Page 66 : 真想





 ペットボトルを片手にポニータと共にラーナーの元へと彼は足を向ける。ぼんやりと考えずに歩いていてもすぐに辿り着く距離で、瞬く間に建物の影になったベンチの傍までやってくる。首都へと延びる公道を遠くに据えたその場所で、彼女はエーフィとブラッキーに挟まれるような形で背もたれに背中を預けていた。首は力無く下がり、覆いかぶさる髪の向こう側で、眠ろうとしているように瞼を閉じている。
 クロ達が戻ってきたことを瞬時に把握した彼女のポケモン達は顔を上げる。それに気が付いたラーナーも反射的に目を開けた。その頃にはクロはすぐ傍まで来ていた。
「大丈夫か」
 ありきたりな言葉をかけると、青白い顔のラーナーの口元は少しだけ上がる。
「うん」
「嘘つけ」
 呆れた声でクロは呟くと、ぶっきら棒に左手に持ったスポーツドリンクを差し出す。
「……ありがとう」
 小さく礼の言葉を述べ、ラーナーはそれを受け取る。右手で蓋を開けようとした瞬間、彼女の手がつく前にぱんとその蓋が音をあげた。同時に蓋が独りでに回転しだす。驚いた顔を浮かべた一向の隅っこで、エーフィが涼やかな顔を浮かべて尻尾をゆらりゆらりと動かしていた。些細な出来事ながら、エーフィの念力による現象であることに瞬間を置いてからラーナーは気が付いた。嬉しいような、余計なお世話なような、複雑な感情が彼女の中に漂って苦笑を浮かべる。
「ありがと。でも、こんなことくらい、大丈夫なのに」
 隣に視線を向けて呟くと、エーフィは温もりを求めるかのようにラーナーに体を更に摺り寄せる。いつになく甘えた様子にラーナーは少々の戸惑いを感じながら、エーフィに開けてもらったペットボトルに唇を付ける。しかし舐める程度だけ水分を含んだら、拒絶するように口から離した。喉の奥は粘着物がつっかえたように気味悪さが滞り、あまり一気に飲み込むと逆流の一途を辿りそうであった。
「……しばらくは、だめそうだな」
 青ざめた彼女の様子を観察して、クロは改めて結論を出した。
 自分のことは自分が一番理解できる。少し楽になりつつあるものの、ラーナーは纏わりつく気怠さ、頭痛に嘘をつけず、頭を垂れる。
「ごめん」
「謝るようなことじゃない」
「でも……あんまり立ち止まってるの、良くないでしょ」
「そんなこと考えてないで、いいから休め」
 休んでいる暇など無いという数分前のアランとの会話での自分の発言を記憶の隅に追いやり、クロはラーナーを押し黙らせる。ポニータがじろりとクロを睨みつけるのを彼は無視して、ポケットに手を入れてふうと息をついた。
 しばらく沈黙が続き、ラーナーは落ち着かないようでペットボトルを弄ぶ。へこませたり、少し回したり、時折遠くを眺めるクロに視線をやったり、そしてそれに敏感に気が付いたクロから逃げるように再び手元に目線を戻したり、静かに挙動不審な行動をとっていた。その中で時々脳を叩く痛み。どうしちゃったんだろう、情けないなあ。そっと力無く目を伏せると、エーフィは感じ取ったように更に体を寄せてくるのだった。
「……あのさ」
 クロの声にラーナーは自然と顔を上げる。
「寝転がれば? その方が楽なもんだろ、普通」
 沈黙。
 何かまずいことを言っただろうか、クロが顔を僅かに歪める傍ら、ラーナーは目を白黒させていた。
「そ……そうだね。じゃあ、お言葉に甘えようかな……」
 動揺の色を滲ませながら、ラーナーは自身の隣に置いていた鞄に手を入れ、モンスターボールとは少し違って白く楕円の形をした物体をとりだした。通称道具カプセルと呼ばれるそれの開閉スイッチを押すと、ポケモンが出てくるものとまるで同じように、彼女の膝の上に光が飛び出して、形を作る。かさばる寝袋はいつもそうして収納していた。それをベンチの端っこに置くと、ブラッキーがひょいとベンチから降りる。一匹分の重みが消えたベンチはぎしりと音を立てた。
 ラーナーは寝袋を枕代わりにして、冷たく固いベンチにゆっくりと身を倒す。クロもつられるように地面に腰を下ろし、ふうと息をついた。
 日陰に通る風は涼しく、秋のそれを感じさせる。浸るように実感するクロは、ラーナーに背を向けて遠くを眺めていた。道が伸びるその先、これから行こうとしている場所へ。この国の発展の全てが集まった、中心地へと。人と物と情報の吹き溜まりは、果たして彼らの求むものを用意してそびえているのだろうか。
 ただその前に、とクロは視線を落とす。
「なあ」
 無意識に手の指をそわそわと動かしながら、クロは背後に横たわっているラーナーに声をかけた。
「ん」
 彼女は僅かに返答をする。
「今、話せるか」
 アランの言葉が、頭の中を巡る。
 少し驚いたように、力無かったラーナーの目に光が宿る。彼がわざわざそうやって尋ねてくるのも話を持ちかけてくるのも珍しい。考えれば、この場に圭はおらず、こうして彼と二人で身をゆっくりと据えて話すのも随分と久しぶりのような気がした。鞭打つような日々の巡りに追われるように過ごしていた。心をどこかに置き去りにして。
 ラーナーは静かに頷いた。背中に目があるように、クロはそれを感じとっていた。
「まあ別に、そんな話したいことがあるってわけでもないんだけど」
 ぶっきらぼうに呟くと、すかさずポニータが足で彼の身体を小突く。分かってる、とでも言いたげにポニータに向かって不満げな顔をあげると、変わらずポニータは涼しげな表情を浮かべていた。
 あ、懐かしい。ラーナーはぼんやりとした思考の中で自然と感じた。懐かしい光景だ。いつものクロとポニータだ。思わず口角が上がって、小さく声が漏れる。
「……なに?」
 敏感にラーナーの笑い声を聞き取ったクロは、不審げにラーナーを振り返った。ベンチに横たわるラーナーの顔と、地べたに座り込んだクロの顔は、いつになくお互いに大きく見えた。
「……なんか、懐かしいなあって」
「懐かしい?」
「うん、懐かしい。クロとポニータがそうやってじゃれてるの」
「いや、じゃれてないから」
 ふふふ、と彼女は声を揺らす。
 照れくさそうにクロはラーナーに再び後頭部を向けて、肩をすとんと落とした。反射的にポニータの方を見ると、黒々とした大きな瞳は三日月の形をして、何故か機嫌が良さそうに笑っている。色褪せていたものが鮮やかに甦るような感覚が彼の胸に昇るように訪れる。ああ、確かに懐かしい、かもしれない。同時に流れ込んできた感想は、ラーナーの言葉と一致していた。
「まあ、色々あったからな」
「ほんとに」
「……クラリスのこととか、ニノのこととか、もう、大丈夫か?」
「……」
 ラーナーは唇を閉ざし、横たえた右手に静かに力を込めた。咄嗟に応えられない沈黙がクロの問いへの答えのようなものだった。そうだろうなとクロは呟いた。ごめんと返すラーナーの弱々しい声。なんで謝るんだ、そんな反射的な疑問がまた喉の奥から瞬く間に昇ってくる。
「わかってるよ……でも、俺、ニノのことはともかく、クラリスのことまでそんなにあんたが強くショック受けるとは思ってなかった」
「……私もよくわかんない。でも、なんだかいつのまにか体が動いてて」
「あんたって割とおとなしい奴かと思ってたけど、意外と行動派だよな。クラリスのときもそうだし、ホクシアで戦ってるところに突っ込んでくるし」
「あ、はは……」
「ホクシアの時とか、怖くなかったのか」
 また沈黙が訪れて、しかし今度はラーナーからすぐに口を開いた。
「無我夢中でよく覚えてないや」
 へへ、と彼女の口元は頼りなさげに緩んだ。クロはゆっくりと振りかえって彼女のその表情を間近に捉えた。時折見せた必死になった形相とはまるでかけ離れた、どこか脳天気な様子に呆れを感じつつもなんだかおかしくなって、クロの頬の硬直もつられるように解かれる。
「あの時は町の大広場の大混乱が、すぐに耳に入ってきて、それがすぐにクロだっていうのは、分かったの。そう思ったら、行かなきゃってなって……ああいうとき、絶対に君は無理をするから、行かなきゃいけないって」
「……お人好し」
「でも実際すごい怪我してたじゃん」
 クロは逃げるように視線を逸らす。ポニータもアメモースも、そして自分も、異常な興奮状態のザングースの群れによる圧倒的な数的不利を覆すことはできなかった。あの時ラーナーが来なかったら、エーフィとブラッキーがいなかったら、どうなっていたか分からない。急に彼は羞恥に顔が熱くなる。自分は周りが見えていない。アランの言った、まさにその通りだ。周りに生かされている。一人でなんか生きていない。今、目の前に倒れている弱々しい存在にだって救われたのだ。
 彼は唇をぐっと噛みしめた。改めて姿を現した実感が、まだ完全には癒えていない右手に、背中に、痛みを走らせた。
「……あの時は、……ありがとう」
 ラーナーを見ることはできず、絞り出すように彼は言葉を吐きだした。
「あんたがいてくれて……良かった、と、思う」
 ぎこちなく不器用に頬を赤くしている。間欠泉のように溢れてくる恥ずかしさで耳まで熱くなる。何を言ってるんだ自分は。何を突然言い出しているんだ。今更お礼なんて。ラーナーがいてくれて良かった? 本当にそう思っているのか? 自分勝手に混乱して自分の本心なのかどうかすらよくわからない。回転する混沌を極めた思考に追いかけまわされる。頭の中が沸騰している。いっそこの場から全力で逃げて行ってしまいたい。
 表層は落ち着いていながらも自分の中で振り乱しているクロの一方で、おぼろげな光を宿していたラーナーの目は力を取り戻したように大きく見開かれていた。
「……ほんとに?」
 掠れた彼女の声に、乱れたクロの思考は停止した。
「本当に、私がいて良かったって……そう思ってくれてる?」
 枯渇したような震える声で、ラーナーは尋ねた。
 クロはラーナーの方をようやく振り返り、真正面から彼女の顔を見た。ここに辿りつくまで表情が枯れた人形のようだったラーナーの顔は、それまで彼があまり見たことの無い表情を創り出していた。僅かに歪んでいる。驚きと喜びが入り混じっている。信じられないとでも言いたげだった。ラーナーの焦がれるような思いが、深く語らずとも彼の胸に真っ直ぐに突き刺さる。クロは頷かざるを得なかった。考えるよりも先に彼は自然と肯定していた。そうすると、ラーナーの顔は一気に綻びを見せ、肩の力が一気に抜けていく。安堵が勢い余って震えが生じる。ああ、と彼女の口から感嘆の声が漏れた。彼女にとっては、ずっと彼からそう言われることを待ち望んでいた言葉だった。遠のいていく彼の背中に感じる不安を取り除く言葉だったのだ。
 クロは息を呑み、放心状態ともとれる彼女の気持ちの揺れ動きに戸惑いを覚える。いてもたってもいられなくて、彼は一度体勢を立て直して体ごとラーナーの前に向けた。
「なんで、どうしたんだ」
 思わず口走っていた。
 真っ白な顔に少し赤みがさした顔で、ラーナーはゆっくりと起き上がろうとする。頭が重く、ぐるんと体の中が回転して吐き気が飛び込んできた。しかしふっと身が軽くなる。第三者による介入。咄嗟に動いたクロがラーナーの身体を支え、ほぼ同時にエーフィによる念力の補助をしたのだ。ぐんと近くなった彼の驚いた表情に、ラーナーは柔らかく微笑みを浮かべた。
 時間をかけて上半身を起こし、改めて彼女はベンチに座り込み、片足を立ててラーナーの顔を窺うクロを見た。
「どうしたんだ」
 クロが改めて尋ねた。
「ずっと、不安だったから」
 素直な気持ちを吐露するラーナー。
「なんで」
 まだ彼には彼女の抱えていたものが見えてこない。
 刺すような痛みが脳を襲いかかっても、ラーナーは伝えるタイミングはここしか無いと直感した。
「……クロは無理をしてでもなんでも一人でやろうとするから、私、一緒にいていいのかなってずっと思ってた」
「……」
「ずっと、思ってた」
 強調するように、感慨をいっぱいに詰め込むように、ラーナーはゆっくりと言い放つ。
「続けて」
 見えていないものが見えてくる瞬間を逃さまいと、クロは促す。
 ラーナーの胸に熱いものが込み上げてくる。クロが自分を見据えている。次いつくるかもわからない瞬間だ。
「あの、いっぱい怪我して倒れるクロのことほっとけなくて、でも私、力になりたくてもなんの力もない。旅だって私が勝手についていっただけ。……クロはお母さんに助けられて、私はクロに助けられて、でも私は力になれない。そしたら、なんだかどんどんクロがいつの間にか遠くなっていく気がした……戦うたびに、クロは、一人になろうとする……そんな気がした」
「……」
「リコリスを出るあたりからクロの様子がなんとなくおかしくて、しっかりしなきゃってすごく思ってた。そんなこと心配しなくてもクロはしっかりしてるんだけど……クロは強いよ。すっごく、強い。でも、それでも、不安だった。身体が強いから無理ができる。怪我をしてもすぐに治る。でも分かるよ。心が回復に追いついてないの、分かる。体と心が、ちぐはぐ。圭くんは大丈夫って言ってたけど……私から見れば、放っておいたらクロはどうしようもないくらい遠いところに行って、もう取り返しのつかないことになってしまいそうで、怖かった」
「そんなこと、ならない」
「でも、きっとクロは、私のことうざったく思うこと多かったでしょ」
「それは、まあ……そこそこに」
「拒まれる度に要らないって言われてる気がしてた」
「そんなこと、思ってない」
「でも、私はそう受け取るときもあった」
 突き刺さるような刺の言葉に、クロは言葉を唇を思わず閉ざす。
「逃げるこの旅はつらいけど、私、クロや圭くんとなら乗り越えていけるような気がしてる。でも、私は何もできないから、いつ要らないっていわれてもおかしくないって」
「――何もできないなんて、言うな!」
 クロの大きな声が炸裂して、周囲のポケモン達の視線も一気にクロに集まる。深緑の瞳は少し怒ったようにラーナーを見る。
「そんなこと、問題じゃない」
「……でも」
「そりゃあ確かに、誰かを守りながら旅をするのはきついって、それは思ってる。でも、違う。そうじゃないんだ……最初はニノに直接返せなかった恩を返すために助けたけど……」
 クロは一度唇を紡ぎ、自分の中で整理する。ラーナーは常にクロの身を気にしていた。それを鬱陶しく思ったりもした。戸惑いも多かった。
 でも。
 キリでラーナーの身に電撃が襲いかかったとき。思い知った自分の無力さ。心の底から彼女の身を案じた瞬間。エアームドに乗って、すぐ傍に戻ってきて、無事だと確認した時の安堵を今も忘れない。ラーナーを守ろうとしているのはニノの娘だから? 彼女に返す恩の延長線? ――違う。違う。少なくとも、今は、違う。命の恩人であるニノの娘であることなんて、普段は忘れてる。じゃあなんでだ。圭がクロに問うた言葉が甦る。何故旅にラーナーをつれようと思ったのか。確かに、自分には彼女を拒む選択肢もある。トレアスで、勢いで残ればいいと言ってしまったこともあった。今はもうそう思わない。
 当たり前じゃない存在は、いつの間にか当たり前になっていた。
 非日常は、いつの間にか日常になっていた。

 ――クロのこと、大切に思ってるんだよ。

 いつだったろうか、彼女が言ったこと。押しつけがましいともとれたあの発言。
 自分は。
「俺、は」
 息の詰まるような静寂の果て、そっと忍び足で歩みを進めるように彼は呟く。
「ラーナーが何かできるできないとか、力になるとかならないとか、そういうことが問題なんじゃないんだ……」
 言葉にすると、自分でも見えなかった自分の心が見えてくるような気がした。今なら、こじ開けられる。
「……前に、捜している人がいて、その人を見つけるために旅をしているっていう話は、したよな」
 ラーナーは高鳴る胸を抑え込みながら、慌てるように何度も小さく頷く。
「笹波零っていうんだけど」
「ささなみれい」
 ラーナーは無意識に繰り返す。どこかでなんとなく聞いたことがある語感。少し遅れて、何度か耳にした“笹波白”という存在のことを思い出した。
「俺にとっては誰にも代えられないくらい、大切な人。でも、ずっと旅をしていても会えない。何度も黒の団とぶつかって、途方もない道をずっと歩き続けても、情報一つ手に入れられない。……正直……もう一生会えないんだろうって思ってる部分もなくもない。それでも旅をやめるわけにもいかない。俺にはあんたのいうウォルタとか、圭にとってのリコリスみたいな、帰る場所がない。アランやガストンさんの家は、そういうのじゃない……。支援してくれてる中で、立ち止まれない。やめたところでどうしようもない。しがみつくように旅を三年くらい続けて、それが、……俺は、」
 辛い。
 微風のようなほんの僅かな呟きが、最後に漏れた。
 ラーナーは一気に締めつけられるように息を呑む。時折襲いかかる鈍い頭痛を忘れるほどに、垣間見える彼の本当の心が彼女の胸を大きく打つ。
「変化が、ほしかった、んだと思う」
 ぎこちない言葉は続いていく。
「何か、この状況を打破するような何かが……ほしかった。どこに行っても変わらないもの、変わらない景色、変わらない人、変わらない自分……そんな状況から、出たかった。……そんな中で、あんたは俺に、旅についていきたいと言った」
「……」
「何かが変わるきっかけになるかもしれないって、無意識に思ったのかもしれない」
「……あたし、そんな大層な人間じゃないよ」
「大層かどうかは問題じゃない。それに、必要とされることは、……慣れなかったけど、ちょっと、嬉しかったから」
「……クロ、今日はよく喋るね」
「……人が堪えて真剣に話してる時に」
「違う。嬉しい。すごく嬉しい」
 慌ててラーナーは首を横に振り、頬を紅潮させながら笑みを浮かべる。元々赤面になっているクロは、何も言えず唇を横に強く締める。なんでこの人は素直な感情をさらりと言ってのけるのだろう。必死になった自分が馬鹿みたいだ。
「とにかく! あんたがいるから黒の団に自分から立ち向かう勇気が出てきたし、前より旅もつまらなくないって思えるようになった気がするし……俺はもう、あんたのこといて当たり前っていうか、いない方が考えられないというか……いるかいらないかでいえばいる、というか……だから」
 言葉が途切れる。彼の眼前にゆっくりと差し出された、ラーナーの両手。驚いた顔でそれを凝視し、視線を上げて彼女の表情を見る。胸が締め付けられるような、歪んだ顔。眉間いっぱいに皺を寄せて、唇を噛みしめて、何かを必死に我慢しているような顔。すっとその口が息を吸った瞬間、栗色の丸い瞳に潤みが溢れだす。
「私、クロに一緒に居たいよ」
 こまかく震えた声が彼女の口から零れていく。
「……圭くんにも、エーフィにもブラッキーにも、ポニータもアメモースも、エアームドも……皆とずっと一緒に居たい。もう誰も失いたくない誰も離れてほしくない。クラリスや、セルドやお母さんたちみたいに、もう誰かが居なくなるのは嫌だ……」
 突然目の前から居なくなってしまったクラリスの姿が、セルドの姿が、今でも彼女の頭を支配していた。きっと、これからも癒えない傷のようにずっと縛られ続けるのだろう。
 それが原動力か。クロは震える彼女の身体を見ながら、不意に理解した。急に知り合った存在であるクラリスを捜そうと必死になった姿も、ホクシアで危険を顧みずクロの元へやってきたのも、懸命にもがいてでも誰かを離さまいとする彼女の強い願いそのもの。彼女にとっては、なんて酷な旅路で、理不尽な運命だろうか。それに対して、孤独心に塗れた彼女はずっと戦ってきていた。知ろうとしなかった深い彼女の葛藤を、正面から彼は受け止めていく。
「だから一緒にいていいって言ってくれて本当に、本当に安心できる。でもクロ……あんまり無理をしないでほしい……もっと自分のことを大切にして。命なんてどうでもいいなんて、そんなこと言わないで……!!」
 耳を掻くような悲痛な願い。
 ずっと考え続けてきた思いは、雪崩のようにクロに直接転がり込んでいく。
 そして、差し出された彼女の手を、クロはぎこちなく包み込んだ。体温が下がった白いその手を、温めるように。
「努力する」
 短く、しかしはっきりと言いやった。
「だから泣くな。誰もそう簡単には離れていかない。クラリスだって、死んだわけじゃないんだ。ラーナーが生きている限り、いつか絶対に会いにいける。俺だって圭だって、そんな離れていかないから」
 彼女を励ますように、握る手の力が強くなる。
 ラーナーは頭を垂れながら、感情の圧迫に耐えきれない心を抱えて深く頷いた。けれど目か零れ出した涙はいよいよ止まらなくなって、クロはかえって呆れ顔になる。
「ああもう、泣くなって。なんでそんなに泣くんだ」
「だってもう、クロ、いつになく優しくて、もう……クロのばか」
「なんでだよ」
 ラーナーは手をクロの両手から離し、必死に自分の顔に纏わりついた涙を拭きとっていく。エーフィやブラッキーがベンチに飛び乗り、そんなラーナーの身体へ擦りよっていった。温もりを感じたラーナーはそんな二匹を両腕で抱擁する。歪んな顔はいつの間にか嬉しそうに笑っていた。


 *


「――まあ、いろいろと解決したんならいいけど、ほんとクロが変なこと言ったわけじゃないんだな!」
「うん、大丈夫!」
「ならいいけどな! でもゆっくり休め!」
「うん!」
 適当に見繕ってきたらしい弁当をラーナーに手渡した圭は、様子がおかしいことに敏感に気付いて即座に何があったのか尋ねた。説明不十分な点ばかりだったが、どこか晴れ晴れとしたラーナーやクロの様子を見て、圭はほっと一息ついた。空気が軽くなった。ぎこちなさが気持ちばかり取り除かれたような感覚である。
 この際、クロとラーナーの会話の邪魔をしないように、雰囲気が落ち着くまで影に隠れていたことは隠していよう。圭は笑う表情の裏にそっと事実をしまいこんだ。
「圭くんもあんまり無理しないでね」
「それはな、ラーナーが言える台詞じゃねえ! それに俺には無事にリコリスに帰るって目標があるんだ。その点は安心しろ!」
「へへ、そうだね」
 右手の親指をつきあげて自信満々に言ってのける彼の言葉は素直にラーナーの心を和らげる。
 そんな和気あいあいとした二人の傍ら、少し距離を置いたクロは目を閉じる。涼やかな風が通り抜けていく。いつになく爽やかな空気は、彼らの背中を柔らかく押していった。目の前に聳える壁は相変わらず厚く高いままで、旅路は先の見えない状態だ。その中で、しっかりと繋がっていれば、少なくとも一人ではないことを実感できた。どこか気恥ずかしく、自分が頑張らなければと気張っていた日々に比べ、今はそのことを簡単に受け入れられる気がする。
 深緑の瞳が再度姿を現す。目の前にいる仲間は談笑し、平和な雰囲気が辺りを覆っている。
 離したくない、それは、あまり考えたことがないだけで、自分も――。
「クロ、どうしたの?」
 ぼんやりとしたクロの姿を見て、ラーナーは不思議そうに尋ねた。
「……いいや、なんでもない」
「ラーナーのことずっと見てたろ。なんか変なこと考えてたのか?」
「違う」
「ジョーダンだよ」
 一瞬鋭い睨みをきかせたクロに対して圭はあっけらかんとかわしていく。ラーナーは顔をほんのり赤く染めながら、困ったように微笑んだ。
「……とにかく十分回復したら、首都に行こう」
「ああ。黒の団のことも、いろいろ分かるだろうしな」
「笹波零っていう人のことも、分かるかもしれない」
 ラーナーが口を挟むと、クロは驚いたように彼女を凝視した。得意そうに笑う彼女は、再び口を開く。
「絶対にいつか会えるよ。なんとかなる」
 根拠も無いラーナーの言葉は力強い。
 脳天気だと隅で呆れながら何故か心地よくて、クロは不器用な笑みを浮かべた。












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