[声なき鎮魂歌]




 イッシュ地方の北西に位置するタワーオブヘブン。多くのポケモンの魂が眠る神聖なる塔。螺旋状の階段は天へと昇っていくような雰囲気を彷彿させ、毎日多くの人々が参拝に訪れる。
 そして魂の集まる場所だからこそここに住み着くポケモンもいる。真っ白な空間の中で紫色の炎を頭に灯す、ヒトモシというポケモンだ。
 天井、あるいは墓の影といったあらゆる場所に隠れ、時に訪れたトレーナーに道案内をしながら、時には襲いかかりながら人間の精神力を生きる糧とする。それこそが彼等の生きる道なのだ。
 この日もいつものように、あるヒトモシは二階に身をひそめ周りの様子を伺っていた。夕方、少しずつ人の足が遠のいていく時間帯のことである。
 このヒトモシは少し臆病な性格をしており、頭に灯す炎の大きさも他のヒトモシと比べると小さめだ。人がやってきても人間に対する恐怖心が勝り、おどおどとしている間に他のヒトモシが飛び出して果敢に立ち向かっていく。となれば死んだ魂しかないが、塔を渦巻く魂もまともに糧とすることができない。何故なら、このヒトモシには魂の声が聞こえるからだった。
 死というものはどんな形であれ哀しみを携えている。その魂の涙している声がヒトモシには聞こえるのだ。それを糧にするというのは、その魂は安泰な成仏を迎える事ができないことと同等だとヒトモシは考えていた。それがヒトモシは怖かった。自らのせいで哀しむ命があることが。大抵のヒトモシは、そうしなければ生きられない、代わりにその魂の分まで生きるのだ、と割り切っている。形が違えどどの生き物もそうやって生きている。その現実と対面できないヒトモシは心幼いまま、こうして生きている。どうしても、どうしても炎が消えそうなその時だけ、魂を喰らう。
 ただ、それは現実的でないということもヒトモシは分かっている。だから、毎日葛藤しながら魂を炎に巻き込もうとする。これは間違っていない、自分が生きるためなのだ、と言い聞かせて。けれどできない。迷っている間に他のヒトモシがやってきて魂を、或いは生きた人間の精神力を呑みこむ。その繰り返しである。
 今日も大した収穫は得られず、ヒトモシは人のいなくなったフロアに身を投げ出す。窓から差し込む夕日の光が白い部屋を真っ赤に燃やしているかのようだ。ヒトモシは目を閉じる。何もしていないのに疲労が圧し掛かってきたのだ。
 と、そのヒトモシの元に一人の人間が足音を立てず歩み寄っていた。一階から上がってきたのは、白いワンピースを身に纏い綺麗なブラウンの長い髪をした、二十歳前後と見られる若い女性である。

 こんにちは、ヒトモシさん。

 彼女は透き通ったような可愛らしい声をヒトモシにかける。気付かなかったヒトモシは驚いて鳴き声をあげて跳びはねた。
 その様子を見て彼女はくすくすと小さく笑う。ワンピースは勿論白いが肌の色も随分白い女性である。
 ごめんなさいね、突然声かけちゃって。一階には誰もいないし、二階に上がっても他のヒトモシさんには気付いてもらえなくて。ほら、あのヒトモシさん、あのお墓の上で眠ってる。疲れてたのかな。まあいいんだけどね。それより私、あなたに頼みたい事があるの。そんなに面倒なことじゃないから、いいかな。
 ヒトモシはその声が理解できても喋ることはできない。不思議に思いながらも、彼女の優しそうな丸くて大きな瞳に見つめられると、断ることもしづらくて小さく頷いていた。その途端彼女はぱっと大きな花が咲いたように笑顔になる。
 ありがとう。あのね、私の大切なポケモンがここに眠っているらしいの。でも私の住んでる場所は遠くて……イッシュ地方じゃないの。だからここに来るのも初めてで、右も左も分からない状態なの。だから、道案内をしてくれると助かるなあ。
 その程度ならヒトモシもお安い御用であった。ここの道案内などヒトモシには造作も無いことだ。要するに一人でいることが不安なのだろうとヒトモシは勘付いた。ヒトモシは彼女は他の人間と違うように感じられた。その証拠に恐怖を感じていないのだ。優しそうな雰囲気がヒトモシの心を和やかにさせる。
 お墓を見ていったらきっとあの子のだって分かるから、一つ一つ見ていこうと思うの。うん、やっぱりちょっと面倒くさいことだったね。ごめんね。
 ヒトモシはふわふわと空を浮かびながら、ゆっくりと彼女の隣を泳ぐ。少しだけ前の方で、彼女の歩行スピードに合わせる。彼女は道端にある墓に目を配る。墓はこのフロアだけでも数え切れないほどある。所狭しと並べられ、人が一人ぎりぎり通れる道がかろうじて作られている。
 ここは白の世界。
 ただし、今は全てが夕日に染まっている。
 道も壁も墓も、全てが。
 もうヒトモシにとっては見慣れた世界。これ以外の世界をヒトモシは見た事がない。狭い世界をヒトモシは知り尽くしている。
 彼女は時々立ち止まりながらも目当てのものには出会えていない様子であった。そうして時間がゆっくりと過ぎていき、月が窓を通して見える頃になる。空に暗闇が訪れてきている。
 二階の墓を全て見た後、彼女は溜息をついた。
 この階には無いみたいだね。今日は……もうそろそろ、帰らなきゃ。また明日、来るね。このくらいの夕方の時間に。今日はありがとう親切なヒトモシさん、良かったら明日も付き合ってほしいな。
 そう言うと彼女はふんわりと甘い笑みを浮かべ、軽く手を振るとヒトモシに背を向けて下へと向かう階段へと足を運ぶ。
 ヒトモシはそれを呆然と見つめた。僅かな時間だったが彼女と一緒にいるのはヒトモシにとって心地良かった。それが何故なのかはヒトモシには分からない。毎日怯えるような生活をして、緊張感を持って過ごしていた。その殻をいとも簡単に開いて見せた彼女は何者なのだろうか、ヒトモシは考える。しかし答えは出てくる筈もなく、いつものように墓の後ろに隠れて疲れたように目を閉じた。突然身体の奥底がゆっくりと回るような感覚に襲われる。思わず震え、しかしすぐにそれは消え、しばらく固まってから安堵の息を吐いた。もう眠ってしまおうと思った。




 次の日の夕方、ヒトモシは二階で彼女と出会った場所で待っていた。そうすると予告通り彼女は階段をゆっくりと上がってやってきた。彼女はヒトモシの姿を見つけるとまっすぐヒトモシの元へとやってくる。
 こんばんはヒトモシさん。待っててくれたの? ありがとう。じゃあ、今日は三階を案内してもらってもいいかな。
 迷うことなくヒトモシは頷いて、三階へと向かう螺旋階段に向かいそれを上がっていく。大きく円を描くような螺旋は天空へと向かう階段。長い道を上っていくと、三階にやってくる。三階には二、三人墓参りに来ている。
 昨日と同じように彼女は目当ての墓を探す気の遠くなるような行動をする。
 私はカントー地方に住んでいたの。
 彼女は歩きながら静かに話を始めた。
 カントー地方にはね、タワーオブヘブンみたいな死んだポケモンが眠る家があるの。小さな屋内にお墓がたくさんある。あの子が死んだ時、私の親はあえてそこじゃなくてここにお墓をたてたの。ここは天に近いからかな。でもおかげでしょっちゅう来ることはできないし、大変。まあカントー地方の中でも私はその家がある町……シオンタウンから家は相当離れてるんだけどね。ニビシティっていうところ。田舎町だけどとっても良い所よ。落ち着いた雰囲気で安心できる。まあそれは生まれ育った故郷であるせいかもしれないけどね。故郷だったら、誰しもそこは特別な場所よね。でも、そうじゃなくても良い所。博物館もあってジムもあって、たくさんの人が訪れるの。私も時々トレーナーと話す機会があったりするんだけど、そういうのも楽しい。私の知らない世界を知ることが出来て。
 他愛もない話を彼女は飽きることなく続けていく。一方的な会話だが、彼女の口はあまり休まることがない。ただ、内容が暗いか楽しいかなどに寄らず表情はあまり変えずに喋っていることがヒトモシにとっては印象的だった。
 一方で、その間にヒトモシは自分の中でピンと糸を張ったような緊張が続いているのに気付いていた。
 この日も彼女のポケモンの墓を見つけることは叶わなかった。彼女は四階に続けて上がることなく、昨日と同じく帰っていった。その度ヒトモシは淋しくなった。それと同時に得体のしれない吐き気に似たものが襲いかかる。昨日よりも長く大きく、ヒトモシは身体を捩じらせるようにしてうろたえる。そして僅かな枯渇に体内が染まる。頭の上の炎が少しだけ小さくなった。
 ヒトモシは何かを求めるように喘いだ。けれどその後思いを振り払うように身体いっぱいを使って身を大きく振る。小さくなった炎が激しく揺れる。




 ああ、この階が最後なのかな。
 次の日、やはり同じ時間帯に彼女はやってきて呟いた。ヒトモシはその言葉にこくりと頷く。
 ヒトモシどうしたの。なんだか調子が悪そうだけど。
 腰を折りヒトモシの顔を覗き込む。ヒトモシは慌てて身体全体を振り、少し後ろに下がる。彼女に悟られたくなかった。実際彼女の言う通りヒトモシの身体には奇異な現象が起こっていた。思考すら困難にさせるような枯渇感が身体中を襲い、気だるさが重い泥のように纏わりつく。
 彼女はやはり心配そうにしていたが、必死に健全を振舞おうとするヒトモシの様子を見て仕方なさそうに溜息をついた。
 ヒトモシはそれでようやく少しだけ安心して、またいつものように彼女を先導した。いや、いつものようにといっては間違いがある。先日よりも少し彼女より離れている。そして浮遊する様子は明らかに鈍くふらふらとしている。
 円の空間を歩き回る。窓の外で雨の音がしている。今日は昼頃から雨が降っているのだ。だから赤い太陽の光も今日は無い。
 この階は墓のある部屋としては最上階。だからこそおのずとここに彼女の求める墓があるのだとヒトモシは理解している。そうしたらヒトモシと彼女の本当に小さな旅は終焉を迎える。別れの時が近づいてきているのだ。ヒトモシは苦しみを我慢している中でそのことを考えると身体の奥が締め付けられる思いに駆られた。いずれ終わることだと分かっていた。つい一昨日初めて会っただけだ。三日間、しかも夕方だけの短い時間の中だけ共に過ごしただけ。だがヒトモシにとってはとても濃密な時間だった。絶えることなく彼女は話を続けてくれた。それはヒトモシが今まで味わったことの無いものだった。誰かと一緒にいることは今までヒトモシが生きてきて一度も無かった。ただの一度も。それに対して淋しさを味わったことは無い。それは普通なのだから。けれど知ってしまった。知ってしまったのだ。誰かが傍にいること、それだけでどれだけ心が温かくなるかを。
 まだ一緒にいたい。
 ヒトモシはそう強く願った。しかし時間はそれを許さない。

 彼女はある墓の前で立ち止まった。
 室内のほぼ中央に位置する場所である。
 ヒトモシは苦悶に耐えるのに必死でしばらく気がつかなかったが、はっと後ろを振り返ると彼女が一つの墓を凝視しているのを見て慌てて戻る。ヒトモシは彼女の傍に寄り添うと、彼女はヒトモシを見て小さく笑った。その目は少し潤っていた。
 これだわ。間違いない。ここに私の……ああ、そう私の大切な……あの子がここに眠っている。ようやく辿りついた。そうだ、一番天に近い所って言ったもんね、そう、そうだった。
 自分に向けられた言葉ではないことをヒトモシは悟った。それはただの彼女の独り言である。彼女はゆっくりと歩き、墓の前に膝をついて墓石に刻まれた文字を指でなぞる。
 そうだ、そうだったよ。
 彼女はぼそぼそと呟いた。しばらくうわ言を並べていたがそのうちに何も言わなくなった。雨の音が聞こえてくる。それが近くに感じられるほど静寂が包み込んでいた。
 数分間経った頃、彼女は俯いていた顔を上げた。そして隣にずっといたヒトモシの方を向く。
 ごめんね、ずっと放っていちゃって。ちょっと浸っちゃった。……この子は、ガーディっていうポケモンでユウっていう名前なの。字は勇気の勇よ。前にも話しと思うんだけど、勇は私が小さな頃からずっと一緒に過ごしていた大切なポケモンなの。どんな時も傍にいてくれた。ご飯を食べる時も外で遊ぶ時も風邪をひいた時も、いつだって隣にいた。私は兄弟がいない一人っ子だったからその存在は本当に大きかったの。勇っていう名前の通り勇敢で優しくて、ちょっと抜けてるとこもあるけど可愛くて。
 彼女は一旦そこで話を切る。数秒後また話は始まった。
 私が大きくなって二ヶ月前のことだった。ある土砂降りの日だったの。突然勇は体調が一変した。突然吐いたかと思ったら舌も出しっぱなしにしてぐったりと倒れた。原因はよく分からないけど、私はその昼に公園へ勇を連れていった時、勇、何か雑草を食べたの。もしかしたら農薬でもかけられてたのかもしれない。病気の兆しは全く無かったから。それで私は急いでポケモンセンターに連れて行こうと思ったの。外は酷い雨だったからお父さんやお母さんは止めたけど、私は無理矢理自転車を走らせた。普段勇をモンスターボールに入れないせいかなかなかボールが見つからなくて、でも一刻を争う事態だったから仕方なく私は勇に合羽を着せてケージに入れ、自転車の籠に乗せて走ったわ。本当にすごい雨で、目の前の視界すら満足に見る事が出来なかった。耳に入ってくるのもとにかく叩きつけるような雨の音だけ。バケツをひっくり返したような、なんてよく言ったものだと思う。正にそんな雨だった。
 小さな雨音を背景に、話は続いていく。
 ポケモンセンターに行く途中の坂を下った先に急な曲がり角が一つあったの。角には建物があって、角の先は全く見えない。カーブミラーが設置してあったけど雨で視界は最悪だったし、気持ちが一杯でカーブミラーなんて気にしてなかった。坂を勢いよく下っていって、だんだんとブレーキをかけていった。だけど、古い自転車であることと雨による滑りとが重なって、ブレーキは満足にかけれなかった。勢いが残るまま角を右に曲がったら……。
 彼女はそこで声を詰まらせた。それから手を顔で覆い再び俯いた。その手の力は強く、顔を握っているかのようである。
 ヒトモシは待った。彼女が再び話し始めるのを。ただ、何となくその先がヒトモシには見えていた。彼女の話は終盤を迎えている。
 嗚咽しつつ彼女は震えた。手の下は涙でぐしゃぐしゃに潰れている。
 大きなトラックが……。
 彼女は声をあげた。一つしゃくりあげる。
 トラックが来たところだったの、丁度。お互いに止まることはできなくて……ぶつかった瞬間馬鹿みたいに痛くて吹っ飛んで、それで……そう、分かっていたの。自分も死んだってことくらい。
 手を外し、彼女は濡れたその手を墓に当てた。そしてそのまま身体を墓に寄せる。
 気がついたら幽霊になってた。誰に声をかけても無視されて、鏡に自分の姿が映らなくて、そしてお母さん達が私の名前の書かれた墓の前で泣いているのを見て……それで分かったの。死んだんだって。正直よくわかんない。生きてる時、死んだらどうなるんだろうって考えてたけど、よくわかんない。身体が軽くなった感じはするけどね。なんか、すごく空白って感じがする。
 彼女は墓を背にヒトモシを見た。少し赤くなった目がヒトモシには痛々しかった。
 勇もその時に一緒に死んじゃったの。本当、私のせいだね、全部。あの時おちついて走ってたら、もしかしたらなんて思っちゃうの。もう全部今更なんだけどね。……前に、私がテレビでタワーオブヘブンの話を見て、その時親に、勇が死んだ時タワーオブヘブンにお墓を作ってあげたいって言ったの。縁起でもないことだけど。天に近いタワーオブヘブン。シオンタウンでも良かったけど、当時の私にはそこが魅力的に映ったのかもしれない。今となってはこんな遠いところじゃなくて、傍が良かったなあ。それより、お母さんやお父さんがそんなこと覚えててくれたこともびっくりだよね。
 へらっと彼女は力無く笑った。涙の跡が少し光る。
 そして彼女は一度立ち上がると墓と向き合い、目を閉じて手を合わせた。それを彼女はとても長い間続けていた。途切れることなく小さな雨の音がしんと響く。実際に経っている時間以上に、ヒトモシは彼女の祈りの時間が長く感じられ、胸の奥がチクリと痛んだ。
 彼女は数分後ようやく目を開けた。
 幽霊がお墓参りするなんて、変だね。
 彼女は呟いた。ヒトモシはすぐに身体を横に振った。それを見て彼女は微笑む。
 私ね、もしも見つけるんだったら夕方の間にお墓を見つけたいなって思ってたの。なんとなく。だから、夕日が沈みそうな頃にはもうここを出たの。なんの意味もない、ただのこだわり。でももうこれで終わりだね。もう、なんだか満足しちゃった。
 安堵の表情を浮かべ、彼女は墓に寄り添った。そうして重たそうな瞼をゆっくりと閉じる。
 安心したら、少し眠くなっちゃった。
 ゆっくりと噛みしめるような小さな声を出した。




 ヒトモシはその様子を見つめ、自分の中にあった苦しみが潮が引くように少しずつ消えていくのがわかった。先程まで我慢できないほどの嘔吐感さえも襲っていたが、もう無い。残っているのは枯渇感ただ一つ。
 穏やかな表情で眠りについた彼女の足元が透け始めたのに気付いた。線香の煙のように、少しずつ少しずつ魂が空気に溶けていく。
 それが何を意味するのかヒトモシは分かっていた。自分の中にある衝動は押さえきることができない。嫌だった。そんなことは嫌だった。離れたくない。けれどそんな意志とは別の本能がヒトモシの身体を支配している。もう止めることはできなかった。
 噛みしめていた唇を開いた。その途端、せき止められていたダムが決壊するようにヒトモシの中で濁流が起こった。
 ヒトモシの頭の小さな炎が突然大きく膨らんだ。それはヒトモシをも飲み込むほど大きなものだった。その炎は彼女を包み込む。凄まじい勢いで周囲の温度が上がり、しかし何事も無かったかのようにすぐに収縮する。
 冷たい沈黙が流れる。ヒトモシは力無く床に身体を置いた。
 炎は元の大きさに戻る。しかしその大きさは先程より大きくなっている。炎は優しい光を盛んに発して燃える。
 彼女の姿は跡形も無く消えていた。
 何が起こったのか、それは誰よりもヒトモシ自身が理解していた。乾いた感覚はひき、その代わりに欲望が水が潤ったように満たされた。
 雨の音が強かになる。その音がヒトモシの心を打ちつける。自分の中で必死に堪えてきた衝動を抑えきることができなかった。だが、苦しみからは解放された。しかし、それによって彼女の魂は安楽に天国へ昇ることなく、炎を燃やす糧となった。罪悪感がヒトモシを押し潰す。好きだと言えるひとを自分の手で葬り去ったような、そんな感覚で胸が破裂してしまいそうだった。

 ヒトモシは泣いた。
 生まれて初めて涙というものを流した。
 生気が失われたような丸い瞳から熱いモノが次々とこぼれ落ちる。
 嗚咽を喘ぎながら、ヒトモシはしばらくそのまま泣き続けた。止める事ができず、ただ止めようとも思わず、自分の満足がいくままに泣き続けた。


 そうしてどれくらい時間が経ったのだろうか。
 ようやく涙が乾いてきた頃、ヒトモシはゆっくりとその場を浮かび離れた。気分が優れないままよろよろとフロアを進み、上へと向かう階段の道を辿る。
 最後の螺旋階段は少し長く、雨の音はだんだんと遠くなっていく。ヒトモシはただひたすらに上を目指した。目指す先はヒトモシが見た事の無い場所である。
 薄暗い外の光を求め、少しずつ少しずつ上っていく。その道のりの予想以上の長さにヒトモシは疲れを覚えながらも、決して進みを止めようとはしなかった。
 身体に言い知れない倦怠感が渦巻き、心の中では未だに泣いたままでヒトモシはその場所に辿りついた。

 雲の上にあるために雨の影響は無い、タワーオブヘブンの本当の最上階。ヒトモシは少し周りに目配せをしながら柔らかな色の石の床を進み、少しある階段を上がる。
 ヒトモシの正面に現れたのは、大きな鐘。
 自身の何倍もの大きさを持った鐘は、人間がタワーオブヘブンに眠るポケモン達の魂を鎮めようとたまに鳴らされるものだ。その音は鳴らす者の心によって変わるという。ヒトモシはその音を遠く彼方で何度も聞いてきたが、目の前にするのは初めてであるし勿論間近で聞いたこともない。
 その荘厳な雰囲気にヒトモシは思わず静止し見惚れてしまう。身体が震え、喉にかかる圧覚に囚われる。
 しかしそれをぐっと堪え、ヒトモシは鐘に近付く。いよいよ目前にした時、改めてその大きさに驚く。
 鐘を鳴らすには鐘に触れ動かす必要がある。ヒトモシには手が無いため鐘を少し動かすだけでも相当の労力が必要であった。
 ヒトモシは鐘の中に少し潜り込み、背で懸命に力をこめて押す。僅かにだが鐘が動き始める。ヒトモシは一呼吸置く。少しでも気を抜けば満足しない音が響くこととなり、最初に逆戻りだ。
 だんだんと呼吸が荒くなり、掠れた息が鐘の中でこだます。
 地道な努力は実ろうとしていた。鐘の傾きは約六十度といったところか。ヒトモシの身体は限界を唱えていた。鐘の重さを小さな体で支えることは容易なことではない。全身が悲鳴をあげている。
 ヒトモシは慎重に自らの身体を下へずらしていく。身体が擦れていくような痛みが走るが我慢する。

 そして遂にその身体を全て引いた。途端鐘は勢いよく振られ、向こう側である到達点に達した時目がはっと覚めるような大きく重々しい、少し高めの音が鳴りわたった。荘重で優しいその音は、ヒトモシの心を映した音。
 鐘の引き金を引いたヒトモシが望んだのは、名前すら知らない彼女と彼女の大切にしていた命に対して鐘が歌う鎮魂歌、伝えることができなかったさよならのメッセージ。空気は震え、音が頭を叩くように繰り返される。繰り返される。何度も鳴り響き、その音が見えない円を描いて遠くの方まで届いていく。空の向こうへ、そして地上へ跳んでいく。
 ヒトモシはそれを聞き届けながら、鐘を吊るしている柱に寄り掛かり地面に下りる。
 頭上の炎が少し縮こまった。
 大きな鐘の音にヒトモシは胸の鼓動が大きくならざるを得なかったが、それでも不思議と心は落ち着いた。波の全く立っていない湖に鐘の音が波紋を残していくように、音に吸い込まれる。
 遥か遠くの雲の上の世界を見つめる。いや、ヒトモシは実際は何も見つめてなどいなかった。呆然とした気持ちの中での視界はヒトモシの心には届かない。
 音は小さく、小さくなっていく。




 ヒトモシは目を閉じた。
 雪崩れ込んでくるのは彼女の姿、彼女の声、彼女の話。
 もう戻ってくることは無いヒトモシの大切なひとが、少しでも、

 少しでも……



 ヒトモシは笑った。
 わらった。





fin.




POKENOVEL様の秋企画にて二位に入賞したものです。
ヒトモシは図鑑の設定で見ると怖い存在なのですが、今回この作品を書こうと思い立った時、生命力で燃えている炎は一体なんなのだろうかと考えた時、あれはヒトモシの生きている証なのかもしれないと思いました。
生命力イコール魂として、少し無理矢理幽霊と絡ませてこのようなものを作りました。なので少し違和感を感じた方もいるかもしれません。
最後の辺りに反復法を何度も用いたので少ししつこいだろうかと思いつつも話の雰囲気の為にこのようなことになりました。
ヒトモシの最後の笑みは、様々に伝えたい事があったけど伝える事ができなかった、けれど最後に鐘の音という形で伝えた充足感と、巡ってくる思い出、そして言い知れない哀しみ、全てを包み込んだ末に出てきたこと。
あえて最後の辺りはぼやかしましたが、ヒトモシの笑った時の思いをどう感じとってくださったでしょうか。そしてタイトルの意味も感じてもらえれば幸いです。