[hear]
彼は黒いヘッドホンを耳に、こたつに足を入れ寝転がっていた。
こたつの上には蜜柑の皮が二つ分ほど放置されている。彼の口からは甘酸っぱい匂いが広がっている。
先程までテレビをつけて新春スペシャルといって、長々とお笑い番組やらトーク番組やらを見続けていた。芸能人はテレビの向こうで皆着物を着て、いかにも正月という感じだった。
それとは裏腹に、あまりに普通の時間を彼は過ごしていた。テレビを見る事なんていつものことだし、蜜柑はいつも食べてる。
ちょっと前は初詣に行きおみくじを引いて小吉という何とも微妙な結果になって、お神酒をのんでおせちを食べて、正月な雰囲気だった。
だけど落ち着いて冷静になってみろ。確かに年は変わったけれど、だからなんだっていうんだ。
新年になったからといって不況が急になんとかなるわけじゃない。
お年玉は、そういえば村瀬さんという人のくれたお年玉は、去年より少なくなっていた。
実感する。なんて不況だ。
彼は自分でわかっていた。ああ自分ってやな奴だって。
正月なのにこんな気分になっててどうする。
「なーに聴いてんの?」
そんな声が彼の頭上から降り注ぎ、ヘッドホンが彼の耳から外される。
瞬間、彼は驚いて閉じていた瞼を開き、不服そうに唇を尖らせる。彼の目の前には、少しだけ彼より大人びたような雰囲気の女の子がいた。
「誰かと思えば葵か。おまえなーせっかく良いとこだったんだぞ」
「いーじゃん別に。たっちゃんが何聴いてんのか気になっただけだし」
「よくねー」
たっちゃん、と呼ばれた彼、もとい有本拓哉は寝転がったまま彼女、西村葵の手にあるヘッドホンに手を伸ばす。
葵はそれに気付くと彼の手から逃げて、ヘッドホンを頭につける。途端に葵の耳の中へ再生中の音楽が流れ込んでいく。
わくわくした顔持ちでつけた葵だったが、曲を聞き始めた数秒後に、不思議そうに眉をひそめ首をかしげる。
ヘッドホンを一度外すと、拓哉の方を見る葵。
「これ、何の曲?」
そう言った途端にヘッドホンから伸びる黒いコードを彼女は引っ張る。そうすると、コードの先のウォークマンが引き上げられる。
おい、と拓哉は少し低い声で呟く。葵はウォークマンの画面を見て、やはり疑問めいた表情をする。
「あるくあらうんど?」
片言のように言う葵を見て、拓哉は少し溜息をついた。
「サカナクション知らねーのかよ」
「知らんわそんなアーティスト。さかなくしょん?」
「アルクアラウンドはサカナクションの新曲だよ。まあ、まだ発売じゃないけど」
「発売じゃないのになんでこれに入ってんの?」
葵は拓哉の黒いウォークマンを指差す。
「ユーチューブにPVがもう出てたから、そこから入れたんだよ」
ふーん、と呟いた葵はウォークマンのボタンを何度か押すと、再びヘッドホンを装着する。曲を最初から聴き始めたのだ。
重たいサウンドが彼女の鼓膜を揺らし、悩を揺さぶる。それは胸を叩く衝動。
しばらく葵はぼーっと立ったまま静止していた。一つの曲だけに精神を傾けて、ただ一心に聴き続ける。
拓哉は彼女の様子を見つめている。はやく返してくれないだろうか、と思いつつも取り上げてやろうとは思っていない。真剣に葵は聴いていた。聴き入っているのだ。
仕方なく拓哉は上半身を起こし、こたつの板から転げ落ちたと思われる布団にあった蜜柑に手を伸ばす。
慣れた手つきで皮をむき、同時に嗅ぎ慣れた匂いが再び部屋中を包み込み満たす。一度食べ始めると手は止まらずに食べてしまう。酸味が強くなく甘いせいなのだろう。
アルクアラウンドは四分二十分ほどで終わる。拓哉が蜜柑を味わっている間に、葵はヘッドホンを耳から外す。そしてウォークマンのボタンを押す。
「なんか、すごいね」
葵は呟くように、けれどはっきりと言った。
「なんかじゃなくて、すごいだろ」
「うん……あたしがあんま聴かんせいかもしれんけど、でも、すごい。どきどきする感じがする」
葵は目を輝かせている。拓哉は蜜柑を食べ終える。
「もう一回聴いていい? ちゃんと歌詞聴く」
「んー、あと一回だけな」
「おっけーおっけー」
笑いながら葵はこたつの中に足を入れながらヘッドホンをまたつける。
冷たい葵の足が温もりに侵入してきて、思わず拓哉は驚いて身体を震わせた。ごめんごめん、と言いながら葵は笑う。
そして曲を聴く。
サカナクションは数カ月前まで、拓哉自身も知らなかった。きっかけはラジオだ。
ウォークマンはFMラジオを聴くという機能がついている。何となくにつけて、聴き続けていたら流れてきたのだ。
初めての感覚だった。それは彼の身体を震わせた。とはいってもどんな感じだったと言われてもすぐに答えることは出来ない。言葉にできない衝撃が彼に襲いかかった。
「サカナクションで、アルクアラウンドでした」
曲が終わってからそう簡潔にラジオの中の人が言った。ぼーっとしていてうまく聴きとれず、急いで携帯を使ってその曲を、アーティストを調べた。それが出会いだった。
こんなにも衝動的に動いたのは彼にとって初めてであった。それほどに彼の心を強く動かすモノがあったのだ。
嘆いて、嘆いて、僕らは今うねりの中を歩き回る。疲れを忘れて。
サビの部分がヘッドホンから流れる。葵の耳へと吸いこまれていく。歌詞の内容に耳を傾ける。
この地で、この地で、終わらせる意味を探し求め、
また歩き始める。
「深い歌詞だね」
葵はぼそりと呟く。目はどことなく俯き加減である。拓哉はゆっくりと頷いた。
サビの部分は三度曲の中で流れる。一回目と二回目のサビはあまり歌詞が変わらないが、三度目のサビでは大きく変わる部分がある。
この地で、この地で、今始まる意味を探し求め、また歩き始める。
終わりを見つける旅は、始まりを見つける旅へと変わっている。終わりとはつまり始まること。だけど何だか、そんなものじゃなくまだまだ深いモノが歌詞にあるような、そんな気にさせる。
何が終わって、何が始まると言うのか。
「新年っていうけど、何が始まったんだろーな」
拓哉は葵が曲を聴き終えヘッドホンをこたつの上に乗せてから数秒後、そう言った。
不思議そうに葵は目を瞬かせる。拓哉の目はどこか遠くを見ているような雰囲気である。あるいはどこも見ていないような目つきである。
「そりゃあ、年が始まったんだよ」
「んーそうは言うけどさ、別になんか大きく変わるわけじゃなくね?」
「うわもー何その陰気な考え。もっと晴れやかになれんの?」
「俺も自分で思うわ。俺、なんで新年だってのにこんなこと言ってんだろうな」
「……たっちゃん、うんと、学校楽しい?」
「突然なんだよ。どうでもいいだろ」
「うーん……」
葵は考え込み、こたつの上に顎を乗せる。綺麗な黒いボブの髪が揺れる。が、従兄弟関係である拓哉は別にその髪にときめきはしない。
しばらく二人の会話は途切れる。部屋のドアの向こうからは台所で調理をしている音がしている。包丁が何かを切っている。
窓に冷たくて強い風が吹きつけて、がたがたと音を立てた。ストーブはいつの間にか切れている。どうりで寒いわけだ。
拓哉は今は曲を聴こうとは思っていなかった。
ずっと入れていた二人の足は大分温まってきている。まだ若干葵の足は冷えているけれど。
ウォークマンを手に取る拓哉。無造作に曲の名前を視線でなぞる。いつの間にか増えてしまった曲達。最近聴かないものも複数入っている。
「じゃあさあ」
葵は身を乗り出して話を切り出す。拓哉は顔を上げる。葵の顔は笑っていた。
「あたしたちが、変えればいいんだよ」
はは。
拓哉は思わず苦笑した。それを見て葵は少し唇を尖らせる。
「なにその笑いー」
「いや、その、さ。はは……そうだな、俺たちがねえ」
そうだよと彼女は言う。北風の音が止む。静寂が部屋の中に訪れる。遠くで聞こえる話し声。
「始めようって思わないと始まらないんだよ」
葵は少し説教じみた言い方で拓哉に向かってはっきりと言う。
拓哉はしばらく斜め下の方を見ていた。何を見ると言う訳でもなく見ていた。
不思議な感覚が拓哉の中を巡りまわっている。葵はどうしたの、と言いながら拓哉の顔を軽く覗く仕草をする。
それから拓哉は口元にほんの少しだけ笑みを浮かべると、こたつの中から足を出し立ち上がる。葵は驚いて拓哉の顔を見つめる。拓哉の足に冷たい空気が当たる。
そうだなー。拓哉は小さく呟く。え、なにと葵は聞き返す。これほどの近距離で聞こえないほどに、小さな独り言であった。
「始まる意味、か」
彼の中で何かが渦巻いている。そして同時に湧き上がるものがある。それは非常に躍動的で心臓の鼓動を速める何か。
形はない故に脆そうで、しかし強く勢いがある。さっきまでは無かった思い。
「要するに新年ってのは、何かが始まったんじゃなくて始めるきっかけなのかもな」
「え、どうしたの。急に何か態度変わったね」
葵はちょっと慌てたように言い、拓哉を相変わらず見上げる。
その言葉に少しだけ拓哉は顔をほころばせて、そして口を開いた。
「ちょっとだけなんか、わかった気がするんだよ」
始まる意味を。
fin.
POKENOVEL企画にて書かせていただきました。
最後までこのHPに載せるかどうか迷った作品。結局公開することにしました。まあ、数はあってもいいかな、なんて。
当時はすごくサカナクションにはまっていて、そんな感じで書いたもの。実際のアルクアラウンドの解釈とは違いますが、こういうのもいいかな。
企画は新年というテーマだったかな。はじまりを意識した作品でした。