Page 100 : ひかり





 ラーナーとブラッキーの落下を、遠目で見届けていた存在があった。
 突き抜けるようなぞっとする光景を、真弥は黙って眺めていた。彼女の落下直後、黒い影が追いかけた時、それがブラッキーであることは簡単に検討がついた。彼は冷静だった。静かで強烈な一瞬だった。黒獣の決死の判断と執着の終着点は報われたのだろう。もしもブラッキーがいなければ、今頃身体は四散し、魂はこの世になかっただろう。それを、彼女はどう捉えるのだろう。
 真弥は衝撃を物語るコンクリートの残骸を歩く。精魂尽き果てて気を失っている一人と一匹の傍まで来て、誰も流していないはずの血の臭いを思い出す。ここは血溜まりのようだった。褪めた表情で見下ろす。
 その背後にやってきた存在に、振り返ることもしなかった。
「知り合いなら、どうして助けようとしなかったの?」
 懐かしき声に鼓膜が震える。落ち着きを払っていたけれど、責めるような意味合いが込められていると背中越しでも理解できた。
「俺の風は誰かを傷つけることしかできないよ」
「嘘。そんなはずはないでしょ。あんたほどの人なら」
 真弥は微笑みを作りあげて踵を返し、旧くからの友人と、凡そ三年の刻を跨いで顔を合わせる。
「また背が高くなったな、ココ」
「真弥こそ」
「きれいになったよ」
「お世辞は結構。話を逸らさないで」
「おお、相変わらず怒ると怖いね」
「蹴ろうか」
「遠慮しておくよ。君の足は洒落にならないから」
 肩を竦める。煮え切らない表情を浮かべている相手に冗談は通じないと悟り、横目でラーナーを示す。
「この子が選んだことだからだよ」
 真弥は呟く。
「ひとの選択を阻むことはできない」
「本人の責任だって?」
「そんな風には突き放さないよ。誰だって自由であるべきだ、そうだろう」
 ココは唇を紡ぐ。
「自由を求めて団を出た俺たちが、他人を制することなんてできないさ」
「そんな理由で、助けられるものを見放すの」苦渋を表情に滲ませる。「それじゃ、きっと後悔する」
「後悔なんて、生きていればどうせ必ずするものだ」
「……変わらないな。相変わらず冷たい奴だね」
「俺は、愉しくいたいだけだよ」
 のらりくらりと躱されるだけだ。返事の代わりに溜息をついてそれ以上続けようとせず、ココはラーナーの顔を暫し観察する。そして、ふと気が付いたように眉を顰めた。
「……この子、どこかで会ったことある気がする」
「ニノの子供だよ」
 即座に示された事実を理解するまでココの表情は固まったが、やがて納得したように頷いた。
「似てる」
「そうだろ。……たぶん、この子は優しすぎる。優しさは身を滅ぼす」
「……まさか、ニノのことを言ってる?」
「どうだと思う」
 はぐらかされたような感覚だった。ココは何も答えないで、やがて懐古に浸っているような長い息を吐く。
「思い出した。バハロだ。バハロでちらっと会って、その時も誰かに似てるって思ったんだ」
「バハロって……あんな辺鄙な場所で?」真弥は肩を揺らして苦笑した。「不思議な縁もあるものだねえ。案外、引き寄せていたのは彼女の方だったのかもしれないな」
「偶然だよ。名前は」
「ラーナー。ラーナー・クレアライト」
「ラーナー、か」
 ココは目を伏せ、眠る少女をじっと見つめる。絆創膏を貼り付けた上を煤で汚した顔は放心しきり、安堵しているようにも絶望しているようにもとれる。このような形で再会することになろうとは互いに夢にも思わなかったことだろう。ココは詳しい事情を知らないが、その顔つきや投身した事実には焦れるような虚無感を抱いた。
 感慨に耽っているココの横で、真弥はどこか冷ややかな表情を繕っていた。
「……なんかさ」真弥は呟く。「命を弄ぶのは絶対に許せないって言った本人が、自殺を選択するっていうのは、最高に皮肉というか、ここまでくると笑い話みたいだよね」
 ココの顔が持ち上がり、閃光のような視線が真弥にぶつけられる。
「あんたって」声にのしかかる重み。「ほんと、くそ野郎だな」
「そう言ってもらった方が、安心するよ」
 真弥は笑った。


 *


 次に目を覚ました時、ラーナーは、暗く、目の端で人工的な白い光が淡く照っている、閉塞的な部屋にいた。低い天井。ぼんやりとしていると、だんだんと五感が冴えてきて、キーボードを軽快に叩く細やかな音が耳に入ってきた。ゆっくりと首を横に回すと、机に向かってノートパソコンを叩いているノエルの背中があった。白い光の正体は、モニターのようだった。彼の机の上にあった、今はがらくたと化した機械類は殆ど床に下ろされており、元々清潔に整理されていたが、更にすっきりとした、一抹の寂しささえ過ぎる机上に様変わりしていた。
 物音に対して非常に敏感なのだろう、ノエルはラーナーが起き上がった瞬間に弾かれるように背中越しに振り向いた。初対面の際から相変わらず緊張で全身が強ばっているが、ほんのりと安堵の浮かんだ表情でラーナーを見た。彼女はノエルのベッドでしばらく眠っていたらしい。
「……起きたんですね」
 回転式の椅子でくるりとラーナーに向かい合う。
 ノエルの膝に座っている、見覚えのある存在にラーナーの目が留まる。赤と青のパネルを組み合わせたような幾何学的な身体は、パソコンの中に住み着いていたプログラム、ポリゴンの姿に間違いなかった。丸くなった目がポリゴンに向けられていると察し、ノエルは引き攣ったように苦笑した。
「……お、驚きましたかね」
 ラーナーはおずおずと頷く。
「その……ポ、ポリゴンは、ポケモン、だったんです。……重傷を、負ってしまったんですが……」
「ポケモン……」
「はい。ネット回線を通じて、センターに、に、送って、治療を施してもらって、……いろいろ、ありまして」
 顔つきに痛みが走ったが、撫でる手の動きはとても穏やかだ。ポリゴンは殆ど動かないが、しっかりとノエルの胸に身体を委ね、静かに甘えているようでもあった。慈愛にも似ている雰囲気は、以前とはまったく異種の印象をラーナーに与えた。
「……寝て、落ち着きましたか」
 尋ねられ、ラーナーは重く沈黙した。ノエルは緊張で落ち着きに欠け、間に流れる空気に耐えられないようにそわそわと目を泳がせる。
「……ええっと。その、とりあえず、安静に、してるべき、ということで、ぼ、僕はずっと家に籠もるので、ちょうどいいから、見ておけということになって……あ、あと、あの、ブレスレットのことで」
 机の上に置いていた、白いビーズが連なった彼女の母親の形見を手にとる。
「すいません、勝手に……真弥さんが、一応、調べておいてほしいって……そしたら、一つの石の中に、電気信号の反応があって、……チップが入っていて、発信器のようだったので……僕の方で、処理しておきました」
 ブレスレットを提示され、流されるままにラーナーはベッドから足を下ろし両手で受け取る。パソコンの白い光に照らされ、淡くきらめいている。ロジェの発言には嘘も真実も混ぜられていた。そればかりが判明しただけで、なんの感情も沸いてこなかった。
「い、一応、まだ真弥さんには、言ってないんですけど」
「……言わないでおいてください」
 疲弊した声に圧倒され、ノエルは頷いた。
「……あの」ラーナーは放心したまま呟く。「私、なんでまだ生きてるんでしょうか」
 ノエルの表情が固まる。
 まだ、と彼女は言う。まるで彼女の存在だけ切り取って、ここではない違う場所に佇んでいるかのようだった。沼の底に沈み細い細い息を吐き続けて、暗闇の中にいる。
「ブラッキーが、えっと……助けたと、聞いてます」慎重にノエルは言葉を零しながら、やりきれないように表情を曇らせる。「……本当に……自殺しようと思って、落ちたんですね」
 自殺。
 ラーナーはその言葉を心の中で反芻する。
 白を突き飛ばし、ラーナーはその反動で後ろにバランスを崩して真っ逆様に落ちていった。落ちている間のことを思い出す。何も考えていなかったような気がする。早く死ねればいいとか、そんなことを考えていたような気もする。
 ああ、そうか。自殺。自分を殺そうとしたのか。納得する。確かに躊躇いはあった。恐怖もあった。白が火閃でフェンスに開けた穴を通り抜けて、たった約三十センチの幅、すぐそこが遥か遠い真下にある、屋上の端に立ってみた時、底知れないおぞましさに眩暈がして身が震え上がった。白を説得しようとして、あれは白を助けたかったからだろうか、クロに生きていてほしかったからだろうか、ラーナーが生きたかったからだろうか、よく覚えていない。けれど、何も理解していないと。きみにクロの何がわかるって言うの、と、そう言われた時、きっとすべてが決まったのだ。意識していた以上に壊れてしまっていた。死にたいとか、そんな具体的な願望を持っていたというよりも、生きているということは呼吸をして心臓が動いていることだという当たり前の営みが行われているように、死ぬということはここから飛び降りることだとごく当たり前のように理解してごく当たり前のように死ぬことを選択した、たったそれだけのことだったような気もする。けれど、そうして選んだものは、それは決定的な選択でもあった。自分を殺すことで全て完結させようとした。奇妙なことだ。他人を殺すことには抵抗があるが、あの瞬間、自分を突き落とした自分には抵抗があっただろうか。結局、失敗したけれど。今、彼女は呼吸をして心臓が動いている。自分のことすらよくわからない。喜怒哀楽の感情が全て抜け落ちて、もぬけの殻。ただ生きているだけで、何も残っていない。
 黙って考え込んでいるラーナーを前に、ノエルは目を伏せる。
「……それだけの勇気があるのなら、きちんと、生きていくべきだと、思います」
 ポリゴンに触れているノエルの指先に力が籠もる。
「僕は、じ、自殺するほどの勇気はありませんでした。引きこもって、のうのうと生きることを選んで、でも、結果として、自分のやっていける場所を、手に入れたので……そう、思えるので……いや、それは、真弥さんがくれたんですけど……あ、だから、つまり、……僕たちみたいなのは、ちゃんと、生きてさえいれば、き、きっと、……勝ち、なんだと思います」
「……」
 ラーナーは返事をしなかった。
 すべてを閉ざしている。自分に閉じこもっているのだとひしひしとノエルにも伝わってくる。その感覚についてまったく同じとは言えないが、似たように壁の中に居続けてきた彼は共感した。生半可な持論や励ましでは伝わらない。かといって、己の力のみでその殻を破るのは、とても難しい。
 嘗て、真弥は、この場所に来いと、ノエルに風穴を開け手を差し出した。
 ノエルはノートパソコンの横に置いたメモを手に取り、書き留めた文字を眺める。
「……アメモースを、もう一度飛ばせる方法が、あるかもしれません」
 ぽつ、と零す。
 ラーナーの視線がもたげる。
「……昔、羽が一枚折れたクロバットを、再度飛ばせることに成功した人が、いるそうです。クロバットと、同じ、四枚羽のアメモースだったら……か、可能性は、無いとは言い切れない……かもしれません」
 曖昧な表現は、自信の無さの現れだった。
 ある種理論の上にのみ生き、機械にばかり興味を絞ってきた彼は生物の知識などほぼ持ち合わせておらず、実際実現可能であるかどうかなど判断できない。ただの希望的観測だとしても、歯痒い感情的な衝動に突き動かされて口走っていた。しかし、何も反応が無いので、ノエルは怯えるようにラーナーを見やり、そして、そのまま目を離せなくなった。
 蒼白い能面をしていたラーナーに、ほんの少し力が宿り、まるで精気が注がれていくような様子は、枯れ果てた土に雨が落ちる静寂に似ていた。
「その人は、どこに」
 興味を引き寄せた。ノエルはごくりと唾を呑みながら、口を開く。
「鳥ポケモンの名所――キリ」


 *


 真夜中。朝日が再び近付く数刻前、一層深くなる。ラーナーはそっとノエルの部屋から出て、部屋の主に小さく会釈をして、扉を閉める。
 リビングは闇夜に包まれ、圭は寝袋に入ってぐっすりと寝息を立てていた。寝ていても足音には敏感な彼等だが、芯まで疲れ果てているのか、まったく目を覚ます気配はなかった。ラーナーは名残惜しげに圭の寝顔を眺めて、心の中で感謝の弁を述べた。傍を離れ、忍び足で歩く。台所に置かれたコップ。白いカーテン。ソファ。椅子。掌に握っている、顔から剥がした絆創膏を捨てようと、テーブルの傍に置かれた小さなゴミ箱の中に視線を移す。いつも空にしてある底をバラバラに引き裂かれた千代紙のようなものが埋め尽くしていた。
 音を立てずに、廊下に出る。玄関を出る前に、履き潰したスニーカーの靴紐を結び直す。すぐにほどけてしまわないように、左右を揃え、足の形にしっくりと馴染む締め付けの具合を確認すると、立ち上がり、ドアノブに手をかける。電子ロック式の扉は、ノエルにかけあって既に鍵を開けてもらっている。彼女が出て行ってから、内側から締めることも聞いている。慎重に扉を開けると、夜風が肌を撫でた。
 アパートを出ると、念のためにエーフィとブラッキーをボールから出す。ラーナーが眠っている間彼等も休息をとっており、体力は万全の様子であった。二匹はぴったりと彼女の足下につき、周囲に警戒心を配る。ラーナーは北区の道を、セントラルをじんわりと踏み締めた。高層マンションの廊下、等間隔に並んだいくつもの光や、道を照らす点々とした街灯で、予想していた以上に道中は明るかったが、街はすっかり寝静まっていて、時々、ずっと遠くからエンジン音が聞こえてくるけれど、ざわめきといえばそれくらいで、ほんとうに静かな夜だった。
 白の眠る診療所の入っている雑居ビルへとやってくると、エレベーターは沈黙しており、ボタンを試しに押してみるが動かない。ラーナーは鞄からICカードを出す。ノエルから渡されたものだった。順序は教えてもらっている。エレベーター横の、階段へと繋がる扉の壁に、錠前の役割を果たす機械が設置されている。そこにカードを当てると、電子音と共に、扉の開く音がした。
 なんだか泥棒にでもなって侵入しているみたいだと思いながら、いやほんとうに泥棒として入り込もうとしているのだと塗り重ねる。緊張と背徳感を胸に、忍び込む。電気の点いていない窓も無い室内は外よりもずっと暗いが、唯一、踊り場で現在の階数を示す表示だけが白く点灯している。それ自体は頼りない光だが、目印になるものがあれば充分だ。それに、暗闇ではブラッキーの黄色い輪が光となる。闇夜に目が慣れている彼が先導して、五階まで上がる。
 診療所へと続く扉もカードを使って開く。ノエルが優秀なのか、セキュリティが脆弱なのか、どちらにしろ自分のようなただの人間でも簡単に入れてしまっている状態で大丈夫なのだろうかと、ラーナーは心配をしたくなった。
 夜の診療所は昼間とはまったく違う顔つきをしており、独特の雰囲気を漂わせている。
 誰もいない待合室を横切り、自分の足音が廊下に響かないよう、ひたひたと廊下を進む。窓からは月の光が差していた。今日は一日中、夜までよく晴れている。
 そして、奥まで進み目的地に辿り着いた。
 笹波白、と書かれたプレートの下げられた部屋の扉の前。確か、クロであった頃は、藤波黒と書かれていたはずだ。白自身か、或いは他の誰かが申告したのか、当然のように居座っている。クロが居た場所は、いとも簡単に塗り潰されていく。
 けれど、あの日ラーナーを助けたのは、他でもない藤波黒であり、あの日から共に旅路を歩いてきたのは、他の誰でもない藤波黒である。
 ラーナーは扉を横に滑らせる。
 月光の注ぐ夜の部屋は、より一層の静寂そのものだった。
 白は眠っているようだった。枕の脇に設置されたテーブルに、二つのモンスターボールが丁寧に揃えて置かれている。
 ラーナーはそろりと部屋に入り、その二つのボールをじっと見つめる。ポニータとアメモースのボールはどちらも赤と白の組み合わせのもので殆ど見分けがつかないが、目を凝らすとボールについた傷が月光に反射して見えてくる。傷の数だけそのまま彼と過ごしてきた時間を示すように、ポニータの方がずっと傷だらけだ。ラーナーはもう一方の、比較的傷が少ないボールを手に取った。この選択が果たして正しいのか、わからないまま。
 すぐ傍にある白の顔を見下ろす。
 透明な笹波白の空気に変わってしまった部屋は、優しい香りがする。彼自身もとても穏やかな顔で眠っている。ラーナーは彼の骨ばった手や、些細な指の動き、笑った顔、優しい声音、そして抱かれた時の温もりや固い胸板、背中に回った腕のことを丁寧に拾い上げるように思い出した。彼はクロと同じ身体をしている。もしもクロと手を繋いだり、クロに抱かれたら、同じような感覚を持つのだろうかと考えると、少しだけくすぐったい気がした。でも、完全に重ね合わせることはできなかった。それをしてはいけない。そうしたら、本当にクロを裏切ってしまう。
 同じ顔。同じ身体。同じ声。けれど絶望的に違うひと。
 受け止めきれなかった。
 ラーナーはアメモースの入ったボールを鞄の外ポケットに忍ばせると、何も言わずに踵を返した。
 最後に、名前を呼ばれたような気がして、後ろ髪を引かれたような気がして、もう一度振り返った。けれど、そこには透き通った世界に横たわる白がいるだけ。
 確かめたら、安心して、ラーナーは部屋を後にした。
 ――さよなら。


 *


 再び旅に出るのなら、きっとこういう日がいいのだろう。
 朝日がもうじき顔を出すだろう、夜更けの隙間時間。真っ暗な世界と、淡く白い世界が共存しようとしている。既に東側の空は徐々に白けつつあり、ゆっくりと朝の訪れを漂わせる。雲一つ無い、からりとした時間だった。
 空が、とても、高い。
 街が目覚めていく時間の中を進むように診療所から北区の巨大なメインストリートに沿って随分と歩き、ラーナーは首都郊外へ伸びている鉄橋を渡っていた。銀色に佇む橋を、時折車がすり抜けていくが、歩行者は一人もいない。ラーナーと、その足下にはエーフィとブラッキーのみ。隣にはクロも圭もいない。まったく違う、異世界に立っているようだった。
 ラーナーは右手につけた白いビーズのブレスレットに視線を落とし、橋からそのまま右腕を突き出した。夜更けの空気を吸い込んで、ささやかに光っている。
 このまま落としてしまう考えも過ぎった。発信機が無くなろうと、母親の数奇な運命が刻まれたそれは、重く、黒の団との強い繋がりを示す。縛りつけてくる何もかもを剥ぎ落として、少しでも自分の澱みが消えるように願いたくもなる。けれど、ラーナーは何もせずに、手を引いた。きっとこれは鎖。そして、秘密。留めておくべきもの。
 巨大な堀川はセントラルを囲んでゆるやかな円を描いており、縁に沿って建物の影が所狭しと並び、更に向こうで、白い筋が空に走った。
 首都の風を吸う。芯まで冴えわたった冷たい空気だった。混沌とした世界は、きっと毎朝こうして浄化されていくことで保たれているのだろう。平等なのだ、ここは。誰が生きようと、誰が死のうと、誰が何をしていようと、ただ平等なのだ。それが、これだけ人間が詰め込まれてそれぞれで呼吸をしてそれぞれで感情を抱いてそれでいて均衡が保たれている、この首都の正体だ。混沌が、まじりけの無い朝日の前には無力なことと同じように。
 浄化されていない自分は、濾紙に残ってはみ出された老廃物だ。
 首都を出て、良かったと思う。居座るほど、あの途轍もなく大きな流れ、朝の濾過、夜の哀しみ、混沌の手に揉まれて、いよいよ自分が自分でなくなっていく気がした。
 目映いのは、心が夜に在るからだろう。底無しに深い、沼の中にいるような夜。光で表面の部分のみが抉られるように痛むのに、胸の中には一切響く気配がない。きっとこれが、孤独というものだった。
 空気に溶けるようにラーナー自身も冴えている。それ故に、横から近付いている存在にも気が付いていた。
「……行くのかい」
 風に揺れている無き左腕の袖。確かめるかのようだった。
「はい」ラーナーは躊躇わずに応える。「止めに来たんですか?」
「そんな野暮なことはしないよ。これが君の選んだことなんだろう」
 真弥は優しげな表情を浮かべている。
「君も、俺も、他の人間も、皆、自由だ。君の好きなように、君は君の道を行けばいい」
「……自由、ですか」
 ラーナーは傷を負ったままの顔で笑った。
「もしその先で、私がまた自分を殺そうとしても」
「それだって、君の選んだことだろう。きっと、君の二度目は誰にも止められない」
 一人を除いて。
 と、真弥は心の中で呟く。
 一人だけなのだ。彼女に、それはだめだと、はっきりと言って、彼女の心の中までその声を届けることはできるのは、たった一人しかいない。
 偶然でも、都合のいい奇跡でも、そうやって引き合ってしまった関係というものが、この、夥しい数の他人の寄せ集められた世界に存在している。そんな世界が、不思議で、気味が悪くて、たぶん、すこし美しい。
「ニノが、俺に言ってくれた言葉がある」
「……お母さんが?」
 真弥は頷く。懐かしげな顔でラーナーを見つめている。
 風が吹いている。橋の遙か下、細波を立てて流れている川の流れも聞こえてくる。新しい一日が始まろうと、世界が濾過されていく気配がする。同じ気配を共有しながら、真弥は口を開いた。
「強かに生きろ、と」
 ラーナーは顔色を変えずに真弥の顔を見据えた。彼は笑った。ニノは、あの母親は、本当はこの言葉を、自分の子供に言いたかっただろう。きっとそういう役割だったのだ。そのために彼は選ばれた。今の、この時のために。
「……俺はね、好きだったんだ、ニノのことが」
「……」
 ラーナーは驚いたような顔をした。しかし、すぐに考え込むように目を伏せて、それから痛々しく笑みを浮かべる。
「……嘘ですね」
 思ってもいない言葉に、真弥は目を丸くした。
 ラーナーは微笑んでいる。ニノの顔とよく似ている。
 そして、真弥もまたすべてわかってみせたような顔をして、笑った。
「それで正解だよ」
 ニノ。
 あなたの娘は、とても残酷に笑っているよ。
「強かに生きろ、ラーナー」




 真弥と別れてから長い時間をかけて橋を渡りきると、肩にかかる鞄の質量を実感しながら、ラーナーはエーフィとブラッキーに視線を落とす。二匹共揃ってラーナーを見上げている。母親と父親の遺したポケモン。手には母親が遺し黒の団との鎖でもあるブレスレット。鞄の中には翅を失ったアメモース。胸には偽物で、本物の思い出。
 淋しくはない。
 言い聞かせる。
 元々はこうなるはずだったのだ。クロがいない、一人でいることこそが本来の道。今更、正しい軌道に戻っただけだと。
 最後にセントラルの全貌を一目見ようと振り返った時。
 ラーナーは首都を照らす太陽の光を見た。途端、金色の輝きが栗色の瞳を丸ごと塗り尽くし、すべてが広がった。河縁は景色が大きくなる。僅かに底の水面が揺れている河堀の奥、建物群の上、淡く蒼い広大な空に太陽は完全に姿を現し、橋の先にあるセントラルをずうっと照らし、建物群をあきらかにし、聳える要塞のような首都中心地を、引き寄せられた人々を、固められた河縁を、橋の銀色の筋を、遙か下の水面を、深く高い大空を、諸共ひとつにする。なにもかも、静寂のうちに。息を呑みこみ、あまりにも寄る辺のない美しさに圧倒され、不意に、あの場所に残っているひと達のことや、クロのこと、白のこと、あの場所で死んだアランやガストンのこと、エリアのこと、そして彼女の家族や、ニノの言葉が、大空に次々に咲き乱れる花火のように鮮烈に弾け、轟き、そのまま引きちぎられて叫び声をあげそうになった。
 命の炎は燃えている。
 ラーナーの金色の視界に広がっているのは、見たことのない、未来だった。

 ひとりきりの世界へ、彼女は旅立つ。












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