Page 34 : 止、進






 満月に等しい程に大きく満ちた月が少し傾いている。季節は真夏のピークを潜り抜けたものの昼間は日光が未だ強く、残暑は厳しい。しかし現在のような真夜中になれば話は別で、ひんやりとした肌寒い空気が漂っている。
 月光が窓の外から照らされているだけという限られた視界の中、咳を幾度と重ねている音が狭いその空間に響く。鼻をつんと刺激する酸の匂いが辺りを満たし、蛇口から全速力で水が流れる。ラーナーは目の前にある自らの吐きだした嘔吐物が排水口に流れていくのを、暗闇の中で見つめていた。咳は止まらない。もう一度身体を大きく曲げ、胃から込み上げてくるものを押されるままに吐きだそうとするが、もう出しきったために何も出てくることはない。
 少し落ちつこうと思い深呼吸をする。吸って、吐いて、吸って、吐いて。その単純動作を自ら意識しなければ満足に行うことができそうになかった。
 寝る部屋とトイレが近くて良かった、とラーナーは安堵する。もしも遠ければ、途中で耐えきれずに廊下を汚すところだった。
 一息ついて、ふと顔を上げる。暗い為ほとんど認識することはできないが、洗面台の鏡に映る自分の顔はひどくやつれているように見えた。急に疲れが圧し掛かり、背後の壁に背を預ける。溜息を吐く。それからもう一度、吸って、吐いて、吸って、吐いて。反復を続けていくうちに、だんだんとそれすらも面倒に思えるようになってくる。舌に残る酸味は痛く、うっとうしい。
 時間が経って落ち着いた頃、トイレの扉がぎぃと音を立てた。ラーナーは大袈裟な程に驚いて慌ててそちらを見ると、暗闇の中で眩しいレモン色の光の輪が目に飛び込んできた。思わず息を呑んだが、すぐにそれがブラッキーだということに気付いて胸をなでおろす。
「なんだ、ブラッキーか。驚かさないでよ」
 月光の下に足を運んできたブラッキーのところへラーナーは歩み寄り、その頭を撫でる。ブラッキーはその手に対して擦りよってくるわけでも嫌がるわけでもなく、特に感情を見せずにじっとラーナーを見つめていた。
「勝手にボールから出ちゃだめだよ……というか、勝手に出れたんだね」
 ただ平坦で抑揚の無い言葉が滑る。感情は特になく、疲労が滲んでいる。
 やはりブラッキーはラーナーを見たまま、視線を外そうとしない。
 ラーナーはしゃがみ込んでブラッキーと同じくらいの高さに合わせる。ぶれない赤目の視線はラーナーには少し強く、苦笑いをした。
「なんか怖いよ、どうしたの」
 そう尋ねて答えが返ってくる筈もない。相手はポケモンで、それなりに人の気持ちを感じとったり人語を多少理解する知能は得ていても、人間の言葉を喋ることはできない。身振り手振りで伝えようとしてくるときもあるが、ブラッキーはまるで微動だにせず、まるで石のようである。
 沈黙が続き、それに耐えられず先に折れたのはラーナーの方だった。
「……さっき夢で、ね」ようやく絞り出した声で話を始める。「セルドが、殺されてるとこを見たんだ」
 ブラッキーは目を細める。
「ずっと、……ずっと楽しく話したりとか遊んだりとかしてたけど、突然あの日の情景になって、それで、あたしも必死に逃げて、逃げて、……そこらへんは逃げてるとこしか思い出せない」
 言葉に沿って夢は繰り返される。自分の悲鳴か他人の悲鳴か、それとも別の声か、絶えることなく雑音が飛び込んでくる。耳を塞ごうとしても溢れてくる源は自分の身であって、断つことはできない。
「なんでまだこんなさ、前見なきゃいけないのに、こんなさ……」
 ゆっくりと床に腰を下ろした。振り払うように頭を軽く振り両手で額を抱え込むように覆う。
「あーもうやだ」
 呟いた後、ようやくブラッキーが動き出した。一歩を踏み出しラーナーの懐に潜り込み身体を寄せる。とびこんできたブラッキーに少し戸惑いながらラーナーは抱きしめ返す。ブラッキーの体温が彼女にゆっくりと伝わってくる。
 傍にいてくれる人もポケモンもいる。けれど、彼女の心は満たされない。懐かしい声と暗闇が掴んでは離さずそれを払うこともできず、月日はただ過ぎていく。


 *


 朝がやってきてクロ達は宿を出る。ひんやりとした空気は清く、すっと吸い込むと肺の中が洗われるようだった。
 宿は閑散とした商店街の中にあり、今はどの店も開く気配を見せない。昼になってどの程度の店がシャッターを開けるのかは、分からないが。
 土地勘の良いクロは一行を先導し真っ直ぐに駅へと向かう。歩いて十分とかからない程の距離だ。
 駅に着くとまずバス停で時刻表を見るが、昨日のことを思えば当然信用できるものではない。老人が朝には来ると親切にも教えてくれたが、その朝というものがいつ頃のものを指すのかは結局分からない。
 時刻表をそのまま信じればあと三分程でバスはやってくるらしい。
「あぶなっもうちょっと遅く出てたら遅れてたかもしれないね」
 クロと同じように覗き込んで見ていたラーナーは笑いながら言う。
「だから早めに出た方がいいって言ったろ」
「女の子は身だしなみに時間がかかるんです」
「はいはい」
 話が長引くのを断ちきるようにクロは背を向ける。それから懐からボールを一つ出す。アメモースの入ったものではなく、ポニータが入るものだ。
 ラーナーは大きく欠伸をしてその場にゆっくりとしゃがみ込む。
 クロは少しだけ振り向いて彼女の様子を見る。出発が遅れたのはラーナーが起きてからの動作が一つ一つ鈍いことが原因だった。今も大きな欠伸をし、眠たげに目を俯かせている。昨夜布団に入った時間は左程遅くはなかったが、夜中にラーナーは起き、その後も満足に眠れず十分な睡眠時間を確保できていなかった。
「どのくらいで着くのかな」
 ラーナーが尋ねるとほぼ同時にクロはポニータをボールに戻す。
「さあな」ボールをしまい、ふうと息を吐く。
 クロは地図を取り出そうと思い立ち鞄に手を回す。地図を手に取りすぐに広げた。
 現在彼等がいるトロール。前回身を置いていたトレアスから方角は北西にあたる。距離は随分と離れ、西側、つまり李国との国境は随分と近くなった。最終の目的地であるリコリスはトロールから更に西に進んだ、山脈の一角にある町だ。
 ラーナーが旅に加わってから1カ月近く経っている。海に面したウォルタとはほぼ対角線の位置までやってきてしまった。
「暇だねえ」
 ラーナーはつい声を漏らした。風景もなんら面白みは無い。人がいるわけでもなく店が開いているわけでもなく、時々車が通るだけの閑散とした様子は、心を躍らせる薬にはならない。
「バスちゃんと来るといいけど」
「来なかったら歩く」
「……けっこう遠い上に割と山道だと思いますよ?」
「これ以上待てない」
 端的に並べられるクロの言葉は裏が無い。数分後にバスが来なければ本当に彼は歩くだろう。地図で見てもトロールとリコリス間は車なら歩きだと辿りつくのは数時間で終わらないだろう。これまでずっと旅を続けていたクロはまだしも、長時間の運動にまだ慣れていないラーナーは尚更時間が必要だ。
 クロは地図をしまい遠くの方を見やる。バスが視界に入るのを今か今かと待ち望んでいるように。
「……クロってさあ、見た目に寄らず意外と短気だよね」
「はあ?」
 機嫌悪そうにクロはラーナーに振り向く。
「何となく落ち着いた雰囲気の割には、さ」
 少々間をあけてからクロは小さな溜息をついた。
「止まるのが嫌いなだけだ」
「止まる、かあ」
 ラーナーはその言葉を繰り返す。
思い返せばクロはいつでも迅速に積極的に行動してきた。ウォルタでラーナーと初めて会った後に彼女を追いかけ忠告しに行ったことも、夜になり黒の団と対峙したことも、バハロでようやく到着したと思ったらそのほぼ直後に黒の団の情報を得てとびだしたことも、思い立ったらすぐに行動、立ち止まる暇などない、という彼の本能的な姿勢が見て取れる。そして急くように少し前を歩いている様子が、ラーナーの目には印象深く映っていた。
 ラーナーは夕べ泣いていた自分の姿を思い返し溜息をつきそうになる。自分は何も進んでいない。クロの持つ芯の強さを改めて見せつけられ、心にまた一つおもりが圧し掛かる。
「クロって泣いたことある?」
 疑問形だがその言葉はほぼ独り言に等しく、囁きと同等であった。
耳の良いクロはなんと彼女が言ったのか分かっていたが、空をじっと見ているふりをして無視をした。
彼の視界に色鮮やかな蒼が広がる。建物の高さが低い分だけ空は少し広く見えた。それを背景にして耳に入ってきた、道路を走ってくる少し大きな車の音にクロは気が付く。
「バスだ」
 思わず出てきたクロの言葉にラーナーははっと顔を上げた。彼の言った数秒後にラーナーの視界にも、大きく道を曲がってくる赤と白を基調としたバスが入ってきた。クロは軽く右手を挙げて運転手に合図を出す。バスは直後にゆっくりとバス停の前で停まった。自動で扉がゆっくりと開き、彼等を中へと招きこむ。
「ちゃんと予定通り来て、良かったね」
 ラーナーがクロの後方でバスに乗り込みながらクロに声をかけると、クロは頷いて同意を示す。
バスの中には扉のすぐ傍に老人が一人座っているだけで他に客はいないようだった。
 クロとラーナーがそれぞれ一人掛けの席に腰を下ろした途端に扉は閉まり、バスはその場を発つ。窓から見える景色がゆっくりと動き出す。
目指す次の町、リコリスへ一行は進みだした。












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