[瞬間のひかり]




 頭がぼうっとしてる。お風呂にでも浸かってるみたい。何もしなくても分かるくらい、自分の体が火照っている。全身に怠さが纏わりついて、起き上がることも億劫。少しでも立ち上がれば、体の中のものがぐるりと回りだしそうだった。
 前触れが無かったわけじゃない。昨晩、なんとなく気怠くて、一応大事をとって早めに寝たのだけれど、目を覚ましてすぐに分かった。ああ、私、熱があるんだと。朝晩と昼間の気温差が激しくなって、体調を崩す人が多くなるなんて言われる季節。流行に乗るように、風邪をひいてしまった様子。なんだか情けない。けど、学校に行かなくてもいいのは、少し、楽。
 なのに。
 どうして私のベッドの隣には柔らかな微笑みを携えて、今頃学校にいるはずのひとがいるんでしょう。
 と、ひたり、と額に水に濡れたタオルが当てられる。瞼も覆うようなそれのおかげで心臓がびくりと跳ねて、反射的に目を瞑る。冷たい。咄嗟の驚きの次には、心地良さ。ひやりとしてて、気持ちがいい。
 少しタオルが退けられた向こうで、彼はしてやったりとでも言いたげに少し悪戯な笑みを浮かべた。
「気持ちよさそう、ヴァニラ」
「……突然当てないでよ。びっくりするから」
「うん、びっくりしてたね」
 にこにこ、と笑っている。
 狙ってやったんだ。間違いない。
 なんでシャルドネがここにいるのか。勿論それは彼が部屋に入ってきたときに問いただした。心配だから家に残ると言い張った弟を無理矢理学校に行かせ、一人で療養していようと思っていたのにまさかの来訪である。
 どうやら学校を休んだ理由をガナッシュに尋ねて、そこで風邪だということを正直に伝えられ、直後に学校を抜け出して飛ぶようにここに来たらしい。元々行動力のあるひとだとは思っていたけれど、肩を激しく上下させながら必死の形相で部屋に入ってきたときは、びっくりしてちょっと血の気が引いた。それを追うように、なんだか少し、安心した。何もしないでずっとベッドに寝ているのはこの上なく退屈で、かといって質素な部屋には気を紛らわすようなものもなく、まともに思考が回らない中でただ時間が過ぎるのを待つだけだった。そこに飛び込んできたシャルドネ。大丈夫、と心配してくれるその声。すごく慌てた顔。なんだか少しおかしくなって、ちょっとだけ笑っちゃった。
 そんな彼も今は落ち着いて、私の傍から離れようとせず、椅子に腰かけて教科書を膝の上に広げている。時折ページに視線を落としながら、常にこちらを気にかけてくれている。おひとよし、なんて少し押しのけるような言葉を投げかけると、ほっとけないからね、と当たり前のように返された。なんだか全部見通してるみたい。不思議なひと。
 ほうと吐いた息が空気に溶ける。
 掛け時計の音が規則正しく時を刻む。
 ページを捲る音が室内にひらめく。
本に落とす目が時折瞬く。
 日常の中に混じる日常じゃない風景が佇んでいる。なのに、嫌じゃない。
「そうだ」
 彼は突然声をあげて、教科書をぱたりと閉じた。
「そろそろお昼の時間だし、お粥でも作ってこようか?」
 ふと視線を逸らして時計に目をやる。もうすぐ正午になろうとしているところだった。確かにちょうどいい頃合いかもしれない。けれど、自分の体に問うてみると、食事という気分にはなれなかった。
「……あんまり、食べれる気が、しない」
 本音をか細い息と共に絞り出すと、シャルドネは心配そうに顔を覗かせてくる。
「そっか。きつそうだもんね……でも、何も食べないでいるのは、良くなさそうだし……朝も何も食べてないんだって?」
 ガナッシュ、そんなことまで言ったのね……。口数は少ない人なのに。或いは、シャルドネの押しが強かったのか。
「大丈夫、よ」
「それって、熱が下がらない病人が言える台詞じゃないんだからね。……一応、作ってくるよ。無理はしなくていいから。ちょっと、待ってて」
 そう言うと、額に当てられたタオルをひっくり返してから、彼は席を立った。なんだかすごく馴染んでる。空気に溶け込んでる。そんなに来たこともないはずなのに、不思議。初めて来たときはがちがちに緊張してるのがこっちにも直に伝わってくるくらいだったけど、今は妙にリラックスしてる。
 シャルドネの家にも一度だけ行ったことがあるけど、もうあまり行きたいとは思わない。弟のカベルネが悪戯好きなのはまだ許せるけれど、どうしてもシャルドネの父親からくる圧力に耐えられない。あの視線が痛い。あからさまな嫌味なんて聞きたくない。耳を塞ぎたくなる。萎縮して何も言えない私も、私は、嫌い。だから、あまり行こうとは思わない。まあ、学校だって、どこに行ったって、視線は刺さるのだけれど。囁きがこだます。私に流れる闇の精霊の血がそうさせる。慣れたものと割り切ろうとしても、肩身はこれ以上なく狭まっていく。ほんとはもっと、自由になりたいのに。
 ああ、やだ。ひとりになると、いらないことを考える。急に心が淋しくなって、泣きたくなる。
 痰の詰まった咳が零れる。まるで、啖呵を切ったように続いていく。苦しい。喉が掠れる。胸が焼けそう。頭が痛い。貫くような痛みが何度も、何度も。布団の中で丸くなる。壁の方へと寝返りをうつ。部屋の角の方へ。ちょっと頭を動かしただけでふらりと眩暈がして、頭の中が殴られる。吐き気。やだ。逃げたい。そんな声も、押し殺す。
 シャルドネ!
 代わりに、無意識の範疇で私は彼の名を呼んでいた。
 タオルが額から滑り落ちる。汗が滲み出る。息ができない。痛みが激しさを増して、耳鳴りもし始めた。自分の中で音が混濁して身動きがとれない。
 ――彼の声も、最初はよくわからなくて。
 布団を間に体をさすられて、ようやく自分が戻ってくる。そして、シャルドネが戻ってきたことに気が付いた。
「ヴァニラ!」
 そう、はっきりと聞こえてきたの。彼はそこにいた。
「大丈夫、ヴァニラ、大丈夫」
「っ……シャルドネ」
 耐えられず視線を彼に向ける。思っていたより彼の顔はずっと近くにあった。
「うん、僕、いるよ。ちゃんといる」
 絶えず往復する手の動きがなんだかとてもあたたかい。
 私はゆっくりと寝返りを打って、シャルドネの方に顔を向ける。身を乗り出して擦り続けてくれる彼は何度も僅かに頷いている。気分が平静を思い出し始める。やがて発作は収束していく。魔法みたい、と思った。魔法使いである私がそんなことを言うのは、おかしいかもしれない。それでも彼の手が、表情が、ぜんぶ、魔法に感じられた。
 急き立てられた衝動も、シャルドネが溶かしてくれる。
「急に何度も嫌な雰囲気の咳が聞こえてきたからびっくりして……ちょっと落ち着いてきたね。良かった」
 ほっと彼は肩を撫で下ろす。けど、そのすぐ後に不安な色を見せる。
「ヴァニラ、泣いてるの?」
 泣い……?
 言われることで、私はふいに頬に何かが伝っているのに気が付いた。汗じゃないことを、目頭が熱いことが物語っている。自分でも意識をしていなかった。意識の混乱が呼んだんだろうか。発作の苦しみが呼んだんだろうか。
「わかんない……」
 発したかどうかもはっきりと分からないような霞んだ声を吐露していた。
「でも、なんか……」
 苦しかった。
 本当の言葉は、奥から出てこない。なんだか恥ずかしくて、言えない。
 数秒の沈黙。嗚咽すら出てこなかったような涙はとっくに止まり、動けない空気にどうしたらいいのかただ分からず、逸らしていた視線をシャルドネに戻した瞬間、彼と目が合う。強くて優しい色をした目はずっと私を見ていた。
「あの、さ」
 少し頬を染めながら、彼は振り絞るような声を出した。
「僕……ヴァニラのこと好きだから、今、こうやって誰もいないところで一緒にいられるの、ほんとはちょっと、……けっこう嬉しいんだ」
 目を見開いて彼を凝視していると、布団から僅かにはみ出た私の手に、シャルドネはゆっくりと手を重ねた。
「でもヴァニラは元気なヴァニラが一番だから……早く元気になろうね。ほら、病気のときって心も弱っちゃうから……思い込んでも、辛くても、僕、ずっと傍にいるから。絶対、大丈夫だから!」
 見通したような彼の言葉は私を抱きかかえる。
 冷たいシャルドネの手。私の方が今は体温が高いせいで、冷たく感じる。人の肌とは違う、かたい木の感触。それでも胸の奥を優しく包み込む。シャルドネはゆっくりと床にしゃがみ込んで、私と目線の高さを合わせる。空いた方の手が、汗に濡れて奔放になってしまっている髪を掻き分け、気付いたら彼の顔はすぐ傍にあった。ぼうっとした視界の中で、彼はまだまだ時間はかかりそうだねと漏らした。重なり合った額からも伝わった彼の温度。熱の籠った私には、心地良くて、……愛しくて。
「シャルドネ」
「うん」
「私も……一緒にいられるの、嬉しい、の」
 そっと絞り出すと、シャルドネは少しぽかんとした表情を目の前でしてみせた。
「……え」
「……うん?」
「えっ」
 シャルドネは数秒置いてから何度も間の抜けた驚きを露わにした。それから随分顔を赤くして、まるでシャルドネまで熱を出したみたいに見えた。なんとか平静を保とうとしているけど、口があわあわと動いていたり挙動不審に目が泳いでいるおかげで、動揺は筒抜け。なんか、変なことを言っちゃったんだろうか。不安になる。それでもって、なんだかこっちまで恥ずかしくなって、発熱に隠れて更に顔が熱くなったような気がした。
「えっ……と、そっか、そっかあ! ヴァニラがそう言ってくれるの、珍しい……なんていうと失礼だけど、なんていうか」
 相変わらず頬を染めたまま、シャルドネは少しぎこちないながらもいっぱいの喜びを見せる。それが表情に表れていて、すごく可愛くみえてしまった。
「うん……嬉しいな……来て良かった」
 私の手を握る彼の力が更にこもる。
 優しいシャルドネ。甘えたくなるひと。
 来てくれて良かったと思ってるのは、私の方なの。一人でいるのは淋しいから。
 ああ。
 喧騒も何も耳に入らない、この部屋でずっと君と過ごしていられるなら。瞬間が永遠になる、そんなことが可能なら、ずっとそうだったらいいのになあ。
 心の中で願いながら、私はシャルドネの手を強く握った。






fin.




初出:恋のかりゅうど様 NLアンソロに参加させていただきました。ありがとうございました!