[ひかり]
「夕日って、綺麗だね」
日が西に傾きオレンジの光が燃えるように照らしている美術室で、彼女、黒田綾は呟くように言った。
言葉を送る先にいるのは、黒い眼鏡をかけた彼、氷川俊一だ。
水色のエプロンにはたくさんの絵の具がついていて、袖をまくっているために露わになっている腕にもカラフルな色が点在している。
俊一は右手に持つ絵筆をゆっくりとなぞる様に動かし、キャンバスに色を塗っていく。
窓際のその場所で描くその絵は、窓から見える夕方の町の景色。優しげな表情の彼と同じように、その絵は柔らかくてそしてどこか強さがある。
油絵の匂いが部屋の中に溢れんばかりに籠っている。慣れてしまった二人にとってはもう匂いは感じられないが。
「夕日の景色は夕方にならないと見れないんだ」
相変わらず手を動かしながら彼は言う。眼鏡の奥の瞳が外の景色を捉える。
左手のパレットの上で彼が見たままの色と、彼の頭の中にある色を目指して絵の具が混ざりあう。
綾は少し前まで近くの椅子に座っていたが、今は俊一の斜め後ろでずっと絵を見ている。描かれていく過程を見るのは、彼女にとってこの上なく楽しかった。
自分は絵を描くことは好きだけれど、それよりも見る方が好きだ。そして、完成へと向かうその様子を見ることは格別だ。
俊一はとてもまっすぐで純粋な心を持っていて、綾が思ってもいない色が飛び出したりする。
筆のタッチ一つで絵の雰囲気はガラリと変わる。綾はこれまで、一体どれほど俊一の絵を見てきたのか思い出せない。それほどに沢山の彼の絵を見てきた。いくら見ても飽きないのだ。
その中で一番を選ぶことはできない。どれも俊一らしさが溢れるほど出ていて、比べられるものじゃない。
海の絵、化石の絵、瓶の絵、花の絵、木々の絵……静物画も風景画も俊一は描いてきた。けれど、ただ一つ言えるのは、最も「彼らしさ」が出るのは空の絵だということだ。
今描いている絵も、空がメインだと言わんばかりに壮大な夕方の空がキャンバスの半分以上を占めている。
けれど。
「それってありきたりじゃん」
数ヶ月前に俊一は綾に言った。まだこの絵を描き始めていない頃だ。
そう、その時も夕方だった。秋の始まり頃、学園祭が終わってすぐの時。
「夕日はすごく綺麗だし、今までたくさん描いてきた。飽きることなんてない。でも、僕が一番描きたいのはさ、夕日に照らされる町だな」
「なんで? 氷川君、空を描く時の顔ってすごく生き生きしてるよ」
「僕さ、この町が好きなんだ」
俊一はそう言いながら四階の窓から町を見下ろしていた。そこから見えるのは混在しているたくさんの家とビルと、そして自然。
その時俊一は何となく悲しげな目だった。綾は息をとめて、それから同じように町を見る。
ほんの少しだけ綾より背の高い俊一は、浅く笑って、しかしすぐに真剣な顔になって、綾に視線を移した。
綾は軽く顎をあげて、俊一と目を合わせる。が、あまりにまっすぐな瞳だったから、思わず逸らしてしまった。
固く結んでいた唇をゆっくりと俊一は開く。
「東京に、出ようと思うんだ」
綾は目を見開いて、呆然と俊一を見た。視線をそらさずに、今度は俊一の目をきちんと見ることができた。
「……絵の勉強をしたい。絵だけじゃない。彫刻とか、そういうのももっとちゃんと学びたい。けっこう前から考えてたんだ。中学の時は全然そんなこと思ってなかったけど、高校に入って、先生に勧められたんだ」
「平山先生に?」
「うん」
平山先生はこの学校の美術の先生だ。そして同時に俊一のいる美術部の顧問でもある。
「夏にコンクールで出した絵がなんか何処かの大学の人の目にとまったらしくて、それで話が来たって」
「……すごい」
素直に感想を述べる綾。勝手に口の中を滑って出てきた言葉だった。
開かれた窓から風が入ってきて、二人の髪を揺らす。遠くの方で野球部の大きな声が響いていた。校内では吹奏楽部が合奏をしている。
音楽室から漏れて管楽器と打楽器の音が四階廊下を満たす。メロディーラインと伴奏が心地よく絡み合う。
俊一は身体を景色にまっすぐ向けて、ずっと向こうの空を見る。綾の目には、空のもっと、ずっとどこか遠くの方を見ているように映った。
「この町を、絵にとどめておきたいんだ」
彼は強く決心した心持ちでそう言い放った。
その瞬間に、綾は違和感を感じた。少し唇を開いて、目を俯かせる。
俊一がどこか遠くに行ってしまったような、そんな気持ちになってしまったのだ。
今。
キャンバスには吸い込まれるような空と、夕日に染まる町が存在している。
俊一はいつも絵に対しては真剣で手を抜いたことはない。けれど、今回の絵は特にそうだった。
下書きの段階から何十回も書いては書き直して、彼の思う色を作る為にたくさんの絵の具が使われた。
美術室の窓、左から三番目の手前。そこが俊一の定位置となったのはいつからだったろうか。
俊一はその絵の色塗りを進めるのは必ず夕方を選んでいた。秋こそまだ順調に進んでいたが冬になり雲が多くなってくると、なかなか絵は進まなくなってしまっていた。
今日は久々にとてもよく晴れた日だった。部活は休みだが美術室に走り、寒いけれど窓は開けてキャンパスに向かった。
と、俊一は絵筆をゆっくりとキャンバスから離し、数秒間何もせずに絵を見続けた。
絵の具だらけのパレットを膝の上に置く。絵筆をパレットの上に置き、伸ばしていた背筋を丸めて、大きく深呼吸をした。
瞬間に彼の身体の中を新鮮な冷たい空気が満たす。
それらは全て彼の癖。
「終わったの」
綾は俊一に問い、俊一は綾を振り返ると、優しく笑った。
「うん。やりきったよ」
その途端に綾まで安心したのか、肩をなでおろして満面の笑みを浮かべる。
俊一は立ち上がり、パレットを近くの黒い布がかけられた机の上に置き、絵筆はその隣の絵の具だらけのタオルの上に置く。タオルの上には他に様々な太さの絵筆が並んでいる。
急に空気が軽くなったかのようだった。俊一は思いっきり伸びをする。
「どうかな」
綾を見て、キャンバスの前から少し横に身体をずらす。綾は改めて絵を見た。
下の方には町が広がって、その上に空があって。言い表せない絶妙な色がキャンバスを飛び出してきそうだった。
少し大きめのキャンバスの中で、俊一の愛している町が生きている。四角の中だけじゃなくどこまでも広がっていくように感じさせる。
オレンジ、赤、紫、青、緑、たくさんの俊一の色がそこにあった。
透き通った心が映し出した美術室からの景色。それは肉眼だけでは見ることのできない、彼の心で見た景色。
彼にしか見ることのできない景色。
綾は彼の作品を見ることで、俊一の心を見ることができる。俊一の世界に浸ることができる。
それはまさしく俊一の絵だった。
「すごい」
率直な感想を綾は言う。他に言うことができない。
俊一にとってはそれだけで十分だった。
「黒田さん」
俊一は彼女を呼ぶ。綾は笑顔を浮かべたままで俊一の方を見る。
「これ、黒田さんにあげる」
キャンパスを指差す俊一。その途端、綾はすぐにその言葉を理解できず、ぽかんとする。
その様子を見た俊一は噛みしめるように笑って、エプロンの中に絵の具だらけの両手を入れる。
「黒田さんのために描いたんだよ」
綾は心の奥底から込み上げてくるものを感じた。温かくて、心臓の鼓動を速めさせるそれは綾の頬を紅潮させる。
白い頬が穏やかなピンク色に染まり、俊一は優しく笑みを浮かべながらキャンバスを手に取る。
「油絵だから乾くのに時間がかかるけど、乾き次第、さ。……どうかな?」
「う、嬉しいよ。嬉しいけど……なんでそんな、あたしなんかに。あんなに頑張って、あたし、に?」
動揺しているのが話し方に滲みでている。俊一は深く頷いた。
「この絵は」
一度話すのを止めて、俊一は目を下に向け自分の持っている絵をもう一度まじまじと見る。
それからまた顔を上げて、少しだけ顎を傾けて綾を見つめる。
「黒田さんに持っててほしいんだ」
芯の通った強い声だった。
「そういえば、小学生の時からずっと見ててくれたのに黒田さんには描いてないなあって思ってさ」
顔をほころばせて言う俊一。オレンジの光がとてもよく似合う表情だった。
「タイミング的に丁度いいと思って」
「タイミング?」
「うん、学校普通にあったからあんま実感無いけど、一応今日はクリスマスだよ」
「ああ、そっか……え?」
綾は妙に納得したように何回か頷いていたが、眉をひそめて俊一を改めて見る。
「え、じゃあこれってその……クリスマスプレゼント、みたいな」
「そうそう。間に合ってよかったよ。今日が晴れてよかった」
信じられない思いに綾は駆られる。そう、今日はクリスマスだ。俊一の言った通り終業式のために学校があったせいであまり実感できないでいた。
ホワイトクリスマスを望むカップルに対して不謹慎な発言だが、今日が晴れなければクリスマスにこの絵は間に合わなかったのだ。
空も俊一の味方をしているようだ。
「受け取ってほしい」
俊一は少し照れながら言い切った後に、両手でキャンバスを持ち綾の前に差し出す。
綾は絵と俊一を交互に見ながら、ゆっくりと両手を出す。小刻みに震えている。呼吸は細い。
乾いていない絵の具には触れないように、キャンバスの木の部分を綾は持つ。ほっとしたように俊一は息を吐いて、綾がきちんと受け取ったことを確認して手を離した。
俊一の手が離れ、綾はキャンバスを一人で持つ。不思議な重みを感じた。今まで感じた事のない重みだ。
先ほどよりも色鮮やかな絵に見えた。
「なんか、あれだよね。告白みたい」
綾は嬉しそうに笑いながら言うと、俊一は軽く笑い、しかしすぐに唇をきつく締める。
頬が赤くなっているに見える。綾は少し口を開けて不思議そうに首を傾げる。
音の無い静かな空間だった。二人の他に部屋には誰もいない。廊下から声も聞こえない。
その中で外で風の吹く音が聞こえた。よくよく耳をすませば、枯れた木々の揺れる乾いた声が聞こえる。
「僕、黒田さんのこと、好きだよ」
真剣な表情で、俊一は言った。綾はすっと息を止めた。辺りの空気に重みが増す。時計が長針を動かして、音を出す。その音が部屋中に響いた。
太陽は徐々に西の向こう側へと沈んでいく。光はだんだん消えていって、東の空はもうだいぶ暗くなっている。
綾のキャンパスを持つ手が震える。目を大きく開いた状態で、俊一をずっと見つめている。俊一もまっすぐに綾を見ている。
その瞳には綾の見た事のない、俊一の強さがあった。
目を逸らしてしまいそうだった。けれど俊一が本気であることはその表情から分かる。だからこそ綾は視線を外してはいけないと思った。逸らさないでいることで精一杯だった。
「あたし……は」
綾のキャンバスを持つ手が強くなる。
「氷川君が東京行っちゃうの、淋しい。氷川君が描いてるところを見れなくなるって思うと」
違う。こんな風に言うと誤解されそうだ。綾は軽く首を横に振る。開きかけた口を俊一は閉じる。
涙が綾の目から零れ落ちそうだった。熱いモノが瞳のところに込み上げている。
「あたし、ずっと一緒にいたいよ」
涙ぐんだ声だった。
「でも、氷川君の夢を壊したくない。でも、……分かってるのに」
ぐちゃぐちゃとした感情が綾を襲う。溢れそうだ。いや、溢れる。息苦しいほどの気持ちが。
その瞬間。
綾は目をはっと見開いて、俊一を凝視した。俊一は唇を固く結び、軽く首を横に振っていた。何度も、何度も。
涙が床に一粒、落ちる。涙の通った跡が綾の頬に光って残っている。
俊一の右手は綾の左手首を掴んでいた。太い指だった。そして綾は細い手首だった。白くて、細い。俊一の手は太くて強い。それは、男の子の手だった。
「ごめん、そんな風に考えてくれてたって思ってなかった。僕がばかだった。ごめん」
「ちがっ……」
「泣いてる顔、見たくない。泣かせるつもりはなくて、その……」
俊一の手の力が緩む。振っていた首は動きを止める。俯く顔、長いまつ毛が下を向く。
唇が何かを離そうと少しだけ動いているが言葉は出てこない。頭の中で探しているのだ。綾は少しだけ悲しそうな顔をして、彼を見つめる。
それからまた彼は顔を上げて、少しだけ微笑んで見せる。
「笑って」
優しい表情だった。絵を描いている時とは違う、綾の見た事のない優しさが顔に広がっていた。
自然と綾の顔も緩み、穏やかに柔らかな笑顔になる。夕日が少しずつ見えない向こう側へと消えていく。空はだんだんと夜になる。一番星が強く瞬いていた。
夕方と夜の境目はぼやけ気味に、けれど美しいグラデーションを生み出している。それは空の描く芸術。
「あたしも、好きだよ」
綾が紡ぎだした小さくも強い言葉。確かに俊一の耳に届き、俊一は少し驚いた顔をして、また笑った。
彼女の涙の軌跡はきらきらと光っていた。
fin.
すごく、恋愛を書きたかったんです。POKENOVEL冬企画にて書かせていただきました。
私自身が油絵を数年間やっていたので、絵を描いているシーンは当時のことが思い出されるようで懐かしかったです。
とにかく優しい感じに書きたかった。ふんわりとした柔らかな感じ。
学生って書いててやっぱりすごく楽しい。校舎の風景の描写とかがうまくいったと自分では思ってます。吹奏楽部の合奏のシーンのこととかです。どうでしょうか。
俊一の絵はある私の知り合いの絵を想像しながら描写していました。風景画を書ける人ってすごいなあと思います。私はひたすら花を描いていました。