[明日天気になあれ]
やあ、諸君、元気かい! 生まれたばかりの赤ちゃんも、はしゃぎまわってる子どもも、青春に悩むうら若き少年少女も、現実を生きる青年も中年さんもそしてお爺ちゃんもお婆ちゃんも元気かい!
どこかから、なんだこいつとかうざいとか馴れ馴れしいとかそんな声が聞こえてきた。よく仲間に言われていたよ。変な奴だと。
それでもそんな僕には話したいことがある。今回僕がお話しするのは、僕の主人だった、人生のはじっこに立ったお婆さんの話だ。老いにはいつだって悲壮感を纏っている。けど、このひとはかなり歳をとっても元気な人だったのさ。名を、ちよという。ひらがなで、ちよ。可愛らしい名前だろう。眼鏡をかけて真っ白のふっくらした髪で、優しそうなお婆さんを地でいくようなひとさ。ああ、見た目がね。中身はちょっと、気が強い。でも、僕にとっては大切なひとだ。
これはそんな、ちよと、僕達の、小さな思い出の話だ。
良かったら、聞いていってほしい。
*
僕は種族でいうとワンリキーというらしい。ニックネームとしてきんにくという名前が付いていた。昔はジョウト地方のキキョウシティにてある男性と共に過ごしていたんだけど、いつだったかちよのポケモンと交換されて、ちよのポケモンとなった。僕はきんにくという名前に愛着があったし彼女もそれを尊重してくれたはずだったんだけど、途中からきんとんと呼ばれるようになった。最初はきんちゃんだった。そしたらちよの友達が金団みたいだねって冗談で言って、それ以来面白がってきんとんになった。なんでもいいんだけどちょっと扱いがひどい。どうして金団という発想が飛び出たんだ。自分の名前なのに美味しそう。まあ、もうとうの昔に慣れたんだけどさ。
ちよは働き盛りの頃はコガネシティでバリバリのOL生活をしていた。そこそこのマンションの一角に住んで、一日中仕事に生きる人。そりゃあ恋愛に心揺れた時もあったさ。上司とだったり若い人だったり、割と手広く……でも恋沙汰には熱しやすく冷めやすい性格みたいで、大体上手くいかなかった。自分から好きになってアタックするけど、自分からどうでもよくなってフることが多かった。憧れや焦燥は無いわけではなかったけど、結婚には向いていない人だったのだろう。すぐに空っぽになる愛情を埋めるように仕事にのめり込んで、僕や他のポケモンの世話にお金をかけたりしていたなあ。僕は彼女の仕事の愚痴を常々聞いていたおかげで多少は聞き上手が身についた。課長がネチネチしてて苛々するとか社長の禿げだとか後輩の連絡があまりに遅いだとか、そんなのを聞いていた。
『なんだか、疲れちゃった』
時々ちよはそうぼやいた。なら、辞めてしまえばいいのになんてちらりと思ったけど、ちよは何だかんだで仕事が好きだった。いつもいつも何かに追われていたけど、責任感の強い人だからか頼られるのが好きみたい。そんな彼女を慕って様々な人が集まり、認めていた。そんなちよをちょっと誇らしく思っていた。そんなこと言うと、同じちよのポケモンであるロコンのなると――このニックネームも相当ひどい――にフッて鼻で笑われたものだけどね。
*
時は巡る。
僕も、ちよも、老いる。
ちよが定年退職というやつをして仕事を辞めた後、彼女は長年積み重ねてきた貯金を使って何度か旅行をした。勿論僕もなるとも同行。ジョウト地方だけでなく他の地方にも飛んでいって、今思えば第二の人生を送る場所を探していたのだろうかと思う。持ち前の社交性と好奇心を以て、その町の人とも積極的に接していた。旅行の間になるとは、ある町で購入した炎の石によってキュウコンに進化していた。大きなドラマは、多分それくらい。でも、旅行生活の最終地点には思わぬ展開が待っていた。
「私、ここに住むわ」
旅館で就寝する直前に唐突に彼女はそう告げた。その場にいる全員が衝撃を受けそして必死に止めようとした。まあ言葉は伝わらないけど全力で首を横に振った。
なぜならその場所は、ホウエン地方のヒワマキシティ。ツリーハウスで全国的に有名であり、同時に豪雨地帯であることでも名を轟かせていた。昔から住み続けている人ならまだしも、ヒワマキに住むことは都会慣れした老いた体には鞭打つようなものだと誰の目にも明白だった。けどこうと決めたら頑として考えを曲げないちよには無意味だった。丁度空いている低めのツリーハウスを見つけて、一週間後には引っ越していた。ナンテコッタイ。さすがに僕も突っ込んだよ。お前コガネに未練ないのかって……。ん、展開に追いつけないって? 安心して、僕も追いつけなかった。
そんなわけで僕となるととちよのツリーハウス生活が始まった。
……随分前置きが長くなってしまったね。そうしてようやく舞台は整うわけだ。ようやく本題に入ろうか。
*
「覚えてる? 明日はひよの誕生日よ」
なるとは僕にぽつりと呟く。彼女を見上げて、勿論だと僕は尖った口で返す。誕生日は勿論だけど、特別な誕生日だ。八十八の誕生日は世間一般に米寿と呼ばれるらしく、きりのいいめでたいものであると近所の人が言っていた。
なるとはまだ小さかった頃にちよという発音が苦手だったらしく、ひよと呼んでいた。その名残で今もそう言い続けている。ちよ本人にそれが分かるはずもないし、ロコンの尻尾がなるとに描かれた模様のように丸くなっているから“なると”という名前が付けられた、その安直さのお返しだとよく彼女は悪戯っ気を交えて笑っていた。もっとも彼女は、その名前をとても気に入っていたのだけど。
今僕達は、大きな窓の傍に置かれたソファに腰掛けて景色をぼんやりと眺めている。外は昨日の晩から雨が降り続いていた。強いものではなく五月雨のようなしとしとと静かなものであったが、鬱蒼とした重たい雲は自然と心も落ち込ませる。地味な雨はかえって気が一層重くなるものだ。
「ヒワマキで仲良くなったひとが集まって、祝ってくれる話なんだろう? いいねえ」
「でも、この雨は明後日まで降るらしいの。ひよ、それが残念みたい」
「仕方がないさ」
そう、仕方がない。この地域はほぼ年中雨が降っていると言っても過言ではない。自然豊かなホウエン地方でもとりわけ豪雨地帯であり、そうであるが故にここの人々はツリーハウスを造り高いところで暮らすことを選んだのだ。雨と隣り合わせ、雨と共に生きている。たとえ特別な日であったとしても、普段だってからりと晴れる方が珍しい。
「それもそうなんだけどねえ」
溜息をつきながらなるとはぼやく。炎タイプであるなるとにとっては雨は更に憂鬱なものだろう。
『きんとーん!』
少し遠い場所から声が聞こえてきて、僕は振り返る。少ししわがれたけれどはりのあるその声は間違いなく僕らの主人の声。ふとなるとに視線を向けると、行きなよ、となるとは顎で指す。僕は軽く頷いてリビングルームを直線状に抜け、玄関あたりにいると思われるちよの元へと向かう。
そして彼女は案の定、玄関に居た。腰が曲がってはいてどこかたどたどしいけれど、しっかり自分で歩いている。
ちよは僕の足音に気が付いていて、にこりと笑った。無数に刻まれた皺が更に濃くなる。
『きんとん、これ運んでくれる? さっき咲さんがおかずの余りをくれたんだけど、美味しそう』
ちよは床に置いてあるいくつかのタッパーを指す。数は全部で三つ。ああ、今日は豪華な夕食が食べられそうだ。咲さんというのはお隣に住む主婦で、とっても料理が上手い。そういう勉強もしていたらしくて本格派。僕も大好きで、コンビニ弁当が連日続いた日を思い出すと涙が出そうになるレベルだ。
僕はタッパーを台所に運び、慣れた手つきで冷蔵庫に入れていく。
『ありがとありがと。あ、掃除も済ませてくれてるんやねえ!』
台所に入ってきたちよは歓喜の声をあげる。ちよは仕事に一辺倒で家事はそんなにやらなかった、というか面倒くさがっていた。だから料理以外のことなら僕がやることも昔から少なくない。
『じゃあ、ちょっとおやつにでもしましょうかねえ』
ちよはそう言って冷蔵庫に近付いた。その瞬間彼女の足元がふらついたのを僕は見逃さなかった。すかさず近くに寄り添いちよを支える。ちよの体重は昔に比べて軽くなった。力仕事が得意な僕にとっては大した差ではないけどね。ドヤア。
『あら、ありがとう。でもそんな神経質にならなくたって大丈夫なんやで』
……おっと、渾身のドヤ顔が恥ずかしい。
ちょっと突っ張った調子で彼女は言う。
ちよは何かと強がりで、恥ずかしくなったりするだけで遠慮なく叩いてくるときも多々ある。彼女の意地の悪いところは、僕が本気で反撃してこないことを分かっていることだ。僕が本気を出したら彼女なんて本当に一捻りだ。これは誇張じゃない。けど僕がちよに対してそんなことをしたことは勿論無く、あんまり逆らうとちよは機嫌を損ねてずっと部屋に引きこもってご飯も食べずに死ぬ死ぬと呟いていたりするから本当に性質が悪いのだ。だから僕はそれを避ける。温厚に済ませたいからね。平和主義万歳。今もぼんやり微笑んでやりすごす。
『はい、プリン運んで』
僕は差し出された二つのプリンを受け取る。自然な流れで小さな二つのスプーンも手に取ると、リビングまで持っていきテーブルに置く。それに気が付いてソファの近くの床に寝そべっていたなるともやってくる。なるとはスプーンを扱えないから、分けてもらえるものを少しいただくだけになる。追うようにちよは平然とした顔で席につく。
『おいで、なると』
ちよはなるとを手招きする。ちよの元へと優雅な足取りで歩み寄るなると。スプーンでプリンをそっと一掬い、そしてなるとの口へと運ばれる。なるとは甘いものを食べて幸せそうに頬を緩ませ感嘆の声をあげた。そこまで喜ぶと食べさせた甲斐もあるというものだろう、サービスしてちよはもう一口なるとに分け与えた。
僕は自分でプリンを食べる。こういった細かい仕事ももう慣れたもの。昔はパッケージごと捻り潰してよく怒られたものだった。まったくやんちゃ坊主でしたなあ。
「きんとんも頂戴な」
なるとは大きな瞳を真っ直ぐに僕に向けて催促する。この言葉だけを聞くと、なんだか僕にプリンを要求してるんじゃなくて金団を要求してるみたいだ。
仕方なく少しだけあげるとやっぱりなるとは嬉しそうに目を三日月の形に細めた。
「おいしーい」
「なるとは本当に美味しそうに食べるよね」
「隠してもしょうがないでしょ、ああ、しあわせ」
そうは言ってもほんの三口程食べたに過ぎないのに。
『ふふ、仲良いんだから』
嬉しそうに呆れたように、ちよは言う。
僕となるとはふと数秒間目を見合わせて、気恥ずかしくなって視線を逸らし、ちよの方を向く。ちよは表情を殆ど変えることなくプリンを少しずつ食べていた。なるとほどではないけれど、ちよも甘いものが大好きだ。けれど今日はそれにしては、反応が平坦で無感情なように思う。食べているというよりは、口に運んでいるという表現が合う気がする。
僕はまたプリンを口に含む。一つ、また一つと。
が、ふと、口の中の溶けるような甘さが十二分に満ちたように感じた。ある一定のラインを超えると、好きなものでも満腹状態になることがある。
「なると」
僕が声をかけると、すぐに彼女は耳を立てる。
「なーに?」
「あとはあげるよ」
なるとは目を輝かせて僕の残りを見た途端、表情を一変させて怪訝な様子で僕の顔を伺ってくる。
「……まだ、いっぱい残ってるよ。いいの?」
言われて気が付いて改めてプリンを覗きこむと半分以上残っている。一応言っとくと僕は甘いものが嫌いなわけじゃない。甘党なちよやなるとに触発されたおかげかむしろ好きだ。でもなんだか胃がもういいやって、口がもういいやって言っている。そうなったら、僕よりちよが食べた方がプリンもしあわせってもんだろう。
「いいよ。もーおなかいっぱい」
「ふーんじゃあ遠慮なく」
遠慮をしたのは一瞬だけ。僕は近くに置いてあった小皿に残り分を出すと、椅子を一度降りて床に置く。なるとは嬉しそうに早速頬張り始めた。僕やちよに比べ、美味しそうに夢中で食べる姿は活力に満ちている。
『なると、私のもあげるわ。きんとん、ちょっと出かけるよ。さっき冷蔵庫見たら、おかずにできるものがあんまり無かったの』
ちよの言葉に僕は一瞬躊躇した。咲さんからいただいたおかずの入った三つのタッパーが脳裏を走る。けれど彼女の言葉に従って、立ち上がって何も言わずに深く頷いた。ちよが買い物に行きたいというなら、僕は従うだけ。傘を指すのと荷物を持つのは、いつだって僕の役割だ。
いつだったからかちよの腰がどんどん曲がっていって、僕とちよの身長差は狭まっていきつつある。腕を伸ばせばちよの身体もちゃんと入れた状態で傘をさせるようになった。筋肉の塊であるこの体が多少役に立つ瞬間だ。一番役立ってるのはやっぱり買い物の荷物運びだけどね。おかげでちよの持ち物は財布の入ったハンドバッグくらいなものだ。
買い物をゆっくりと済ませて今は帰路を歩いている。
ヒワマキシティはちょっと前はツリーハウスとツリーハウスを繋いでいるのは吊り橋だったけれど、安全性を考慮してしっかりとした木製の橋が設けられていた。吊り橋だったらまずここに引っ越してくることは無かっただろう。僕の力をもってすればちよを抱えて移動することもできるけど、運動にならないし何よりちよが嫌がる。多分今でもぶってくる。おそろしや。まあ、今の僕にそれ程力があるか、本当は分からないんだけどね。
『この雨、やんでくれればいいのにねえ』
ちよはぼやいた。
『こんなんじゃあ、明日準備してくれるひとがきっと大変だわ。有り難いけど、申し訳なくなるの』
雨がしとしとと降る中、僕は視線を上げてちよの横顔を見る。憂いを携えた瞳は若い頃に比べると眼力を失ったけれど、ぼんやりと雲を見据えていた。ふいに雨の音が大きくなったような気がした。急に周りの風景が現実味を増す。そんな感覚にみまわれた。五感が鋭くなって、ちよの小さな呼吸音すら耳に届いてくる。自分の心臓の鼓動も息づいている。
ああ、ちよは優しいひとだな。
改めてそんなことに気付かされる。ちょっとポケモン使いが荒いところがあったり不器用だったとしても、やっぱり良いひとだ。
立ち止まっていたちよの足が再び動く。合わせて僕も歩き始まる。傘がずれないように神経を尖らせながら。水たまりをそっと踏んで水が跳ねないようにする。避けようとはしない。いつだって彼女は真っ直ぐ生きてきた。面倒くさいからと言って。急がば回れという言葉とはほぼ無縁。そんなひとだ。
家が目の前までやってきた頃、ちよはそうだと小さく声を漏らした。
『小さい頃ね、明日天気になあれって言って靴をとばして、表だったら晴れ、横だったら曇り、裏だったら雨っていう遊びがあったの』
ちよは僕の肩に手を置きながら、右の踵を出す。使い古されてよれよれになった靴が足にぶら下がる。
『ちょっと子供すぎるかな』
僕は思わず頷きかけたけど、寸前のところでやめた。きっと本当にやったら靴の中まで雨に濡れるけど、たまにはそういうのもいいじゃんと思わないかい。
ちよは老いていく。
時折ごく最近の記憶すら忘れてしまう。咲さん御手製の美味しいおかずの入ったタッパーは、彼女の記憶に留まらなかった。そして、時折妙に子どもっぽくなる。それが人生のはじっこを歩くということなのか。はじっこの道はもう曖昧で、既に歩み辛いものなのか。
そういう僕も老いていく。
精一杯に彼女の助けをしてあげていたいけど、昔に比べれば体の動きも重くなった。プリンも少しでいいと思うようになった。でも、隣にちよがいて、なるとも元気そうにやってて、それなりに幸せなはじっこだと思えた。
『まあ、いいか。……明日、天気になあれ』
直後、足が軽く投げ出される。黒い靴が緩やかな弧を空に描く。雨の中を飛ぶ。刹那の時間だった。ふと息を止める。その軌跡を目で追いかける。力無く地に落ちると数回転。疲れたような音が転がる。ゆっくりと動きは鈍っていき、やがて靴底を地面に向けて留まった。その瞬間僕は思わず声をあげた。まあ、と驚いたような呆れたような、少し喜ぶような声も隣から届いた。表だったら晴れらしい。喜ばしいことだ。現実と裏腹の期待を抱かせてくれる結果。ちよの顔を見る。彼女は僅かに口の端を上げていた。けど僕の頭の中には、明後日まで雨が降り続くという天気予報がちらついていた。良い結果であるはずなのに、靴は寂しげに力無く佇んでいた。それは虚しさを体現しているように思えた。
僕は持っていた傘をちよに差し出す。皺だらけで細いちよの右手がそれを受け取ると、すぐに靴を取りに行った。退屈そうに倒れている片方だけの靴を拾い上げる。
『ありがとう、きんとん』
彼女は微笑んだ。靴を返すとゆっくりと履き直し、濡れている靴を気持ち悪いと顔をしかめた。おかしいもんだ、君が望んだことなのにさ。
『帰るよ』
僕は再び傘を持つ。
真夜中、雨は降り続ける。閉じた窓の外で、気のせいか雨脚は力強くなったように思う。ちよは既に眠りについている。僕は今日はなんだか眠れなくて、なるとはいつも夜更かしをしている癖が抜けずに今も当然のように起きている。彼女の詳しい睡眠時間は未だに定かじゃない。僕が寝る頃にはまだ起きているし、僕が起きる頃には既に目を覚ましているからだ。
「雨、やめばいいのに」
僕はソファに背中を預けながらなるとに話しかける。
「仕方ないって言ってたくせに」
悪戯そうになるとは笑う。こういう含み笑いはなるとの得意分野だ。
「そうはいってもだ、ほんのちょっとだけやまないかなーなんて思ったりするわけさ!」
「見た目のわりに夢見がち」
「見た目は余計!」
僕は思わず唇を尖らせると、なるとはあははと声をあげて笑った。
「ちんちくりんのくせにさ」
「……これでも君よりパワーはきっとあるぞ」
「戦ったらきっとあたしの方が強いよ。焼き尽くしてあげる」
「はっは、お嬢さん怖いことを言うね、焼き金団になるよ!」
両手を広げ抑揚をつけて大袈裟な風をきかせる。ついでに自嘲を添えて乾いた笑いを誘おうとする。
対するなるとは冷ややかに僕を見ていた。
「なにそれおいしくなさそう」
「じゃあやめた方がいい」
「そうねん」
ふいと大きな九つの尻尾を退屈そうに動かす。普段は大人しく床を這っているそれらが浮き上がり少し動いただけで、随分と迫力は変わる。一つ一つがしっかりとした活力をもった生き物のようだ。
「なるとは元気だねえ」
僕は半ば呆れたように言う。
「そりゃあ、ひよよやきんとんに比べたらずっと元気よ」
なるとの長い睫毛が動く。異性として彼女をすきになったことは無いけれど、なるとは美人だ。中身はちょっと子どもっぽいところがあるけど、思わず見惚れ周囲の注目を奪うような美しさを携えている。進化してからそれをずっと保ち続けている。どうもキュウコンという種族は千年も生きるだとか聞いたことがある。だから僕やちよの人生を歩くスピードとなるとのスピードは圧倒的に違う。それとも、道の長さが違うのか。分からないけれど、だから、彼女はまだまだキュウコン界隈でいえば若いのだろう。不思議な話だなまったくもって。だから、ちよや僕よりもなるとが精力的で生き生きとしているのはごく当然のこと。
そして、なるとは一匹取り残されることも目に見えている。
そのことに関してなるとが言及したことはないし、気にしている風を見せた事もない。
「元気なんだけどこのエネルギー、発散するところがないのよね。どうすればいいかな」
珍しくなるとはぼやく。尻尾が無造作に動き回る。ある種ストレスがたまっているのかもしれない。
「やっぱきんとん焼こうかな」
「ご冗談を」
「案外美味しいかもしれない」
「真面目な返答をしてあげようか」
「うん」
「その程度じゃ多分満足しないからやめた方がいい」
数秒の沈黙を置いてから、なるとは噴き出した。
「ははっ案外弱気ね!」
「なるとが思ってる以上に僕の力は衰えてるのさ。大体、こんなところでなるとが火を噴いたら、火事になるだろう?」
「分かってるわよ」
彼女の尻尾が穏やかに床に倒れる。つまらなくなったのだろうか。良くも悪くもなるとはけっこう分かりやすい。
「衰えねえ」
ぼんやりと彼女は呟いた。
僕はいつの間にか眠りについていた。鳥の鳴き声に目覚めて穏やかな朝を迎えたが、寝ぼけた思考の中で違和感を覚えた。耳に届いてくる音になんら雑音は混ざらない。僕は夢見がちじゃない。完全な現実主義者でもないから淡い期待を抱いていたけれど、そんなの心から信じている筈がなかった。確かに、僕がなるとと話している時窓の外で雨は降り続いていたのだ。僕は窓の傍へ駆け寄る。そこにはちよの姿もあった。彼女もやはり驚いたようにカーテンを捲って外の景色を凝視していた。彼女は僕の足音に気が付き、見てと一言呟いてカーテンをぱっと開け放した。一気に部屋の中に光が飛び込んできた。明るくなる、眩しさに目が眩む。隣にやってくる、見上げる。ツリーハウスの葉から雨水が零れ落ちてきらきらと星のように光る。ちよが震える腕で窓を開け放つと、渇いた涼やかな風が部屋に舞い込んできた。
息を呑んだ。爽やかに透き通っていて、鮮やかに蒼い空が広がっていた。雲一つの霞みすら見当たらない、まさしく日本晴れであった。
『天気に……なったわねえ』
驚きを隠せないといったようにちよは呟いた。僕は呆気にとられたまま頷いた。
『明日は晴れるって、靴も言うてたもんね』
虚しく表になった靴の姿が脳裏に浮かぶ。もし靴に感情があれば今頃、ほら言った通りだろうドヤア、なんて誇らしい顔をしていることだろう。まったく不思議なもんだ。どういうことだ有り得ないね。けど目の前にあるのは、夢でなく現実だ。
ふとちよの方を見ると、やっぱり嬉しそうにちよは笑っていた。それだけで嬉しかった。落ち込んでいるちよはちよに合わない。笑顔が一番似合っている。だから、僕も自然に胸が弾む。
お誕生日おめでとう、ちよ。
言葉にして伝えることはできないけれど、心の中で呟いた。
『ところで、なるとは?』
ちよは周囲を見回した。僕もふっと気が付いた。なるとはいつも、僕が起きた頃には目を覚まして、ソファの傍にいるのだ。なのに、今は姿が見えない。
カーテンが風に揺れる。
爽やかに透き通っていて、鮮やかに蒼い空が広がっていた。
雲一つの霞みすら見当たらない。
それはまさに“にほんばれ”であった。
*
「ちよが米寿を迎えた日……あの時、君が“にほんばれ”をしたんだろう」
少し毛並みが乱れたなるとに向かって僕は声をかける。なるとは僕を見てふふと笑った。
「どうだろうね」
「にほんばれは一回につき五分ももたない……あの日は一日中晴れていた。命を削るようなエネルギーを使っただろ」
なるとは含み笑いをする。彼女の得意技で、本心を見せまいとするようなそれ。
「やっぱり、淋しいのかい」
「何も」
即答。
僕の言葉を遮るように咄嗟に出てきた言葉の後に、少し静寂を挿んで、彼女は一つ溜息をついた。
「……ほんとは、ちょっとだけ」
その時、少し遠くからちよがなるとの名前を呼ぶ声がした。なるとは耳を立てる。もうじき時計は正午を示そうとしていた。恐らく、これから昼食の時間になるのだろう。
ちよは車椅子なしでは生活できない体になっていた。一度転んだ時に足を痛め、それ以来回復していない。何かをきっかけに膝を折った瞬間、そこから雪崩れるように彼女の老いは進んだように思う。記憶も大分薄くなったけれど、お手伝いさんに助けてもらいながらなんとか生活を続けている九十代半ば。なるともいる。残り少ない人生のはじっこをどのように終えるか、それはちよにもなるとにも僕にもわからないことだ。はじっこは突然、ふと瞬間にやってくるものだから。覚悟をしているつもりでも、突如現れる。きっとなるとはそれを見届け、その上で生きていくのだろう。あのちよの八十八歳になった誕生日のにほんばれを以てしても、彼女の生命のエネルギーは途方もないくらい残っているに違いない。
「でも、なんとかなるよ」
なるとは笑った。笑いながら僕を見上げ、軽い足取りでちよの元へと向かった。
きっと、その通りなるとはなんとかやっていくのだろう。彼女は彼女なりに歩いていく。だから、そんなに心配はしていないんだ。
ちよとなるとが笑い合っているのを眺める。ひどく遠くなってしまったこの光景が少しでも長く続けばいい。背後から太陽の光が真っ直ぐに差し掛かって部屋を照らしていた。湧き上がってくる疎外感から来る寂しさを胸に抱きながら、僕は別れを告げるように瞼を閉じた。
*
――物語は終わりだよ。なんでもないただの日常の欠片だけど、確かに生きていた一時を、僕の中に残っているこの物語を、聞いてほしかった。僕のそんな役割もここで終わりだ。そう、僕という存在は、ここで消える。
靴は放りだされた。宙に弧を描き、すとんと落ちる。その先を僕は知らない。ちよやなるとのこれからは晴れか雨か曇りか。ただあの日のように表を向いていることを僕は祈るだけ。でも彼女たちなら、きっと大丈夫。
ありがとう。
さよなら。
ここが僕の、はじっこだ。
了
あとがき
某オフ会企画で投稿した短編を加筆修正したものです。書き終えたのは恐らく2013年3月あたりだと思うのですが、それ以来ずっといじっておらず、今回ネットに公開するために久々に読み返すとありえないミスが発覚して度肝を抜かされました。ちゃんと推敲しなさいと過去の自分を叱りたい。
きんとんというのは金銀やHGSSで交換できるワンリキーのきんにく……だったはずなんですが、後からこのきんにくは♀だったんですよね、こーれは衝撃。今更変えられないのでそのままですが。ちゃんと調べましょうと過去の自分に以下略。
テーマは老い。おばあちゃんかおじいちゃんがメインに居る物語を書きたいと思っていました。命のはじっこを歩くちよときんとん。有り余るエネルギーを持ち、いずれ残される運命にあるなると。この作品は静かな物語で、胸がわくわくするような面白さには欠けますが、侘しさを常に意識していました。何かしんと残るようなものがあればいいなあと思います。
最後、きんとんがなるとと話している場面では既に彼に肉体はありません。何故なるとが話せているかは、キュウコン霊感ありそうだからとかいうこの上ないご都合主義ですが……^^^最後、語り終えてきんとんの魂が消える瞬間を締めにしようと最初から考えていました。
老いている割に(特に最初が)元気なきんとんでしたが、そこを修正するのもなんだか違うかな、と思ってけっこうそのままにしたのでした。
普段若者ばかりを書いているせいなのでしょうか、老いを描くのは難しい、と改めて思わされたのでした。またリベンジしたいなあ。