。人間と、ポケモンの合成実験。なるほど、クロ達の常軌を逸した異能の理由も判明したが、そんな絵空事のようなことがあるものかとも疑う。しかし、実際に彼女はその目で見てきた。それがすべてだ。けれど、クロがほんとうはクロではなくて、ほんとうは笹波白なのだという、二重人格なのだという、そんなこと、確かに、クロの様子がおかしいと思うことはあっても、今迄想像したこともない、ずっと、傍にいた、隣にいた、支えられてきた、助けられてきた、クロは、笹波白のもうひとりの人格だと、そして今、再び入れ替わったのだと。改めて考えるほどに信じられなくなる。果たして、どこから納得していけばいい。息もつかせぬ出来事の数々に、元々心は罅割れていた。まだぎりぎり形を成しているところを、叩き壊されていく。
 なにかを言うために、口を開き、躊躇して、
「クロは、そんな人じゃない」
 滲み出すように呟いた。
 もっと、もっと言うべきことは別にあって、言いたいことがいくつも膨れ上がっていて、たくさんの思いが奥底をうねっているはずなのに、思考が乱れている中、長い時間を超えてもほとんど考えられないまま、ぽつりと、彼女はそう呟いたのだった。
「確かに強い人だったし、戦いを恐れない人だったけど、私を助けてくれたし、ポケモン達にも優しかったし、ぎこちないところがあっても、感情を見せる人だった」
「うん」圭は、優しげに肯く。「それは、黒の団を出て、クロ自身が手に入れたものだよ」
 ラーナーは顔を上げた。
「この三年間でクロが手に入れたものは、白のものじゃない。けど、クロは白だし、白はクロで……言ってしまえばクロは偽物で、白が本物なのは、事実だ」
 はっきりと言い切った言葉が槍のように突き刺さる。
「にせもの……」
 呆然と繰り返したラーナーを見て、圭は慌てて声をあげる。
「たとえの話みたいなものだから。今まで一緒にいたのはクロ、そうだろ」
「でもこれからは」
 息を詰める。そして誰もその続きを口にしようとはしなかった。
 本物と偽物。目に見えるものばかりが真実ではない。だとしたら、真実とは、本物とは、一体、なんなのか。一体、何が確かなのか。
 なにをしんじればいいのか。
「……クロは、笹波白は死んだって言ってた」
「意味深だよね、それ」
 真弥は肩を揺らす。
「……その言葉の意味も今になってはわからないからどうともいえないけど、クロは白を遠ざけようとしているところはあった。でもなんで名前を否定したんだろうなって、名前を棄てたんだろうなって思うんだ。俺たちには名前しかなくて、だから、自分からそれを取ると、何者でも無いものになってしまって、唯一の自分のものを棄てて……藤波黒という名前だって、結局偽名みたいなものじゃん。そうしてまで、白を遠ざけたかったのか……ある意味白を殺そうとする行為だったのか……。けど、本当のところはわからない。クロが何を考えていたのか」
 ラーナーは唇を噛む。
 彼が何を考えていたのか、すこしも理解できていなかったことを改めて突き付けられているようで、足が竦む。
 なにも、わかっていなかったのだ。わからないまま、離れていってほしくなくて、縋っていた。
「……白が現実に耐えられなくて引っ込んだように、クロもまた現実に耐えられなくて、また白と入れ替わった」
 陰鬱な天井を仰ぎながら、真弥は独り言のようにぽつぽつと連ねる。
「そういうところかね」
「多分。黒の団に叩きのめされたのと、アラン達の死がとどめだったんじゃないかな」
「心の変化は良い方にも悪い方にも作用したってところか。……入れ替わったという表現も正しいのかどうか。元々は白なんだから、クロという人格はどうなったのか」
「……わかんない」
「二重人格って、只でさえ曖昧そうだしね。ほんと、飽きさせないというか、面白いやつだ。さて、どう接したものかな」
 真弥の指が手摺を叩く。
 ラーナーの思考は益々ぼやけていく。今目覚めているのは笹波白だ。藤波黒が遅発的な存在で偽物なのだと、そう言うのなら、普通に考えれば、淘汰されるのは、恐らく、クロの方なのだ。
 心が、悴んでゆく。
「……あの」
 ラーナーは憔悴した声をあげる。
「もう一つ、訊いてもいい?」
「……うん」
 気怠げながら、積極的な姿勢を見せるように、圭は前のめりになる。
「昨日の昼間……黒の団の人が言っていた。……お母さんとお父さんを殺したのは、クロだって」
「え」
 途端にオレンジの瞳が丸くなった。
「なんで、そんなこと」
「わからない……違う、……ううん……ぜんぶわからなくなってきた。……信じたくない、でも、昔のクロが、今のクロと違うのなら、それは」
「違う」
 威圧を込めてはっきりと言い放ったのは、真弥だった。
 真弥に視線が集まる。軽薄な態度が板についている彼は、いつになく真剣な顔つきで、むしろ怒っているようでもあった。
「あのクソガキの言うことをまともに信じるなって言っただろう」
「……ごめんなさい」
 すっかり萎れているラーナーの言葉を無理矢理切るように、真弥は長い溜息をついた。ロジェの狙いは、悉く成功しているに違いない。とんでもない爆弾を残していったものだ。今の様子を目にすれば、あの三日月は調子良く歪むことだろう。絶え間の無い激動、掌の上で、踊らされ、無防備なままでは、弱り、霧散していく。
 少しだけ沈黙を置いて、真弥は口を開く。
「ラーナー。俺はね、今まで散々嘘をついて生きてきた。裏切りに裏切りを重ねてきて、最早何が嘘で何が本当かも曖昧になっているくらいには。相手が誰であろうと、上手く自然に嘯ける自信がある。だけど、君に初めて対面した時から、君に対してだけは、絶対に嘘をつかないと誓っていた」
 長い前置きの果てに、隙だらけの懐へとどめになりえると理解していても。放つ一瞬、踏み切るように真弥は息を吸い込んだ。
「君の両親を殺したのは、俺だよ」


 *


 ポニータが潜り込むように顔を擦りよせてくるのを、白はふわりと抱きしめる。
 ちろりと触れるようにポニータは頬を舐めて、口元を掠った。口付けのような触れ方だった。過剰なようにも思えるまじわりに白は少々戸惑いながらも、微笑んで受け入れた。鼻や口からこぼれてくる温かい吐息や動物的な香り。全てが新鮮に白の中に溶け込んでいく。五感が研ぎ澄まされている実感があった。肌に埋め尽くされている穴が残らず開いて、空気を吸い込んでいるようだった。
 あたたかい炎。傷つけることのない炎。恐くないと言葉無く伝わってきているような気がして、深い安堵に心を委ねる。
 ごく至近距離でポニータの息づかいと自分の息づかいが合わさって肌に染み、白の耳に聞こえてくる。
『きっと、きみだけだよ。ぼくを受け入れてくれるのは』
 ゆっくりと凪のように囁くと、ポニータは肯定も否定もしなかった。深い眼差しでただじっと白を見つめているだけ。
 白はポニータに額を寄せる。深緑の髪が揺れて、ポニータの肌に押しつけられて、さらりと滑らかに落ちる。
『零はどこ……?』
 白は淋しげに絞り出した。問いかけても、誰も応えてはくれない。
『零に会いたい……零、零。……零』
 擦り切れた声はあっけなく透明な光の中へ吸い込まれていく。血を分けた双子の名前を譫言のように繰り返す。どこも見ていない。彼の瞳は、嘗て隣にいたたったひとりの存在だけを求めている。
 呟き続ける口を止めるようにポニータは当てられている白を押し返した。優しい動作。どこか哀しそうな佇まいをしている。淡い炎が霞んでいくように揺れた。見守られている白の顔がポニータから離れて、窓の外に視線を移し、ぐんと顔を上げる。雲一つ無い美しき青い空が広がって、深緑が蒼に沈む。
 全身が痛む。目覚めてから時間が経つほどに傷が起き上がっていく。あちこちの痣が殴られ蹴られた瞬間を思い出させる。傷が刃で抉られた瞬間を鮮明に掘り起こす。鋭い骨の痛みは折られた記憶を呼び起こす。包帯の隙間に見える火傷の跡は、ずっと遠く、高くて遠い空の下、荒野の記憶を蘇らせる。
 零はここにはいない。
 零は、求めるものは、きっと、あの空のむこうがわに。












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