Page 40 : 知りたい





 太陽は西に連なる山々の向こう側に沈みリコリスは完全な闇に包まれていた。窓から外を覗けば道に外灯が無いに等しいことがよく分かる。遠景に小さな光が見えるが恐らく数少ない家屋のものだろう。どこからか夜行性の生き物の囁く声が届いてくる。
 視点を変えてルーク家のリビングルーム。夕食中にいつの間にかミアから逃げるようにブラッキーは夜の中へと溶けていった。異常な程臆病なコノハナだが穏やかな性格をしたエーフィとは心が近づいたようで、二匹は疲労に伴う眠気に従い並んで一足先に床で安眠している。ただ部屋に潜む寝息はその二匹のものだけではないようだ。
「ったく、完全に酔い潰れやがって」
 圭は呆れ果てた顔で言うと、椅子に座りながらもテーブルにだらりと身を投げ出して気絶したように眠っているクロの体を起こす。肩を使って無理矢理引き剥がしベージュ色のソファまで連れて行く。途中でラーナーは手伝う意思を伝えたが彼は断り、軽々とまでは言わないものの小さな体でクロを持ち上げてソファに寝かせる。クロの顔面は真っ赤になっており、目を覚ます気配は欠片も見当たらない。
 両肩を回しながら圭はあからさまに大きな溜息をついてみせた。
「はっきりと断りゃいいんだ。そう思わないか? あのじいちゃんは押しが強いからちょっと怯んだらこうなるのさ」
 ラーナーは僅かに火照った顔で苦笑した。
 夕飯を終えてラーナーは先にシャワーを浴び、今はソフィとミアが体を流しているところだ。フェルマンはジークに連れられ部屋に戻り、ジークはそのまま自室に戻って絵を描くと告げて早足で去ってしまった。今は夢中になっている工程らしい。夕飯食べることすら止めようとしたところを愛娘達によって阻止された。
 中途半端に酒に強かったクロは勧められた果実酒を断りきれず半ば無理矢理飲み続け、一杯アルコール成分の強いものを飲んだ時に一気に体にアルコールが回りいつの間にか夢の中へと旅立った様子。ただ普段は物静かで冷静なクロが顔を赤らめて饒舌になった姿はラーナーにとって新鮮で思わず笑ってしまった場面もあった。酒を一滴も飲んでいないにも関わらず食事中は終始圭もはしゃいでおり、二人で言い合っている姿は数年の隔たりを感じさせなかった。
「でもクロがじいちゃんに付き合ってくれたから助かった。感謝感謝」
 ふっと笑みを浮かべて彼は平らかな謝意を述べる。ラーナーは髪の水分をタオルで拭きながら圭の正面付近に歩み寄った。
「いつもは圭くんも飲んでるんだ」
「まさか。いくつ腎臓があっても足りない」
 肝臓のことだろうか。
 アルコール代謝に関するものを指しているなら肝臓だろう。ラーナーは圭の言葉に思わず口を出したくなったが涼しげな顔でさらりと言ったものだから突っ込もうにも言い辛いものがあった。そして気付かないまま圭は思い切り体を上へと伸ばす。
「さて、ようやくゆっくり話ができそうだ。面倒くさいからもうラーナーでいいかな」
「あ、うん」
 妙に改まった雰囲気が醸し出され、ラーナーは少し背筋を伸ばす。
「ラーナー、クロとはどれくらい旅をしてるんだ?」
 唐突にやってきた質問にラーナーは口ごもる。圭は焦げ茶色のカーペットに腰を下ろし、ラーナーにも座るよう手で素振りを見せる。導かれるままラーナーはゆっくりと座り、オレンジ色の瞳と向かい合った。
 足を崩して待つ圭に答えようとラーナーはウォルタから今日までの日々を駆け足で振り返りおおよその日数を数える。
「一ヶ月ちょい、くらいかな」
「そっか」
 短く反応すると圭は難しそうな顔をする。質問の意図が見えずラーナーは疑問符を脳内に浮かべる。それは顔にもそのまま表れ、圭はすぐにその疑問に答える。
「いや、俺クロがどう過ごしてきたのか知りたかったんだけど、一ヶ月じゃどうしようもないな」
「……ごめんなさい」
「謝るとこじゃないだろ」
 半ば呆れたように圭が言うとラーナーは頭を垂れる。反射的に出てきた謝罪の言葉は彼女が一歩引いて話していることを示している。しかし彼女も負けじという風に顔を上げる。
「クロとけっこう長い間外にいたからてっきりたくさん話してたのかと思ってたけど、そうでもないのかな」
「話したぜ。けど結局何をしにリコリスまで来たんだか言ってくれねえし。ラーナーは知っているか?」
「いや、何も」
「ダメだなあ。ぐだぐだしてんのめんどくせえ。あいつは昔の方がよっぽど単純だった」
 思わず途中で頷きそうになったラーナーだったが、最後の言葉に立ち止まる。彼は昔のクロを知っている。ラーナーの知らないクロの姿を知っている。もしかしたらクロに聞かなくても圭に聞けば案外するりと解明される謎があるのではないか、そう思いついて自然と身を乗り出す。
「圭くんは、クロのことをどのくらい知っているの?」
「俺? 俺か……」
 手を後方に置いて体重を乗せる。言葉を選んでいるようにしばらく悩んでいた。
「三年前」ゆっくりと圭は話を始める。「俺とクロは行動を別にした。それまではけっこう一緒にいることが多かった。幼馴染とかそんなんじゃねえけどな、けっこう小さい頃からいたし大体のことは知ってるさ」
「……その頃にはもう火傷を?」
「火傷のことを知ってるのか」
 圭は驚いてラーナーの方を凝視する。彼女が思っていた以上の反応の大きさに戸惑いを見せながらラーナーは押されるように頷く。
「事故で見ちゃって」
「はーん。あいつも苦労してんだな。火傷はもうしてたな、あの頃はむちゃくちゃだった……、……」
 声が途中で途切れて圭の表情が曇る。顔を俯かせて挙動不審にオレンジ色の目が忙しなく細かく震える。一つ深呼吸をして、右手で顔を軽く多い視界を遮った。明らかに動揺し始めた心を無理矢理押さえつけようと必死になる。慌ててどうしたのとラーナーが尋ねても彼は応えることができずに首を横に振るだけだった。か細い息が口から洩れる。ごめん、と彼は低い声で囁いた。それからも何度か同じ謝罪の言葉を並べる。小さな体でほんの少し震えている彼を見てもどかしくなって、大丈夫だとラーナーは返して彼が復帰するのを待つ。
 突然ぱんと彼は両の頬を自ら叩いた。深い息をこれ以上出てこないであろうところまで思いっきり吐き出しきると、大きく頷いた。
「ごめん」
 絞り出すように繰り返される。もう何に謝っているのか分からないほどに回数は重ねられた。
「大丈夫だよ」
 静かに滑らせると圭は少し口元を上げる。俯いていた視線がするりと撫でるように上がる。
「ラーナーは優しいやつだな」
「ううん……寧ろ地雷踏んだのはこっちだから」
 申し訳なく思いラーナーは頭を垂れる。今の沈黙の中で圭が何を考えていたのか彼女には分からないが、嫌悪感を抱かせるものを髣髴させたには違いない。こうやって、ふとしたことで相手を傷つけてしまう。トレアスでクロに対するときもそうだった、無理に詮索してしまう。
「あんまり気にしないでくれ。どうも昔の話は得意じゃないんだよなあ」
 圭は溜息を吐いてからそう言って、ラーナーは頷くしかなかった。
 より多くの知識を得たいと彼女が思う一方で閉ざされる彼等の思い。そこに深く踏み入ることができる程ラーナーは信頼を得てはおらず、彼女自身もそれを自覚していた。ラーナーはちらとクロの眠る顔を覗く。少し頬の赤味が和らいで無防備な姿で眠っている。けれどふと彼は牙を剥くのだ。絶対に越えられない境界線。越えさせまいと睨む瞳は獣の如く。トレアスにて、アランはクロが自分たちを信じていないと話していた。試みる相手がラーナーであろうと黒の団であろうとアランであろうと、彼の前では平等なのだろうか。一番信頼していると断言した圭にならば手を差し出すのだろうか。
 頭の中で考えを回しているうちに吐息を漏らす。
「クロの信頼を得るにはどうしたらいいんだろう」
 ラーナーはふと口走り、慌てて口を塞いだ。けれど人の口から発された言葉は打ち消すことができない。勿論聞き逃さなかった圭は話の転換に一瞬眉を寄せた。数秒後なんとなく理解したのか、あぁと曖昧に返事する。
「そんな気にしなくてもいいんじゃないか。あんまり固く考えてると辛くなるだけだぜ」
 適当に流そうとする圭にラーナーは顔をしかめる。
「……でも」
「俺からしてみると、ラーナーはクロのことより自分のことをもっと気にすべきだと思う」
「へ?」
 思ってもいなかった発言に思わずラーナーは素っ頓狂な声をあげた。それとは裏腹に圭は至極真剣な表情を浮かべ話を続けた。
「ウォルタの件もバハロの件も奇跡中の奇跡だぜ。トレアスもまったく狙われなかったのは違和感がある。意図が全く見えねえが生かされているとしか思えない。しばらく奇跡続きだから心が緩んでいないか。命を狙われてるんだぜ。本来、ラーナーは一人で旅をしなければならなかったんだろ。まあ、訳の分からんことが起こってから整理が付き始めたころなんだろうし分かるっちゃ分かるんだけどさ。俺らさっき会ったばっかしだしな、言えたことじゃねえか」
 少し冷えた空気を砕こうとしたのか最後に笑って見せたが空回りをするだけだった。
 ラーナーは唇を軽く噛んで浴びた言葉を飲み込む。自分の中でゆっくり消化し落ち着いて整理する。クロから一通り話を聞いたのだろう。筒抜けになっているラーナーの情報。対して出てこない彼等の情報。それがラーナーのもどかしさをより加速させるのだ。
 沈黙の中で虫の声が異様に目立ち、少し遠いところでトーンの高い声が突然こだますようになる。ソフィとミアがシャワーを終えたことを指している。
「圭くん、あたしは」圭が振り返ったのを確認してから静かに話す。「言うほど自分を顧みてないわけじゃないよ。ただ、知りたいんだ。クロ自身のことだけじゃない、自分に関することを。お母さんたちのこと、どうしてこんな状況に自分が置かれたのか……弟はどうして殺されたのか」
 彼の息がふっと詰まる。
 たおやかながら弱々しい印象を与えた目が冷たい怒りに燃えた瞬間。それは最後に添えられた言葉と共に現れた。愛想良い笑顔を保ち続けていた今までの表情とは違う。彼女の中に眠る黒い部分が顔を覗かせて圭は笑顔を引きつらせた。そして彼はその一瞬に、ある人物の姿を反射的に重ね合わせていた。
「やっぱニノに似てるんだな」
 表情を相変わらず固めたままの圭の口から突然登場した母親の名にラーナーは息を呑む。
「圭くんまでお母さんを知ってるの」
 呆気にとられた声で言うと圭は我に返りしまったと言いたげに少し顔を歪ませた。
「あー、なんていうかまあ。知り合いっちゃあ知り合い」
 言葉を濁し弱腰になった圭を血相を変えたラーナーは逃さない。
「ど、どういうところで知り合ったの? クロも知ってたし、ウォルタで恨むならお母さんやお父さんを恨めって言われた。お母さん達はどういう関わりを持ってたの。あたしは初対面なのになんで、セルドだって」
「ストップ!」
 せき止められていたダムが決壊しようとする寸前に圭は突っ張りのような大きな声をあげて制止する。突然の大声に敏感に反応したコノハナは跳び上がり部屋の端に寝ぼけ眼で逃げ込む。
 場が落ち着いたのを沈黙で確認してから圭は口を開く。
「……ニノが裏に関わりがあるのは事実だよ。俺もクロもさ、そこらへんをかじってるんだ。けど俺はニノのことはそんなによく知らない。クロの方が知ってる。言っていいこと悪いことが俺にはわかんねえし。クロも多分様子を見てると思う。焦んな、な」
 最早なだめる口調だ。ラーナーは消化不良で不満そうに唇を噛んだが、急いた心を押し付けて頷いた。この案件に対して自分の意思とは別に我慢が必要だということは今日までの日々でよく分かっている。急ぐな逸るな焦るなと心中で呪文を唱える。急ぐな、逸るな、焦るな。いつか状況を打開する場面がやってくる、何らかのきっかけが必要なんだと、呟きは奥底に溶けていく。
 ラーナーの表情に影が差しているのを見て圭は申し訳なさそうに俯く。ラーナーの気持ちも彼には理解できるのだ。けれどクロが謎を霧の中にしまっておきたがる思いも分かっている。中立の立場にいる彼は腰にさしたままの木刀を撫でて何かを考え込む。ちらちらとラーナーを何度か見てはまた視線を落とすを繰り返し、ひやりと訪れた静寂の渦中に小さく口を開いた。
「クロはさ」
 慎重な趣にラーナーは不思議そうに顔を上げた。
「クロは昔、ニノに命を助けてもらったんだよ」


 *


 デスクトップパソコンに映し出されたデータを見ながら彼女は溜息をつく。
 その部屋は六畳程の小さなものだ。コンクリートの冷たい風合いが剥き出しになった壁には小さな窓も無く息が詰まりそうになるほど無機質な場所だった。部屋を囲うように置かれた銀色に光るステンレス製の棚。分厚いファイルが隙間なく並べられている。机に向かい彼女はキーボードを叩き、時にマウスを操作する。無表情で続けられていくうちにふと溜息が漏れたのだ。夜の寒さを感じ椅子に掛けていた白衣を着て、冷めてしまったコーヒーに口をつけた。
 参ったな。
 彼女は心の中で呟く。
 今彼女が見ている画面にはぶっきらぼうともとれる白い顔をした顔つきがまだ幼い男子の小さな写真があった。写真の他は見ていると目が干からびてしまいそうになるほどの膨大な量の文字が並べられていた。ほとんど白黒の画面で違和感を感じる目立ち方をしているのは、写真の横に書かれた赤いバツの記号だ。
 いくつか他の同じようなデータを見ていくが、先程のページは他に比べても圧倒的な情報量を誇っていることが分かる。
 マウスを動かしかちりと音が響く。ふと画面の右部分に表示された地図を彼女は頬杖をついてじっくりと眺める。地図上には建物の情報が殆ど無く、僻地であることが見てとれる。しばらく考え込んだ後パソコンの隣に置いてあった書類を手に取る。こちらも多くのデータを含んだもので先程の男子のものと左程量は変わらない。紙は日焼けしていて少し古いものであることが分かる。写真は載っていないものの、その一番上には笹波白の名が綴られていた。
 と、小さな電子音が鳴る。ポケナビから通話がやってきたことを知らせる音だ。彼女は無造作にそれを取り応対する。
「なに? ――あぁ、やっぱりバジルは動かせないか。疾風もいないし相変わらずここは人員不足。今暇なのはいる? ちょっと辺境地に用があるんだけど。ま、いないか。いないわよね」
 目は笹波白に関する資料から離れない。
 仕方ない、私が行くか。
 最後に付け足すように言った言葉に電話の向こう側の人物は聞き返したが彼女は首を振った。その素振りは相手に見えなかったが、口元に表れた笑みの様子は口から出てきた言葉に滲み出た。
「なんでもないわ、気にしないで」












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