Page 67 : 点と点





 真新しい服に所々傷付いた身体を通す。ふうと彼は細い息を吐き、鼓舞するように自身の顔を何度か叩いてから、ゆっくりと視線を正面へ向ける。鏡に映るのは自分の顔。獣のように尖った金色の瞳。同じく金色だった髪は真っ黒に染められ、雑ながらも短く切った。これで少しは黒の団の目を欺くことができるだろう、と希望的観測を立てる。髪の下には最早巻かれていることが当然となった包帯。黒髪と真逆の色の差で少々目立っているが、仕方が無い。
 大丈夫だ。
 きっと、大丈夫なのだ。
 自身を落ち着かせるために何度も彼は心の中で繰り返した。依然高鳴る心臓を押さえつけるように、もう一度深呼吸をする。今緊張していてどうする。これでは肝心な時に足が竦んで動けなくなってしまう。
「行くの?」
 背後から声がかけられ、自分の世界に沈んでいた彼は肩を跳び上がらせた。咄嗟に鋭い視線を走らせたが、すぐにその警戒心は解かれた。
 彼がいる洗面所の出入り口に立つ背が高く足の長いその若い女性は、朝起きたばかりなせいか、普段は高い位置で大きな団子髪を作っている長い髪をまだ下ろした状態にしている。それだけで随分雰囲気が変わるのだが、彼にとってはもう既に見慣れた姿だった。
 彼は彼女から投げかけられた言葉を反芻し、僅かに頷く。
「そう」
 つまらなさそうに彼女は呟き、踵を返す。古いこの建物は歩くたびに床がぎしりと音を立てる。彼は彼女を追いかけて就寝スペースへと場を移す。出入り口の傍にあるローテーブルに置かれたペットボトルに入ったお茶を彼女はゆっくりと飲む。筋肉が引き締まっている彼女の挙動は一つ一つが逞しくどこか美しく、見ているだけで目を奪われるものがある。
「どこに行くの」
 ペットボトルから唇を離して、彼女は彼に尋ねる。
「……首都に、行こうかと」
「セントラルね」
「はい」
 彼女は長い息を吐いた。煙草の煙を味わうように吐く、その行為に似た息だ。
「あの辺りに黒の団の根があるって言ってなかったっけ。それに真弥もいる……あなたにはリスクが高すぎる」
「でも……白さんはきっといつかはあそこに行きます。あそこはこの国の中心地。避けて通れない道だと、思うんです」
 そうかもね。彼女はそっと独り言を漏らし、視線を虚空へと向けた。細くなった瞳は懐古に浸っていることを物語る。
「白、懐かしいなあ」
 ふと口から出てきた言葉に、彼は目をゆっくりと細めた。
「ココさんは、会いたいと思わないんですか?」
「そうね。まあ、今何してるのかは気になる。でも、元々もう二度と会わないだろうってつもりだったから。君ほど拘りは無いよ」
「そうですか……」
 彼女――ココは手に持っていたペットボトルを彼に向かって投げる。緩やかな放物線を描いて彼はそれを難なく受けとった。
「飲みなよ」
「……いただきます」
 得意気にココは笑う。
 彼女は彼より少し年上だ。その割に見た目こそ大人びているが、中身はさっぱりとしていて女性というよりは男性らしいという印象を彼は受け取っていた。言葉にするならば姉御肌といったところ。頼りになる先輩、というのはこういうものをいうのだろうかと彼はぼんやり考える。先輩どころか、彼にとっては命の恩人なのだが。
 蓋を開けて、遠慮なくお茶を喉に通す。さっぱりとした潤いに満たされていく。
「あたしも行こうかな」
 呟いた言葉を彼は逃さなかった。驚いたあまりお茶が気管に入り、直後むせこんでしまう。静かな部屋に彼の乾いた咳が弾け、同時にココの大きな笑い声が響いた。湿り淀んだ空気を一気に吹き飛ばすような明るい声だった。
「そんなに驚かなくてもいいでしょ!」
「だ、だってなんでわざわざ……どれだけ危険かなんて重々承知してるでしょう!?」
「分かってるよ、だから心配なんだ。それにあたしもこれからどうしようかなって思ってたから。白に会えるかは分からないけど、あそこには真弥がいるのはほぼ確実でしょう?」
 ココが覗き込むように彼の目を見る。大きく強い視線からは、逃れられない。蛇に睨まれたように動けなくなるのだ。
「……はい、十中八九」
「たまにはさ、会いたくなるんだ。さっきは、二度と会わないつもりだった、なんて言ったけどさ」
 渇いた微笑を漏らした後、ココは窓辺へと歩いていき、染みが残ったカーテンを一気に開け放った。東の空を昇っていく太陽の光が一気に部屋に差し込み、彼女の茶色の長い髪がきらきらと光る。埃っぽい部屋に差し込んだ光が、何か新しいことの始まりを予感させるように彼には感じられた。何故だろう、つい先程までの心臓が痛くなるほどの緊張と恐怖が和らいでいく。むしろ、希望すら感じられる。期待が膨らんでいく。勇気が湧いてくるようだった。
 右手首にかけていた黒いヘアゴムを彼女は唇に挟み、慣れた手つきで髪を束ねる。随分と高い位置でつくられるポニーテール。この後垂れた髪もまとめられる。いつものパターンだ。少しずつ、いつものココ・ロンドへと変化していく。
「行こう、ブレット。首都へ」
 髪を振り、ココは決意の目をしてはっきりと言った。
 彼女は強い。精神も身体も。ずっと一人で黒の団から逃げ続け、生き抜いてきた彼女を支えるのは揺るがぬ自信。自分を信じている彼女の体を貫く太い芯。何故“出来損ない”の自分にここまで付き合ってくれるのかは謎めいたままだが、心強いことに変わりはない。過ごしてきた日々が、ココへ対する懐疑の心を既に溶かしきっていた。
 大丈夫だ。
 大丈夫なのだ。
 彼――ブレット・クラークはココの強い目を正面から見据え、深く頷いた。


 *


「首都へ向かっていますね」
 白衣に身を包み立つ女は呟いた。緩くウェーブのかかった茶色の髪のその女は、ホクシアでクロが出会った黒の団の女性だった。そのすぐ傍に座っている男は素直に肯定する。彼も白衣を着ており、黒い眼鏡をかけている。モニターの光を反射して、レンズが光る。
 飾り気のない立方体の部屋の壁に張り付けられた大きなモニターには地図が映し出され、中央部に赤い点滅の光が存在していた。どこからか延びている赤い線はまるで道を沿うように描かれ、その先に点滅がある、という形だ。線は単調に東へと向かっており、その先にある首都へと続こうとしているのは誰の目で見ても明らかであった。それは、クロ達の旅の歩みと重なる道だった。
「まあ、いずれはと思っていたけどね。ついにこの日が来たという感じもするよ」
「そういうの、お好きですね。割と最近にも聞いた気がしますが」
「ああ。多分、ニノと、彼女の夫の命日の時さ。今年のね」
「そうでしたね、そういえば」
 女はさほど興味も無さそうに抑揚のない相槌を打つ。今年のニノの命日。あの日、ラーナーは黒の団の手によって排除される予定だった。それを指示したのはこの男。男は決行をこの日としていた。何故そうしたのか、女は知らない。尋ねて躱されるということを繰り返しているうちに、最早その質問を投げかけることも億劫になっていた。
「バジルはもう動ける状態かい?」
 男は椅子を軽く動かして隣にいる女の方に向き直りながら尋ねる。即座に彼女は頷いた。
「はい。すぐにでも出せるかと」
「それは良かった」
「ですが、作戦内容にはやはり動揺しているようでした」
「そうなることは承知の上だ。彼はここを乗り越えない限りは次の段階にいけない」
 楽しそうに男は笑う。くくっと喉の奥が鳴り、眼鏡の奥の瞳はゆらりと光る。意地が悪い人だと女は心の中で呟いたが、表情には決して出さないようにした。それは自分も同じだ。彼女はよく分かっている。バジルの顔を思い浮かべた。疲弊しきった体に鞭打つように渡した作戦要綱を見せた瞬間の、驚きに目を見開いた表情。あまりにも予想通りの反応で呆れすら感じていた。やれるわね、念を押すように尋ねた声に彼は狼狽しながら小さく頷いた。そう答えるしか彼には無い。作戦も自らの感情を切り捨てて取り組んでくれるだろう。冷徹で、健気で、理想の形に育った彼ならば。
「さて、面白くなってきたね」
 男は机上に置かれたパソコンを操作し、大画面に映し出された地図を閉じる。
「ですね。でもこんな子供相手に、少し手間取り過ぎてしまいましたね」
「ただの子供と思ってはいけないよ。彼等は……笹波白と紅崎圭、そして首都に住み着いている真弥は数多の人々を手にかけてきたからね……むしろ人間と思わない方がいい」
「そうは思ってませんわ。けど、心がまだ幼い」
「そうだね。可哀そうな子達だよ」
 うん、可哀そうだ。彼はそう淡々と確かめるように繰り返した。そしてパソコンの隣に置かれた、黒々とした濃いブラックコーヒーの入った銀色の味気無いカップに手を伸ばす。彼は一日に何杯もコーヒーを飲む。そのせいか元々強くはなかった胃が更に弱り、ご飯もほとんど食べない。常に着ている白衣の下は痩せた体がある。目の下に刻まれたクマはもう何年もとれることなく在り続ける。不健康を象徴したような彼だが、もう慣れたものなのか本人は特に支障なく、淡々、坦々と仕事を進めている。
 彼女もつられるように手元のコーヒーを飲んだ。苦味が頭をまた覚醒させていく。
 ほうという息が彼等の口元から洩れ、束の間の安堵に似た空白の時間が訪れる。
「だから、もうこんな滑稽な遊びは、終わらせてしまっても僕はいいんだよ」
 低い声がした。
 しんと女の背筋に静かな寒気が迸った。考えるよりも先に男の顔を見やり、その光無き黒々とした両眼を捉える。物腰のやわらかく見えるこの人間は、しかし誰のことも拒絶し、軽蔑する。時折底が見えない心の暗みが顔を出す。その瞬間を彼女は何度も見てきた。そして彼は決まってその口元を吊り上げる。いつ何時も楽しんでいるのだ、何もかも。予想通りに事が運んでもほくそ笑み、反する方向に未来が進もうと広い余裕で状況を判断し、面白げに嗤う。
 ディスプレイに映し出されていた旅路も、結局彼の掌の上で踊っているように彼女には思われた。この人がひとたび手を返せば、あっけなく道は断ち切られてしまうような。いや、実際そうなのだろう。ウォルタでの作戦も、彼のよしという鶴の一言であの日行われたのだ。
 彼の先程の言葉に自然と含まれる重み。緊張と共に訪れる、高揚。彼女の胸のざわめきは一気に拡張していく。
「……さあ、仕事に戻ろう。君も続きにあたってくれ」
 男は眼鏡をかけなおし、温和な笑みを浮かべながら彼女に声をかけた。そこでふと彼女は我に返り、しかしすぐに平常心を取り戻す。
「はい」
 何事も無かったかのようにそう彼女は返す。今日もまた時間は回っていく。ふと戻ってくる自分から漂う血の匂い。白衣に染み付いたものなのか、はたまた肌に刻み込まれたものなのか、あるいはどちらもか。どれでも変わらない。口元に笑みが零れる。鼻につくそれに対する感覚はとうの昔に麻痺しきっていた。自分だけじゃない、これはこの組織全体に張り付き既に充分に浸透した匂いだ。
 ノートパソコンを腕に抱え、男に背を向ける。首都の作戦を考えるだけで胸が躍る。ホクシアで数年ぶりに間近で見た深緑の少年の顔を思い出すたび、次に会う時が楽しみでたまらなかった。


 *


 バジルは大きな部屋に所狭しと植えられた木々のうちの一つに右手を翳す。紺色のシャツを纏い、普段は黒い上着によって隠されている黒い輪が手首に巻かれているのが窺える。息をか細く吐く。同時に、木が蠢き始める。遥か直上、四方八方へと伸びる木の枝はまるで生きているかのように、一気に生長を見せる。その動きに固さは無く至って滑らかであり、生長を数倍早送りしているかのようだった。他の木々の枝を軽々と蹂躙していく。しかしふと彼の集中力は削がれる。彼の背後に人の気配を感じたからだ。
「相ッ変わらず鮮やかですねえ、この反則技」
 中性的な若い――いや、幼いともとれる声がバジルの耳へと突き刺さり、露骨に彼は顔を顰める。粘つくような奇妙な笑い声が部屋を漂う。
「でもこうやって訓練するのなんて最近では珍しいですよね。僕、ちょっと心配してたんですけど、意外に気合入ってるんですかあ?」
 言いながらその人はバジルの横に顔を出す。背丈に対して大きめの黒い上着を身に纏い、そのフードを深く被っている。加えて、長い銀色の髪のおかげでその目はほとんど外側からは確認できない。辛うじて口の動きは確認できる程度だ。そしてその口は今、にたりと三日月を象っていた。一人称は“僕”だが、胸まで伸びた髪や、狭いとも広いともいえない肩幅、バジルよりも少し低い身長、大きめの服を着ているおかげで体格が分かりづらいことから、女であるか男であるかどうかすら曖昧だ。
 しかしその性格には難がある。不快なことこの上無い、とバジルは心の中で唾を吐く。
「何の用だロジェ。悪いが世間話をしている余裕は無い」
「あれえそうですかあ? いや用という用はないんですよ。ただどうしているのかなあって気になったんですよね〜ほら、謹慎明けも間もないのに出された作戦の内容に動揺していないかなあって」
「余計なお世話だ。お前は自分のことに集中しろ」
 冷たく突き返そうとするバジルに対して、何がおかしいのかロジェは高笑いを放った。
「あははははっ! 僕はよっゆうですよおラーナー・クレアライトなんて一番簡単じゃないですかあ! 一般人でなーんの力も無い女。むしろ余裕すぎて落胆って感じですよねえ」
 不自然に肩を落とす。些細な挙動も軽々しい言葉も全て目や耳につく。風の無い水面のようなバジルの集中は既に彼方へと飛び去り、今は混沌とした苛立ちの渦が巻いている状態だった。ロジェの口から出てきた作戦へ対する不満を録音して上に聞かせて、処罰でも与えてやりたい衝動に駆られる。如何せん、ロジェは思考も行動も軽さが拭えない。どうしてこのような精神状態になったのか、理解しがたい。
 バジルは大きなため息を吐き、ちらとロジェの方を向く。
「その一番簡単なラーナー・クレアライトをキリで仕留めきれなかったのは、どこのどいつだ」
「え〜いや〜それはあ、僕じゃなくて僕のポケモンですから! それにあれだって完全に成功してたんですよお。まさかニノ・クレアライトの呪いが残ってるなんてだーあれも考えていませんでしたしい、不可抗力です。でも二度目はありませんよお」
 ロジェは自信に満ちた笑みを浮かべる。癇に障る言い方がバジルの心を更に逆立てた。
「そんなことを言いにわざわざ来たなら、さっさとどこかに行け」
「ほんっとにバジルさん余裕無いんですね。それって後が無いからですか? それともターゲットが紅崎圭だからですかあ?」
 その言葉を言いきったか言い切らなかったか、そのぎりぎりの点の瞬間、ロジェの首元に閃光が走る。空気の切り裂く音は刹那に張り裂けた。思わず彼の緩んでいた表情も一瞬引き攣る。氷のように冷徹なバジルの目は刃物のようにロジェを鋭く睨みつける。寸でのところで留められた枝先は、あともう僅か進んでいればロジェの首を貫いていただろう。
 冬の夜のような冷たい静寂が空間を支配する。やがて、枝先のロジェの首が僅かに動いた。
「……ハハッ図星ですね。これは威嚇ですかあ?」
「警告だ。これ以上邪魔をするな。お前との会話に付き合っていたくない」
「まーいいですけど。力じゃ勝てるわけないですし」
 諦めたようにロジェは首を横に振り、露骨に肩を落とす。しかしまたころりと表情は戻り、白い歯をずらりと見せる。
「まあ、冷血で冷酷で冷徹なバジルさんなら、笹波白じゃなくて紅崎圭が相手だろうと関係ないですよね〜心配して損しましたよーう……じゃっ、僕はこれにて」
 最後までからかう姿勢を見せたまま、木の枝が更に伸びようとした直前にロジェはその場から軽快に後方へと離れる。乱雑に伸びた銀色の髪が白い電灯を反射して輝いた。最後にバジルに一瞥した後背を向けて、機嫌が良さそうに軽い足取りで部屋から伸びる長い廊下へと向かっていった。その様子をバジルは顰め面で見守り、完全に姿が見えなくなったことを確認してからようやく重い息を吐いた。
 紅崎圭。バジルは改めてその名前、顔を頭の中に思い浮かべる。
 相性を考えればこうなることは当然だ。笹波白は炎。紅崎圭は水。そして自分は草。笹波白に対しては分が悪く、紅崎圭に対しては分がある。しかし感情的な自分がぽつりと呟く。何故こうなったんだ、と。笹波白が相手なら遠慮なく力をふるえる。元々自分の手で葬り去ってやりたい気持ちもあった。バハロで目の前で逃がした悔しさもある。笹波白に対しては、許せないという感情が強い。けれど上から下された指示はバジルの考えを無視していた。近日行われる首都での攻撃作戦での彼の相手は、紅崎圭。
 何故だ。
 上に逆らう気は更々無い。与えられた仕事は忠実にこなさなければならない。それが自分の道なのだから当然のことだ。けれど、何故よりにもよって。オレンジ色の髪も瞳も、言葉が通じなくても何故か息が合った瞬間も、記憶に根強く残っている。動揺の渦は心の底を蠢き続けている。だらりと下に落とした手に無意識に力が籠っていた。それに呼応するように周囲の木々はざわめく。紅崎圭とだけは、戦いたくなかった。その思いがバジルの本心として根強いていた。だが、それを無理矢理抑え込もうとする。奴は敵だ。笹波白と手を組み、自分を裏切った。殺せと指示されればそれに従うのみ。これは任務だ。仕事だ。使命だ。運命だ。右手を大きく上に翳す。直上で枝が剣を振るうように縦横無尽にしなり、暴れまわる。切り落とされた十数の枝が床に渇いた音を立てて散らばる。異様な光景であった。傍から見れば、木が独りでに動いているようにしか見えない。しかしその幹の傍、バジルの額には汗が滲み出ていた。
「許されぬ」
 彼はぽつりと呟いた。広くとった視界の端、人ほどの大きさの細い木に焦点を定める。
「決して倒れるな」
 その細木の根元から茎の太い草が茂り、縛るように木に絡まりつく。
「決して滅びるな」
 空気を横一字に腕で切り裂く。動きに合わせるように、先程まで乱れ狂っていた木の枝のうち太い一本が空を裂いて細木の元へと向かう。
「決して、逃げるな」
 目を細め、噛みしめるように言い放った直後、パンと激しい音が部屋に響く。幹が空へ弾け飛んで激しく回転、他の高木に衝突し、やがて力無く地面へと落ちた。細木は抗うことなく真っ二つに割れていた。
 バジルは静止する。後に残っていたのは、空虚だけだった。


 *


 車窓に張り付くようにアランは外の景色に夢中になっていた。地上より少し高い場所を走り抜けていく電車は次々と町という町を追い抜いていき、いよいよ首都は目の前に来ようとしていた。心臓が高鳴る。町全体において歴史的情景に重きを置いたトレアスでは拝むことの無い現代的なビルの柱が無数に並んでいるのが既に視界に入ってきていた。童心に帰ったように彼は頬を赤くして自然と笑っていた。胸にこみ上げてくる期待で体が破裂しそうである。
「おいおい、夢中になるのはいいが、せめて椅子に落ち着いて座ったらどうだ」
 通路側の席に腰かけているアランの師匠、ガストンは苦笑を浮かべる。そして正面にある座席テーブルに置かれた缶ビールを手に取り、豪快に飲み干してしまう。
 指摘されることでアランはようやく自分が椅子から腰を持ち上げていたことに気が付き、慌てて座り込んだ。体格が良く座席が小さく見えるようなガストンとは、落ち着きの度合いがまるで違う。少し恥ずかしさを覚えながらも、相変わらず興奮した声音でアランは話し始めた。
「だってほんとに首都に来たんだなあって思うとわくわくが止まりませんよ! これからある研究会もどんな雰囲気なのか楽しみだけどまずあそこの空気がどんなものなのかビルに囲まれてるってどんな感じなのかどれだけ人がいるのかどれだけ交通機関は便利なのかどれだけ俺の予想を覆してくるかを考えるだけでもういてもたってもいられないですよ!!」
「分かった分かった。いや、早口すぎてよく分からないが、とにかく落ち着け」
 アランの勢いに呑まれて呆れた声で彼を軽く諭す。
 温度差にアランは悔しさを覚えるが、ガストン自身は首都に慣れているため仕方が無いといえるだろう。燃やすものを失い段々と炎が鎮火していくように彼は少しずつ冷静さを取り戻していく。それでも自然と窓の外へと目を向けてしまう。長い電車の旅だった故に体も固まっており、早く着いてほしいという思いは強かった。
「……クロ達にも会えるといいな」
 ガストンがぽつりと呟き、アランは師匠の顔に視線を移す。元来厳つい顔の口元は柔らかく微笑んでいた。
 それはアランも強く願っていることで、すぐに彼は大きく縦に首を振った。
 数日前、突然クロからかかってきた電話を思い出す。その時の彼の声は弱々しく、思わず強い口調で叱り飛ばす勢いで言いたいことをぶちまけてしまった。あれから連絡は無い。元々向こうから連絡をしてくること自体夏に雪が降るようなものだと彼は割り切っていたから既に期待などしていなかったが、不安は拭えない。何しろ彼等は心底不器用なのだ。苦難の道を歩いているとはいえもっと楽に生きるやり方があるだろうに、クロもラーナーもぎこちなくて無理をして、見ていて危なっかしい。だから支えてやりたくなる。助け舟を出してやりたくなる。体の健康の保持だけじゃなく、心も健康であってほしいと願う。
 今は何をしているのだろう。どこにいるのだろう。どんな時間を過ごしてきたのだろう。気になって仕方が無い。
 けれどこの首都できっと会える。実際に会えば、どんな状態でいるかは分かる。少なくとも電話越しよりもずっと理解できる。
「早く、会いたいです」
 アランははっきりと言い張った。不安はある。けれどそれ以上にアランの中に膨らんでいるのは、会いたいという焦がれだった。


 *


 工場の連なる道を抜け、ベッドタウンと思われる住宅街を抜け、やがて彼等はビル街を丸く囲う深く広い堀川の傍までやってくる。人通りも多くなってきていた。様々な車が横を通り抜けていき、橋を次々と通過していく。こういった巨大な鉄橋が中心に向かって多く作られている。自分達の頭よりずっと高い世界では、どこからか伸びた何本もの高速道路やモノレールが緩やかに川の向こうへと向かっている。整えられた道に沿って店や会社が入った多様な建物が建てられているが、川を渡る銀色の大きな橋の先にある天も貫かんとする高層ビルの群集は、遠くから眺めるだけで圧倒されるものがあった。
「あれが、首都の中心街……」
「通称、セントラル、か」
 ラーナーの圧巻された声に付け加えるように、クロが呟いた。
 アレイシアリスヴェリントンというのが正式名称だが、長さ故か人々からはただ簡潔に首都と呼ばれ、更に川の内側に存在する主要都市はセントラルと呼ばれる。首都といえばこのセントラルを指すことが殆どだ。アーレイスのほぼ中心に位置したここは、名実共に国の中心地である。
 クロとラーナーは圭の居たリコリスへ向かう際にこの首都を電車の乗り換えのために実は一瞬だけ訪れていたのだが、その余韻に浸る間も無くすぐに出発していた。大きく時間をとって訪れるのは彼等の旅において初めてである。長く旅をしているクロ自身もここは避けるようにしてきた。人と政治と技術と情報と、アーレイスのほぼ全ての核が詰め込まれた首都は、得られるものも多いが同時にリスクも大きい。逃亡の身にある彼等にとってはそれは尚更だ。それでも今、いつかは来ることになるだろうと覚悟していたこの場所に、足を踏み入れている。
 果たして、求めるものは、ここにあるのか。無機質で、しかし底の見えない世界が広がっているこの場所に。いや、きっとある。クロは睨みつけるようにセントラルを見る。ここだから手に入れられるものがあるはずだ。だから意を決してやってきたのだ。ふと隣にいるポニータの視線を感じて自然とその黒い大きな目を見る。ポニータは彼の一歩を促すように大きく頷いた。まるで見通されているようでくすぐったささえ感じる。ただそれだけで、緊張に固まっていたクロの心は多少融かされた。
「行こう」
 クロが声をかけると、ビル街に圧倒されていたラーナーと圭は改めてクロに視線を向け、それぞれ頷いた。



 様々な者達が、各々の思惑を抱えて、混沌の地で遭遇し、交錯し、錯綜し、飽和していく。
 その果てにあるのは何か。
 誰の望む未来になるのか。
 誰の望まぬ未来になるのか。

 その行方は――闇の中。












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