Page 35 : 紅崎圭






 途中見知らぬ人々が乗車し下車していきながら、少しずつ彼等の目的とする場所へと近づいていっていた。その間二人で会話することは殆ど無かった。決して車内の静かで閉鎖的な独特の空間がそうさせたのではなく、会話の内容が無かったわけでもなく、単にバスに乗った後に安心したのかラーナーがすぐに眠りに落ちたためであった。
クロは窓の縁に器用に右肘を置き、外の風景をぼんやりと見ていた。バスは僅かに斜めになり、上り坂に入っていることを実感させる。
向かうリコリスは文字通り山の中の村だ。目の前にあるのは山の斜面に茂る森。道路沿いに野菜畑が伸びているが、収穫の時期は過ぎたのか色鮮やかな実の姿は見当たらない。家は殆ど無く外灯も少なく、夜になれば恐らく車のライトくらいしか頼りにはならないだろう。
ここはもうリコリスの中にあるのだろうかとクロは考える。人は少ないが面積の広い村だと彼は聞いていた。
『バス停のところで待っておくよ。そこからもけっこう距離あるから』
 昨日紅崎圭に今日の朝バスで現地に向かう旨を伝えたところ、彼はそう返した。
ラーナーには一番信頼している仲間だなんて格好つけた台詞を使ったが、現実のところクロはつい昨日まで圭がどこで何をしているかも知らない状態だった。今だってリコリスにいるということが分かっただけだ。なぜこのような辺境地にいるのか、どのような生活を送ってきたのか、何か危険なことには出くわしたのか、次々と疑問が浮かんでくる。
久しぶりに出会うことができる喜びと不安に揺れるクロであった。何しろ最後に会ったのはおよそ三年前だ。その間クロにも穏やかなものも苦しいものも含め多くの出来事があった。濃密な三年の間に幾度も黒の団に出会い、先日のように突然の発作に倒れ、アランやオーバン夫妻に世話になり、ポニータやアメモースと共にずっと歩き続けてきた。長く続いている旅だが、探している人は見つかるどころか、未だに情報の欠片を掴むこともできない。それでもすがるように旅をしてきた。前に進んでいる実感を得たことは、当然無い。
リコリスに探し人は居ないだろう。確信はないがそんな淡い期待も抱いてはいない。

 考え事を繰り返しているうちにバスのアナウンスがもうすぐリコリスにあるバス停にたどり着くことを知らせた。
クロは振り返り、顔を俯かせ寝息をたてているラーナーの肩を軽く叩いた。すぐにラーナーは気が付きはっと頭を上げ、目を大きく見開かせた。
「もうすぐで着くらしい、行くぞ」
 その言葉の意味を汲み取るのに時間がかかったが、ラーナーは寝ぼけながら慌てて頷いた。
クロは手元にあったボタンを押す。直後に車内に一つ、鈴の音が響いた。
窓の向こう側の空を、小さな鳥ポケモンの群れが通り抜けていく。その姿をラーナーはたまたま目に留め、息を止めた。今までほとんど見たことのない光景だ。自然豊かなこの場所ではポケモンも他の地域に比べ豊富なのだろう。
 バスが道路に沿って停まっている白い軽トラックを避け、ゆっくりとブレーキをかけていく。
「リコリス、リコリスです」
 男性のアナウンスが入り、クロとラーナーは荷物を持ち直して立ち上がった。代金を支払った後、彼等はすぐにバスから出た。
バスに乗り込んでから二時間と少し。涼しい車内と裏腹の高い気温の空気に飛び込んだ。けれど眼前にある広大な自然の姿に、落ち込んでいた心はぱっと明るくなる。呼吸をすると澄んだ風が体内に吸い込まれていく。
錆びたバス停を後にするバスを見送ると、辺りを軽く見回す。風の音と川の音が混ざっている。ただ、人影は見当たらない。
「待ち合わせをしているけど、まだ来てない」
 クロが言うとラーナーはふぅんと返した。
その時、クロの穏やかな目つきがぱっと変わり鋭く光る。目が動く前に手が動いていた。咄嗟に懐から小さなナイフを取り出し上空に向かって刃先をとばした。何かに当たった乾いた音が跳ぶ。
勢いを失ったナイフが金属音を立てて彼等の足元に落ちた。
次に傍に降り立ったのは、人だ。余程高いところから跳んできたのか、地面に足をついた時の音は激しい。その姿を見たとき、クロは警戒の姿勢から一転、驚きに息を止めた。
「圭!」
 驚嘆の声にその人はゆっくりと顔を上げた。
 足への衝撃の負担が和らいだのか、相手方はすっと立ち上がった。その時初めてラーナーは彼が紅崎圭だと気付いた。
 身長は小柄でクロどころかラーナーよりも低い。ただそれよりもまず目を引くのがオレンジ色の頭髪であるということだ。さっぱりとした短髪であるがとても明るく、まだ幼さの残る顔つきには少し不相応なくらいだ。よく見れば瞳もオレンジがかかっている。服装も朱色の半袖のシャツと黒い長ズボンを着用して、ラフだが言うまでもなく目立つ格好をしていた。
「なんだ良かった。ほんとに本人で」
 まだ声変わりをしていない、少年の声が出てくる。そして軽く歯を見せて笑ってみせた。
 もう一つラーナーが違和感を感じたのは、右手に持つ木刀だった。
「やっぱ電話越しだけだからさあ、話し方とかそっくりだったけどちょーっと疑ってたんだよ。ま、あの反射具合とその髪はまさにお前だな」
 笑いながら木刀の先をクロに向け、先で帽子を取ってみせた。クロは落ちそうになる帽子とゴーグルを持つと、次に地面に落ちたナイフを拾った。
「あんな分かりやすい殺気だしたらいくら上からでも気付くさ」
「ちぇ、言ってやがんの。反応できないでナイフささったらどうしてくれるよ。……で、こっちの人は誰?」
 そう言って圭はラーナーを指差した。心が少し距離を置いていたラーナーは突然指名されたことに驚き硬直する。
「話してたろ。連れが一人いるって」
 クロの言葉に少し間を置いてから、思い出したのか圭は納得したように何度か頷いた。
「へえ、女子とは思わなかったよ。お前のことだからポニータのこと言ってるのかと」
「ポニータのことをわざわざ言うわけないだろ」
「それもそうか」
 圭は大きく笑う。突然襲い掛かってきた上にオレンジの髪ときたためにどのような人なのだろうかとラーナーは身構えたが、和やかで笑顔が絶えない様子は好印象だった。
体の向きを変え改めて圭はラーナーと向き合う。少し顔を上げて話す姿はむしろ可愛らしい。
「俺は紅崎圭。よろしく」
「あ……よろしく。あたしはラーナー・クレアライトです」
 圭は木刀を肩にかけている細長い黒い袋に差し入れると、その右手をラーナーに出す。ラーナーも握手をすると、その手が細いことに気が付いた。見れば袖口から伸びている腕もあまり肉がついておらず、骨ばっている様子から痩せていることが分かった。
「じゃあ行くか。あの軽トラで向かう」
 言いながら圭は止めてある軽トラックを指差す。見るといつの間にか軽トラックの運転席の傍に女性が立っていた。見た目からすればクロ達とそんなに年は離れておらず、同い年か少し年上といったところである。黒と白のボーダーのTシャツに淡い水色のデニム生地のショートパンツを履き、少し肌が焼けている姿が健康的に見える。彼女はクロやラーナーがこちらを見たことに気づき軽く会釈をした。
「今あの人のいる家に居候してんだ。座るとこねえから、後ろの荷物乗せるところに乗ってくれ」
 圭が歩き始めるとクロとラーナーもそれに同行する。
女性の傍までやってきた時、平たくも弾けるような音が響いた。圭の頭をその女性が叩いた音だった。圭はその場にしゃがみこみながら彼女を睨みつけた。
「いって、なんだよ突然!」
「圭こそ突然跳びだしたかと思ったらお客さんに向かって飛びかかって、何してんのっ」
「それには色々こっちにも考えがあったんだよ!」
「失礼極まりないでしょう。ほんとすいませんね」
 女性は苦笑いをしながら軽くクロとラーナーに礼をする。あっという間の出来事に二人は茫然としていたが、慌てて礼を返す。
「私はソフィです。ソフィ・ルーク。席が無いので、汚くて申し訳ないのですが後ろのとこに座ってもらえますか。圭も一緒に乗りますけん」
 それはもう説明したよ、と圭が呟くと女性――ソフィは満面の笑みで彼を見る。上面とは別に彼女から出る圧力に圭は押し黙る。
 ソフィは軽トラックの後ろ側に回り込み、後面の板を下ろすと三人を促した。圭は口を尖らせながらも立ち上がる。クロは一足先に乗り、ラーナーもそれに続く。最後にラーナーが座ったことを確認してから圭も乗り込む。 汚いと言ったが、荷物は段ボール箱が端に一つあるだけ。掃除もしてあり、汚れているという状態ではなかった。さすがに人を乗せるとなって綺麗にしてあるのだろう。
 少し視界が高くなっただけで一段と風を身に受けるようだった。空気は澄んでいて、呼吸が心地良い。
「ところで、お名前は?」ソフィが尋ねる。
「ラーナー・クレアライトです。よろしくお願いします」
「藤波黒です」
「ラーナー・クレアライトさんにフジナミクロ君、か。私のことはソフィでいいけど、そちらはどう呼んだらいいでしょうか」
「あたしも呼び捨てでいいですよ」
 ラーナーの言葉に続くようにクロも頷いた。ソフィも頷き返した。
「それにしてもフジナミクロって、李国系の名前ですね。圭も出身は李国だけど、あなたもですか?」
 その質問にクロは一瞬顔を強張らせる。ラーナーも表情を変え、クロの方を見る。雰囲気が少し冷えた。
「……まあ、そうですね」
 間を置いてから、曖昧にクロは答えた。
「……なんか、聞かない方が良かったでしょうか。すいません」
 ソフィはクロの顔色が変わったのを敏感に読み取ったようだ。目を伏せて申し訳なさそうに肩を縮れこませる。
「まあそれはいいとして、早く行こう。クロ達はバスの長旅してて疲れてんだから」
 うまく流れをフォローをする圭に、ソフィは安心したように頷いて運転席へと向かった。扉が閉まった音の間もなく、エンジンが車にかかる。足場は小刻みに揺れ始めた。
 ゆっくりと車体が動き始める。バスに乗っているよりも揺れは直に感じられ、囲みにうまく捕まっていないと大きく揺れた時放り投げられてしまいそうだった。
このような軽トラックに乗るのが初めてなのだろう、ラーナーは心の高ぶりを押さえつけられずきょろきょろと辺りを見回していた。
「あんまりよそ見してっと落とされるぜ」
 圭が笑いながらラーナーに声をかける。
「けっこうカーブも多いし、最終的には舗装されてない道に出るから割と揺れるよ。俺も何回も落とされたもんさ」
 声をあげて笑うとそれにつられてラーナーも満面の笑みを見せ、笑い声を出した。本来笑いごとではないのだが、明るく話題を提供する圭の様子は苦々しい思い出というようには見えない。
「俺のこともどう呼んでくれたっていいから。あと敬語は苦手なもんで、適当によろしく」
「あ、はい。……あたしは呼び捨てかラナって略すか、ちゃん付けが多いかな」
「了解了解」
 円滑に弾む会話を微笑ましく思い、クロも静かだが穏やかに笑みを浮かべる。
圭は初対面であるラーナーに興味津々といった風に身を乗り出して話を続ける。ラーナーがウォルタ出身であることが話題に出ると、ウォルタに行ったことのない圭は水の町についてのめり込んだ。ラーナーも子供のように好奇心を表に出す圭に乗せられるように舌が軽やかになる。ウォルタの名所や年に数回行われる大きな祭り、港町らしく海に関する話など、話は尽きなかった。普段山に囲まれている圭からしてみれば海はとても珍しいのだろう、羨ましそうに目を輝かせている。
それに対してラーナーは懐かしき故郷の姿が色濃く蘇り、連想して弟や叔父叔母の姿が浮かぶ。昨夜の夢の件もあり、心が弾む中で時に表情に影が差した。
 高潮していた二人だがラーナーの方は寝不足やバス旅の疲れ、暑さなどが重なりさすがに疲労の色が見えてくる。興奮が落ち着いてくると、圭は揺れに気を遣いながらクロの近くに移動する。暑そうに手で仰ぎながら、大きく息を吐く。
直後、明るい表情が一転し冷静で真剣な眼差しが光る。
『なあ、彼女もしかして、ニノの親戚か何かか?』
 突然呟いてきた言葉にクロは驚いて圭を凝視してしまう。ラーナーは首を傾げた。エンジン音でその声のほとんどが掻き消されたこともあるが、聞き覚えの無い言語だった。それもそのはず、圭が発したのはこの国の言葉ではなく李国語だったからだ。
 少し間を置いてからクロは息をつく。
『娘だよ』
 同じくクロも李国語で返した。圭はクロの方を横目で見て、その後再びラーナーの方をじっと見つめる。状況がさっぱり読めないラーナーは何となく居たたまれなくなり目を逸らした。
『なるほどね』
 圭は小さな溜息と共にささやく。
『なら、お前が彼女を連れてる理由も何となく分かるよ』静かに話を続ける。『連れがいるなんて、なんか余程のことがあったんだろうなとは思っていたさ』
 鋭い指摘にクロは苦笑する。ぎくりとして動揺した反面、彼の中には安堵もあった。
『随分明るくなったと思ったけど、でも変わっていないところもあるんだな』
 鏡のように圭も苦笑いをした。
車はカーブに入る。圭やソフィの住む家はもう少し先だ。












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