Page 50 : 湖畔





「黒の団に入るよう、誘われた?」
 耳を疑いながら慎重になぞるようにラーナーが言うと、正面に座っているクロは憮然とした態度で目も合わせずに頷いた。深緑の瞳は右手にある窓の景色を眺めている。ガタンと一つ大きく体全体が揺れる。
 リコリスを離れ新たに圭を加えた旅の面々は、リコリスにやってきた時にもやってきたトローナの駅から出ていた古ぼけた電車に乗り、次の町へと移動していた。乗客は彼等の他はちらほらと数人椅子に腰かけているのみで、物寂しい雰囲気すら感じさせる。二つの席が向かい合う形になっているところに座っているが、現在新加入した少年の姿は無い。
 圭が席を少し外している中、ラーナーは引っかかっていたことを一つクロに尋ねた。ホクシアの襲撃の終結の際、クロをどうするつもりだったのか黒の団の女性に聞いたところ彼女は軽く受け流して答えはしなかった。勿論何か良くないことではあることなのは彼女にも予想はついていたが、クロは案外あっさりと答え、その上出てきた欠片も想像していなかった突飛な事実に驚きを隠せはしない。
「な、なんで?」
 戸惑い不安に揺れるような心情がそのまま発言に表れる。
「……俺が必要だとかなんだとか上辺面は聞こえの良いこと言ったけど、どうせろくでもない理由だろ」
「そ、そうだね……詳しくは言ってなかったんだ?」
「ああ。どうにしろそんなの絶対に御免だ」
 嫌悪感を隠すことなく苦々しく吐きながら、クロは左手に力を込める。ラーナーは包帯を厳重に巻いた彼の右手に視線を落とす。僅かに動かすことも許されない損傷。それも利き手。人間の枠を踏み越えた力を持ったクロといえど、非常事態は勿論、日常生活にも支障は訪れるだろう。治癒力まで人外染みているのかどうかラーナーには分からない範囲だが、一般的な基準をとるならば完治には一ヶ月近くかかり、以前のように自由に動かせるようになるにはもっと時間が重ねられる。彼等にとってはその時間が致命的だった。
 また身体的問題の他にも、ラーナーが話を持ちかけるまでは、表情をきつく引き締め眉間に皺を寄せて一切誰も引きつけまいと無言で重圧をかけているような状態であった。水に潜って呼吸ができず苦しむような錯覚に近い窮屈さをラーナーは感じていた。今は雰囲気が少し和らいだだけで根本的には何も変わっていない。これではいけないとラーナーは口をきつく結ぶ。自分がしっかりしなくちゃ、と。
 と、そこに小さな足音が近づいてきて二人は顔を上げる。足音の主は背もたれに手をかけるとがらにも無く深い溜息をこれでもかというほどに吐き尽くす。
「圭くん、大丈夫?」
 真っ先にラーナー恐々と下手の姿勢で尋ねると、蒼白な顔色を浮かべた圭は力無く首を横に振る。
「無理……吐く……」
「吐くな……」
 心配というよりはむしろ呆れたような口調でクロが言う。
 圭の声は蚊の鳴くようなあまりにも弱々しいものであった。ふらふらとしながらクロの隣の空いた席に腰かけると、廊下側の肘掛に覆いかぶさるように寄りかかる。その間も呻き声を漏らし続け、全身から鉛のような重い雰囲気を発していた。話しかけることすら余計な毒になってしまいそうだとラーナーが思う一方、クロは圭の小さな背中を軽く叩きながら口を開く。
「なんで電車で酔うんだよ。あの軽トラックの方がずっと揺れるぞ」
「そういう問題じゃねえ」
 圭は絞り出したような声で反論する。
「あれだ、俺はきっと車とは相性最高でも電車とは相性最悪なんだ……それも一生仲良くできないレベルの……」
「なに言ってんだお前……意外と元気だな」
「元気じゃねえよ……うえぇ」
 クロに対してか弱い抵抗を試みたものの体の調子は当然良くなるはずも無い。一つ少し大きめの揺れがやってくるたびに鳩尾に一発拳をもらったかのような声を出すものだから、正常なクロとラーナーも波状効果で気分が悪くなってしまいそうだった。
 話も途切れてしまい、一帯に会話はしばらく無い。電車はつい数秒前から長いトンネル道に入っており、窓の外の景色も暗闇に包まれていた。レール上を滑走する籠ったような音をベースに、他の客の小さな声でなされる会話と圭の唸りとが飾りつけされているかのような音の群が車内を支配していた。
 と、ようやく長きにわたるトンネルの終結部に辿り着く。再び窓の外から陽光が差した瞬間、ラーナーは目を丸くした。
「海!?」
 驚愕に思わず声をあげると、クロは怪訝な表情を見せる。
「ここは内陸だ。あれは湖」
「あ……なるほど」
 ラーナーは乗り出した体をまた元の位置に落ち着かせ、改めてガラスの向こうにある湖の姿を食い入るように見つめた。
 線路から舗装された道路を挟んだ向こう側にあるそれは、冷静になるより先に海という言葉を連想してしまうのにも納得がいく程巨大であった。何しろ湖の反対側にあるはずの町の風景はまったく見えない。お世辞にも綺麗といえる水ではないものの、天候が穏やかなこともあって波が殆ど立っていない今の状態はどこか威圧感すら感じさせた。
「トローナに行く時も、見たはずだけど」
 クロが相変わらず不審な目をしながらラーナーに言うと、彼女は苦笑いを浮かべた。
「多分、その時あたし寝てたんだろうなあ」
 最後に笑い声を付けたし少し大袈裟気味の口調で話してみるものの、クロはふぅんと小さく相槌を打つだけでそれ以上関心を示さず、表情も大して変えることはなかった。期待していた反応を得ることができず、急に悲しい気分に曝されたラーナーは肩を落とした。
 その時、電車内に鈴の大きめの音が何度か響き渡る。もうすぐ次の駅へ到着する合図だ。
「次で降りる」
 クロが声をかけ、ほぼ寝そべっている状態になっている圭の背中を叩く。
「もうちょっと先まで行こうかと思っていたけど、圭がこんな状態だ。次の町もそこそこ大きかったはず」
「なんて町?」
 圭がゆっくりと起き上がりながら気怠そうに尋ねる。
「……湖畔の町、キリだ」


 *


 自分の精神状態が不安定で周囲に影響を与えるほどに黒く染まっていることなどクロ自身よく解っていた。それを自らに良しとしているわけではない。苛立ちや不安に振り回されていては敵の思うつぼだと理解している。クロは尖る自分の思いを戒めるように、弾き飛ばすように、自分の両頬を軽く叩く。こんな時だからこそ、自分を保たなければならない、と。
 乗車代を支払い、大切に扱われているのだろう小奇麗な改札口を抜け、人の声が飛び交う明るい雰囲気の駅構内を出ると落ち着いた色合いの白石が煉瓦調に整然と敷き詰められた大きな広場となっていた。車もよく通っており、建物はそれほど天井が高いものは無いものの、面積の広いコンクリート仕立てのものが並んでいた。閑散としていたトローナの姿とは裏腹に、子供から年寄りまで様々な年代の人々が駅周辺を渡り歩いている。ただ、この辺りは飲食店や若者向けのショッピング関連の店が揃っているのもあってか年代の若い者が心なしか多いようだ。
 生き生きとした町の雰囲気だが、更に彩りを重ね、今ラーナーの目を釘付けにしている存在があった。――空に。
「あれは……鳥ポケモン。こんな町中を、なんで」
 ラーナーが上空を見上げながら感嘆の声をあげる。
 彼女の言う通り、そもそもポケモンをあまり町で見かけることの無いこのお国柄、多くの人間がうろつく町中で姿が鮮明に分かるほど低空飛行している鳥ポケモンがいるのは珍しい。
「……キリの巨大な湖周辺には水鳥を始めとして多くの鳥ポケモンが住んでいる」
 少なくとも一度は訪れたことがあるのだろうクロが淡々とした口調で説明を始める。
「ただ、あれは野生じゃなくて人のポケモンだ」
「ほんとだ」
 ラーナーが見ているのは全体に濃い灰色の羽毛に先が赤くなった大きな鶏冠が特徴的な、一般に獰猛であることで知られているムクホークだ。その背中には男性が一人乗っている。それに限らず辺りにはもう数匹人間を乗せた鳥ポケモン達がいる。
「最近は車が発達してるけど、昔からの慣習だかで、ああやって鳥ポケモンに乗って町中を移動する文化が残ってるらしい」
「もしかして、それで建物が低めなの?」
「ああ」
「へえ。そういう慣習とかを中心にした町造りってなんか、いいね」
 感心してラーナーは笑顔を見せる。クロはそうだなとやはり冷静に返すのみで、圭も体調の悪さにまいっているために一人ではしゃいでいるような感覚に陥りラーナーは若干寂しい気持ちに晒される。
「そういう観光ガイドみたいなのはいいよ。どっかで休もうぜ」
 ようやく安定した陸地に立ったものの調子がなかなか戻らない圭は懇願するように提案する。ふっと我に返ったように圭を見ると、クロはそうだなと呟き辺りを軽く見回す。
「昼ご飯もとる必要があるし、今後どうするかも固めなきゃならない。落ち着ける場所を探す」
 ラーナーは素直に頷く。この駅前広場は十分にスペースがあり座る場所もあるが、電車の音や人の行き交い、加えて幼子がはしゃぎまわっていたりとなかなかに騒々しい。ただでさえ圭のオレンジばかりの風貌は目立ち、道行く人々の視線に当てられてしまうのだ。必要以上に人の目に止まってしまうのは当然芳しい状態ではない。
 圭は耐えきれなくなったようにその場にしゃがみ込み大きく溜息を吐く。
「ほんと、大丈夫? 歩ける?」
 つられるようにラーナーもしゃがんで背中をゆっくりと擦る。圭は声に出して返事をしなかったものの、一呼吸を置いてから溜め込んだものをゆったりと吐きだすように一つ静かに頷いた。大丈夫だというサインではあるものの、誰の目から見ても嘘に過ぎない。再度立ち上がったものの疲弊しきったように頬は下がり、それでなくとも低い身長が猫背になって更に小さくなっている。
 クロはふとポニータのことを思い出し、もしもポニータの足の状態が良ければ圭を乗せることができるのにと心の中で呟く。アメモースにはできないことだ。今でこそラーナーや圭がいるものの、つい数か月前までずっと隣にいた存在が、今いない。その影響が出てくるようになったことを、奥歯で噛みしめるように痛感する。しかし、いない存在に思いを馳せても前に進むことはできない。ポニータにばかり頼っているわけにもいかない。クロは決意を踏んで固めるように自分に言い聞かせると、目に力を宿す。
「とにかく、ここから近場でなるべく落ち着いて話せる所を探すぞ。圭、このぐらいでへこたれるな」
「わかってるよ」
 クロの叱咤に対して少しむきになったような口調で圭は言い返した。無理矢理自身を奮い立たせるように曲がっていた背筋を伸ばす。
 うまく揃わない足取りに不安を覚えながら、ラーナーは歩き始めたクロの背中を追いかけた。












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