[透明なピアノ]



 音が跳ねる。一つ。ファ、の音。誰かがそういえば言っていた。鍵盤の、どれか一つだけを弾いてと言われて出した音で、その人の性格が表れるって。ほんとかどうかわからない、心理テストみたいなもの。ドとかソとか、きっとそのあたりが多いんじゃないかなって勝手に微笑む。私は一体どうなんでしょう。ファの音には一体、どんな意味が添えられているのでしょうか。
 真っ白くて立方体の部屋の真ん中に置かれた、無色透明なピアノ。ピアノ線までしっかりと見えるその姿は、なんだか綺麗で、儚くて、壊れそうで、ちょっとグロテスクにも感じて、でもやっぱり美しく。部屋に溶け込んだピアノで、和音を響かせる。反響する。指先から伝わった鼓動がハンマーを叩き、空間を滑り、私の耳に溶け、全身に蕩けていく。息を思わず止めて、広がる音の飛沫を実感する。浸っていると、やがて音が完全に消失したはずの中でも余韻が残っているようだった。響く無音は苦しくて、愛おしい。
 離れたくないと思った。このまま理想の世界で佇んでいられればいいのに。
 ある美術家が作りだしたというこの空間は、そのひとの個展にて展示されている作品のひとつ。完全に外界の音を遮断した扉を開けばその瞬間に掻き狂うような音の渦がまた飛び込んでくる。この部屋は夢の世界なのだ。夢は現実あってこそのものであり、終わりはあっけなくやってくるもの。それを理解している私は口元に笑みを浮かべて、鍵盤の表面を撫でた。冷感が触覚を僅かに刺激する。
 ああ、さようなら。
 外が勝手に私の扉を叩いてくる前に、扉を開きにいきましょう。邪魔をされる前に、理想の硝子の形のままで残しておくの。

 白い部屋に似つかぬ黒いスカートをひらりと翻して、私はドアノブに手をかけた。