Page 58 : 再会





「クロ、一人にして大丈夫だったかな」
「大丈夫だよ、あいつは」
 不安を露わにするラーナーに対して、圭はなんでもないような平然とした顔で即答した。
「確かにいろいろあったけど、クロはクロでなんとかできるやつさ」
「そうかなあ……怪我もしてるし……」
「怪我なんてすぐに治るよ。あいつ普通じゃねえから」
「……」
 淡々と出てくる圭の言葉に少しラーナーの中に苛立ちが生まれ、思わず不貞腐れたように立ち止まる。ついてこなくなったラーナーにワンテンポ遅れてから気が付いて、不思議な顔で立ち止まって振り返った。彼女の表情は分かりやすく不満を浮かべていた。
「なんでそんな風に言えるの。クロのこと、心配してないの?」
「心配してねえっつうわけじゃねえよ。けど誰しも一人になりたい時ってあるだろ」
「クロは今、一人になりたがってるって言いきれないよ」
「そりゃ言いきれはしないかもしれないけどさ……無理矢理ついていこうとするの、あいつ嫌いだろ」
「そうだけど」
 鼻でゆっくりと息を吐くと、圭は音も立てずに滑らかにラーナーの傍へと移動する。腑に落ちないと言いたげな表情は暗い。
「一応ポニータも復帰したしアメモースもいる。実際あいつは一人じゃないよ。な」
 少し困った表情を浮かべながら、ラーナーの背中を軽く叩く。
「うん……」
「行こうぜ。クラリスがきっと待ってる」
「うん」
 圭はラーナーが自分で動き出すのを待つ。観念したようにラーナーは歩きはじめ、かえって情けなさを感じた。こうして不安の色に染まってクロの状況を危惧するのは、彼にとってはただのお節介でしかないのだろうか。圭のように飄々として接した方が気楽なのだろうか。相手にとっても、自分にとっても。それが果たして、正しいのだろうか。ラーナーはそう思えなかった。放っておけば、クロはそのままずっと遠くにいってしまうような気がした。取り返しのつかないような距離の分、離れてしまうような。
 圭の背中が少し大きく見えた。自分をしっかりと持った彼の姿が、なんだか大人びているように思われた。その後に自分を振り返って、なんだか子供っぽいように見えて情けなさすら感じる。
 ……だめだ、と自分を鼓舞する。
 今から会いにいくのはクロじゃない。クラリスだ。自己暗示でもするように頭の中でそのフレーズを繰り返す。今は、彼のことを忘れていよう。その方が楽なのは間違いないのだ。
「……あ、あれクラリスじゃない?」
 ラーナーが呟くと、つられて圭がラーナーの視線をなぞるように追う。すると、いつのまにか予告されていた湖畔の公園は目の前にやってきており、ある木の幹にすがってスバメと会話をしているように見えた。昨日の制服姿とは打って変わって、紺色のシンプルなワンピースを着ている。昨日ポニーテールとして結んでいた髪も解いていた。背中までで綺麗に揃えられた真っ黒なそれは、服装や彼女自身の肌の白さも相まって昨日とは違った大人に数歩近づいた女性らしさを感じさせた。
 スバメがまず気が付いたようで振り向き、そうしてクラリスもラーナー達の来訪に目を留め、ほっとしたように胸を撫で下ろした後、小さく手を振って柔らかくはにかんだ。
 二人はまさしく本人を見つけたのだと確認できたことで気持ちが速まって、少し歩行速度を上げて一気に木の傍へと集合する。
「おはよう!」
「おはようございます」
「おはようございます、ラーナーさん、圭」
 スバメの元気良い声もこの場に弾ける。
 圭の明るい声から伝染するように挨拶が済まされた。が、すぐにクラリスは期待していた人数が足りないことに気が付き不安な瞳でラーナー達がやってきた道を目で追う。
「あの、失礼ですがクロさんは?」
 ラーナーと圭は一瞬横目を合わせてから、揃って引きつった顔を浮かべた。
「ちょっと今日は別行動で」
「気にすんな。多分いつものことだぜ」
「そうですか……ちょっと残念ですが、でも来てくださって嬉しいです」
 クラリスが微笑むと、二人は一つ頷きつられて笑う。
 昨日の今日だ。このまま穏やかで柔らかな雰囲気が続くといえばそうではなく、ぎこちない間柄が空気に見え隠れする。その中でふうとクラリスが意を決したように息をつく。
「まずは、昨日の御無礼、申し訳ございませんでした……」
 噛みしめるようなゆっくりとした口調だった。言いきってから滑らかにお辞儀をする。元々姿勢が良いこともあるが、その一つ一つの動作に気品をそなえた美しさが纏わっている。思わず感嘆に息が詰まってしまいそうだ。実際、見惚れてしまって静止していたが、気が付いた瞬間に慌てて顔を真っ赤にする。
「いっいえいえそんなにこっちは気にしてないです! それよりクラリスの方が心配で!」
「私?」
 クラリスは体を起こして、不思議そうな顔を浮かべる。ラーナーは深く首を縦に振った。
「昨日、随分と落ち込んでいたみたいだし、あれから何かされてないかとか……」
「いえ、私は大丈夫ですよ。まあエクトルからはこっぴどく叱られましたが、家で騒ぎにならないように内密に片付けられただけに留まりましたから」
 最後に付け加えたものにはやや自虐が含まれ、悲しそうに彼女は視線を落とした。それから横にちらと向いた彼女の目を、圭が敏感に気が付いて無意識に視界を広げる。直後、顔を苦々しく歪めた。
「げ」
 嫌悪感を漏らすと、ラーナーは首を傾げる。
「どうしたの?」
「あれ。あの野郎、やっぱり居やがるか」
 耳元で囁くような僅かな声で答えながら、軽く顎で指す。最早その言葉だけで誰のことを示しているか理解できるようなものだったが、ラーナーも予想した通り、彼の矛先にいるのはエクトルだった。昨日と同じ車の傍で、同じようにスーツをきちんと身に纏い、鋭い視線をこちらに突き刺している。ただでさえがっしりとした体つきなのだから、ちょっとした威嚇は普通より何倍にも膨らんで刺さってくる。その隣には抜け目無くネイティオも立っている。
圭は負けじと思っているのか、ふんと鼻を鳴らす。
「すいません、でも昨日の今日で……監視の条件つきなら今日を外出の時間にしてくれるって……」
 はっきりとしないもごもごとした口調でクラリスが濁すと、圭は大きく息を吐いた。
「いや予想できたしそりゃそうだって解ってんだけどさ、だからってあそこまで露骨に敵意向けてこなくってもよくね? ポケモンまで出して恥ずかしくねえのかよ」
「それほどクラリスが大切なんだよ」
「そりゃそうかもしれないけどさ……あれは何?」
「圭くん、落ち着いて」
 指摘している本人こそ敵意が露呈しており、目の前にいるクラリスのことも考慮してラーナーは抑制しようとする。
 失笑しながらクラリスは口を開いた。
「私に小さい頃から付いている、謂わば執事ともいう人です。気難しい人ですが、意外と可愛らしいところもあるんですよ」
「気難しいどころの話じゃねえけどな」
「もう、圭くん!」
「俺はクラリスよりもあいつに謝ってほしいよ。李国に理解があるのは有難いけど、なんかむかつくんだ。人を勝手に誘拐犯って決めつけてさ。あいつ、俺らを見下してるだろ」
「そういうつもりではありませんよ。……確かに性格に難があるのは認めますが、あまり、怒らないであげてください」
「怒るというよりどう足掻いてもうまが合わねえっつうか……まあいいや。こんなこと言っててもしょうがねえや」
 圭が一度区切りをつけると、はらはらとしていたラーナーはようやく安堵の息をついた。
「それにラーナーはあっちにも用があるんだしな」
「あら、そうなんですか?」
 意外だったようでクラリスは目を丸くする。
「うん……そんなに大したことじゃないんだけど」
「それはどういったことを? 私がお伝えしておきますよ」
「いや、話をしてみたいんです。……あのネイティオ、すごく強かったでしょう? 私のエーフィも強いけど、やっぱりポケモンのことって分かんないことが多いから、得られるものがあるなら吸収したいなって」
 そういうことか、と圭はぼそりと呟き、手を頭の後ろで組んでラーナーの真剣な横顔を見つめる。
「ネイティオ……ですか」
 希望的観測を述べたラーナーに対して、クラリスの表情には明らかに影が差す。勿論それに二人が気付かないはずがなく、ちらと視線をやる。
「どうしたんですか?」
 気にかけたラーナーが即座に尋ねた。
「いいえ……なんでもありません」
 誤魔化そうとぎこちない笑みを浮かべたクラリスだったが、様子が一変したのは目に見えている。ラーナーは不審に思うと同時に、居ても立ってもいられなくなった。彼女は既に、クラリスのことを放っておけなくなっていた。
「どうしたんですか」
 一種、逃がさないとでも言いたげに少し語調を強める。
「いえ……その……」
「ラーナー、あんまり言及してやんな。困ってるぜ」
「違うんです」
 圭が様子を窺ってやんわりと横槍を入れるが、言い淀んでいたクラリス本人が即座に否定する。
「……手紙に書いた、お話したいこと。そのこととネイティオは関係があるので……違うというか……」
 呂律がうまく回っていないような曖昧な言葉運びだった。声も小さくて、聞き取りづらい。迷いによる狼狽を見せると、スバメが隣で小さく鳴く。それを聞いてから、クラリスは唇を横に強く締めて小さく頷く。改めてラーナーを見て、そこから圭へと視線を移動させた。二人共、困惑しつつクラリスに関心をまっすぐに向けている。
「……私、皆さんのこと、すごく信頼してます」
 ぽんと間の抜けたような空白の時間が置かれる。
 クラリスの顔は至って真面目だが、心構えをしていなかったラーナーや圭は唐突な宣言に思考が思わず停止してしまう。混乱と気恥ずかしさ、しかしクラリスから醸し出される深刻さも察知。
 絡む思いは結局、困惑という言葉に収束していく。
 そんな内情が表に出ていたのだろう、クラリスは少し頬を緩める。怠惰を感じさせる、自嘲のようなそれは印象的にラーナーの目には映った。
「そうですよね、こんなこと突然言い出すなんて、変ですよね。押し付けがましいにも程があると、分かっていますが……聞いてほしいなんて、こんなの自分勝手ですけど」
「そんなに重いことなのか?」
 圭がしびれを切らして尋ねる。それからまるで彼女を安心させるように柔らかくはにかんでみせた。
「言いたいことは、言えばいいさ」
「……聞きますよ」
 彼の一貫した考えに便乗するようにラーナーが言う。そこでクラリスの固い表情は崩れた。突然の変化。感極まって涙まで出てきてしまうかと錯覚するほどだ。眉間に深く刻まれた皺、小刻みに揺れる唇。と、自分で落ち着かせるように左胸に手を当てた。歯の隙間で息をしているようなか細いゆっくりとした呼吸をする。
 何を彼女が話さんとしているか、ラーナーと圭が予想できるはずもなく。しかしクラリスの挙動の変化に思わず身構える。
「本当は言ってはいけないけれど……でも、私は誰かに知ってほしいんです。私の家と、私について」
 不安な表情を浮かべるスバメの小さな声が、彼女の耳元で囁かれた。それに対し、クラリスは大丈夫と返した。けれどスバメは自分の足から伝わる僅かな小刻みな揺れに気が付いていた。彼女の肩が震えている。目には映らない程度に必死に隠しているのが、スバメには筒抜け。言葉は嘘つきだった。実感できるものが確かなものだった。すば、と、スバメはまた鳴いた。悲しげに囁くように。
 クラリスは首を僅かに横に振り、スバメを振り切るように改めてラーナー達と向かい合った。
「……私は、ポケモンの言葉が分かります」












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