Page 57 : 其々の思案





 キリを歩き回り、とんだ騒動に巻き込まれて、けれど彼の心が大きな揺れを見せたわけではなかった。故に、彼はクラリスの家にこないかという提案を拒否した。
 景色は既に暗転している。郊外の小さな宿屋をとり、体を休めていた。今日一日で随分いろんなことがあったと彼は思い返す。気も体も随分と疲弊した。そんな自分を大丈夫だと騙す。涼やかに突き抜ける夜風に癒しを求めたのか、彼は今、宿を離れていた。ぽつりぽつりと道沿いに立つ外灯を追えば、迷うことなく少し広い公園に出る。湖の僅かな波の音が張りつめた静寂の中で囁いていた。風は冷たい。上着を着て出たのは正解だと思うくらいだ。夏が過ぎていく。気温は随分と下がりつつある。秋がやってくる気配がした。風に乗ってやってくる潮のような香りが鼻腔を満たしていく。深海のような深い闇に堕ちている湖を背後にした状態で、クロは柵の上に座り込む。手元にある一つのモンスターボールをじっと見つめ、スイッチを押す。次瞬、暗闇の中に一つの光が張り裂けた。転換して、赤く揺らめくあたたかな光がクロの前に現れる。
 結論から言えば、今目の前にポニータがいるそれ自体が物語っているように、ポニータが入院するという形は回避した。丁寧な治療を受けてしっかりと固定されているため、持ち前の脚力も相まってなんとか自力で立つことを成功させた。しかし、痛みに顔を歪める。気を遣わせないためか意固地な強がりか、踏んばってみせるけれど状態が良くないのは明らか。診断の結果、疲労に重なるようにザングースの爪が足をかなり深く抉ったことが原因だという。勿論、医者に詳細を伝えてはいない。ポケモンバトルでもここまでの怪我はしないと怪訝な目で見られたが、黙秘権を貫ききった。相手は恐らくドーピングによりひどく興奮し本来の力の限界を振り切っていたようなザングースであり、バトルどころか人もポケモンも差別せず切り裂きにかかってたことなど、どうして言えるだろう。
 けれど、クロは完全に納得できていなかった。今までの三年間を思い返しても、ポニータの命ともいえる足を狙われたことは何度もあった。しかしポニータは自力で立ってきた。今回程重症にはならなかった。ザングースの爪に毒が仕込まれていたなら、クロやアメモースにも影響が出るはずだ。だから、違う。なら、何が。根本の原因は、何だ。
 今ボールから出てきた姿は包帯を厳重に巻かれた足を庇うような形の座り方で、渦中のポニータはその黒く大きな瞳を開いた。
 強張っていたクロの顔がふっと柔らかくなり、柵から離れてポニータの隣に座りこむ。
「随分な怪我人になってしまったな」
 喉を鳴らすポニータ。そして反抗するように鼻でクロの体を突く。そんなことない、そうつねっているように。
「はは……なんだ、元気じゃないか」
 力無い声だった。言葉と精神は通わない。安堵のものではない。不安の塊とでもいうべきか。安寧など欠片も訪れてはいない。
 怯えたような動きの手で、ポニータの背筋をなぞるように撫でる。いつもなら撫でられることに対し気持ちよさそうに笑みを浮かべるポニータだが、今回は怪訝な視線をクロに送った。
 炎の光が弱くなる。
「痛むか」
 尋ねると、ポニータは横に首を振った。
「嘘つけ」
 つんとクロから顔を背ける。
「お前って」
 クロは深い溜息を吐く。
「時々とんでもなくめんどくさいよな」
 ポニータは無視を貫く。
「変なところで意固地だし」
 ポニータは黙秘を貫く。
「庇って怪我するような馬鹿だし」
 ふうと息を吐いて、少しだけポニータに体重を委ねる。
「お前は本当に馬鹿だ」
 下がっていたポニータの耳が、くくんと動く。
 そしてクロは先程よりも一回り大きな溜息をつく。包帯の巻かれた自身の右手に視線を落とし、その手を僅かに動かした。
「俺は怪我なんて慣れたもんだしどうでもいいけど、お前がそんなんになる必要なんて無かった。心配しなくたって俺の体は壊れないよ」
 呟くような言葉から、緩やかに彼は目線を上げて、相変わらずそっぽを向いているポニータを見る。
「けどお前は違う。アメモースだってそうだ。昔から言い聞かせてるはずだ。本当に危険になったら俺を置いていけって」
 鮫肌の声音とでもいおうか。もしも触れることができれば、瞬時に傷を負ってしまいそうだ。
 数秒の間を置く。ポニータの様子を伺っていたが、クロの方を見ようとしない。苛立ちが募る。
「わかってるな」
 沈黙が佇んでいるだけ。ポニータは微動だにせず、喉も一切鳴らさない。睨みを鋭くしてみても淡々と受け流す。
「……なあ、何を考えてるんだお前。本当は、もう歩きたくないのか?」
 呟く。少し声音が弱くなる。しかし、ポニータは動かない。
 虚空に揺らめく炎が遠く感じられた。傍にポニータがいることを確かめるようにクロは体重をかける。
「俺は、お前のことが分からなくなってきたよ」


 *


 厚手のカーテンを音を立てないように開くと、僅かな星光が差し込んでくる。振り返ってみると、静かに寝息を立てているラーナーと、二つのもぬけの殻と成り果てている布団。クロが起き上がって部屋を出たのには気づいていた。寝ている間も音に敏感なのは、最早昔から体に染みついた癖。クロを追いかけようと思っているわけではないが、なんとなく眠れなくなりこうして起き上がったのだった。
「はあ……」
 圭は大きな溜息を漏らす。
 しばらくしてから、らしくないな、と自分で思って近くにあった木製の椅子を片腕でゆっくりと引き寄せ、窓の傍で腰かけた。
 掛け時計の僅かな音だけが、部屋の中に寂しく木霊する。
 不思議な感覚だった。
 思えば、ルーク家を出てからまだ二四時間も経っていない。沈んだ気持ちで、苦難の選択を迫られていた時であったとはいえ、まだ昨日の現在の時刻はまだリコリスにいたのだ。しかし今、彼は見知った土地を飛び出して見知らぬ土地に立ち、見知らぬ部屋にいる。そしてこれからしばらく、ずっと一緒にいた人に会うことができないのだ。解っていたことだが現実に立って改めて考えると、急に胸の奥がきりきりと痛みだす。らしくない、そう再び自分に毒づくが、急に湧き上がってきた寂しさを振り払いきれない。整理しきれない。突然始まった旅がつまらないわけじゃない。古い仲間であり気の知れたクロがいるし、大人しいと思っていたラーナーも案外骨がある。どたばたと騒ぎはあったし電車に関しては痛い目にあったが、大きな問題は今のところない。比較的良いスタートを切れたはずだ。
 それでも、忙しい時間が過ぎ去って休息の時間がやってくると、冷静さが顔を出す。
 不思議な感覚だった。
 分かっていたけど、解っていなかった。ただ、それだけの話だった。
「……だめだだめだ」
 頭を振り、立ち上がって窓枠に手をかける。四苦八苦したものの、どうにかいじっているうちにがちゃりと音がして、鍵を無事開けることに成功する。が、押してもびくともしなくて、逆に引いてみると錆が擦れる音がして、直後に風がぶわりと舞い込んでくる。郊外であるためか窓の向こうの隣の家との距離に差があり、上に少し視線を傾ければ十分に星空が見えた。夜の風だった。思い切って全開にしてみる。静かに吹きこんで、体を包み込む。良い天気で、月も淡くおぼろげに光りながら顔を出していた。がさつだと言われ続けてきた圭でも心を奪われる。
 そこを、夜行性と思われる鳥ポケモンが飛び去っていく。ホウ、とくぐもった声を零しながら暗闇の中をあっという間に翔けていった。
「……鳥ポケモンか」
 圭は窓枠に肘を乗せながら呟く。
 クロにはポニータとアメモースが、ラーナーにはエーフィとブラッキーがいる。
 自分で身を守る術も心得ているのだから、ポケモンを持つ必要性については考えなかった。自分がいない間に何があるか分からないことを思えば、コノハナを用心棒に置いていくという考えにもすんなりと辿り着いた。けれど、このキリにおける人間とポケモンの調和に彼は驚いた。リコリスでもポケモンは多くいたけれど、こうして人との暮らしに当たり前のように馴染んでいるのは目に新しい。クラリスもスバメを常に携え、エアームドというポケモンも持っている。自分一人、傍にポケモンはいなくて、それに納得していたのに、仲間外れにされているような錯覚が彼を戸惑わせる。
 実際、一緒にいてそう邪魔になることはないだろう。むしろ、力になるかもしれない。そして、この空白の気分を味わないですむようになるかもしれない。
 けど、なんのポケモンを? そして、どうやって? 彼は何も知らない。コノハナだって、実はボールに入れて使役している存在ではないのだ。コノハナはタネボーのときに怪我をしているところを圭が保護し、その後自分の意志であの家に住んで、いつのまにか当たり前の存在、家族になったのだ。
「鳥ポケモンかあ……」
 想像を徐々に膨らませていく。背中に乗れるほどの大きな鳥ポケモン。自分が乗って、颯爽と空を滑っていく。受けたことのない鋭い空気。眼下に広がる果てしない景色。ふ、と彼の口元に笑みが走った。ふふ。へへ。あれ、かっこいいんじゃないか。いいんじゃないか。鳥ポケモン。そうだな、鳥ポケモンだ。いいのか、こんな単純で。いや、こんな時は直感がモノを言う。全てが終わってリコリスに帰る時、空から爽やかに家に戻っていって、畑仕事でもしているソフィの元へまっすぐ向かっていったら――かっこいいんじゃないか?
 飛んでいく。
 そうだ、それだけじゃない。飛ぶことができれば、あの電車だって回避することができる!
「鳥ポケモンだ!!」
 圭はばっと身を乗り出して、一人声をあげた。
 夜には不釣り合いなその声に思わずラーナーが飛び起きたのは、また別の話。


 *


 もう一度クラリスと会う、そう発言したのはラーナーだった。
 再び太陽が顔を出して宿屋を出て、開口一番の言葉である。
 そうか、と隣に立つクロは平然とした顔で答える。まるで淀みの無い流れだったが、一呼吸置いてからクロは疑問符を僅かに眉間に浮かべる。
「どうやって?」
「さっき、スバメが部屋の窓にきたの」
 そう言ってラーナーは限界まで折り畳まれたようなメモ用紙をポケットから取り出す。どうやら、スバメの足に括り付けてやってきたものらしい。それを開き、クロが覗きこむと、美しくも小さな筆記で文章が走っていた。
“お話したいことがございます。湖畔の公園でお待ちしております。”
 最後にクラリスの名前が端にあり、あのスバメが持ってきたこともあって彼女本人からのメッセージであると踏んでいいだろう。湖畔の公園とは、恐らく昨日彼らが訪れた場所か。クラリスが突然飛び立とうとした、あの広場。
 クロはどうしてスバメが朝一番にクロ達の宿屋まで飛んでくることができたかが気になったが、その部分についてはあえて閉口する。クラリスは無防備で純粋だったが、傍についていたエクトルはかなりクロ達を警戒していた。誰かが見張りをしていたか、ポケモンが見張りをしていたか、あるいはスバメ自身が様子を見ていたのか……考え出せば予想は浮かんでくる。
 彼は苦々しい表情で肩を落とす。纏わりつかれるのは、鬱陶しい。
「なんでまた関わりにいくんだ。本当はそういうの、やめた方がいい」
「でも、あんなすごく苦しそうだったのに、ほっとくのも気が引けるし」
「お人好しだな」
 突き刺すようにクロは言い放つが、ラーナーは腕を組んで少し考え込んでから再度口を開く。
「そういうつもりじゃないんだけど……仲良くなれるかもって、そう思ってたって言ってたじゃない? 悪い人じゃないんだよ。友達になりたいんだよ、きっと」
 彼に反抗しようという棘は見えず、むしろ丸みを帯びたのんびりとした雰囲気でラーナーは返す。
 不意を突かれたようにクロは半ば呆れた目でラーナーを見やる。
 と、少し遅れて宿から圭がやってきた。寝癖なのか元々の癖なのか、相変わらず奔放に跳ねている頭を掻きながら、大きな欠伸をする。
「わりわり、遅くなった。なんか話してた?」
 言いながらゆっくりと合流し、ラーナーは小さく頷く。
「私、クラリスにもう一度会いに行こうかなってそういう話してたの」
「へえ」
 唐突に零れた圭の感嘆符は興味の欠片を示すように、注目をラーナーに向ける。
「いいじゃないか。どうせクロも一人で行動したいところだろ。丁度いいじゃん」
「皮肉か」
「ん? ああ違う違うそういうつもりじゃないって! お前も疑り深いんだから。ほらクラリスと昨日別れてからお前についていろいろ回ってクッソ暇だったからさあ、ちょっとな、別行動もいいかもなあなんてさ」
 苦笑いを浮かべながら言うが、言葉の節には時折強調が盛り込まれている。切実な思いらしいことは聞き受けられた。
「でも、圭とはともかくあんたは離れてると連絡もつかないし」
 クロはちらとラーナーを見やる。
「じゃあ俺が一緒に行くよ。それならお前も安心だろ?」
「圭が?」「圭くんが?」
 ほぼ同時のタイミングで驚きの二人の声が混じり、飄々とした表情の圭を見下ろす。
「なんだよそんなにおかしいか? 何かあっても俺がいるし連絡もとれる。ちなみに俺もちょっとクラリスに聞きたいことがあるんだ。丁度いいだろ!」
「何を聞きたいんだよ?」
「へへ、ちょっとな、企業秘密! いいこと思いついてるんだ」
 圭はにやりと得意気に笑う。彼にとっては昨晩考え込んでいた計画を進める良いきっかけである。
 それ以上の詮索はしない様子だが、つまらなさそうにクロは口を尖らせる。直後、そういえば、とラーナーはまた話を切り出した。
「聞きたいことといえば、私、もしも会えたらエクトルさんにも会いたいなあ」
「げっあの仏頂面野郎に!?」
 ぼんやりと物憂げに浸るような口調でラーナーが言うと、圭が表情をがらりと変える。目を丸くして顔を引きつらせたその状態は、彼がエクトルを苦手に、あるいは嫌悪を持っていることを明らかにしていた。その素っ頓狂な大声にラーナーの肩は跳び上がり、圭のエクトルに対する評価を感じ取って失笑した。
「そりゃまた、なんでだよ!」
「企業秘密」
 ラーナーは先程の圭の言葉をまったく同じく口にして、少し勝ち誇ったような表情だ。圭は腑に落ちないようで顔を歪めていたが、大きく息と共にまあいいやと吐きだす。
「そんなわけだ。目的は違えど向かうところは同じ! もう文句のつけようがないだろ!」
「わかったもう好きにしてくれ」
 びしっと効果音が付きそうな勢いで圭は人差し指を勢いよくクロに向けると、最早面倒くさげに掃うようにクロは言う。
「……でもクロこそ気をつけてね。怪我、治ってないんだし無理しちゃだめだから!」
「大したものじゃない」
 釘を刺そうとしたラーナーだったが、簡単に払いのけられる。そんなわけない、そう返そうとして寸でのところで踏みとどまる。頷くことも首を振ることもせず、目だけは不安を露わにクロを見ていた。
 湿る二人の間を圭は細めで傍観していたが、ぱんと手を打って無理矢理拙い雰囲気を弾き飛ばした。
「じゃ、行こうラーナー! 場所は?」
「あ、ああうん……昨日の公園。湖に面した」
「よし。じゃあクロ、何かあれば連絡な」
「ああ」
 圭はぱんとラーナーの背中を軽めに叩き、クロに背を向けて歩きを誘導した。
 だんだんと遠くなっていく小さな二つの背中を、遠く彼方を眺めるような目つきで見つめると、ついに彼も踵を返し、それぞれの目的地へと向かう。












<< まっしろな闇トップ >>