[日常と非日常の狭間にて]
あの夏の冒険から三ヶ月――。
音楽室にあった黒い楽器ケースを一つこっそり持ち出して私は廊下を一人、ぼんやりと歩いていた。ぼんやりなのはいつものことなのだけど。いつだってマイペースにスローペースに。そんな毎日を過ごしてた。アランシアはのんびり屋さんだね。ずっと前から言われてきたこと。時に羨ましげに、時に呆れたように。私自身そう思う。語尾がつい間延びしちゃうし服装はゆったりとしたものが好きだし、せかせかするのはそんなに好きじゃない。なのに、いつも何かを追いかけて一見焦ってるようにも見える彼、全力で走りぬこうとする情熱的な彼のことは許せてしまう。そんな不思議。自分より少し大きな背中は冒険を経て一層逞しくなった。時々皆よりずっと冷静でいるときがあってびっくりした。知らない彼の姿を見るのは新鮮で、時に羨望の眼差しを向けていた。羨ましかったのは決して今に始まったことじゃないけど、なんだか一回り大人になった彼は、今、ここに居ない。
夕焼けが窓から差し込んでいる。授業終了のベルはとっくの昔に響き、今は帰ろうとしている生徒達の姿が校門のあたりに溢れている。見慣れた光景なのにふと愛おしく思える。自分の記憶と重なる。キルシュとは家が近いから昔はよく一緒に帰っていた。お調子者で危なっかしい彼は見ているこっちが怖くなるから学校に行く時も帰る時も傍を離れなかった。放っておくとすぐに寄り道して何故か怪我をしてくるから。だから私はついていった。寄り道はかまわなかった。一緒にカエルを追いかけたりして楽しかった。ただ怪我だけはしてほしくなかった。心のどこかで守らなきゃって思ってた気がする。背だって私の方が高かったのに、いつからあっちの方が高くなっちゃったんだろう。いつから一緒にいるのをキルシュは拒むようになったんだろう。キャンディを好きになったり、セサミとばっかり遊ぶようになったり、そんなこといつか来る変化であるはずなのに、私はほんの少し胸が痛くなったりして。
そういうの、全部、懐かしい。
全部ひっくるめて、懐かしい。だって、キルシュは今はここに居ないんだもの。
美術室の前をふと通り窓から覗いてみると常連の姿は無かった。少し出かけているのかもしれない。私はそこに足を踏み入れる。油絵の具の匂いが重く鼻に入ってくる。絵具で汚れた机と椅子がいくつも並び、はじっこの方の窓側のシードルの席はさびしそうに空っぽになってた。窓の隙間から洩れてくる風が僅かにカーテンを揺らす。あの席は一種の聖域のように思えるから近づくことすら躊躇いを覚えるけれど、ゆっくりとその場に立ってみる。そして周りを見渡した。電気もついていない、オレンジ色の薄汚れた部屋。シードルが毎日見ている景色に私は経っている。足りないのは一ピースだけ。なんだか、不思議。いつもの光景と少しだけ、たった一人の人がいないだけでこんなに別世界に見えるなんて。
私はすぐ近くの机に楽器ケースを置き、ファスナーを開けて中身のバイオリンを取り出す。今日はそういう気分だった。弓の毛を締めて、記憶と耳を頼りにチューニングをする。A、ラの音を調整し、それから他の三つの弦も合わせていく。心地良い音が部屋中に響き渡る。透き通るような音色だ。まさか、この学校にこんな良い楽器が保管されているなんて知らなかった。いくつも楽器に触れてきたはずなのに、眠っていたこれに気付いたのは今日だ。もしかしたら漁ったら他にも素晴らしい宝物があるのかも。明日ちゃんと探してみよう。
ふっと息を吐く。目を閉じ、指を動かす。右手を引いて、弓が弦の上を滑る。
ゆったりとしたメロディーライン。頭の中にいくつも楽譜は仕舞い込んであるけれどそのどれでもない。私の中に流れ込んでくる音符を追いかける。夕方の中を走り抜ける小さな二人の子供の姿を思い描きながらただひたすらに即興曲を編み出していく。そんなに難しい技巧は使わないけれど、優しくゆっくりとしたテンポで和音やアルペジオを流していく。満面の笑みを見せながら小さな四葉のクローバーを摘んできたキルシュの姿が思い出される。あれもそういえば、この時間帯だったっけ。ずっと探し続けて、もう帰らなくちゃいけない時間で、それでもキルシュは待ってろと言ってきかなくて。呆れたけど私もほんとは帰りたくなかったからずっと傍に居た。あった。嬉しそうな声をあげて彼はその小さな四つの幸せの葉を取り出した。土色になった手で、白い歯を見せて、あげるって言って私にくれたんだ。その日の朝に、四葉のクローバーに憧れると言った私の言葉をそのまま呑み込んで、探してくれた。
音色がどこか、悲しそうに揺れる。
そうすると、ドアががたりと音を立てたのに気付き私は演奏を止めた。はっと咄嗟にその方向を見ると、思った通り、常連さんがいらっしゃったみたいだ。シードルはきまり悪そうに表情をかたくして扉を閉めると、慣れた足取りで私の元へとやってくる。
「演奏の邪魔をして、ごめん」
あまり謝罪の言葉を述べない彼が案外すんなりと頭を垂れる。私はバイオリンを下ろしゆっくりと首を振る。
「いいんだよ〜こっちこそ、ここにいると邪魔だよね〜」
「そんなことはないさ」
彼は置きっぱなしにしていたパレットを手に取り、定位置の席に座る。ようやくこの美術室が本来の姿に戻ったような気がした。
「それにしてもアランシア、君がこんなところで弾いているなんて珍しいね」
「うん〜なんか、違うところで弾きたくなったんだ〜」
「へえ、どうして」
「このバイオリンは今日見つけたんだけどね〜上等なものなんだ〜。だから、音楽室で弾いてるだけじゃ物足りなくなったの〜。それで弾くところを探してたら〜美術室にシードルが居ないなあ〜って思って〜、弾いてた〜」
「なんだそれ、因果関係が見えないよ」
呆れた口調のシードルは会話をしながら真っ白で何も描かれていないキャンバスを立てる。
「でも、なんだか寂しそうな曲だったね。なんていう曲なんだい」
今日のシードルはどこか積極的だ。彼はそんなに他人に興味を持つ人ではなかった、と思う。とは言っても、それは昔の話なのかもしれない。冒険を機に、クラスメイトはどこか変化した。
私はゆっくりと首を横に振る。
「即興だよ〜だから曲名は無いの〜」
「なんだ、そっか。まあ、言われたところで理解はできないだろうけどね」
「それもそうだよね〜」
「あっさり言ってくれるなあ」
シードルは少し悔しそうに笑い、キャンバスと向き合う。けれどまだ彼は木炭も絵筆も手にはしていなかった。ただそこに座ってパレットだけを持って、一見描こうとしているように見えるだけだ。
「即興ということは、寂しそうに聞こえたのはアランシアが何か寂しく思ってるせいかな。それとも僕の杞憂に過ぎないか」
「ん〜……」
私は少しだけ間を置いてみる。
「夕日は僕等の胸を締め付けるからね。そんな風に耽っても仕方が無い」
「そんな感じかも〜」
「感じって、曖昧だなあ」
「う〜ん……」
「キルシュのことでも思い出してるのかい」
ずばりピンポイントを撃ち抜かれて、思わずシードルの方を凝視してしまう。彼はしてやったり、とでも言いたげな顔でにやりと笑う。
「やっぱりね、そういうことだと思った」
「なんだかシードルがいじわるだ〜」
「人聞きの悪いことを。思ったことを素直に言っただけさ」
苦笑を噛みしめるようにシードルは表情を崩す。ふっと見せる顔が子供らしくて、そういえば一つだけ年下なんだってことを思い出す。オリーブやセサミくらい幼いとそういうの意識するけど、対して歳が変わらないとそういう位置関係を忘れてしまう。特にシードルの場合はしばしば口うるさい時があるし背は私より二〇センチ近くも高いし、詩的な発言をいつもしてるから、猶更そう。
ふぅと私は息をつく。近くの椅子に自然と腰かけ、キャンバスに向かってぼんやりとした視線を向けているシードルの横顔を眺める。
ああ、なんか落ち着くなあ。変な意味じゃなくて。至って日常の光景は、安心できるんだ。でも私の日常はやっぱりネジの外れたおもちゃみたいにかたかた鳴ってるだけで、動いてないみたいに思える。
「シードルは〜キルシュが居ないことにもう慣れたの〜?」
ふと頭に浮かんだことを尋ねてみる。シードルはちらとこっちに丸く大きな紫色の瞳を見せて、またすぐに元の白い背景の世界に潜る。
「さあどうだろうね。でも、いつも騒いでいた人がいないと、教室が妙に広くなったような気分になるよ」
無表情を貫いて言いやってみせる。
でもそれは要するに、まだ慣れていないということを指すんだろうな。そうやって比喩を使って紛らわそうとするのはシードルの癖なんだなあ。素直って言うなら、そういうとこもそのまま言っちゃえばいいのに。
シードルは一度パレットを机に置きその場を立ち上がり、近くの窓際に置かれていた青いリンドウの花がたくさん入った花瓶をキャンバスの近くにつれてくる。今日の題材かなあ。
「寂しいと思うのは悪いことじゃない」
再び腰をかけながら声をかけてくる。私は視線をふっと上げる。
「君の場合は当然のことだろうね」
「……寂しい、のかなあ〜」
「違うのかい」
「心の中がぽっかり空いた感じ〜。何をしてても懐かしい思い出とかが〜いっぱい来るんだ〜……でも、今はキルシュはいなくて〜それだけで全然違う世界みたいで〜……離れてても、みんな繋がってるって本当に思ってるのにな〜」
「それって、要は」
シードルは途中で口を紡ぐ。まあいいや、と曖昧に締めくくる。
「ねえ、隣で弾いててよ。僕は勝手に描いてるから」
「ここにいていいの〜?」
「君はどうせまだここに居そうだからね。何もせずにいられるよりは、弾いていてほしいよ」
「……うん〜」
「キルシュはまた帰ってくるさ」
「そうかな〜」
「信じていないのか、意外だな」
「信じては〜いるよ〜」
「そうか」
「……」
私はバイオリンをまた構える。さっきとは違う曲ではあるけれど、似たような雰囲気のものを奏でだす。音が広がっていく。ビブラート。響いていく。高く、透明な音。低く、静かな音。空気の中にしんと雪のように溶けていく。夕焼けの炎に落ちるように浸っていく。どこか遠くから誰かの笑い声が小さく高らかに聞こえてくる。私達だけだけ全然違う世界にいるみたい。全部遠くの場所に行っちゃったみたい。そんな空虚感を奏でていくと、記憶の中のキルシュの背中まで手の届かないところに行っちゃいそう。でも私には音楽しかなくて、こうやってしていることでしか彼とは繋がることができないような錯覚を覚えて。
ああ、なんだかなあ。
本当に手の届くところに、居てくれたらいいのになあ。
居てほしいのになあ。
「……シードル」
「うん」
「私〜やっぱり寂しいのかもしれない〜」
「……うん」
シードルはようやく手に取った木炭でキャンバスに黒い線を描きながら、相槌を打った。
目頭が熱くなっていくのを、私は必死に堪えていながら、音が途切れないようにただ右手を動かすことにだけ心を注いでいた。
fin.
かねてから書きたいと思っていたマジバケ短編の一作目です。キルシュがいなくなった学校の様子。
でもキルシュってどのくらいで冒険に行ってしまったんでしょうね。三ヶ月で出ていったのはちょっと早すぎたかなあ。アランシアかわいい。かわいい!!だいすき!!!