[寂]




 時計は止まることなく時間を刻み続けていた。小さな音が暗い部屋に異様なまでに響く。
 時刻はもうじき夜中の十二時を回ろうとしているところである。あと数分経てば、明日になる。
 明日は今日になり、今日は昨日となるその瞬間まで、彼女はベッドの上で体育座りをして白いケータイの画面に目を伏せていた。
 黒い眼鏡の奥にある瞳に画面の光がらんらんと映る。しかしそれとは対照的に彼女の表情は沈んでいる。
 両手の細い指でキーを押す。頭の片隅に浮かんできた言葉を片っ端から打ち込んでいく。
 白かった画面の中に黒い文字が映し出されていく。どうやら誰かへのメールのようだった。
 ふと手を止めて、少し茶髪じみたセミロングの髪が揺れ、腕の中に頭を埋める。自分の体温がまとまっていくように温もりを感じた。
 あまりにも静かな夜だった。カーテンを閉めていても月明かりは部屋におぼろげに入っていた。雲もなく、明るい夜である。
 机の上には散乱した教科書類。ノートの最後の方の字はやけに汚く、薄くなっている。
 頭を少し出す。眠気が襲ってくる。寝ようと思っていた。けれど携帯電話にメールが一通届いてきた。返さないのは悪いと思った。
 それは彼女にとっての一種の義務とも言える行為。

「うちもその問題よく分からんかった。数学って訳わかんないよね」

 絵文字を語尾に入れようと思い泣いている顔を選択した。けれどやめた。
 色の無い文章になってしまった。まあ、そこそこ親しくしている人だから許してくれるだろう。
 それでもやはり寂しくなり、左から右下に直角に下がる青い矢印をつけた。
 これが入るだけで随分と雰囲気が変わる。顔をつける気にはなぜかならなかったが、これぐらいなら、と思いつつもまた考えて、しかし結局送った。
 画面にディズニーの黄色いクマのキャラクターが映り、手紙をポストに入れる動作をする。
 数秒したら送信完了、と出てきて一度彼女は携帯を閉じることにした。携帯の外側にある画面に時計が表示される。十一時五十八分。
 光に慣れてしまっていたために、暗く静かな6畳ほどの部屋に奇妙な雰囲気を彼女は感じた。
 かけていた眼鏡を外して枕の脇に置いた。ベッドは壁の丁度直角の部分に置かれているが、その壁の傍が彼女の眼鏡の定位置だった。
 彼女は裸足の状態でベッドから降りる。床の冷たさが彼女の足に伝わる。瞼が重い。でもメールはもう少し続きそうな気がした。

 不意にカーテンを開ける。窓は小さいから少ししか外は見えない。
 住宅街であるそこには、ちらちらと家の窓から放たれる光が見えた。夜だと光は眩しいくらいに強調される。
 長袖に長ズボンであるのに彼女は鳥肌が立つような寒気に襲われた。晴れた夜は空気がひんやりとして、寒い。
 そんな空気は嫌いじゃなかった。もうじきやってくる冬の空気は肌を突き刺すように冷たいが、引き締められるようで好きだった。
 けれど寒いのは嫌いだった。彼女自身が分かっている、矛盾していると。
 しかしそんな矛盾がいけないことだとは思ったことがない。どうせ大したことではないのだから。
 違う家の光が一つ消えたのが目に付いた。世界は眠りについていく。いや、地球の裏側では眠りから覚めていく。
 時間が過ぎていく。十一時五十九分になった。

 あと一分で明日になる。
 彼女はどこか寂しい気持ちになった。
 長いまつ毛の付いた瞼を閉じる。このまま眠れそうな気がする。
 今日はとても疲れた一日だったのだ。


 彼女の飼っていた金魚が一匹、今日死んだ。
 六年前に夏祭りの金魚すくいですくって、唯一生き残った一匹だった。
 餌をやることはもはや習慣となっていて、それがいることはもはや日常であった。
 しかし今日彼女が学校から帰ったら、死んでいた。

 フローリングの廊下に寝そべっていた。
 水槽から跳びはねたのだろう。
 あまりにも突然の死だった。死に方も衝撃的だった。
 餌を少々やり過ぎて太っているそのオレンジの魚が、廊下の真ん中で口をあんぐりと開けていた。
 そして彼女はそれまでそれなりの愛情を注いでいたというのに、腫れものを触るように爪で金魚の尻尾をつかんだ。
 手で包み込もうとは思わなかった。近付くとまず異臭が鼻についた。身体は埃をまとっていたし、何よりも死んでいる生き物なのだ。
 できるだけ触れたくない、と心の底から思った。

 生きているときには面白がって水槽に手を入れて、掴んでしまったこともあった。ぬるりとしたのを覚えている。そしてまたぬるりと手からあっさりと逃げた。
 しかし死んだ金魚は当然だが身動き一つしなかった。尻尾を掴んでも相変わらず口を開いたまま、重力に身を任せていた。
 少なからず気持ちが悪い、と思ってしまった。死というのは凄い。彼女が無意識につけていた生き物の価値を一気に下げてしまう。
 けれど逆に、死によって金魚の存在が明白になったこともある。
 金魚は彼女に自分がいたということを、死というメッセージで伝えているようだった。
 日常の一つと化していた餌やりはもうやる必要がなくなった。そのうち水槽は片づけなければならない。
 親に新しい魚でも飼うか、と問われたが断った。あっさりと断った。考えるよりもまず口が先走りした。
 金魚は庭に埋めた。スコップを使って土を掘りその中に入れた。面白いように土が濡れた金魚の体に張り付き、その上に土をかけた。
 その間も金魚は決して動かない。
 死んだのだ。


 瞼を彼女は開かせる。手の中の携帯が小刻みに震えたからだ。
 携帯を開く。眩しい光に目を細める。眼鏡を外しているせいで少しおぼろげに見える画面。
 やはりメールである。さっき送った先の友人が返信をしてきたのだ。

「そっかあ。ごめんねこんな時間に。もうちょっと頑張ってみてだめなら寝ようかな。おやすみー」

 語尾にはピンクの線の笑った顔と開いた手が付けられていた。
 もう返す必要はないだろう、と彼女は軽い溜息をつき携帯を閉じる。
 ようやく寝ることができることに彼女は小さな幸せを感じた。ベッドに戻ると、隠れるように布団の中に入る。
 それとほぼ同時に時計は十二時を指す。その瞬間に今日が終わった。
 二度と来ることのない今日が昨日となり、あの金魚は過ごすことのできない明日が今日となる。
 耳に入ってくる音は何もない。風の音も虫の声も全てが平らな水面のように静まっている。

 それから彼女はあっさりと眠りにつくことができた。






fin.




 太宰だったかなんかの小説を読んだ後に書いたもの、だった気がする。
 生き物の死を書いてみましたなシリアス。死のリアルっていうのを表現してみたかった。身近なものほど失くした時にその存在をはっきりと知る、というかそんな感じを。
 うちの金魚が死んでから数日後に書きましたね。今はもういないのが普通になってしまったけれど、それでも確かに彼等はいたんだ。