Page 99 : 叫び





 重力が彼女を引き込む。心臓が上に置いていかれる豪速の浮遊感。命綱の無い垂直降下。唸り声のような音が劈く。身体一つで空気を切り裂き一陣の風と化して真っ逆さまに落ちてゆく。重くなった頭は下。窓が彼女の目の前を次々に通り過ぎていく。頭から木っ端微塵に破壊される瞬間を想像した。頭が地に触れた瞬間身体が弾けるのと同じくして魂も飛ぶ。一瞬ですべては終わると彼は語りかけた。抗うこと無くこのまま落ちればきっと失敗することなく死ねるだろう。所詮痛みは刹那のことだ。簡単に蹴りがつく。止まることはない。戻ることはできない。あとは終わる時を待つだけ。いっそ。いっそのこと少しでも早く。どうにだってなってしまえばいい。絶望の末に生まれた願いを地の底に広がる空へと向け、思考を放棄した。


 背中から屋上に倒れ込んだ白を一切顧みず、黒の獣は彼女の後を追い、躊躇することなくコンクリートの角を蹴り、垂直に飛び降りた。
 遠くに彼女の姿が見える。落ちている最中。ほんの僅かの残り香だけを手繰って求めていた姿だった。どうしてこんなことになってしまう。どうして支えてやることができない。ラーナーも、ニノも。ブラッキーは壁を蹴る、ほんの刹那に、背中に、腰に、太股に、膝に、脹ら脛に、足裏に、神経が千切れるような力が迸り、筋肉が爆発する感覚で踏み込み、蹴りつける。更なる加速を落下に重ね、一気にスピードを上げる。彼女の落下速度も上がっていく、それを上回る勢いで猛然と追う。壁を走っていた。突風となって駆ける。みるみるうちに地面も迫る。窓の群れが雪崩れていく。正面からの風圧で目は潰れて顔が引きちぎれてしまいそうだ。それでも血の如く真っ赤な瞳は瞳孔をぐっと縮め、主の姿だけ、主の脚から、身体から、髪から、顔から、逸れなかった。後悔など二度と御免だ。全身をバネにする。また加速する。彼の本物の主から打たれた強化剤、厳しく訓練されて叩き込んだ身体の使い方は、今この瞬間のためにあったのだと確信していた。元々彼の種族は走力に乏しい。しかしニノはブラッキーに求めた。矯正した。ただふたつ。一瞬の事態にも反応できるよう、鋭利で機敏な瞬発力。そして、すべてを無に帰すわざの精度の強化。彼女は自身に、そして子供に降り懸かる運命を理解していた。だから、数え切れぬほど謝りながら、心を鬼にし、祈り、託したのだ。ブラッキーに、そしてエーフィに。生き延びてもらうために。それはどれだけ歪であろうと、彼女の母親としての愛情であり、戦いだった。彼女はいない。どこにもいない。けれど意志は獣達が受け継いでいる。時をこえて在り続ける。走る。止まる息。縮まる主との距離。押し迫る地面。緊迫するリミット。もう、すぐ。生きるか死ぬかの裏表。間に合うか否かの境界線。対極。たった二択。たったの二択だ。しかしその差はあまりに巨きい。蹴る。疾く。彼女の脚があと少し。更に蹴る。もっと疾く。命を削いで。魂を削って。壁伝いの“電光石火”。花壇の煉瓦の形が、花弁の輪郭が、判る。もう一度蹴り上げる、その直後、つまさきに到達し、首元に肉薄、服に歯でしがみついた。届いた追いついた、瞼を閉じた冷たい顔が傍にあるそんな感慨に浸る暇もない。そのもう目前。コンクリートはすぐそこに。続けざまに自身に膨れあがった力を一気に放出した。飛び込む。見開いた目が瞬いた。

 今度こそ、絶対に、――“守る”。

 衝撃はコンクリートを喰い破り轟音を立て、人間と獣を弾き返した。
 ブラッキーを中心とした透明の球はラーナーも包んで、地上に到達したと同時にまるで鞠のように跳ねた。なにもかもを相殺するブラッキーの渾身の一撃は砕け散り、そのエネルギーの破片は真昼の星のように煌めいて、陽光の中へと消失する。
 双方離れないまま、地面を勢いよく転がる。回転し、花壇にぶつかり、漸くすべてを出し切ったように静まりかえった。
 苛烈な瞬きの余韻は、街を広がるように空気の隅々まで沁み渡り、いつまでもどこまでも尾を引いていく。
 風の音すら遠のいた、時が止まっているかのような凍り付いた沈黙に、震える動きが刃を入れた。彼女から決して歯を離さなかったブラッキーは、巻き上がる砂埃の中、最大の衝撃を逃れた後の、地面に叩きつけられ転がった震盪に痺れながら、震える足をゆっくりと立て、口を離した。すすだらけになったラーナーの顔の、目の周りには青ざめた涙の跡が広がっている。閉じた瞼は動く様子が無い。ブラッキーは恐る恐る、そっと顔を擦り寄せ、触れた。命が震える。瞼が引き締まった後、花開くように僅かに上向く睫毛、隙間に覗く沼底のような栗色の瞳に、蒼い空が映る。些細な動きも逃さないように赤い目をこらし、凍えかけた鼻には生きた匂いが伝わった。間、一髪。間に合ったのだ。豪速落下の代償は地上のほんの破壊のみだった。やっとブラッキーは主の無事を確信し、遅れて、落下の最中は夢中で感じていなかった恐怖と、緊張と、なによりも抱えきれないほど膨張する安堵に全身を押し潰されて、膝を折り、ふつと意識を手放して、ラーナーに重なるように倒れこんだ。


 命を切り裂く風はやんでいた。屋上の先は下からでは遠すぎて見えない、それほどの高さから落下してもまだのうのうと呼吸をしている今に、ラーナーは言葉も出なかった。瞳に映る、高く、果てしなく広がっている空は壁に切り取られ、遠ざかった。あの向かうがわにいくことは、許されなかった。死ぬことは、できなかったのだ。ブラッキーの身体が胴体に沈み込んでいて、それを受け止めている重みや熱を実感しながら、再び目を閉じた。


 *


 屋上に取り残された白は、目から大粒の涙が止めどなく流れ出しているのに気が付いた。それは彼の身体が長い間忘れていた現象だった。哀しいわけでも、辛いわけでも、苦しいわけでもない。今、彼は虚無の中に浮かんでいて、なんの力も心も残っていないはずだった。自身とはまったく別の力が底から沸き出しているかのようだった。
 彼は目を閉じて、激痛で強張る、脱力しきった身体を固い屋上に委ねる。静かで激しい涙はこめかみを通り、髪の付け根を濡らし、耳のくぼみに溜まっていく。暗闇のずっと奥の深みから、最早声になるはずもない慟哭が届いてくる。
「……きみの泣きたい分、ぼくが泣いているんだね」
 涙は、ずっと、止まらなかった。












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