Page 39 : 老爺





 ルーク家は先祖代々農業を営んでいる。そう大きな運動ができない祖父を除いた家族総出で行っているらしい。ログハウスの裏側にある広大な畑には多くの野菜や木の実が育てられており、収穫しては村役場に赴いて休日の市場に出したり、軽トラックを走らせて町におりて売り出したりすることもあるとソフィは語る。そしてもうすぐ町を訪れるつもりだと。
「その時は一緒に行きますか。ここは本当に何も無いですし」
「いいんですか?」
 アイスを頬張りながらソフィは頷いた。
「後で畑も案内しますよ。といっても収穫ピークは過ぎたのでけっこう殺風景なんですけど」
「はあ……本当にしっかりしていますね」
 思わずため息混じりにラーナーは言う。
「そんなことないですよ。他にやることが無いから自然とこうなっちゃうんです。だからラーナーさんやクロさんが来てくだって嬉しいです」
 笑みを零すソフィに頬を赤くするラーナー。最後の言葉に惑わされて、返答の直前にソフィの表情が少し濁ったのを見逃す。
 ミアは余程ブラッキーを気に入ったらしく、今はその胴体を枕にしてぐっすりと眠りについている。先程までアイスを食べて走り回って奇声をあげての繰り返しだったものだから、現実以上に部屋は静まり返っているようだった。付き合っていた三匹のポケモン一同もようやく一息つけたといったところか、床にだらりと寝そべっている。
 食べ終えたアイスをテーブルに置くと、ふうとソフィは息を吐く。
「ほんと、ここは誰もいない場所なんです」肘をテーブルに立ててソフィは続ける。「うちはリコリスでも奥地にある方ですし、お隣さんも遠いし。お爺ちゃんお婆ちゃんばかりで。ミアの通ってる学校も合併で遠くなって行けないこともあって、友達と遊ぶのも難しい。だから、私と同じくらいの人が二人も、それにたくさんポケモンも連れてきてくださって、有難いことこの上無いです」
 恥ずかしがることなくすらすらと出てくる彼女のまっすぐな思いに、ラーナーは言葉が出てこなかった。女の子の形をした母親のように物腰が大人びていて、勝手に自分が壁を作っていただけだったのだと思い知る。この人は、様々な背景を含めた上で心からお客を歓迎しているのだ。たとえ赤の他人であったとしても。
 しんと心が震えるのを実感しながらラーナーは感謝の言葉と共に深くお辞儀をした。
「いやいや何をお辞儀なんて――ええと、そういえば圭達遅いですね」
 顔を上げてラーナーもああと声を漏らす。昼食も食べずにどんどん時間は経ち夕方へと向かっていく。何をやっているのかラーナー達には想像もつかないが、数年を跨いだ再会は感慨深いものがあるのだろう。
 しんと沈黙が訪れる。開け放った窓の外から流れ込んでくる風が部屋に安らぎをもたらす。山の空気は町よりもひんやりとしていて気持ちがいい。ポケモン達が気持ちよさそうに休んでいる様子も和やかさをより一層深いものとする。


 その時、垂れ下がっていたエーフィの耳がぴくんと大きく上がる。廊下を渡る重い音が聞こえてきたかと思うと突然扉が大きな音を立てて開いた。熟睡中のミアを除いたその場の全員は一斉に扉を振り返った。
「いやあぁソフィ気分良くなったぞ。薬がようやく効いてきてなあ、アッハッハッハ」
 しわがれた高らかなテンションの声がリビングに響く。白髪が豊かに盛られた男の老人は、腰を大きく曲げたままであるにも関わらず軽快な足取りで部屋に踏み入る。
 ソフィは慌てて立ち上がって彼の隣に駆け寄る。
「おじいちゃんもう大丈夫なの? さっきまでベッドで唸って吐いての繰り返しだったじゃない」
 彼女の声かけに応じてふふんと大きく鼻息を飛ばす。
「おう、この通りだ。まンだまだわしぁ現役よ。二日酔いなんぞに負けえほど弱かあねえ」
「現役って……」
 呆れるソフィの隣をするりと抜けてテーブルまでやってくるとゆっくりと椅子に腰かける。そこでようやく茫然と口を開けているラーナーを見つけると、老人は上瞼が伸し掛かって細くなった目をさらに一本の線のように伸ばした。視力は左程良いわけではないようだ。
「おんやあどちらさんかいな。珍しくジジババじゃなくてえらいわっけえモンが来とんなあ」
「圭のお客さんよ。ラーナー・クレアライトさんっていうの」
「お邪魔しています」
 素早く椅子から立ち上がり丁寧にお辞儀をする。老人はその様子を観察するように見つめ、何かを納得したかのようにゆっくりと何度か頷く。それが何を意味するのか周囲の人間には全く読み取ることができなかった。
「わしはフェルナン・ルーク。まあぁべっぴんさんが来たもんだ、圭の野郎もやんなあ、なあ」
 ソフィに同意を求めると彼女は適当に笑みを返してその場を流した。
 腰の曲がり具合に目を瞑れば、老体とは思えない程ハキハキとした口ぶりでよく表情を動かし、またソフィの言葉もよく理解しているあたり耳もそう悪くは無いのだろう。独特の強い訛りによるイントネーションの違いも手助けて、言い知れない力にラーナーは圧倒される。
 ところで、と彼は切りだし殊更にラーナーに顔を近づける。
「あんた、酒は飲める方か?」
「え」
「おじいちゃん!」
 聞き返したラーナーの声に被さるようにすかさずソフィの声が張りあがった。おぉ怖い怖いと言いながら老人はソフィに手をかざす。言葉とは裏腹に表情は晴れ晴れとしていてにやにやと笑っている。そしてラーナーと目があった途端にしゅんと顔をすぼめてこそこそと喋り始める。
「最近ソフィは母親に似て酒にうるさくなってなあ……もう老い先長くない人間に好きなもんすら満足に飲ませてくんねえ。可哀そうなジジイだとは思わんか」
「そう言って飲むくせに」
 ぼそりと批判したソフィを無視してフェルナンは続ける。
「酒は一人で飲んでも美味いが、誰かと喋りながら飲む酒はもう格別だ。御嬢さん、折角会えた祝いに一杯どげかね?」
 相変わらずたじたじと負けているラーナーは頭が真っ白になってごもるばかりでどう返事したらいいのかもう分からない状況に陥っていた。それを見かねてソフィは腕を前で組みフェルナンに対峙する。
「おじいちゃん、ラーナーさんは未成年よ」
 ラーナーは年齢をソフィに伝えていないが、彼女はそう断言する。実際未成年だから問題は無いが。
「大丈夫、ほんのちょんぼ飲んだくらいで人は死なん」
「ちょんぼしじゃないから問題なんだが……」
 もう何度もこうして言い合いながら結局フェルナンが何だかんだで勝利してきたのだろう。早くも彼女の瞳には諦めの色が浮かんでいる。一方デルナンは余裕綽々と笑みを絶やさない。
 しかしソフィは何かを決意したかのように視線を強めて二人の間に入るように身を軽く前に倒す。
「とにかく、ラーナーさんは駄目。女の子に強要せんの!」
「っけえ、真面目に育っちまったもんだなあ」
 不満そうに口を尖らせる。娘の強気に意外にもあっさりとした引き際を見せる。ソフィは困り顔で腕を組む。ようやく嵐のピークは去ったのだろうか、ラーナーはほっと胸を撫で下ろしながらも相変わらずかける声が見つからず狼狽えたままだ。
 そんな妙に湿った空気を打ち破るように、新たな嵐が続けざまに部屋に襲来する。
「ただいまあ」
 大きな声をあげて玄関からの扉を開けて、滝を浴びてきたかのように汗だくになった圭がリビングに入ってきた。その後ろについてクロもこそりと戻ってくる。彼の額からも大量の汗が流れ落ちてくる。バハロで全速力で走った時も汗を随分かいていたがそれを遥かに凌駕する量だ。この直射日光下で何をやっていたのだろうか、ラーナーは思わず眉をひそめた。
 クロは汗を服で拭きながらフェルナンを見つけると軽く会釈をした。
 見慣れない姿が圭の後から出てきたのを目にとめて、酒好きの老爺はつまらなさそうな顔から一変してにやりと笑った。彼の標的がラーナーからクロへと移った瞬間を理解できたのはソフィとラーナーだけ。もうソフィは呆れかえって言葉が出てこなかった。
 そして当人であるクロが不敵な笑みの指す意味を実感するのは、時間がしばらく過ぎた先の夕飯時であった。












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