Side 2 : エーフィ





 視点を移そう。
 これは、幸せな日々を求めた、彼女の傍に居るある獣の話。
 人は知り得ない、翻弄された獣の思いの話。


 *


 私のおやはリュードというひとでした。
 彼はジャーナリストで、その仕事の最中、私と彼は出会いました。まだ、私がイーブイだった頃の話です。当時、自分ではよく分かっていませんでしたが、アーレイスの某所にて、私は多くのポケモン達が並ぶとある競売に出されようとしていました。しかし、競売を催す業者の過去の数々の悪徳事業が彼の懸命な調査によって世間に公開され、やむなく中止。同じように出品されようとしていたポケモンともばらばらになり、私は縁あって彼の家族になりました。
 彼は、とても勇敢なひとでした。
 前述の出来事も危険なことは承知の上でした。それでも彼は自分のジャーナリズムを信じて突き進んだのでした。
 アーレイス国内にて黙々と机上で事務作業をしていることもあれば、時にはアーレイスを飛び出すこともありました。越境をする場合は危険な土地にいくこともあったし何かと誰かの怨みを買いやすい立場でもあったため、私は彼のボディガードの役割もしました。どうやら周りの人によると、私はとても才のあるポケモンだったようです。念力をコントロールするのが上手い、と。私にとってはそれが普通なので、ふうんと聞き流すだけでした。主であるリュードは鼻を伸ばしたり偉そうな態度をとらず、ただ少し気恥ずかしそうにはにかんでいました。
 彼は仕事に打ち込む人間で、仕事をしていないオフの間は別人のように気が抜けているひとでした。何かとドジをするひとでした。こりずに扉の角っこに小指を打つ場面を、私は何十回と見てきたことでしょう。山になった書類が崩れ落ちて、念力で元に戻すのを私は何百回してきたことでしょう。私は放っておけなかったし、常に彼のことを気にしていなければなりませんでした。まったく、私の身にもなってほしいものです。でも、彼は些細な失敗でも、傍に駆け寄ったり修正を手伝ったりするだけで、律儀に微笑んで「ありがとう」って言ってくれるんです。そんな顔で言われたら、私、結局、何千回だって何万回だって助けちゃうんです。はあ、罪なひとです。私がいなきゃ生きていけなかったと思います。
 それでも、彼は、とても勇敢なひとでした。
 現場に足を運ぶ彼の顔は真剣そのもので、普段の彼とは百八十度違います。常に針のように尖っていて、ちょっと怖い。逆境にも立ち向かっていく。ほんの少し垂れた情報の糸も逃すまいとする、そんな冷たい表情の彼もかっこよかった。とある内戦地に行った時にはそんなこと考えていられないくらいに、緊張で息の詰まる状況でしたが、鋭利な集中力と長年の相棒のカメラを抱え、時折劈く銃撃の音を背景に、彼は現場の情勢を事細かに自国へと伝えました。その風景は今も目を瞑れば思い出せます。まあ、思い出したいような記憶ではないのですが、ああいった綱渡りのような状況下でこそ彼に在った勇気は存分に発揮されていました。ただ、命がいくつあっても足りないと思いました。そういう時、私は普段とは比べ物にならないほど力を駆使して、彼をサポートしました。神経をすり減らされるような仕事が一段落すると、いつも彼はおいしいご飯を食べに連れて行ってくれました。いやあ疲れたな、どこか怪我はしていないか、具合は大丈夫か、今回もありがとうな。そんな彼の低い心地良い声が私の大きな耳を優しく撫でます。真剣な彼も、優しい彼も、ちょっとドジな彼も、私にとっては皆大切なリュードそのひとのものでした。
 そんな彼がニノと出会ったのは、ある会社に取材に行っているときでした。
 ニノはその会社で研究職についていました。なんという部門かは忘れましたが、何やら生物系の取材だったはずなのでそのあたりに詳しいひとでした。周りにいる会社員と比べても若く綺麗な女性だったのでとても目立っていました。
 なんというか、同業は男性が多かったこともあり、リュードは女性にはひどく疎いひとでした。いや、女性になかなか触れる機会がなかったからこそ、ニノに余計惹かれたのかもしれません。
 とにかく、まあ、なにが言いたいかというと、その、ええ、リュードの一目惚れだったのです。
 研究所の案内をしてもらっているそれだけで、舞い上がっているような状態でした。ニノが綺麗な人だったのは認めます。けど、あんなに幸せそうに、でも恥ずかしそうに、なんか変に空回りしたリュードは初めてでした。顔を火照らせ、ぎこちない動き。こんな三十路、どう思いますか。ええ、どう思いますか。どこの十代の青春の一ページですか。もっといい大人らしく余裕をもった行動をとってほしいとは思いませんか。仕事に集中しなさいとは思いませんか。見てるこっちが恥ずかしいくらいだったし、何よりつまらなかった。本当に、私の気持ちを汲んでほしいものでした。
 当たり前のように交わされた名刺交換。それをきっかけに続いていく連絡。最初のうちはリュードが一方的でしたが。
 まあ、彼女との出会いの時には完全に自分を見失っていたものの、仕事とプライベートはしっかり分けるひとだったので仕事に特に支障はありませんでした。ニノもニノで研究に忙しい日々でしたし。
 ただ、いつ頃からかニノが私達の家を訪れるようになり、彼女の手持ちである可愛げのないブラッキーとも知り合いました。ブラッキーは、ニノに対して私とは違った意味で怖いほど忠義の心が強いポケモンでした。最初はその気難しさ故どう接するべきかよくわかりませんでしたが、リュードとニノが二人で笑っているときは自然と彼と話す道筋を辿るわけになり、なんだかんだ仲良くなっていました。いじるのがとても楽しいです。楽しいことは好きです。それに、リュードとニノが二人きりでいるべき時、夜行性の彼に縋ってこっそり泣いたり話を聞いてもらったりしていました。言葉は鋭いけれど、なんだかんだで優しいポケモンなのです。そうしているうちに心が通うようになりました。
 そんな日々が、長く、続いていました。
 慣れというのは恐ろしく、非日常であった出来事がいつのまにか日常と化していた頃、私の心情は自分の知らぬ間に変化していました。
 ニノは明るくて快活な人でした。頭の回転が速く、知識量も底が見えず、強いエネルギーを感じました。自分の研究している分野の話になれば誰かが止めるまで話は止まりません。また、社会の動きにも常にアンテナを張っていたため、ジャーナリストであるリュードの話を聞くのは彼女にとって刺激的だったようでした。また同時に惹かれたのでした。いつも楽しそうに笑って、たくさんの話をしていました。きっと波長が合っていたのでしょう。素直にお似合いだと思うしかありませんでした。感情の動きに敏感な私ですが、ニノといる時のリュードはどんな時よりも幸せそうでした。私といることがつまらないのじゃなくて、ニノといることは彼にとってより幸せなのでした。そんな空間にいたら、私もその空気に呑み込まれてしまいます。いや、溶け込んでいたというのが正しいでしょう。いつからだったのでしょう。結局、私もまた幸せなのでした。ニノが作ってくれた料理は市販のポケモンフーズとは比べ物にならないくらい美味しく、何かと気にかけて話しかけてくれることに対する喜びは少しずつ大きくなってきました。時々出てくるリュードへの愚痴に同意して頷くと、彼女はなんだか嬉しそうにはにかんでいました。リュードや他の仕事仲間の大きくてごつごつした手と違って、彼女の手はやわらかく滑らかで、撫でられるととても心地良い気分にさせられました。私は夜に涙を流さなくなっていました。ニノやブラッキーがいない部屋を寂しく思うようになっていました。笑い声の絶えない、楽しい時間。広くもないそんなに綺麗でもない彼の部屋で、二人と二匹、確かに幸福だったのです。
 やがて、リュードの強いアプローチの甲斐あって、少々テンポが速かったもののリュードとニノは結婚し、子供にも恵まれました。賑やかで、大変だけど刺激的な日々でした。子供は可愛くて、ついつい甘やかしちゃいます。念力でぬいぐるみを動かして見せると、目を輝かせて喜びました。改めて得をする力だなあと思ったものです。ブラッキーは嫌がっていたようでしたが、不器用でしかもなんだかんだで世話好きなので完全に拒否はしませんでした。結局優しいのです。そんな絵に描いたような温かな家庭だったと思います。
 けれど、異変はそう間を空けずに起こりました。
 セルドが生まれて間もない頃、彼女は突然仕事をやめて、李国に行くと言い出しました。
 仕事で李国を訪れたこともありましたが、あそこはひどい場所です。楽しくないところです。町はどこもかしこも路頭に迷う人ばかり。異臭が鼻につき、市場に売られているものもとても美味しいものには見えませんでした。見えてないどこかで爆発音がします。大小問わず犯罪が日常茶飯事に行われ、どこにいても危険と隣り合わせでした。危ない場所です。
 リュードはそれを身をもって知っていました。ブラッキーがいるとはいえ、若い女性一人でそんな所へ行こうなんて、リスクが高すぎることは目に見えていました。子供を放って、しかも詳細をぼやかして話そうとしないニノに対して、この時ばかりはリュードも血相を変えて反対し、怒声を炸裂させました。ラーナーもセルドも泣き出すし、仲睦まじい家庭が一気に崩壊してしまうんじゃないかと震えたくらいでした。
 けど、ニノはこうと決めたことはやり抜く意志の強さと行動力がありました。加えて、この件に関してはニノはまるで決死の覚悟でも決めているかのように頑なでした。普段の彼女からは考えられない程荒々しかったのです。そして、底の部分で穏やかなリュードは鬼になりきれず、数日の喧嘩の末、最終的に折れてしまうのです。
 今思えば、あそこで負けずに止めるべきだったのかもしれません。でも、もう仕方がないことなのです。
 リュードは私に、ニノについていくよう頼み込みました。私は嫌でした。リュードとニノのことはとっくの昔に認めていましたが、リュードと離れるなんて嫌でした。みっともなく泣いたりもしました。でも、彼も泣くのです。もうわけがわかりません。
 でも、彼は、ずるい。
 ねえ、そんな顔したら。君だけが頼り、なんて、そんなこと頭を下げて言われたら、私、頷くしか、ないでしょう?
 ――私はニノについていきました。後ろ毛を引かれる思いで、家族を離れました。しかし、電車に乗ってボールの中で休んでいる間に、地を固めるように決意していました。もう後戻りができないのなら、これまでリュードにしてきたようにニノを手助けしそして一刻も早くリュードの元へ戻ろう。そしてまた楽しい時間に戻るんだ、と。
 けど、リュード以上に、ニノはずるい人でした。
 李国に行く前に、ニノは私を古くからの彼女の友人に預けていきました。混乱しました。理解できませんでした。意味がわかりませんでした。電車の中で何度も彼女はごめんねと言っていました。それは、単にリュードの反対を押し切り李国へ向かうという行動に対するものかと思っていましたが、それだけではなかったのです。私の決意があっさりと踏みにじられて粉々に砕けちって、底の見えない穴に放り込まれたような気分でした。唖然として、彼女の友人の話を信じられずしばらく食事が喉を通らないほどでした。
 そういう経緯だから、私はニノが李国で一体何をしていたのか、何のために家族を離れたのか、知り得ません。
 この離れ離れの日々は決して悪いものではありませんでした。元々のんびりとした生活が身に合っていた私だったので、日向ぼっこに時間を注げるのは楽でした。しかし、それまでに比べれば刺激が足りませんでした。リュードは、ニノは、ブラッキーは、ラーナーは、セルドは、どうしているのか。気がかりで仕方がありませんでした。元の家族に戻りたいと、私は切に願っていました。


 *


 月日が経って、彼女は私を引き取りにきました。
 その顔は私の知っているニノのものではありませんでした。まるで十年以上老けたかのように、彼女の顔は疲弊に染まっていました。何があったのかブラッキーに問うても、彼の口は今まで以上に頑なでした。
 でもどうにしろ、これで元の生活に戻れると私は安堵しました。
 しかし、そうではなかったのです。
 ニノはまた別の土地でホテルをとり、私達を訓練して力を引き上げると突然言い出しました。何を言っているのかよく分かりませんでした。前歴もありましたし、私は彼女の思考にすっかりついていけなくなっていました。一方、ブラッキーは何か納得したような表情でした。私は必死で顔を歪めて疑問の意を示しました。彼女はとにかく必要なことだということの一点張りでした。私達にとって苦痛が待っているけれど、我慢してほしいと。具体性に欠けた説明に納得できない私に、ブラッキーは少し話してくれました。血の滲むような訓練の日々が待っているだろうと言いました。何故そんなことをしなければならないのか。尋ねると、ブラッキーは応えました。ラーナーとセルドを、守るためだと。今のままでは、家族全員が殺されてしまうと。そうなる前に、早急に手を打つと。そのために彼等は逃げ出してきたのだと。
 何から、と問うと、彼は黒い奴等から、とだけ答えました。
 私は楽しい日々を取り戻したかった。
 大好きな家族を守るためだと言うなら、私は頷くしかありませんでした。


 更に数年後判明したことでしたが、リュードは子供をウォルタにいる古くからの友人のエイリー夫妻に預けてそのまま任せきりにして、主に李国に関する仕事を掻き集め、現地に赴く回数も滞在日数も増え、狂うように没頭するようになっていたということです。元々ワーカーホリックだったことに加え、勇敢な面が裏目に出てしまったのでしょうか。子供とも殆ど会わなかったそうです。実際、親のことを殆ど覚えていないという、そのラーナーの記憶が全てを物語っています。
 そう、ラーナーとセルドだけがしっかりと手を繋いだ状態のまま、家族は既にばらばらになっていたのです。


 *


 ……。

 ニノの懇願に頷いた後のことは、よく覚えていません。
 数日前のご飯の内容をいまいち覚えてないように、ぼんやりとしているのです。
 なんだかとても痛かったような気がするし、なんだかとても辛かったような気がするし、なんだかとても嬉しかったような気もします。
 でも、リュードとニノのボロボロになった体を見た、その時は……。
 痛かった。
 辛かった。
 悲しかった。
 それは、強く、焼きついているのです。
 ねえ、なんで、どうして、命は一つしかないのでしょう。
 何度も危険な瞬間を乗り越えてきたはずのリュードが、どうしてあんなにもあっさりと死んでしまったのでしょう。


 *


「まだ暑いね」
 ラーナーはほうと息をつきながらタオルで染み出る汗を拭きます。
「残暑厳しい秋ってやつだな。なあ、あとどのくらいで着くんだ?」
 圭は元々まくっていた薄手の上着の袖を更に折りたたみ、もうタンクトップ状態になっていました。
「今まで歩いてきた距離くらい」
 対照的にクロの顔は涼しげで、いつも通り見てるだけで暑そうな格好をして汗もかいていませんでした。彼の感覚は私でも理解できません。
「ってことはあと半分か! よっしゃ、だいぶ近づいてきたな! がんばろーぜ」
「……うん!」
 圭がラーナーに声をかけると、彼女は彼の元気に背中を押されるように笑みを浮かべました。
 ラーナーはクラリスのこともあり大きなショックを受けていたようでしたが、今はむしろ前を向いて進もうとしていました。何かを決意したかのような顔で、確実に地を蹴ります。ウォルタを出た頃よりもずっと逞しい歩き様でした。初めは長時間の歩行に慣れていないこともあり、足を痛めやすかったり疲労がすぐにやってきたりして、ポニータの背に乗っている時間も長かったものでした。けれど、今は心身共に自らの力をつけてきているように思います。
 彼女は強い人です。ニノの面影も、リュードの面影もありました。でも、リュードともニノとも違う強さや優しさ、悲しみを持って生き残ったラーナーには、きっと彼女にしかできない、何かが待っているのです。色んなものを抱えて懸命に生きようとしているラーナーのことは、好きです。旅もなんだかリュードと一緒にいろんなところに行っていた頃を思い出して、楽しくなります。ブラッキーには能天気で楽天的だと怒られるけど、かつかつしたところは大凡彼に任せるのです。でも、やるときはやります。そのために私はラーナーの傍にいるのです。彼女と一緒に、生きていたいのです。
 死ぬのは痛くて、辛くて、悲しいこと。
 生きるのも痛くて、辛くて、悲しいこと。
 でもきっと、楽しいことは生きることにしかないのです。私は、こうして生きている中のたくさんの楽しかったことを、覚えています。何度だって、手を伸ばしたいのです。

 ――だから私は生きている。自由の身になって現れた選択肢の中から、自分で選んだの。散々人に振り回されてきたけど、それでも私、何故か信じたいって思ってる。リュードやニノ、セルドがいなくても、心から幸せだと思える平和な日々を、手に入れられるって。
 そう、信じてるの。












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