Page 55 : とびだつ





 水鳥の声がする。小さく滑るような声が会話をしているように飛び交う。
 白く塗られた木の柵の向こう側には、キリが面している湖の姿が広がっていた。白い雲が印象的に目に焼きつく空の下で、深い青に沈んだ水は穏やかに吹く風に僅かに揺れる。電車の窓から見えた景色よりもずっと新鮮で明白で雄大な姿に、そこにいる誰もが息を呑んだ。
 ラーナーは柵から身を乗り出す。圭もそれに倣う。眼下に目をやり耳をすませてみれば、陸地にぶつかる飛沫の音が自ら跳び込んでくる。柵の向こうはちょっとした崖になっていて、ラーナー達が立っている場所は、等間隔に並べられた木々とまっさらに切り揃えられた芝生が織り成す小さな自然広場だ。
 ぱたぱたぱたと音を立てて、スバメが柵の上にちょこんと座りこむ。輝いている二人の横顔を嬉しそうに見つめていた。
「大きいなあ〜海みたい!」
「俺、海も見たことないんだ。でもなんだろう、すげえな!」
 ラーナーと圭ははしゃいだ声をあげる。
「あ。でも、でかいけど、よく見ればずっと向こう側に何かあるのが分かるんだよな。やっぱり湖なんだよな」
「海より波が殆ど無い分、静かだしね」
「いいなあそういうの分かるの。俺、ウォルタも行ってみてーな! なあスバメ!」
 ちょうど顔の位置に足を下ろしていたスバメに声をかけると、一瞬戸惑いに目が揺れたために、解っているのか解っていないのか定かではないけれど、元気良くスバメは返事をした。
「いい返事だな、お前いいやつ!」
 圭はにっと笑って小さな丸い頭を撫でる。力加減が曖昧で少々乱暴なそれだったものの、スバメは足に力を入れて堪えながら、それでも嬉しそうに声をあげた。それがまた一層圭の心を高揚させて、手の動きは止まらない。
「スバメも行きたいってさ!」
 顔面いっぱいに張り裂けんばかりに広がった圭の笑顔が自然とラーナーにも伝染して、彼女も喜々として白い歯を見せ、思いっきりに笑ってみせる。
「機会があったら、ぜひ来て! いいところだよ」
 気持ちが爽やかで晴れやかな雰囲気に包まれていれば、故郷のことを思っても不思議と悲壮感には襲われなかった。そのことにラーナー自身は気付いていない。圭がウォルタに興味を示してくれていることに純粋に喜びを感じていた。溢れてくる言葉にも熱がこもる。
 そうして隣り合って話している様子は、まだ少しぎこちなかった空気を一切感じさせない。もっていた活力を発散しているように笑い合っている姿を数歩後ろで眺めていたクロは、小さな息と共にほんの少し安堵の表情を見せた。
「少し、元気になられましたか?」
 恐る恐るといった風にクロの隣に顔を出すクラリス。
 ふわりと嗅いだことのない甘い匂いが彼の鼻を刺激する。今まで気にしていなかったのに、騒がしさと距離を置いて落ち着いたせいか、今、突然とびこんでくる。
「……まあ」
 視線をクラリスに向けないようにして小さく頷く。
「良かったです!」
 僅かな返事にも関わらず、クラリスは嬉しそうに声をあげた。
 そこでクロはようやくクラリスを直視した。声に裏表が無かったことを証明するように、彼女の表情もぱっと咲き開いた花のよう。先程かけた眼鏡の向こうの黒い瞳は、らんらんと輝きを増している。
 どうしてここまで簡単に喜んだりできるのだろう、クロは単純に疑問を胸に抱く。不思議だった。変だとも思った。
「あんた、おかしい人だ」
 呆れた声音で言うと、指された本人は何も気にしていないように微笑みを浮かべた。
「よく言われることです」
 淡々と、慣れた口調。決まり文句であるような言いざま。表情にも殆ど変化は伺えない。即ち彼女の感情に動きは無い。
 クロは溜息と共に肩を落とす。
「俺の予想だと」
「はい」
「あんた、本当はそれなりのお嬢様、ってやつだろ」
 水鳥の声が響く。
 遠くで談笑が弾けている。
 背後では車が道路を駆け抜けていく音もする。
 彼女の耳には、それら全て遠い場所へ抜けていくように感じられた。まるでボールが湖の向こうへ投げられたかのように。
 一人の息は止まり、表情は凍り付く。ああ、動いた。その瞬間、クロの予想は確信へと移り変わる。
「違うか」
「……勘がよろしいんですね」
 諦めた声音は案外容易く引き出されて、クロはやはり呆れたように息を吐いた。
「分かりやすいんだ」
「それも、よく言われます」
「そういう奴がこんな金無し根無し草と行動してるのは、変な話だ」
「気になさらないでください」
 クラリスは苛立ち故か戸惑い故か、語気を強める。
「別にそんなことどうだっていいじゃないですか。ただそれだけの、普通の人ですよ」
「普通なら、さっき会ったばっかりでこんなところまで連れてくること無いと思うけどな」
 クラリスの表情には暗雲が瞬く間にたちこめていく。つい先ほどまで太陽のように晴れやかだった心に、黒い靄がかかっていく。
「……私、いけないことをしたでしょうか」
「いけないというか、常識外れ」
 クロは即答する。
 クラリスは俯く。桃色の唇を強く締める。重い沈黙を茫然と作りだす。淀んだ空気が肺に入ってきているかのように、息苦しかった。後ろに結った髪を垂らすことができれば表情を隠すことができるのに。身動き一つする勇気も出てこない。動作の一つ一つが彼の目には苦々しいものに映るような錯覚がして、じゃあどうしたらいいのかも、解らず。
 今日一日で、初めて訪れる感情の激動の波の数々。高く上がっては収まり、押しては引く。一目だけ人を見て頭が真っ白になったこと、こうして町を案内しようとすること、夢中になった人に早々に拒絶されていること、多くの初めての体験が彼女を揺り動かす。
 常識外れを嫌がられるのなら、常識に沿ったものをすればいい。けれど、どうしたらいいのか。
 何も知らなかった頭の中には、当然何も浮かんでこなかった。
「クロ!」
 ぱんと弾けたような声にクラリスは顔を上げる。
 柵の傍で湖を眺めていたラーナーが振り返って、白い歯を見せて笑っている。圭もそうで、軽く手を振っている。この距離では会話の内容も聞こえていないし、心の底から楽しんでいる様子だから、クロとクラリスの険悪なムードを察するのは難しい。それは理解できても、大きな温度差に思わずクロは苦笑を浮かべる。
「すごく綺麗だよ! そんなとこにいないでさ、クロ達も見よう!」
「……なんか、やたら元気だな」
「なにー?」
 聞き返したラーナーの言葉を無視してクロはゆっくりと歩みを進める。興奮しているラーナーや圭と違って雄大な湖の姿に彼はそう大きな関心を示していないようだが、一歩引いたところでゆっくりと全体像を眺める。急き立てるような言葉がいくつも他二人から飛び出してくるけれど、それを適度に流す。そんな様子を、クラリスは複雑な表情で傍観していた。
 スバメはクラリスの沈黙した様子に気が付いて、圭の視線が逸れている隙を狙って翼を羽ばたかせて静かに上昇する。滑るようにあっという間にクラリスの目の前にやってきて、俯いた顔色を窺うように下から視線を送る。
「……スバメ」
 唐突に囁き声で呼ばれて、スバメはちょっとだけ首を傾げながら聞き返す。
「なんだか、もやもやが止まらないんです……さっきまでいっぱいいっぱいだったけれど、とても楽しかったのに」
 ……すばあ。
 神妙なクラリスの調子に合わせて、スバメは小さく疑問を呈すように、語尾を上げて返事をする。
「何故なのか、スバメにも分からないですか」
 こくり。
「何をやっているんでしょうね、私は。早くしないと、時間が無いのに」
 すばあ、すば。
「大丈夫ですよ、そんな心配そうにしなくても」
 クラリスは微笑みながら、鞄の外側のポケットに入っている、エアームドの入った白黒のボールを撫でる。俯いていた瞳がすっと上向いて、青い空を視界全体に広げる。
「この子がいれば、いつでも私は……」
 呟いた声は、距離を置いた三人の耳には届かない。けれど、急に神妙な顔つきをしてスバメとこそこそと話している様子は、人より何倍も気配に大して敏感にアンテナを張っているクロにはかえって不審に思われたようで、彼だけは横目で様子を窺っていた。が、ラーナーや圭に話をふられ、集中はできていない様子。
 潮のような匂いと独特の生臭さに似たそれが混ざりあったそれが、熱を帯びた風に乗って、鼻腔を刺激する。
 ヒトがそれぞれに考え込んでいる間も、天気はすっとぼけているかのように穏やかだ。落ち込んだり、楽しんだり、不安になったり、喜んだり、困ったり、笑ったり、僅かな時間の間にも多くの感情が入り乱れているのに、変わらず太陽は照りつける。
 その下、水上の空気を切り裂くように翔けぬけていく水鳥のポケモンが過ぎ去っていくのを眺めていた。
 のどかな景色は、時間を切り取ったかのよう。
 しかし、それを切り裂くように、ある瞬間。
 きき、とタイヤがコンクリートに吸い付く音が彼等の背後で聞こえた。
 それまで穏やかすぎて無風に等しかった空気がざわついたように聞こえたのは、一人心臓の鼓動を速めて不安に駆られていた人物のみ。クラリスの耳はしっかりとそのタイヤの音を捉えていた。スバメが僅かに鳴いた。相も変わらずラーナー達が談笑している中で、クラリスだけはゆっくりと振り返り、息を呑んだ。
 視界にその音を出したモノが入った直後、彼女の全身に電撃がほとばしる。
 ほぼ反射的に白黒のボールに手をかけると、次瞬には独特の破裂音に似たそれが場に弾けた。
 さすがに気が付いたクロ達が振り返った瞬間には、光はその形を作りだしていた。光を薙ぎ払うように、銀色の翼が広がる。太陽を反射して照るそれは、先程まで病院に身を置いていたとはとても考えられないほどに眩しい。鋭い眼光がクラリスを捉える。
「クラリス!?」
 圭が驚きの声をあげた。しかし彼女は耳をまったく貸さず、焦燥に表情を歪めたまま、エアームドの背に手をかける。水色のスカートが思いっきりひらめくことを気にせずに、しかし慌てた様子もあって覚束ない手取りだ。
「エアームド……飛んでッ!」
 叫びが張り裂けた。
 しっかりと背に乗った後に、エアームドは頷き、クラリスの体重に耐えながら強靭な足で軽く前へと駆ける。クロ達は呆気にとられながらも突如エアームドが彼等の側に走ってきて、思わず身を避ける。羽ばたく。風を切り裂く。エアームドの気合を入れるような声。背後、車の扉を閉める音。クラリスは振り向かない。まるで、逃げているかのように。
「待っ……」
 ラーナーが思わず呼び止めようとした。しかしエアームドはクラリスの重さをもろともしていないかのように、力強い羽ばたきで柵を飛び越えてしまう。鋼の翼が風を呼び、髪が乱暴に騒ぎあげた。湖の上、空へとその巨体は直線を描いていく。
 この間、僅か一分にも満たない。
「クラリス!!」
 それぞれに名前を呼んだ。何が起こったか全くついていけない今、それしかできなかったのだ。一瞬捉えることができた横顔には冷や汗が伝っていて、見開いた黒い瞳はクロもラーナーも圭も見ていなかった。ただ前だけを。前にある、やけに太陽の照った空だけを、睨みつけるように。
 瞬間だった。
 小さくなっていくエアームドの姿が、突然停止したのは。
 必死に翼を羽ばたかせようとしている様子は困惑の鳴き声や、僅かに震撼する体から想像できる。しかし、体は硬直したように動かない。とはいっても、決して墜落するようには見えない。文字通り、止まっているのだ。さながら、蒼い空に張り付いた様子を描いた絵のように。
 時が停止したわけじゃない。けれど、まるでそう錯覚させるような感覚。
 誰もが息を詰めていた。
「なんだ……?」
 わけがわからず圭は戸惑いの声を零す。
「念力……」
 クロがぼそりと呟いた言葉。ゆっくりと彼は振り返って背後に視線を向ける。その目は細くなって、対象に焦点を合わせる。
 数メートル離れ、道路の脇に真っ直ぐ停まっている黒塗りの車の傍。四十代程と見える、しかしスーツを着ていても体つきががっしりとしていることが見て取れるような中年の男性が、口を一文字に結んで佇んでいる。彼の一歩先で、大きな黒と白の双眸で突き抜けるような視線をエアームドに向け、白い翼を少し広げた、緑黄色に染まった体の鳥ポケモンが立っている。胴体にも目玉のような模様が描かれたポケモンが発している念の力が、エアームドの動きをいとも容易く止めてしまったのだ。
 しかし、エアームドの方も力づくで動こうとしていて、その鳥ポケモンは集中力をとぎらせないように、体を強張らせる。少しでも緊張を解けばエアームドの力が勝るのだろう。ギリギリの勝負か。しかし顔は背中が冷える程、真顔を貫いている。
「ネイティオ、そのまま戻すんだ」
 男性は指示を送る。ネイティオと呼ばれたそのポケモンは縦に頷き、翼を思いっきり広げた。一気に存在感を増させた途端、ネイティオの周囲が、陽炎のように僅かに歪む。
 ラーナーはぞっと背筋が凍るのを感じた。彼女の連れているエーフィも十分な念力を秘めているけれど、それとはまた異種の圧倒感を目の当たりにしたような錯覚。
「……なんでッ……」
 クラリスの悔しそうな、涙ぐんだような声がすぐ傍で聞こえたのに、すぐに彼等は気が付いた。
 硬直したままエアームドと、それに乗ったクラリスは元の地上へとネイティオによって強制的に連れ戻される。エアームドはまるで巨大な重力をかけて地面に跡が付きそうなほど押し付けている形だ。
 ふと、クラリスとスバメだけが解放されたように力が抜けて、エアームドの傍から転がり落ちる。
「大丈夫!?」
 ラーナーが反射的に傍に駆け寄ると、クラリスは茫然と芝生の地面を見つめていて、全身は脱力しきってしまっている。唖然として、言葉も出てこないといったところか。
 相変わらずエアームドはネイティオの力に拘束されたままの状態で、スーツの男性は一歩一歩と踏みしめて一同に近づいてくる。
 間近にしてみると、身長もクロ達よりも随分高く、百八十センチをゆうに超えている。ネイティオとどこか雰囲気が似た涼しげな無表情から、内なる心情を明らかにするような大きな溜息が零れた。
「……お嬢様、一体何をするおつもりだったので?」
 まさに男性的な低い声が尋ねるものの、クラリスは唇を開こうとはしない。
「まあ、言わなくても行動が表していたようなものでしたけどね。スバメ、君は何故止めなかった?」
 スバメは鋭い威圧のこもった眼光に怯み、目を逸らす。
 男性は再び溜息をつき、まず現在一番クラリスの傍にいるラーナーに視線を向ける。見下ろされたラーナーは、威嚇をされたかのように体を強張らせる。しかし、男性はすぐに彼女から目を逸らし、次に圭、そして最後にクロと焦点を移していく。
「君たちはお嬢様の友人、と見えないけれども、何者だ?」
「おっさんこそ、突然なんなんだよ」
 圭は圧倒的身長差に対して物怖じをまったくせずに言葉で掴みかかると、クロがすぐに腕を圭の前に翳し、制止を促す。
「まずはこちらの質問に答えてもらおう。こちらの女性に何か、つまらないことを吹き込んだのか? それとも歳に合わず誘拐のつもりか?」
「は? なんでそうなる――」
「逆です。俺たちが誘拐されたようなものです」
 あからさまに嫌悪感を剥き出しにしている圭とは裏腹に、いたって冷静を装ってクロは淡々と言う。感情が殆ど見えないスーツの男性の顔に、眉間に皺が寄るという形で、ようやく変化が訪れる。
「……何?」
 警戒は緩まない。むしろ、更に強固なものになる。しかしクロは足にしっかりと力を入れ、怯まない。
「偶然病院で出会って、何故か彼女の勢いに呑まれるまま町を歩いていた。ただそれだけです」
 堂々たる姿はかえって挑発的ともとれる。数秒間の沈黙。深緑の若い瞳と黒い熟成の瞳が、お互い揺るがぬ視線をぶつけあう。
 が、先にふと男性が気を緩め、僅かに一つだけ頷いた。
「……ふむ」
 男性は何か納得がいったように短く相槌を打つ。
「スバメ、彼の言うことは正しいか」
 突然話を振られたスバメはびくりと大袈裟に体をとびあがらせる。どう返事をすべきか迷っているように目を泳がせたが、主は相変わらず落ち込んでいるし、クロ達も目を合わせようとする様子がまるで見当たらない。数秒だけ間を挟んで、スバメは観念したかのように小さく頷いた。その僅かな動きも男性は見逃さず、そうか、とやはり淡白に呟く。どうやら、スバメのことは十分に信頼しているらしい。
「それは申し訳無かった。謝罪しよう」
 言葉とは裏腹に、言葉の抑揚の無さや表情の薄さのせいで、謝罪をしようという心が欠片も見当たらない。実際、クロ達のことを未だ信用していないがゆえだろう。大きな体格差と年齢差がある子供相手に生真面目に謝ることは、プライドにも障るのかもしれない。携えた不思議な威厳は、それ以上の言及をさせまいと断っているよう。苛立ちを隠せない圭も、押し黙る。
 男性は踵を返して再びクラリスを見て、ゆっくりとその大きな腰を折りしゃがみ込む。
「お嬢様」
 強く言い聞かせるような声で、俯いたままのクラリスに呼びかける。
「いつまでそうしていらっしゃるのですか」
「……」
 クラリスはふっと顔を上げて鋭い目つきで男性を見やる。
 しかし男性はその彼女の睨みつけにまったく動じる様子を見せず、クラリスのかけていた黒縁の眼鏡を丁寧に両手で外す。
「……こんな伊達眼鏡をして、髪を結んで、変装でもしたおつもりですか」
「うるさいです」
「そのつもりだったのなら、何故服を着替えなかったのか。私のような凡人には理解し難いですね」
「うるさい!」
 クラリスは顔を真っ赤にして強く言い放ち、乱暴に立ち上がる。
「早くエアームドを解放してあげてください。この子はまだ退院したばかりですよ!」
「その病み上がりのポケモンに、まず鞭打とうとしたのは誰ですか」
「……それは」
「まあでも、確かにその言葉は正しいでしょう。ネイティオ! サイコキネシスを解け」
 振り向こうとしたと同時に男性は指示を飛ばす。ネイティオは頷いて少しずつ念力にかける集中力を解いていく。エアームドにかかっていた見えない大きな重力染みたものが軽くなっていく。それは、エアームドが脱力していく様を見て確認できた。ネイティオは最後に広げていた翼を畳み、何事も無かったかのように涼しい顔つきで佇んでいた。無闇な抵抗に疲れきって地面に体を預けたままのエアームドとは雲泥の差である。同じエスパーポケモンを持つラーナーは、そんなネイティオに目を奪われていた。すごい、そう単純に尊敬に似た感情を抱いて、息を呑む。
「……お疲れ様でした、エアームド」
 彼女は悔しさを押し殺し、ハイパーボールにエアームドを戻す。赤い光は疲労困憊なエアームドを優しく包み込み、あっという間に安寧の空間へと誘う。
 ボールを鞄のポケットに入れるとほぼ同時期に、男性は立ち上がる。体格による威圧がぐっと増した。
 クラリスは思いっきり首を伸ばして真正面から男性を睨み続ける。元々少しつり目であるためにその迫力は幾分強いものであるが、男性はもろともしない。
 しばらく無言の探り合いが続いた後、我慢できず先に口を開いたのはクラリスだった。
「エクトル、どうしてこの場所が分かったのですか」
「はあ、まあはっきりと申せば発信機と言いましょうか」
 エクトルと呼ばれた男性は無表情を貫いて、平坦な抑揚で応える。クラリスの強い瞳には狼狽えが灯った。
「そんなことはっきり言っていいのか……」
 クロがぼそりと茶々を入れたことに男性はちらと視線を移すが、すぐに戻す。
「予定時刻に校門にいつまで経っても現れないし、連絡も一切無くこちらからの電話も繋がらない。だからこうしてわざわざお迎えにあがった次第です」
 わざわざ、の部分を粘っこくして故意的に強調する。
「発信機って……どこに……」
「それはあえて伏せます。今までも時々活用していましたよ。お嬢様は頭の回転は割と速い方でいらっしゃるはずですが、今更お気づきになったのですか」
「ああもう、黙ってください!」
 苛立ちを隠さず強く言い放つ。
 クラリスの言葉を鵜呑みにしたように、エクトルは口を固く閉じる。そのためにしばらく沈黙が重く圧し掛かる。

「……なあ、俺達どうするべきなんだろうな?」
 沈黙を殺さないように、圭がクロに肘で軽く小突いてからごく小さな声で尋ねると、クロは返答に困り、解らないとでも言いたげに首を横に振った。
「そもそも何が起こってるのかさっぱりわかんねえんだけど」
「逃げようとして逃げ切れなかった、という雰囲気なんだろうな」
 溜息混じりにクロが言う。
 男性がやってきた瞬間に見せたクラリスの焦りの表情、必死に空へ飛び立とうとする様相を見れば、逃走の旅を送っているクロ達には十分に想像ができることだ。が、エクトルがクラリスのことを「お嬢様」と呼ぶ様子や、険悪な雰囲気の漂う雰囲気ながらも互いによく見知っているようであることを見れば、左程危険な香りはしない。
「でも」
 クロは小さく切り出す。
「得体の知れないものには、なるべく干渉したくない」
「……ちょっと面白そうだけどな」
 好奇心の片鱗を顔出しすると、クロは苦言を呈す視線を送る。冗談だよと圭はとぼけたように軽く笑ってみせた。

 一向に状況が変わろうとしない様子に、辟易として先手を打ったのはエクトルの方だった。深く俯いているクラリスの様子は表情を頑なに見せようとしていないよう。けれど、真っ直ぐに切り揃えられた前髪だけで隠しきれるはずがなく、そんなクラリスにエクトルは顔を少し近づける。
「どこへ行こうとしたのですか」
 先程までに比べると、言い聞かせような、少し優しい風味が加えられた声だった。
 しかしクラリスは答えない。
「町の外へ、逃げようとしたのですか」
 答えない。代わりに下唇が僅かに潜りこみ、歯で噛みしめられる。
「……馬鹿ですね、本当に。まだまだ幼子でいたいのですか」
 エクトルは憂いの色を混ざった独り言のような呟きを漏らす。罵られながらも、クラリスは激昂することもなく、逆にどんどんと萎みこむように表情を歪ませる。悔しさか、悲しみか。いずれにせよ、言い返す言葉が彼女の頭には浮かび上がってこなかった。そんな主の横顔を、スバメは心配そうに見つめていた。
「一先ずは戻りましょう、お嬢様。エアームドに養生もさせなければ」
 エアームドを話に出して気を引こうとしたエクトルだったが、クラリスは未だ頑固にその場を動こうとする様子が伺えない。元気が空回りしたり、突然この場から離れて飛び立とうとしたり、突飛な行動は多いもののその心には強い芯があるようだった。
「お嬢様、もうあなたは子供では無いのですから。そんな抵抗、最早無意味だと解っていらっしゃるでしょう。それとも、お子様のようにおぶっていってほしいとでも」
「……いいです。自分で歩けますから」
 ぶっきらぼうに跳ね除けて、ついにクラリスはその足をゆっくりと動かしだす。
「そうしてください。……ところで、御三方」
 エクトルはクラリスが歩き始めたことを確認すると、視線を後方に向け、それまで状況を傍観していたクロ達に改めて向き合う。一向は思わず体を硬直させる。
「申し訳ございませんが、今回の件の事情の詳細を知りたいので、御同行をお願いしてもよろしいでしょうか。スバメは喋ることができませんし。ご迷惑をかけたお詫びもしましょう」
 と、ラーナーの頭が上がる。顰めた顔で、しかし自信が無いのか怯えた様子も見せながら、唇を開く。
「迷惑なんて、そんなつもりじゃありません……」
 彼の言葉に引っかかりを覚えたのだろう、思わず言い返した。
 エクトルはちらと視線を向ける。失礼しました、とその後丁寧に返すものの、雰囲気の刺々しさは変わらない。
「……妙なことになってきたなあ」
 圭は腰に手を当てて、戸惑いの色の声で言う。
 クロの強張った表情は変わることなく、ただその言葉に頷くだけだった。












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