Page 48 : 決断





 呼吸はとうに落ち着いていた。心もそれに合わせて静寂を取り戻していく。体が気怠くもう動きたくなかった。このまま消えることができたらどんなにか楽だろうと圭は叶うはずもない思いに駆られる。ただ、楽とはいえ、決して彼が求めている道ではない。複雑に絡む中で、随分と夜は深くなっていた。秋はもうすぐ来るだろう、それを思わせる肌寒い涼しい空気だ。激しい運動をした後には丁度良い気候だった。
 彼は近づいてくるゆっくりとした足音が耳に入ってくるのに気付いた。二人分のそれはいつか来訪するだろうと予想していたものだ。いや、来てほしいと願っていたものか。
 コノハナが暗闇の中で先頭をきってソフィをその場所に連れてくる。ソフィは寝転んだ圭を目に入れ、コノハナを追い越して彼に駆け寄りしゃがみ込んだ。走ってきたのか汗を滲ませ髪を乱した彼女は表情は心配そうに圭を見下ろしている。
「圭」
 彼女の呼ぶ声に圭は視線をまっすぐに向けた。
「圭」
「なんだ、来るとは思わなかった」
 嘘をつく。わざとらしく驚いてみせた声を作りだした。平然に、いつも通りにと心内で唱える。何も見せてはいけない。不安にさせてはいけない。作り上げた自分の位置を崩すわけにはいかない。彼が必死に守ってきたものを守り抜くために。不安に揺れる彼女を少しでも戸惑わせないように。先程まで暴れまわっていた姿を見せなかったことが救いだった。
 軽快な動きで上半身を起こすと、にへらと笑ってみせた。
「コノハナが連れてきたのか。参ったな。ここ、俺の秘密基地だぜ!」
 そう言ってソフィの隣についたコノハナの頭をぽんぽんと優しく叩く。空元気を貫く。作り上げる。嘘を重ねる。
「なんだよ、辛気臭い顔してさ。突然出て行ったのは悪いって思ってる。ごめん! ちょっと体を動かしたくなってさ。ほら、クロが大怪我って聞いてずっと不安だったから。とりあえず戻ってきたのを見れてほっとして、そしたらこっちに来たくなったんだ。あれだ、日常の癖が戻ってきたってやつ! だからまあ、気にすんな」
「圭」
「まあそうだよな、こんな夜も深くなってきたもんな。まあじゃあ、あのくそ暗い空間を元気づけにいくか!」
「圭!」
 ソフィは圭を制止しようと声を張り上げた。止まらぬトークを繰り出していた圭もさすがに足を止め、困ったようにソフィを覗き込む。
「どうした? というか、何回名前言うつもりだよ」 
「どうしたじゃないよ。なに無理してん」
「はは、してねーよ」
「してるよ。さっきすごく辛そうな顔してたが」
「してないって言ってんじゃん。俺のこと信じられねーのかよ」
 ひょいと立ち上がり木刀を慣れた手つきで元の位置、ベルトの左側に戻す。
 ふと圭はコノハナの方を向くと、ソフィと似たように悲しそうに表情を曇らせているのに気が付いた。
「どうした、コノハナ。お前までそんな暗い顔してんじゃねーよ」
 コノハナの小さな肩をぽんぽんと軽く叩く。するとコノハナは口を固く結び、触れられた圭の手を取った。両手で包むようにそれを握り、無言で何かを訴えるように圭の目を涙が零れそうに潤んだ目で真正面から見つめる。僅かに震えた声が漏れた。
「……やめろコノハナ。そういう思わせぶりなことは好きな奴にするもんだって」
 苦笑しながらもう片方の手でコノハナの頭を大雑把に撫でる。うまく躱されたコノハナは茫然としたように圭を見て、力無くその両手を下ろす。
 ソフィはその様子を見て静かに落胆する。
「……なんか気が抜けたよ、圭を見ていると」
「そりゃ、どういう意味だよ」
 ソフィが溜息をつきながら言うと圭は失笑する。そのままの意味だよ、ソフィはぽつりと絞り出した。胸の中がもやもやとして、痛かった。
「帰ろう、圭」
 先に立ち上がったソフィは圭に手を差し出した。
 彼は一呼吸を置いてから頷いて、その手を取り引かれるようにその場をすっと立つ。少し高く目線を上げた先で、ソフィは優しく微笑んでいた。
 着々と確実に歩んでいく時間は、無理矢理に彼等の背中を押す。




 暗闇の中を歩く。今夜は月と星が綺麗な晩であった。その明かりがあっても道があるか無いかが分かる程度にしか視界は明確化していない。遠くに光る一軒の民家の明かりが黒の中でぽつりと浮かんでいた。横に並ぶ隣の人の顔は、見えない。何を考えているのか、探ろうとしても表情が分からないから図りようがない。胸の奥が妙にざわめく。ある種の疲労が体を纏う。物寂しい静穏の佇む中で足音が小さく鳴っていた。遠くには黒く塗りつぶされた山の姿。近くには侘しさを残した畑の姿。他には、何も無い。
 そんな道を、ただ歩いていた。

「なあ、ソフィ」
「なに?」
「……」
「……なに」
「……」
「うじうじしてても、なんも分かんないよ」
「そうだな……」
「どうしたの」
「あのさ」
「うん」
「もしも俺がさ」
「うん」
「……ここを出ていくって言ったら、どう思う?」
「……」
「……やっぱなんでもない。今の無し」
「……」
「悪い」
「……私はさ」
「うん」
「圭がしたいようにすればいいって思っとるけんね」
「うん」
「私も、みんな圭の味方だけんね」
「――あのさ」
「なに?」
「前から思ってたけど、なんで俺のことそんな受け入れてくれてるんだ?」
「何、そんな今更な」
「言っても俺は居候じゃん。本当の家族じゃねえんだ。突然やってきて、突然住み着いて」
「圭は大切で掛け替えのない人だって思ってるよ、私は」
「……」
「それとも、そう思ってたのは私達だけだった?」
「……くそー」
「どうしたん」
「離れたくねえなあ」
「……」
「離したくねえよ」

 喜びと悔しさに揺れる中、彼は頬を赤らめて俯いた。心臓が高鳴る。短く小さく交わされる会話の後、圭は唇を噛みしめた。
 無数の星が彼等をそれぞれに煌めいて、見下ろしている。その中を静かに、ゆっくりと二人と一匹、歩いていた。ずっとこのまま道が続いていればいいのにと圭は叶いもしない願いを茫然と望んでいた。その思いは儚い憧れに溶けるだけ。幸せだった。夢のような幸福は身の隅々まで染み渡り、心地良かった。ずっと浸っていたいと思う一方で、ぽつんと佇んでいたきっとそれはできないのだろうという諦めに目を背けていたけれど、クロが怪我を負ったのを見て圭は胸が抉られるような直感を経験した。もしも黒の団がこのリコリスにやってきても、家族を守ることはできないのだと。
 彼はリコリスに残るか出るかと選択する自由を与えられているように見えて、いつしかやってくる終わりの前では結局一択しか残されていなかった。本当に離したくないと思うなら、どうすべきか。そんなこと、ずっと前から彼は解っていた。




 林を出て家への帰路を圭とソフィが辿りもう目の前にしたところで、灯りに照らされたクロが玄関の小さな階段部分に座っているのに彼等は気が付いた。クロは随分と前から圭達の存在に目を止めていたのか、静かにじっと見つめている。圭は唾を呑みこみ、強く手を握りしめる。クロと視線がぶつかる。数年にわたって目を逸らし続けてきた重い現実が、あろうことか彼の仲間であるクロという形をもって佇んでいるように圭には思われた。向き合いたくない、近付きたくない、心の底で叫んだところで無理矢理に逸らした顔はまっすぐに戻されるだけ。
 頭の中でぐるりぐるりと考えているうちに玄関にまで辿り着く。
「……私、先に中に入ってるね」
 ソフィが緊張の糸が張られた空気に遠慮してコノハナにも促し足を踏み出した瞬間、圭は彼女の手首をすかさず掴んだ。離れることを拒否したその行為にソフィは、驚いたようにまだ幼さの残る彼の横顔を凝視する。深呼吸を一つした後、口を開く。
「クロ、俺決めたよ」
「……どうするんだ」
 風がざざあと音を立て、通り過ぎていく。
 普段は気にならない音が、圭の耳を駆け抜けていった。
「ここを出る」
 圭は小さく、しかしはっきりと言い放った。
 クロは表情を崩さずに目を細め、僅かに頷いた。
 ひやりと涼しくなった空気に更に冷たい沈黙が乗せられる。ソフィを掴む手がはらりと力無く離された。暴れ、落ち着き、話し、考えた末に導かれた末の重い決意とは裏腹に、彼の顔は人形のように無表情で淡々としていた。
「リコリスを……出るよ」


 *


 クロとラーナーを除いた、ルーク家の面々の前でも圭は椅子に座って自分の意志を事務作業でもするように伝えた。ソフィ以外からしてみれば突然出て行ってようやく帰ってきたかと思えばあまりにも唐突で突飛も無い話題に呆気にとられるだけだった。何を言っているのか理解できずそれぞれ頭の中でその内容を頭の中で繰り返す。冗談だろうとジークが呟いたところ、圭は首を横に振った。決まりが悪そうにオレンジ色の瞳は床の方に視線を向けていた。事の重要性が真実であることを、その場にいる人々は圭から発せられる重苦しい雰囲気で痛感した。
 数秒の沈黙を置いてからはっと叩かれたように、圭に矢継ぎ早にやってくる何故かを問う言葉、止めようとする声。どうして急に。出ていく必要なんて無い。なんで、なんで、なんで、と。一見冷静に見えて心の中は大きく揺れて萎縮している圭がそれに対して落ち着いて答えられるはずもなく、小さな肩を更に狭めて口を紡ぐ。
「皆、落ち着いてよ」沈黙を貫いてきたソフィが遂に口をはさむ。「圭が怖がってる」
「怖がってねーよ」
 思わず圭はソフィの言葉につっかかるが、力無いものだった。もう既に彼は心身ともに疲れ果てている。
 ふと我に返ったようにジークとフェルナンは落ち着きを取り戻す。まだミアはよく理解できていないために、何が起こっているのかと問いながら圭に体を寄せる。圭は自分より随分小さく温かなその手を優しく握りしめた。彼の手は夜の間に長時間外出し続けていたために氷のように冷え切ってしまっていた。
「……何度もごめん。どうして、急に出ていくなんて?」
 一つ一つの言葉をゆっくりと切りながらジークは圭の顔を覗き込むように尋ねる。
「俺は……俺は居候ですから。いつ出ていっても不思議じゃないですし」
「そげんくそったれた理由で片付けられぇもんじゃねえぞ。顔あげえ」
「おじいちゃん」
 いつになく脅迫めいた口調のフェルマンにソフィは制止をかけるが、圭は素直に顔を上げてようやく動揺に顔を曇らせた家族の姿を目の当たりにして息を呑む。心臓が大きく跳ね続けて止まらない。ミアを握る力が強くなり、痛いと手元から声がしたのを耳に入れて慌てて手を離す。
「ごめん」
 ミアは慌てるように頭を横に振った。
「……圭ちゃん、ほんとにここを出てくん?」
 幼いながらに何となくには理解できているようで、同じ質問を投げかけるミア。丸く大きく純粋な目に圭は微笑を浮かべ、軽々とミアを抱き上げ自分の膝の上に乗せる。圭自身も小さいためそれは少し滑稽だったが、ミアは不思議そうに圭を見つめたまま離さなかった。密着した体温は彼の凍りついた心を少しずつ融かしていく。
「うん、出ていく」
「なんで?」
「……」
 口を閉じ、ミアから目を離しもう一度見回しそれぞれの顔を眺める。全ての視線は圭に突き刺さっており、重く痛い。けれど避けることはできない。
「俺、ほんとこの家族が大好きなんです」
「うん」
 ゆっくりと時間をかけて煮込んだような言葉にジークは身を乗り出して相槌を打つ。他は黙って見つめたまま。
「ほんとによくしてもらって、実際血縁的には家族じゃないのに、本当の家族みたいになれて。ソフィは時々暴力的だし、ミアは元気良すぎだし、どう考えても俺未成年なのに酒はしょっちゅう飲まされるし、絵の被写体になってみたいなわけ分からないこと言われるし、ソフィにきつい仕事押し付けられるし、大変だったけど……でも、それ以上に楽しいことばっかで、なんかこういうの恥ずかしいけど、すっげえ幸せで」
 昇ってくる自分の思いを素直に吐き出していきながら、ふと休憩をするように一度止める。
「でも……」
 息を詰めた。
「ゆっくりでいいよ、圭」
 ジークは優しく声をかける。圭は即座に首を横に振った。
「大丈夫です。でも、だからこそ俺はこの家族を守りたいから、そのためには、俺は出て行かなくちゃならない。……俺にとっては別に急でもなんでもなくて、いつかはこうなるって分かってて、でも甘えてて」
「ガキのくせに何大人びたこと言っとんだ阿呆」
 話が続いているところに被せるようにして、深くソファに腰かけてフェルマンは心を鬼にして圭に鞭打つような言葉を浴びせる。実際、その場にいる皆が思ったことを正直に代弁したのみだ。
 正直に全てをつらつらと話せば黒の団について話さざるを得ないがそんな気など圭には毛頭無い。オブラートに包もうにもどう言葉にしたらいいのか分からないまま、脳をフル回転させる。
「お前が出てくことがなんで守るだのなんだのそういうことに繋がるん」
 聞き取った瞬間、圭の目つきがきっと厳しくなり豹変した。
「――クロの姿を見たでしょう、あんなの、耐えられない!」
 思わず荒げる声に、誰もが体を硬直させた。
「俺は、俺がいたら、いつかここも! そんなの絶対に駄目だ。それだけは絶対に! だから俺はここにいない方がいい……巻き込みたくないし、俺が出ていけば皆を確実に守れる!」
 ミアが怯えたように圭の服を握りしめた時に圭は息を止め、躊躇いも無く出てきた発言の後に衝動的にやってきた後悔に愕然と立ちすくむ。何度か経験し、そのたび自己嫌悪に陥ってきた。彼の素直な部分が裏目に出てしまう悪い癖の一つである。感情的にならず、冷静にうまくまとめるつもりだった。悔しくて不安な心の一部が綻んで一気に放出されたそれに、一行は呆気にとられる。しまった、やってしまった。圭は目を見開き、この息の詰まるような場所から逃げ出したい気持ちに駆られる。
 その時、自身の行為に動揺する圭の背にソフィの手がそっと置かれ、彼の高揚した気持ちを落ち着かせようとするためか上下にその背中を摩る。
「わかった、ありがとう、圭」
 消えてしまいそうな掠れ声で彼女は圭の耳元に呟いた。
「もう、いいよ」
「ソフィ」
「なんかね、よくわかんないけど、どんなに私達が言っても出て行っちゃうんでしょ」
 圭は言葉が出ず彼女の顔を凝視する。ソフィは少し悲しげに微笑んだ。
「そのことに変わりがないなら、理由とか聞いてももうしょうがないんだ」
 既に彼女は諦めたように囁いた。冷静な彼女の分析はこの場の人々を黙らせるのに十分であった。
 優しく背中を摩られるのが心地良く、圭は心が次第に落ち着いていくのが分かった。一瞬でこうやって包み込む母性的な行為はソフィがしっかりしていると言わせる所以の一つ。敵わないなと圭はしばしば思う。今もそう実感する。つい甘えたくなってしまう。そんな考えを振り払うように彼はミアを床に下ろして立ち上がった。
「ソフィ、俺荷物まとめるわ。倉庫の鍵をくれ」
「倉庫? そんなところになんか置いとったっけ」
 考え込むような動作をしながらソフィは気付いたように、あ、と小さく声をあげる。そしてすぐに表情を曇らせる。
「……そうだったね、そういえば」
「頼む」
 圭は頭を軽く下げて懇願する。
 複雑な表情を見せながら、当然断ることもできずソフィもその場を立つ。
「私ももついていくよ。もうちょっと話したいことあるし」
 ソフィの要求に圭は少し迷うように目を泳がせたがこくりと頷いた。
「あたしもいく!」
 ミアは声をあげた。
「……ミア、ごめん。ちょっと圭と二人で話させてほしいんだ。いいかな」
 しゃがみ込んでミアに視線を合わせてからソフィは宥めるように言う。不満そうにミアは顔を俯かせ唇を尖らせたが、ソフィの真剣な威圧感に押されて、納得はしていないようであるものの渋々頷く。ソフィはにこりと笑って柔らかな髪をくしゃりと撫でる。
 それからソフィは再び立ち上がりリビングの窓の近くに置かれた棚の傍に行くといくつかある引き出しのうち一つを選び、古びた倉庫の鍵を一つ取り出す。それをズボンのポケットに入れると圭の方を振り返る。
「じゃ、行こう」


 *


 家を出て圭とソフィは暗闇の中を歩いていた。倉庫は家の裏側に隣接しており、夜になるとまったく灯りが無い状況を進まなければならない。ソフィはあらかじめ用意した懐中電灯の僅かな光を頼りにゆっくりと進んでいく。草むらに隠れている虫の鳴き声を伴奏にして、土を踏むばらついた足音がこだます。話したいと言いながらソフィは一切口をきかなかった。重い沈黙を抱えたまま二人は小さな木造建築物に辿り着く。目的地であるルーク家の倉庫だ。
 ソフィは扉に光を当てて鍵を開けた。扉をゆっくりと開けると悲鳴のような耳触りの悪い音が響きわたる。それに苦渋の表情を見せながら、ソフィは中に入りすぐに中の明かりを点けた。僅かにオレンジ色がかかった温もりのある光が内装を明らかにする。
 部屋の四方には棚がきっちり並べられ、その中には多くの荷物が収納されている。床に乱雑に放置されたものもあるが整理はされている。とはいっても、普段は鍵をかけている、つまりはあまり日常的には使わない場所であるために土埃がひどいのが目に余る。
「どこに置いたっけね……」
 ソフィは懐中電灯を床に置くと荷物に手をかけていく。
「じゃあ、俺はこっちを探す」
「お願い」
 二手に分かれてそれぞれ目的の物を探す。昔使っていたという農作道具やジークが部屋に置ききれなくなった絵のキャンバス、果ては随分と前の記録を遺している新聞紙など様々なジャンルのものが入り乱れている。
 終始無言で作業を進めているうちに、ソフィは金属同士がぶつかったような音を耳に入れ、顔を覗き込む。手前にある物を一気に床へ下ろしていく。
「あった」
 高いところのものが取れずギリギリまで背伸びをして苦戦していた圭は、ソフィの感嘆の声に振り返る。
「ほんとか」
「うん」
 圭はソフィに駆け寄り、彼女から目的の物――刀を受け取る。
「うわ」手に取った瞬間圭は小さく驚愕の声をあげる。「これ、こんなに重かったっけな」
 刀身は圭の足と同じ程度の長さ。圭は手を持つ部分である群青色の柄を握る。刀の重さが直に伝わる。木刀とはまったく違う。忘れかけていた感覚だった。沈んでいた心が徐々に高まっていくのを彼は感じた。口元が僅かに上がり、纏わりついている埃を手で払う。
 それをソフィは複雑そうな表情で見つめていた。
「ほんとに、行くんだね」
 ぽつりと寂しそうにぼやいた声に気が付き、圭は我に返ってソフィを見る。
「……なんだよ、泣きそうな顔してんぞ」
「だって寂しいんだもん」
「だもんって、なにらしくない言い方を。寂しいとかさ――うえぇえ!?」
 思わず圭から奇声が飛び出す。
 というのも、暗みがかかったソフィの瞳から一筋の涙が流れたからだ。
 そこからはあっという間に雪崩れていった。止まらずどんどんと溢れていき、ソフィは慌てて顔を手で覆い嗚咽を漏らし始めた。鼻水をすすり、真っ赤になり始める頬。俯くと、指の隙間から滴が零れ落ちていく。
 圭は慌てて刀を足元に置いてソフィの傍に駆け寄る。
「おいおいおい、そこまで泣かなくたって」
「分かん、ないよ私、だって! うっ、だってさ、だってさあ」
「ふざけんな泣きたいのはこっちの方だよ!」
「じゃあ圭も泣けばいいんじゃんかっ」
「ソフィが泣いてんのに俺が泣けるわけねーだろ!」
「意味わかんないよ何かっこつけてんの、もう、バカ圭! チビ圭! もう、もうううう」
 突然の罵倒と更に勢いを増す涙に圭はただ戸惑うだけだった。意味分からないのはこっちの台詞だ、そう言いたくて仕方が無かったがそれは寸前で呑み込む。バカはともかくチビはいつも突っかかって反抗するが混乱の余りそんな余裕も彼には無かった。
 普段家事も仕事も何もかもしっかりとこなすソフィは、まるでミアの年頃の子供に戻ったかのようにただただ声をあげて泣いていた。
 俯いていても彼女を見上げている自分の背の低さに圭はもどかしさを覚える。ドラマの世界ならここで男が女を抱きしめたりするもんだよなあなどと拙い知識が出てくるけれど、彼がそれをやっても子供が大人に抱きつくような見た目になってしまう。なんとなく圭にはそれがネックで、そもそも今のソフィに触れることすら彼には躊躇われるわけで、胸におさめるなどもっての外である。
 じゃあどうすりゃいいんだよ。泣きたいのはまじでこっちの方だよ。
 心の中で呟いた圭はソフィが必死なまでに泣いているのを見て、ここで過ごしてきた思い出が流れ込んできたのも相まって目頭が熱くなってくる。それを払うようにがしがしと乱暴に自分の頭を掻き、ソフィに強い視線を向けた。
「ああああもうっ泣くな。永遠の別れってわけじゃねーんだからさ」
「圭には私の気持ちわかんないよ!」
「わかんねえよ、だから話せよ! なんのために一緒にここに来たんだよ。泣くためじゃないんだろ、話すためだろ!」
「うううぅぅう……」
「どうしたんだよ一体……」
 声も出なくなったソフィ。圭は居心地の悪さにきょろきょろと倉庫の中を見渡すと、古びているものの木製の小さな丸椅子が隅に倒れているのを見つける。そこへ行くと埃を十分に払い、またソフィの元に戻って座るように促す。
「とりあえず座って落ち着け、な。話はそっからだ」
「……うん」
 素直にソフィは背丈の低いその丸椅子に腰かける。彼女の顔は涙と鼻水でくしゃくしゃに歪んでおり、痛々しさすら感じ圭は直視できなかった。倉庫に眠っているタオルなど汚くて使えないだろう。どうしたものか、圭は考え込む。
「あーもうっ」
 圭は数秒間を空けた後に、自身のTシャツの上に羽織っていた半袖の赤いシャツを脱いで乱暴にソフィの頭に被せる。さすがに驚いたのだろう、ソフィの肩がびくりと跳ね、服を手に取る。
「それ使え! 顔ひどいぞ」
 気恥ずかしいのかソフィに背を向けて圭は言う。
「うう……ありがとう……いいの?」
「いいよ。いいから早く拭きなって」
「ありがとー……」
 ソフィは圭の服に顔を埋め籠った声を漏らす。圭は肩を落とし足元に座りソフィを見下ろす。
 しばらくして少し落ち着いてきたソフィはゆっくりと顔を見せる。涙や鼻水は拭き取られたものの目や鼻の頭は赤くなっており、歪んだ眉間は張り付いているかのようだ。
「ごめんね」
 ソフィはそう呟き、圭は首を横に振る。
「別にいいよ。びっくりしたけど」
「うん……」
「落ち着いたか」
「ちょっと」
「そっか」
 圭は安堵の溜息をつく。倉庫の中は徐々に静寂を取り戻していく。
 風に舞う埃に圭は何度か咳き込む。そうして改めて口を開いた。
「あーえっと……寂しいって、そんな、泣くほどだった、のか」
 ソフィは黙って一つ大きく頷く。躊躇いはなく、いやに素直な返答だった。
 圭は少し頬が熱くなるのを感じた。口元が変に動くのを誤魔化そうと唇を甘く噛む。
「なんかそこまでとは思わなかった。……ごめん」
「なんで謝るん」
「えっと」
「圭はなんも悪いことはしとらん。でも、寂しいもんは寂しいに」
 また出てきた涙を拭い、ソフィは圭を見る。
「へへ、なんでかな。いつかこうなるかもって思っとったんになあ」
「……思ってたのか」
「うん、だから多分、案外納得したっていうか」
「俺、思わせぶりなことしたっけ」
 圭はこの家の人に対して隠し事を突き通してきたはずだった。だからこそ、ソフィがそう発言したことが不思議だった。
「なんとなく」
 ソフィはまた溢れそうになる鼻水を啜りながら失笑する。
「でも、こんなに泣くとは思わなかったなあ」
「俺もだよ。一体どうしたんだ。なんかおかしいぞお前」
「そうだね……でも、ほんとはこれがほんとの私なのかも」
 ソフィは一呼吸置いてからまた話し始める。
「あのね、じゃあ、少し私の話聞いてくれる?」
「うん」
 断る理由も無い圭は容易く了解する。ありがとうと彼女は微笑んだ。
「さっきさ、圭、どうして自分のことを受け入れてくれるんだって言ったじゃん……圭って実は私にとってほんとに大きな存在だったんだ」
「……おう」
「やっぱさ、ここら辺で私と同い年ぐらいの人って全然いないじゃん。昔から、そうだった。でも、お父さんもおじいちゃんも、今はいないけどお母さんも居たから、良かった。けど、ミアとサラが生まれて、サラのためにお母さんは首都に行って、お母さんが居ない代わりをせんとってすっごく思って、頑張って、しっかりしなきゃってなって……苦しくてもうまく言葉にできんで、友達も近くにはおらんし辛かった。……そうやってずーっと過ごしていた時に、圭が来たん」
 圭は頷いた。
 今でもあの日の光景は色濃く残っている。

 圭は意図してこのリコリスに来たわけでは無かった。むしろ、出会いは最悪だったといっても良いだろう。ジークがホクシアの市に売りに出て、帰ろうとして軽トラックに荷物を運んでいた。彼一人で荷物運びに何往復もしている間に、空腹にふらついていた圭はトラックにこっそり乗り込み、売れ残りであった野菜や果実を齧った。まさに町に蔓延るコラッタのやることと同然。久々に腹が満たされた圭は隠れるように縮こまり、眠りについた。
 しかし少し気の抜けたところがあるジークは圭が乗っていることに気づかずそのまま軽トラックを発進させた。
 そして、彼はリコリスにやってきたのだ。
 当然荷物を降ろす際にその姿は晒される。
 当時の圭は今と違って無表情で感情を一切外に出さず、言葉すら一言も発さなかった。残り物とはいえ大切な商品を大量に食べられたフェルナンは怒りの雷を落とし、圭に遠くに行くよう命じた。慈悲深いジークは理由を問おうと説得したがフェルナンは聞く耳を持たなかった。
 秋が冬に変わろうとしている頃、夜の話だ。夜は急激に冷え、圭は近くの荒んだ畑の近くに身を隠していた。ここがどこなのかさっぱり見当もつかなかった。また圭の出身はそもそも李国であり、アーレイスの言葉はまったくといっていい程分からなかった。ただ、フェルナンに罵倒の言葉を投げつけられているんだろうということは怒った表情を見て分かった。その時ルーク家に居座ろうなどという考えは微塵も無かったのである。
 ぽつりぽつりと降り出した雨。雨宿りをする場所も無い田舎町で途方に暮れていた。沢山食べても時間が経てば当然お腹は空く。空腹に寒さ、孤独に曝された圭はただ雨に打たれ続けていた。
 そんな彼に手を差しだしたのが、ソフィだった。
 片手にはパン、もう片方の手に持った傘の中に圭を収め、不器用な微笑みを口元に浮かべて言った。
「これ、あげる」
 言葉など分からなかった。けれど圭は差し出されたパンを迷うことなく必死で食い尽くした。
 そして、圭はルーク家に来るきっかけを得たのだ。

「圭は髪も目もオレンジ色でヤンキーみたいで、でもって何にも話さなくて睨みつけてくるばっかりで怖かったけど、でもなんかちょっと嬉しかったん。なんでかな。ずっと外におったのも知ってたから、可哀そうって思ったのかもしれないけど、でもやっぱり、同じくらいの年の子に会えたのが、私にとってはすごく大きかった。仲良くなりたいって思った」
「……毎日のように会いにきたよな」
「うん。で、おじいちゃんとかも説得した。不思議なくらいまっすぐだった……今思えば全部おかしいくらい」
「必死になれば言語もなんとかなったし」
「圭はスポンジみたいにするする吸収していったからね。異常だよね。でもなんか、楽しそうだったし」
「ああ……楽しかったんだ」
「私も、楽しかったよ」
 全て大切で美しい思い出だった。徐々に鉄の心が融かされ家族に馴染み、いつの間にか圭はルーク家の一員も同然の存在になっていた。
 けれど、その一方で圭の心の底に残る暗い記憶は決して癒されることはなかった。後に林の中に隠れ場所を見つけることになりそこでストレスを発散するようになったが、いつ振るうかもわからない刀にはさすがにソフィもミアも怯え、妙に気が据わったジーク等大人勢が取り上げ、倉庫に封印した。それが、今取り出したものだ。
 圭はそっとその刀を手に取る。
「……俺はさ、正直最初はソフィのこと利用してた、生き抜くために。今だから言うけどさ。いつからそういう思いが無くなったのか分かんねえけど、俺を変えてくれたのは間違いなくルーク家の皆だし、俺を初めに救ってくれたのは、確かにソフィだ。感謝してる、本当に」
「……ううぅ」
「おいおい、まだ泣くのか」
「バカ圭のくせに生意気だよ」
「うっせえ。お前も前の方が可愛げがあったよ」
「もう」
 ソフィは涙目のままで小さく笑顔を浮かべた。
 瞬間に圭の心臓が大きく跳ねる。顔に帯びる熱が増していく。
「とっとにかく! 俺はその、皆のこと大切に思ってるからこそ、……出ていく」
 和やかになった雰囲気にまた重みが加えられる。ソフィは表情を一転させて曇らせる。
「……うん」
「ごめん」
「大丈夫」
「俺、行くよ」
「うん」
「もう、決めたから」
「……もし、首都に行くことがあったら、お母さんに一言よろしくね」
「勿論。ソフィがすっげえ寂しがってるって伝えとくよ」
「元気ってだけ言ってくれればいいの、ばか」
 力無い最後の単語に圭は失笑した。これからもずっとそう言われ続けるんだろうな、とそう思った。
 圭はソフィに背を向けすっと立ち上がった。手に持つ刀を横にすると、ゆっくりと鞘を抜き、銀色に輝く刀身が露わになる。光を反射して鋭く光る。周囲は息を呑む。圭は深呼吸をする。集中力を高め、刃をなぞるように視線を動かす。イメージを膨らませる。
 ああ、そうだ。絶対に、必ず、ここに戻ってくる。ここは自分の帰ってきていいと許された場所だ。居てほしいと言ってくれた場所だ。ここの人達も自分の居場所も守るためにここを飛び出し――黒の団と戦う。
 決意の灯がオレンジの瞳に点いた瞬間、心は水のように落ち着いていく。

「――白雨」

 静かに呟いた。
 瞬間、刀身が淡く青く透き通った光を放つ。まるで水が刃に纏わりついているかのように踊るそれを圭は指でなぞる。冷たい感覚が指に伝わってくる。静寂の中湧き上がってくる強い決意に刀が答えているようだった。もう後戻りはできないことを実感する。後悔が無いと言えば嘘になる。けれど彼はもう、前に進む他なかった。
 直後、彼の体は後ろから温もりに包まれた。
 ふっと、息を止める。
 背後から抱きしめたソフィはその力を徐々に強めていく。絶対に話したくないとでも言いたいように、ぎゅっと彼の体を掴んで離さない。
 危ない、とか、どうした、とか、何か声をかけたかったが圭は心が乱れ今にも爆発してしまいそうだった。だから何も言わなかった。何も言えなかった。耳元に直に聞こえてくる彼女の吐息、背中から伝わる彼女の温もりに身を任せていると、奥底から熱いものが溢れだし、我慢していた涙が一粒、遂に床に落ちた。
「絶対、帰ってきてね。大怪我したりなんかしちゃいけんよ。絶対、絶対、絶対に! ……じゃないと、許さないから!」
 ソフィは涙声で訴えた。強く、強く抱きしめた。
 圭は鞘を床に落とし、空いた左手でソフィの腕に触れる。
「ああ」
 優しく、愛しさを込めて彼は頷いた。












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