Page 49 : 笑って





 夜は過ぎ、ルーク家は別れを前にして皮肉な程に爽やかで晴れ晴れとした朝を迎える。
 クロは朝食を力無く拒否して、傾斜の緩やかな屋根を選んでこっそりと身を休めていた。涼しい風に身を晒しながら仰向けに寝転がりたい気分だったが、そうすれば背中に激痛が走るのは目に見えているため実行はせず、座った状態でもうじき離れることになるリコリスの青々とした景色を目に焼き付けている。
 緑髪が風になびく中、遠い空に溶け込んだまま滑空する生き物の姿を彼は目に留める。大きな触覚の優雅な動きとは裏腹にせかせかと忙しく動く四つの羽。一体今の今までどこにいたのか、いつの間にか飛んで行ってはまた戻ってくるそのアメモースはクロの元へと静かに降り立つ。威嚇にも使われる触覚の模様は近くで見ると迫力満点だが、さすがにクロにしてみれば慣れたもの。優しくその滑らかな肌を撫でる。
「お前は元気そうだな」
 アメモースは小さく声を漏らし、大きな触覚でぱたぱたとクロの背中を軽く叩く。
「俺も元気だよ、どいつも心配性だ」
 わざとらしく溜息を吐くとアメモースも合わせるように溜息らしきものを吐く。思えばアメモースとこうして接するのは久しぶりだと彼は振り返る。自分がそうしているのだが、暇になるとアメモースは外に出して自由に散歩をしていた。それは、いつ何があるか分からない中でもポニータが傍に居たから今までできたこと。ポニータが重症を負っている今は、しばらくお預けというものだろう。だが、スキンシップをじっくりととれるという意味では案外悪いことばかりではないのかもしれない。そんなことをクロはふと思いつく。
 アメモースは飛行に疲れたのか甘えのつもりか、軽く羽ばたいてクロの膝元に体を乗せるとふぅと安堵の息をつく。重さは大したことないものの、八〇センチ程の体長と大きな触覚によってクロの視界が大きく遮られる。
 些細ではあるがいつもに比べれば積極的に接しているアメモースにクロは疑問を浮かべるが、気まぐれなアメモースのことだ、これも気が向いたからに過ぎないのだろうとぼんやり考え、前を見据える。少し遠くに昨日訪れた向日葵畑が見える。時期を考えれば遅咲きのそれは、もう少し時間が経てばやがて枯れていくのだろう。その時まで、今のように黄金の輝きを閑散とした村に与え続けるのだろう。

 と、視界に遮られた場所から何か音がしたのを耳にしてクロは上半身を乗り出す。アメモースも下を覗き込むと、エーフィとブラッキーを連れてラーナーが何やら分厚い本を手に外にとび出していた。後からミアがはしゃぐように追いかける。
「よし、エーフィ……えーっと、スピードスター!」
 ラーナーが本を開き文字を追いながら指示をする。エーフィの額の赤い宝石が煌めき、白い光が収縮する。と思えば次の瞬間、五芒星を象ったエネルギーが散らばり、一直線上、つまりはブラッキーの元へと走る。
「かわいい!」
 ミアが黄色い声をあげる。
 ブラッキーは軽快な動きで回避しようとするが、スピードスターの特徴は“確実に当たる”こと。見た目にはミアの言うとおり可愛らしいが、実際のところその能力はむしろ鬱陶しい。追尾すると、ブラッキーは目を細め、透明な壁を自らの周囲に張る。
「守る、か」
 ラーナーはページを捲りながら呟く。星は壁にぶつかると欠片となり空気中に散布し、何事も無かったかのように溶けていく。
 どちらの技も先の戦いで見せたものだ。ラーナーはその様子を改めてじっくりと見る。
「サイコキネシスは強いし……あと何を覚えてるんだろ……やってみて」
 本とにらめっこをしながらエーフィとブラッキーに要求をすると、対峙している二匹は困ったように顔を見合わせる。数秒の沈黙を置いたのちブラッキーは目を閉じ一気に集中力を高める。黒色の風がブラッキーの周りを蠢き始め、ぱっと赤い目が再度現れた瞬間、黒いそれは円状に波打つ。――速い。けれどそれ以上にエーフィは素早く動いた。回避と攻撃、どちらも行える凡庸性のある技、電光石火。一気にブラッキーとの距離を詰める。けれどブラッキーの技はまだ終わっておらず、接近した瞬間第二波を撃つ。エーフィはそれに弾かれた。
「エーフィっ」
 ラーナーは声をあげた。勿論手加減をした攻撃だったものの弱点である悪タイプの技だ。地面に転がったエーフィは痛みに顔を僅かに歪め、ゆっくりと太陽の光が注がれる天を仰いだ。
 赤い石はぼんやりと輝き、眩しくも柔らかな光がエーフィを包む。
 エーフィの体に纏わる太陽光を集めた光は傷をみるみるうちに癒し、乱れた体毛はすっと元のビロードのような美しさを取り戻す。光が収縮していき落ち着いた頃、何事も無かったかのように涼しげな表情ですっと立ち上がった。
 次々と二匹の間で展開される技の応酬にラーナーは困ったように首を傾げた。止む無くそこで二匹のバトルは一度中断される。
「うーんと、ブラッキーのは悪の波動ってやつかな。それで今のは……回復……?」
 忙しなく目を動かし、落ち着かせようとその場に座り込む。ミアもその資料を覗き込む。見開きに書かれたエーフィに関する一般的なデータはあまり見慣れたものではなく、ラーナーの頭を混乱させる。

 味方同士で一体何をやっているのだろうか。
 クロは呆れたようにラーナーを見つめていると、ブラッキーがこちらに気づいてじっと視線を送っているのに目を止める。赤い目で何かを訴えているように見えたのだが、クロは溜息を吐いて無視を貫く。ラーナーが困っているところを助けてほしいという意なのだろうが、彼は面倒くさいことには基本的に足を突っ込まない主義だ。それは気まぐれアメモースもまた同じことである。
 そうしているとソフィとコノハナもクロの視界に出てきて何やらラーナーに話しかける。するとラーナーはぱっと表情を明るくさせて納得したように何度も頷いた。なるほどなるほど、と高いトーンで言っているのがクロの耳にも入る。
 ブラッキーがエーフィの傍にやってきてちょいちょいと叩き、そしてクロの方に目線をやる。呼ばれたエーフィは屋根の上に視線を移し、そこでようやく屋根の上に居る存在に気付いたようだ。のんびりとした声をあげるとさすがにラーナー達も顔を上げ、全員の視線が屋根の上へと集中する。ミアだけは、その瞬間に思わず目を逸らしてしまったけれど。
「クロ、そんな所にいたの」
 呆れた口調でラーナーは呼びかける。静かな安泰の時が終わったことをクロは悟り、仕方なさそうに背中を少し正す。
 昨日から引き続き暗い雰囲気を帯びている彼にどんな言葉をかけるべきかラーナーは躊躇った末に、ぱっと笑顔を作りだしてお腹に力を入れる。
「クロも来る? 今、エーフィやブラッキーがどんな技を覚えてるのか整理しようとしてるとこで。さっきちょっと話を出したらジオさんが図鑑を出してくれて、これに色々のってるんだけど」
「なんで今更わざわざそんなことを」
「なんて?」
 地上付近と二階の屋根の間には大きな距離があり、さすがにクロのぼやきはラーナーには聞き取れなかったようだ。ああ、これはやっぱり面倒くさい典型例だ、そう直感したクロは首を横に振る。
 一連の事件で力の片鱗をようやく見せたエーフィとブラッキーはクロやラーナーが思っている以上に戦力として大きなものを持っていることが判明した。だが、落ち着いて振り返ってみればラーナーが何か指示をした様子をクロは見ておらず、ポケモン自身の判断と行動力で迅速に対応できていた。バトルにおいてトレーナーの役割は広い視野を持ち客観的視点から冷静に状況を見て、最善の策を瞬間瞬間でとり、ポケモンを勝利に導くものだと彼は思っている。それがラーナーに出来るかといえば疑問が浮かぶのが正直なところである。そもそも、ラーナーがそういった場に居合わせ参加することなど、あってはならないことだった。彼女もそれは望んでいないはずだ。
 だからこそ、彼にとってラーナーの行動は不可解だった。
 ラーナーはクロの無色の表情に肩を落とし、再び手元の図鑑に視線を落とす。
「……朝の陽ざし、これかな」
 首を傾げながら言うとエーフィは頷く。ラーナーの父母のおかげで技名と実際に繰り出す技は一致しているのだろう。ラーナーはほっとしたように微笑んだ。
 玄関の戸を開ける音がすると家の中から圭が姿を現し、すぐにラーナー達の様子を目に入れおぉと声をあげる。
「やってんな」
「――圭ちゃんっ」
 玄関から聞こえてきた声にラーナーは振り返ると、身支度を整えた圭がゆっくりとこっちに向かってきていた。ミアは歓喜の声をあげてラーナーの傍から離れると圭の元へと走っていく。
「おおうミアお前元気だな」
 飛びついてきたミアに圭は少し戸惑いを見せる。ミアはここぞとばかりに思いっきり抱きついているとおずおずと近寄ってきたコノハナも一気に圭にとびついた。さすがに圭は予想外だったようで足元が少しよろめいたが、持ち前のバランス力を以てなんとか踏ん張り受け止める。
「おいコノハナもか! なんだこれちょっと痛いんだけど」
「えへへー」
「えへへじゃねーよ。お前等ほんとに分かってんのか? ったくもう」
 まったく身動きをとれなくなっている圭は困ったようにソフィに目をやる。救済を求められたソフィはにやりと笑っただけで目をすいと背けてラーナーの傍に歩み寄る。
「良かったらエーフィとブラッキーの分だけページ取っちゃいない。さすがにそれ全部は重くて邪魔だしね」
「え、でもそれはさすがにだめでしょ。悪いし」
「いいよ。ま、お父さんのだけどね。埃被ってるくらい普段は全然見てないものなんだし」
「う、ううん……」
「はいはい、じれったいなあ」
 ソフィは言いながら図鑑を自分の元に寄せると、エーフィとブラッキーについて載っているページの根本を一気に引き裂いてしまう。耳に障るその音がした瞬間ラーナーはあまりの出来事にぽかんと口を開け茫然とソフィを見つめる。その間の抜けた表情にソフィは苦笑し、分裂したそのページをラーナーに差し出す。
「ソフィ、いつに無く豪快だね……」
 呆気にとられたまま半ば押し付けられたような図鑑の一端をラーナーは受け取る。
「おいおい、後で怒られてもしらねーぞ」
 相変わらずミアとコノハナの相手をしながら圭がにやりと笑いながら突きを入れると、ソフィは負けじと不敵な笑みを浮かべた。
「平気だよ。お父さんも分かってくれるから」
「なんかソフィ、雰囲気明るくなったね」
「……そうかな」
 ラーナーの言葉にソフィは首を傾げる。
「前から明るいけど、なんか、さっぱりしてる気がする」
「案外鋭いこと言うじゃないか、ラーナー」
「いや、そんなつもりじゃないよ」
「なんていうかな、もっとしんみりとした空気になるかと思ってたよ。心配して損したってやつだ」
「ははっ……まあそうかもなあ。まあでも、ラーナーが前向きにいようとしてるけんさ」
「前向き、なのかなあ」
 ラーナーは自信が無いかのように視線を落とす。しかしその直後に喝を入れようとしたのか、ソフィが少し強めの力でラーナーの背中を叩き表情が暗くなるのを防ぐ。
「こうやってエーフィやブラッキーを知ろうとしとるじゃん。ラナは頑張っとるよ」
「うん……」
「ラナは心の芯のところが強いし」
「そんなこと」
「あるよ」
 そんなこと、ない。そう言おうとした矢先にソフィが無理矢理強く言い放って被せて阻止する。ラナが少し視線を上げると、ソフィは若干怒っているようにもとれるような強い視線をラーナーに向けていた。
「クロ君を助けに行ったじゃん。大怪我をしてても頑張ってクロ君を励まして、やるべきことをちゃんと指示してくれてたじゃん。私なんて怖くてしょうがなくて何もできなかったようなもんだよ。クロ君は気失っとったけん知らんのんだろうなあ。ラナは絶対クロ君には必要だよ、そういうのすごく感じた。うん」
 ソフィの口からすらすらと出てきた言葉にラーナーは唇を噛みしめ、照れるのを恥ずかしそうに手で隠す。暗いことが続いた中で純粋なソフィの言葉はすとんとラーナーの中におさまる。無理矢理クロの旅路に参加した身であるからこそ、余計に喜びは増す。
「……うぅわあああソフィ大好き! なんかありがとう!」
「私もラナ好きだよ! 圭より行かんでほしい!」
「おい」
 思わずラーナーはソフィの元に駆け寄り、冗談と分かっていながらも出てきた発言に圭は反射的に突っ込みを入れる。しかし二人の様子を見ていると言及して横入りしようという気にはとてもならず、失笑を残したまま自ら身を引いた。
 その時ログハウスの裏の方から車のエンジン音が鳴り始め、ゆっくりと見慣れた軽トラックの姿がこの場にいる人々の前に現れる。運転をしているのはジークだ。距離を置いていたエーフィとブラッキーは少し慌てたような足取りでラーナーの足元に集まる。軽トラックが人の集まっている傍に器用に停まると、運転席の窓が開いていく。
「お話の最中悪いね。どうだろう、そろそろ行こうかと思うんだけど」
 窓から顔を出したジークが声をかける。
 笑顔に包まれ明るかった空気がその瞬間に少し落ち着き、一同はだんまりとする。心のどこかでまだ来ないでほしいと願っていた別れの時間はもうすぐそこにやってきたようだ。
 急にしんみりとした雰囲気を醸し出してきたことによって僅かな焦燥にかられた圭は、それを隠すようにさっとクロのいる方向に顔をやる。
「おい、そんなとこで何してんだ、行こうぜクロ」
 圭は屋根を見上げながらそう叫ぶと、クロは息をついてその場をゆっくりと立つ。そしてそこから跳んで降りようとするところをアメモースが咄嗟に制止するように前に立ちはだかる。しばらく一人と一匹は無言の圧力を掛けあった後にクロの方が折れ、入ってきた窓から面倒くさそうに家へと入っていった。
 アメモースはその場を跳ぶと羽ばたき、人の集まる場所へ行き空中で立ち止まる。
「何やってんだ、あいつ」
 圭は呆れたように言い、手に持っていたフード付の淡い朱色のシャツを羽織る。シャツといってもその裾はとても長く、前のボタンを全部止めればワンピースにでもなりそうであった。七分袖をまくって半袖の位置まで上げる。腰につけた刀を覆うように服を調節すると、圭は満足げに笑う。
 しばらくするとクロは玄関から再び顔を見せる。
 包帯を巻いた頭を隠すように深めに帽子を被ると圭の服装に気が付いて思わず顔をしかめる。
「なんだその目立つ格好」
「仕方ねえだろ、これしかなかったんだ」
 言いながら圭は振り返り見せびらかすように裾を上げてみせる。
「いくらなんでも朱色は……」
「さすがに刀を丸見えにしとくわけにはいかねーだろ」
「背中に背負えばいいんじゃないか、何か袋にでも入れて」
「そんな都合良いものねーよ」
 クロの言葉をことごとく跳ね返し、仕方なさそうに諦めたクロは溜息を吐く。
 それを許可と取った圭はよしと頷いて焦げ茶色のショルダーバッグを刀の差してある左側とは反対側にかける。旅の支度が揃った圭は息をつくと、少し視線を上げてじっと圭を見つめていたソフィと目を合わせる。
「じゃあ、俺、行くよ」
「うん」
 ソフィは寂しそうに笑う。ミアはソフィの後ろから曇った顔を覗かせ、圭は笑みを浮かべながら屈んでその小さな頭を優しく掌で叩く。
「そんな顔すんな。戻ってくるからさ」
「ほんとー?」
「ほんとほんと」
 おどけた表情を圭は見せる。ルーク家の人々に比べれば圭の表情は晴れ晴れとしていた。尤も、それも彼が今必死に作りだしている偽物に等しい笑顔なのかもしれないけれど。嘘を貫いてでもルーク家の人々にこれ以上余計な思いをさせまいと。彼の胸中を考えれば、この別れが辛いものであるのには変わらないのに。
 と、思い出したように圭は目を見開くと、厳しい目つきになってソフィを見上げる。急に面持ちが変わったためにソフィは合わせて背筋を伸ばす。
「忘れてた、重要なこと。もし、俺を尋ねてくる奴等が来ても、そんな奴は居ない、知らないと言うんだ」
「え」
「突き通してくれればいい。それだけは、よろしく頼む。万が一危険な目にあったら、俺はすぐにでもとんでいくから連絡してくれ。他の人にもそれをちゃんと伝えておいてほしい」
 ゆっくりと押し通すように圭は念を入れる。爽やかな空気とは裏腹の重い沈黙が流れる。
「……う、うん」
 戸惑いながらもソフィは圭の圧力に屈するようにおずおずと頷く。
 ぱっと圭は表情を笑顔に変えて、ぱんとソフィの背中を叩いた。
「俺のことは心配すんな。ミアも元気でやれよ。姉ちゃんをあんま無理させんな」
「……うん!」
「いい返事だ。それでこそお前らしいよ!」
 幼い子供のような、向日葵のような笑顔を咲かせるとミアも嬉しそうに笑い声をあげて跳ねる。
 それを見てソフィは何かを理解した。寂しいのは誰もが同じだ。圭もそうだ。比べるものではないけれど、圭が多分一番辛くて寂しく思っている。でもそれを表に引きずってはいけない。もう昨晩十分に泣いたのだからしんみりとした空気とは別れを告げるべきなのだ。何より誰より、圭がそうやって振る舞っているのだから。空元気でも笑って送ることが、彼を励ますことに繋がるのだ。
 圭が顔を上げて名残惜しそうにログハウスに目をやると、一階の窓からフェルマンが顔を出しているのに気付いた。フェルマンも圭と目が合って気恥ずかしそうに目を逸らす。そして手を雑に振って、早く行けとでも言っているようなふりを見せる。フェルマンは昨晩やけになってまた飲み過ぎたために二日酔いの真っ最中だ。なんとかベッドからは出れた様子だが、窓を開けて外の空気を吸うに留まっている。
 堪らなくなった圭はその窓の元へ走る。
「じいちゃん!」
 窓の近くまでやってきたところで彼にしては甲高い声をあげると、フェルマンはちらと圭に視線をやる。
「なんだわざわざ来たんかい」
「へへ」
 圭は白い歯を見せる。
「一言くらいは言っておこうかと思って」
「いらんいらん、さっさと行け」
「なんだよ、素っ気ないなあ」
「そんなもんだ」
 圭はふぅと息を吐き、足元に視線を落とす。相手は圭が居候となるにあたって認めてもらわなければならなかった一番の関門だった。彼が圭の行いを許したからこそ、今ここに圭はいるのだ。気持ちをふっと引き締める。少しだけ後方に下がってから丸めていた背を正し、手を横にする。フェルマンは目を細め、その様子をじっと見つめる。
「……今までお世話になりました。本当に、感謝してます」
 圭はゆっくりと明瞭にその言葉を述べてから、フェルマンに対し深くお辞儀をした。
 数秒経った後に圭が顔を上げると、横目の状態だったフェルマンは真正面に向き直していた。固い表情は少し和み、一つ大きく頷いた。おう、というごく短い返事と共に。
 それを聞き届けると真剣な眼差しを綻ばせ、圭は子供のような無垢な笑みを浮かべた。
「……さあ行かんかい。ジオをあんまり待たせんな」
「はい」
 名残惜しそうにしながらも圭は足を動かしゆっくりと踵を返そうとする。
「また帰ってきたら酒に付き合えよ」
 悪戯そうな声音でフェルナンが言うと、圭は驚いたように視線を向けた。まるで缶ビールでも持っていてそれを振るような素振りを見せる爺の姿はいつもの通りとさほど変わらず、圭は思わず苦笑する。
「ははっちょっとは体を大事にしてくれよ」
「わかっとらんなあ、だから」
「老い先短いジジイにくらい好きにさせろ、だろ」
「……ほほう」
「聞き飽きたよ。元気でいてくれるなら好きにしてたっていいさ。ソフィが居る限りそう簡単にはいかないだろうけどな!」
 意地悪そうに突くとフェルナンはようやく面白そうに歯を見せた。
「はっは、おめえもよう言うもんになったわ! じゃあな」
 フェルナンが右手を軽く降ると圭はもう一度お辞儀をして、振り返った。
 既にクロとラーナーはポケモン達をボールに戻して、軽トラックの荷台に乗って圭が来るのを待っていた。ソフィはミアの手を引いている。そんな歳の離れた姉妹は優しい目で圭を見つめている。珍しく隠れずに堂々と立っているコノハナが居る。爽やかな風が通り抜けた。木々の匂いを携えたリコリスの息吹だ。およそ二年半過ごしてきた何もない田舎町。深く大きな青空。照る太陽。そこを飛んでいく鳥ポケモンの姿。この自然で生きる今は見えぬポケモン達。全てに、別れを告げるときがやってきた。そして新たに向き合う必要のある存在、蘇る更に昔の記憶が脳内を走り、寒気が背筋をなぞる。
 どうしようもなく怖い、悔しい。でもどうしようもなく、幸せだった。
 湧き上がってくる至福、静かな恐怖、背中を引く後悔、流れてくる寂寥感。雨が降るように思い返される記憶に様々な感情が重なり、衝動として胸の中に飛びこんでくる。口を開けばそこから叫びとして出ていってしまいそうなほど、圭の中で満ち溢れていた。それをバネにするように、思いっきりダッシュを駆けた。短距離走でも始めたかのような力強いスタートダッシュ、ソフィ達の目の前を通り過ぎようたした瞬間、跳ぶ。荷台に一気にとびのって、静止。もう後戻りはできない。せめて、空元気で締めくくる。ふっと長いシャツをひらめかせて後ろを向くと、人差し指を真っ直ぐにソフィ達に向けた。
「見てろ、超ロングな男になって帰ってきてやらあ!」
 一人の小さな少年の高らかな宣言が、リコリスの一角に響き渡った。

 車はゆっくりと発進した。
 今までゆったりと過ごしてきた時間がまるで嘘であったかのように、別れはあっさりと過ぎ去っていこうとする。ラーナーも圭も、ソフィもミアも全力で手を振る。フェルナンも随分と落ちた視力でできる限り見届け続ける。なのに、視界からどんどん離れていって、日常の景色の中に溶けていく。見えなくなってもソフィ達はずっと手を振っていた。
 エンジンの音が完全に消え去り、風の音だけが聞こえるようになった頃、ぽっかりと穴が空いたような心持でソフィは名残惜しげに手を下ろし目の端に溜まった涙をさっと指で払う。
「ロングってなにさ、バカ圭」
 ぽつりと呟きながら彼女は呆れたように微笑んだ。
 広がる鮮やかな向日葵の群れが、彼等の背中を押す風に靡いていた。












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