Page 59 : タブー





「ポケモンと?」
 圭が怪訝な声で聞き返す。元来の柔らかな丸い瞳が、鋭利に光った。跳ね上がった小さな迫力に気圧されそうになったクラリスだったが、一呼吸置いて心を落ち着かせる。
「はい。とはいっても、まだ私自身が未熟故全てのポケモンと、というわけには恐らくいかないのですが……スバメなんかとは普通に人と会話するようにできます。ね」
 スバメの方に微笑みかける。つい先程もそうだし、片鱗は昨日にも見えていた。彼女とスバメがあまりに自然と馴染んで仲良くしているようにしか見えなかったからなのか、言われてようやくその違和感が生まれてくる。
 それから彼女はすぐに引き締め直し、視線を戻す。
「私の家では、かつて一代に一人はそういった力を持つ人が現れました。この者を、噺人と昔から呼んでいます」
「ハナシビト……」
「そのまんまでしょう?」
 クラリスはわらった。
「何百年ものとても古い歴史をもった家系です。しかし、六十年程前でしょうか。噺人が生まれない代が出てきました。それ以来、何故かまるで縁が切れたかのように沈黙状態が続いていました。これは、家にとって非常に良くないことでした」
「それは、何故?」
「順を追って説明します。まず、私の家は異なる種と話すこと、正しく言えば、湖の底に住んでいらっしゃる水神様という御方の元へ季節の変わり目に伺って御相手をし、承った言葉を一文一句記録し、それをキリの人々に伝えるという謂わば伝承の仕事をして家の力を保っていました。これは由緒正しき儀礼で、旅人の皆様からしてみれば不思議かもしれませんが、キリではこの習慣が根強く残っています。町の様相が昔に比べて変化しても、鳥ポケモンとの交流や重視する姿勢など、文化は意外と大きく変わっていないのです」
 低めに作られた建物。多くの鳥ポケモンが飛び交う町の様相。電波に頼らず伝書鳩の役割を活用している生活。突然出てきた宗教的感覚はそれらに比べ逸脱しているものがあり、違和感を感じざるを得なかったが、二人はとりあえず納得するように何度か頷き話を進めさせる。
「……けれど、先程の通り前触れも無く噺人が絶え、私達は水神様と交流の手段を失いました。力を行使した者は大抵若いうちに早死にします。故にもう随分と水神様とお話をしておりません」
「ちょっと待って、じゃあ、水神様ってつまり神様というか……」
 クラリスは目をそっと伏せる。
「……これに関しては非常にタブーですので私の口から直接申すことは控えますが、お察しの通りです」
 その時、寡黙を貫いてきた圭があからさまに大きな溜息をついた。
「何が非常にタブーだよ。言っちゃいけないことに優劣があるわけねえんだ。もうこの話自体俺達に話しちゃいけないことなんじゃないか?」
「……はい」
「圭くん、クラリスの方が十分にそれを解ってるはずだよ」
「解ってるさ。……いや、話の内容はちょっと難しくてきついけどさ。とにかく、水神様とやらが結局はポケモンだってことだろ?」
 沈黙。クラリスは否定も肯定もしない。ラーナーの考えとも一致していた。話の流れから容易に予想できることだ。
「……とにかく、最後の噺人がこの世を去ってから、随分と長い時が流れました。しかし、その間に季節が止まっているはずがありません。回っています。しかし、儀式を中断することは許されません。季節の変わり目に賜る水神様の御言葉は来たる季節の過ごし方。天気や風の流れ、湖の機嫌、野生の鳥ポケモン達の動向、そして大きな災難の再来するか否かなど、いわば予言のようなものです。キリの人々を巻き込む、予言。昔からの自然な流れです。しかし噺人がいないことを知られれば、その流れは断ち切られます。クヴルール家は脈々と受け継がれてきた歴史が自分の代で途切れてしまうことや、噺人に頼りきっていたが故に信頼を失うことにより富や名声が地に堕ちることを恐れました。だから……嘘つきを始めたのです」
 最後の言葉を言う前に、クラリスは覚悟を決めるように唾を呑みこむ時間を空けた。そして出てきた事実を一瞬のみこめず、二人は困惑の表情を浮かべた。時間を少しかけてから、圭は眉間の皺を一層深く刻み込む。
「まさか、嘘つきって、水神様の言葉を……ってこと?」
「そんなの無理だろ! 嘘は嘘に過ぎない。勝手に作り上げた嘘の予言が正しくないことなんて、すぐにばれるはずだ!」
 圭は食いつくと、クラリスはすっと指を口元に立てる。静かに、というサインだ。圭もラーナーも口を紡ぎ、咄嗟に回りに目を配る。周囲には今、誰もいない。少し遠くに相変わらず睨みをきかせ続けているエクトルとネイティオがいるだけだ。
「一応、この周辺に人が来ないようにエクトルには頼んであります。しかし、念のためなるべく小さな声でお願いします」
 ラーナーは改めてクラリスの方を凝視する。そして、息を呑む。クラリスの肩は、僅かに震えているようにも見えた。彼女も相当の覚悟で話を続けているはずだ。昨日逃げ出すよりも、ある意味重要な掟破りだ。クラリスを取り巻く、彼女が逃げようとしたクヴルールの真実の扉は開かれていく。彼女にかかるリスクは、当然大きい。
「……ごめん。気を付けるよ。えっと……嘘つきについて、からだ」
「そうですね……。結論から言えば、嘘の予言は、嘘のようで、嘘ではありません」
 二人は嘘という言葉の重複に混乱する。
「ごめんけど、回りくどい。もっと分かりやすく言うと?」
「水神様でなくても、大きな力をもったポケモンであれば、予言は可能であるということです」
「……それはまた」
 圭は肩を落とす。
「どうやって……?」
「故意的に飛躍的に強化させたネイティオを使って、です」
「ネイティオ?」
「ネイティオには、未来を予知する能力があるのです。これは、噂話ではなくて、既に私たちの手によって実証されています」
「そんな、ばかなことって……それに、ポケモンと話せる人がいねえんじゃ、ネイティオが未来を見れたところで誰も理解しようがないだろ?」
「ポケモンはもともと人間の言葉を理解できる頭の良い生き物です。ネイティオも勿論、同じく。細かく質問を投げかけていって、根気よくすくっていく作業です」
「……イエスノーとかで進めていく方法かな」
 クラリスは目をそっと伏せる。
「細かいところは聞かされていませんけどね。自力で人語を喋る能力を習得したポケモンもいたという話もありますし、それに比べれば不可能な話ではないのです。ただ、ある程度長期の未来を見通すためにはそれなりの大きな力が必要ですから……そこは脳をいじったり、何か薬物投与をしたとか、そういう話らしい、ですが……」
「なんでもありだな……でも、そんな技術力があるなら……わざわざ会いにいく必要はない」
 こくりとクラリスは頷く。
「元々、水神様の元へ潜るために、噺人の身の安全のためにネイティオの念力は使われてきました。鳥ポケモンで、超能力を持つポケモンとして、重宝されてきたのです。その流れが、まさか今はこんな形になろうとは、御先祖様は予想だにしていなかったでしょうけどね……」
「なんか……逆にまどろっこしいかもしれねえけど、ネイティオ自身を水神様のところへ向かわせるって手は無かったのか?」
「それも試みたそうです。しかし……かろうじて戻ってきたその体は傷だらけで、戻ってから一時間もしないうちに息を引き取ったと」
「……何があったの?」
 ラーナーが恐々と尋ねるが、クラリスはただ横に首を振るだけ。
「分かりません。噺人が生まれなかったのは水神様の身に何かあったからだろうという見方もあったので、それを確認するためにも行われたことでしたが……何故そのようなことになったのか、確かめようがありません」
「なんか、曖昧だな」
 圭は影の入った言葉を落とす。
「そうなら、俺なら自分で行くけど」
「水神様は私達に恵みを与えてくださる反面、力はとても恐ろしいものでもありますから……自分の目で見にいくような者はいなかったのです」
 気持ちは分からなくもないけどな。圭はぽつりと呟く。
 基本的に人間よりずっと耐久力、生命力があるポケモンがぼろぼろになって帰ってきた状況では、安全など皆無といっていいだろう。
「その強大な力を目の当たりにしたクヴルール家は、リスクを避けました。実際、ネイティオを使った嘘の予言で、何十年も生き延びているのです」
「でも、さっきちらっと言ったよな、クラリス。……力をもった奴は、早死にするって」
 圭が重みのある言葉で勘繰る。
 ラーナーの頭をクロの姿が過ぎり彼の横顔をちらりと見た。もしかしたら圭もクロと同じようなものがあるかもしれない。彼は緊張感を鋭利に保った真剣な表情であった。
「ネイティオの寿命がどうかは知らない。けど、それだけ体をいじられて強力な力で神様とやらに並ぶ予言をさせれば、命なんて、あっという間に消えちゃうんじゃないのか?」
「……おっしゃる通りです」
 クラリスは項垂れる。
「数えられないくらい、多くの命があっけなく消えていっています。けれど、ポケモンの繁殖力はとにかく強い。故に、この国はポケモンを恐れ、そして数を統制しているという噂話を聞きますが……それはまた別の話ですね。とにかく、クヴルール家は敷地内の、特に限られた者しか入ることしか入れない中心部にて、ネイティオの進化前であるネイティの繁殖を行い、育て、調整を行い、予言をさせ、弔う。それを、ずっと続けてきました。」
 延々と続けられてきた、まるでベルトコンベアによる流れ作業のような経過。しかし、クラリスの目は戒めるように強く光っていた。
「クヴルール家の身内ですら、この真実を知る者ばかりではありません。噺人が途切れてることすら、知らない者も多くいるし、私もそうでした」
 ぎりぎり絞り出すような声は震えていた。黒々とした泥水のように濁った感情が淀めく。それを塞き止めるように、慌ててフォローしようとするスバメの声が弾けた。クラリスはふっと我に返って、その後大きく深呼吸をつく。
 そして次の話へと移っていく。
「ネイティオが繋ぎ止める流れが形成されつつある中、水神様が生きているのかどうかも分からないこの状況下で、私は、生まれたのです」
 怒りともとれた声音は変化していく。
「私を産んだ直後に母は死にました。これは、噺人が生まれたときはいつもそうなるらしいのですが……噺人がしばらく出ていない故に、最初は事故だと判断されました。しかし……幼い私にとってはなんてことはありませんでしたが、外で遊んでいたら、飛んできた鳥ポケモンの言葉が分かった。だから、面白くって、いっぱい話をした。それを、驚愕の目で見ていた身内には気が付かないで」
「噺人の素質があるって、分かったんだな」
「ええ。ネイティオの犠牲の数々や、予言を水神様の言葉だと言って騙し続けていること、長い間伺えていないことなどから水神様からなんらかの報いが来る恐れを危惧していたこともありましたし、ネイティオにお金も随分かかっていたらしいですし……その点噺人の再起は予期せぬ朗報と言えたのでしょう。それからは家に籠って、勉学と精神鍛錬の日々です。父とも殆ど会えなくなって、行く予定だった学校も殆ど休みました。かつていた友達とも疎遠になって、私自身も名前すら覚えてません。本当は今は学校なんて行かなくていいんですが、憧れで今も在校はしていますね。ただ、許されたその学校も通信制で、結局あまり行けていませんし、友人と呼べる人はいません。正直クヴルールをよく思っていない人も今の時代は多くいますし。嘘つきの事実を知らなくても、ただ、予言をするだけで権力を得て、栄えて町からも資金をいただいている家ですから、ある意味当然かもしれませんね」
 自嘲は虚しく零れ落ちるだけ。
「それに、友人はそもそも、作らないように言われています」
「……?」
 ラーナーは話の重々しさに無意識に下げていた視線をクラリスに向け直す。
「成人を迎えると、噺人は永久に家に籠ることを強いられるからです」
 淡々と他人事のように話すクラリスが発したその言葉から、どれだけの時間が経ったろう。彼等には、数分とも感じられた。
 意味がわからない。
 ラーナーの中で、圭の中で、巡り巡る不透明な感情。先が見えない。突拍子もなく出てくる話はまさに常識外れ。異次元の話ではないかと疑うほどだ。いや、ラーナー達にとっては実際世界が違うのだ。そもそも彼等も一般とは逸脱していたが、クラリスもまた異界を生きていた。すぐに飲み込むのは無理な話だ。耳から入ってきた情報を噛みしめるだけでも脳が削り取られるようだった。理解が追いつかない。わけが分からない。それに尽きた。
「どうして……」
 かろうじてラーナーから疑問の声が漏れ出る。
「そういう慣習、決まり事だからです。この身と心を水神様に捧げるために」
 彼女の口元は笑う。目は決して笑っていない。
「キリはおろか、家すら出られなくなることを知ったのは、つい二ヶ月程前の話です。随分と長い時間茫然とした後……今までこれは私にしかできない天命だからと我慢していたものが爆発して、泣いて、喚いて、暴れまわって……人間って不思議です。そんなこと、したことも、する方法も得てなかったはずなのに……あの時は我慢できなくて……」
「……キリの外に、すごく興味があるみたいだから、尚更だな」
 圭が呟くと、クラリスは素直に肯定した。
「エクトルが話してくれました。今まで話したこと、何もかも。私の精神状態が普通じゃなかったから時間がかかったけど、彼は受け止めて、そしてゆっくりと話してくれました。その数日前、私は自分の夢をエクトルに話していました。世界中をスバメたちと一緒に回るんだって。いろんなものをこの目で見るんだって。季節の変わり目と変わり目の間、勤めの間の時間を使って。ラジオで世界一周の船の話を聞いたんですよ。それで、です。単純でしょう? それからエクトルはいろいろ考えていたみたいです。いや、多分もっと前から……友人関係を築かずにいたこともずっと気にしていたと言っていたから……」
 重い沈黙が流れる。
 次々と明らかになっていく彼女の運命に、どんな言葉をかけたらいいのかもわからない。それでも、ラーナーは辛うじて口を開き、真っ先に頭に浮かんだ疑問を投げかける。
「クラリス、クラリスはいつ……いつ成人を迎えるの?」
 それを聞いたクラリスは、ゆっくりと微笑んだ。悲しみを携えて、微笑んだ。
「二日後です」
 嗚呼、何度目の絶句だろうか。
「明後日の誕生日は丁度、夏と秋の変わり目の日です。私はその日、生まれて初めて水神様の元へ行き、そして、外の誰の目に止まることもなくなります」
 静止。
 停止。
 何もかもが音も無く終わりを捧げたように、冷たい静寂そのものが圧し掛かっていた。
「意味わかんないよ……」
 顔を地面に向けて、呟いた。
 直後、一気にクラリスの方を見る。歯を食いしばって、頬を真っ赤にして、見せたこともないような怒りの表情を露わにする。
「全然、全っ然納得できない!! したくもない!!」
 ラーナーは叫び始めた。静かにするよう思わず注意されたあの圭の声よりもずっと大きく、鋭く、悲痛だ。
「なんで、なんで、なんで! こうやっていろいろ話してくれたのに、もうすぐ会えなくなるの!? 二日後……明後日……? 嘘ばっかり……それこそ嘘でしょ……そんな、慣習に振り回されて、もう出られなくなるんだよ! クラリスはいいの!?」
「いいと思わなくて、嫌だと思ったから、昨日エアームドに乗ってキリから出ていこうとしたんです」
 でも、と彼女は呟いた。
「それはできませんでした。いや、はなからできるわけがなかったんです。私はクヴルール家にいるしか、道はなかったんです」
「悟ったって、そう言うの」
「ラーナー」
 圭はラーナーの肩を持った。怒りを震えたままラーナーは圭の方を振り返った。そこで少し我に返る。圭は、激昂することも落胆することもしていなかった。冷静に、平常の表情を保っていたのだった。
「これは、最早俺らがどうこうできるレベルを超えてる」
「……どういう意味?」
「気持ちはすっげー分かる。俺だって、こんなの意味わかんねえって思う。けど、どうしようもない。外部の俺達には、どうしてやることもできないよ」
「ここまで聞いて、見捨てるっていうの?」
 ラーナーは湧き上がる感情を無理矢理体重をかけて押し込めているようだった。故に、淡々と喋る圭が、普段の明るさを捨てたような彼が冷徹な少年に見えた。
「要は、ラーナーはクラリスを掟から解放してやりたいんだろ?」
「……うん」
「多分この慣習って俺達が思ってるよりずっと複雑で、でもって多分……大切にされてきたものなんだと思う。流れが大きすぎる。逆らえないし、俺たちは何もしてやれない。俺達の旅もイレギュラーなんだから……連れて行くわけにはいかない。それに散々聞いただろ、ネイティオの頭おかしい力。そんだけの力があれば、たとえ星の裏側に行ったって連れ戻されるぜ」
「そうかもしれない、でも!」
「俺達がしてやれることは、そんなことじゃない」
「でも、クラリスがこのことを話してくれたのは、私たちに助けを求めてるってことだ!」
「ちがう!!」
 耐え忍ぶように静かだった圭が一気に高揚し、爆発する。突然の彼の叫びにラーナーは思わず怯む。空気の震えを錯覚するような凄まじい声量だ。ラーナーのそれとは比較対象にもならない。一気に気圧され、押し黙らせられる。
「クラリスは十分に理解してる。それこそ俺達よりもずっとだ! クラリスはな、俺達をすっげー大切に思ってくれてる。こんな話を俺達にしたのが果たして正しかったのかはよくわかんねえけどな、けど、覚悟してキリを出ようとしていたのに、俺達との時間を選んだ! 今だって、ここに来てる! クラリスは……クラリスの望みは言っていただろ!?」
 ラーナーは目を丸くする。そこからクラリスとの話を一気に巻き戻し始める。しかし怒りと混乱に惑わされて正常にはたらかない頭では、求める記憶は弾きだされてはこなかった。
 その様子を伺いながら、数秒の間を置いたのちに圭は口にする。
「クラリスは……俺達の旅の話を聞いて、仲良くなりたいって、言ってただろ」
 湖の向こう側から大きな風が流れてくる。木陰が大きく揺れ、湖の細波の音が耳によく聞こえてきた。
「どうしようもないくらい……皮肉な話だけどな……」
 噛み砕くような呟きに、ラーナーは彼を誤解していたように思えた。冷静であることは、冷徹とは違う。彼は、決してそうじゃない。
 悔しいのは圭も同じだった。理屈と感情の葛藤。両の拳は小刻みに震え、今彼に触れればその瞬間に殴りにかかってきそうな迫力を身に纏っていた。
 一気に緊張が高まり殺伐ともとれる環境で、まるで不釣り合いに笑みを浮かべていたのは、当人のクラリスだった。
「聞かせてください、いろんなことを」
 クラリスは楽しそうに要求する。
「私と、友達になってくれますか?」
 そう言ってラーナーに右手を静かに差し伸べた。
 その手とクラリスの落ち着いた微笑みの表情を何度もラーナーは目で往復した。怒りは沈静し、代わりに言い知れない悔しさが渦巻き始めていた。何もできない。自分たちには助けてあげられない。圭の言葉が重く圧し掛かる。改めて自分の無力さを痛いほどに思い知らされる。
 僅かに震える両手で、クラリスの右手をゆっくりと包んだ。
「当たり前。そもそも、申し出るようなものじゃないんだよ」
 クラリスの温もりを両手に感じる。木漏れ日が当たると雪のように白くなる肌だけど、血が通い、脈が走っている。一つ一つ確かめるように、ラーナーは彼女の手を大切に握った。
「ありがとう。でも、これはずるいよ、クラリス。ずるい……」
 行きようのない感情が滲み出る。それは虚しく空気に溶けていくだけだった。












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