Page 71 : 交わりの始まり





 集合場所である南西区の鉄橋の麓にやってきたクロとラーナーは、道行く人々の中に圭の姿が無いかぼんやりと目で探しつつ、残り一人の到着を待っていた。
 空の色がだんだんと霞んでいく。鮮やかだった蒼は息を潜め、褪せたような淡い群青と薄紅の創り出す滑らかなグラデーションが空をおぼろげに彩る。刻々と黒を塗り重ねていく高層ビル。強く瞬く大小様々な色とりどりのネオン広告がより一層存在感を増していく。繁華街は輝き、賑わいは衰えない。そんな熱気は残っているものの、気温は僅かに下がっていく。隙間を吹く風は昼間に比べると軽い。真夏を思わせる昼間とは明らかに表情を変えた、初秋の風だった。季節の変化を実感するたび、拭えない友人の顔、クラリスの姿が彼等の脳裏に焼きつくように瞬く。
 見舞いを終えて集合場所に向かうという旨の電話が圭からやってきたのは四十分程前のこと。セントラル自体はそれ程広い土地ではないし、地上と違って信号や人混み、入り組んだ道といった障害は空路には一切存在しない。エアームドの洗練された航空術を以てすれば、聳え立つ高層ビルの間を掻い潜るのもお手の物だろう。今日は天気も良く風も穏やかだから、遮られることなく円滑に直線距離を飛んでくることができる。圭自身も、二十分もあれば着くと言っていた。しかし、予定到着時刻を随分過ぎても一向に姿を現す気配が無い。
「圭くん、どうしたんだろうね」
 ラーナーの声音は不安に染まっていた。
「……電話してから奴等に鉢合わせたとしたら、最悪だな」
 浮かない表情をしたクロの示すものは、明確な名詞を取り出さずともラーナーには理解できた。同じことを彼女も想定していたからだ。目立つ格好で空を飛んでいれば、あまり鳥ポケモンが飛んでいる姿を見かけないこの街では発見されてもおかしくない。一人でいるところを黒の団に攻撃されたとしたら。慣れない場所で、慣れない体勢で迎え撃ったとしたら。その時彼に勝ち目はあるかとクロは自然と自身に問いかけた時、庇うこともせず冷静に即座に否と答えた。長年鍛錬を怠らなかったのは知っている。リコリスにいる間も一人黙々と木刀を手にしていた。けれど圭は随分と実戦から離れすぎてしまっていた。体格はクロの記憶している過去の圭より大きくなっていても、動きはワンパターンで読みやすく、クロの目が完全に捉えることができる程衰えている。皮肉なことに、その事をクロは時折圭と手合せをしているからこそ実感できていた。その上で慣れない状況なら、対処に限界がある。
 圭に対して申し訳なさを覚えるくらい、悲しいくらい、冷酷だとクロは自分の心に針を突き立てる。そんな圭をリコリスから無理矢理引き摺り出したのは彼自身なのに。
「電話は、しない方がいいのかな」
「ああ。あっちから来るのをなるべく待とう。ただ日が完全に暮れても来なかったら……その時考える」
 未来を考えたくないのか考えないようにしているのか、自棄的である。胸に駆け巡る不安を一度棚に置くように、ラーナーは静かに頷いて前だけを見据えた。
 彼等の不安を露知らず、見知らぬ人々が前方を通り過ぎていく。


 が、暗い空気を拭う出来事は会話が途切れてから三分と経たないうちに唐突に現れた。
 小さく声を漏らしたのはクロの方だった。ざわめきの中でもラーナーの耳ははっきりとその声を掴む。クロの見据える視線の向こう、少し人混みを掻き分けた先には一際夕日の色をもった人物が見えた。あちらも気が付いたのか、隙間から見えてきた顔に僅かに笑みが綻んでいた。懸念は一瞬で泡が弾けるように消えて、二人は揃って胸を撫で下ろした。
 しかし、クロが圭に焦点を合わせていた視界を広げた時、彼は表情を瞬時に変えて自分の目を疑う。
「え」
 思考が整理されるより前に、クロの口からは間の抜けた声が出ていた。
 クロは既に圭から視線を逸らしていた。驚きの原因は圭には無い。それは、圭を超えた向こうに存在する。不器用な硬い笑みを浮かべていた圭より頭一つ分程抜けたその人を、指の先まで硬直したまま、穴を開けようとしているかのように凝視していた。彼にとっては予想だにしていなかった来訪者。これから見つけにいこうと考えていたその人。
 身に刺さるように変化を見て取れたラーナーがクロにその訳を尋ねようとする前に、クロの唇は動き出した。
「真弥さん?」
 現実を信じられないとでも言いたげに彼の声音は揺れていた。その発言にラーナーは背筋が伸び上がり、圭の後ろについてやってくる人物をクロに倣うように見つめた。
 薄暗くなってきた環境でも輝くような金色の髪は、まるで長髪を後ろの部分だけ短く切ったかのように、横髪だけが鎖骨のあたりまで伸びていた。すらりと伸びた身長だが図体はがっしりしておらずむしろ飄々とした印象だ。髪と同じく金の瞳はクロ達を視界に入れたのか、すっと細くなる。けれど近付いてくる姿を観察していると、小さな違和感を感じざるを得なかった。それはクロにとっても同じだったが、彼の方が先にその原因に気が付く。風に吹かれる様に目を留めた瞬間、ラーナーも察して息を止めた。気付いた瞬間から、糸で繋がれたかのように目を離せなくなる。
 左腕が、無い。
 長い袖は、左肩の下からのれんのように力無く垂れていた。
 両者間の距離が僅か一メートルという目と鼻の先のものになり真弥の口からの真弥の声が発せられるまで、クロは身動き一つ出来ないでいた。
「久しぶり」
 彼がクロに向けて放った開口一番の言葉は、あまりにも短くこの上なくありきたりな挨拶であった。
 愉しげに微笑みを浮かべながらひらひらと右手を軽く振っている。その態度に左程大きな感動は見えず、数年越しの再会とは思えない程捉えどころの無い態度である。まるで数日前に一度会っていたかのように感慨無く淡々としていた。
 しかしクロの方は真弥の微風のような落ち着きぶりとはまさに対極。真弥の声が鍵となり静止していた彼の感情を解放した。強烈に雪崩れ込んでくる思いはクロ自身も制御できずに一気に飛び出し、自然と数歩真弥に踏み入っていた。
「真弥さん! ……ほんとに真弥さん、なんですか、どうしてこんな所に!?」
 挨拶も会話のキャッチボールも何も無い。真弥とは違う色合いで感慨にまったく浸ることなく、感情をあまり表に出さないクロにしては珍しく動揺を隠さずに大きな声を叩きつけていた。早速食いかかってきたクロの姿に、真弥はわざとらしく肩をくいと上げておどけた表情を見せた。
「それはお前、可愛い昔の同胞が首都に遊びに来てくれたら、出迎えるのが普通でしょ」
「普通って……そんな、どうやって分かったんですか! 俺達がここに来てからまだ一日も経ってないのに!」
「いやいや、この俺をなめてもらっては困るよ。それに、目立つ格好してここらじゃ珍しい鳥ポケモンに乗って空を飛ばれちゃ、気付かない方が無理ってものだろ?」
 言いきってから圭に視線を寄せる。朱い服装に身を包んだ圭が情けなさそうに苦い笑みを浮かべているのを、責めるようにクロは軽く睨みつけた。
「まあそんなに身構えるなって。と、そっちがラーナーさんね」
 不意に指名されたラーナーは無意識に姿勢を正していた。口調は穏便だが、自分よりずっと背の高い真弥は立っているだけでも不思議な威圧感がある。多くの偽名やクロの態度から先に得体の知れないイメージを創り出していたがいた故にそれは尚更であった。クロの挙動も普段とは明らかに異なり気が立っているが、その対処に慣れているかのようにいなしていく様子もラーナーには新鮮であり、同時に一層相手が何者なのか掴むことが出来ないでいた。
 必要以上に身を強張らせている彼女に真弥は薄く苦笑いをした。
「緊張しなくたって、そんな取って食うわけじゃないんだから。圭から少し話は聞いてる。ニノの娘さんなんだって?」
「あ……はい」
「そうか……うん、確かによく似てる。若返ったニノみたいだ」
 この人も知ってるのか、とラーナーは改めて自分の母の存在の大きさと謎の深さを思い知る。
 それから真弥は口を閉じ、目を細めてじっくりとラーナーの表情を観察していた。顔つきには一切の角が無く、まるで思い出に浸って懐かしんでいるかのようである。クロや圭に出会った時の態度よりも余程再会の余韻に身を委ねているかのようだったが、ラーナーにとって真弥は勿論初対面である。一点の曇りなく真っ直ぐ見つめられ続けているのはラーナーにはどこか居心地が悪く、視線の矛先をどこに向けるべきかと目を泳がせ、助け舟を求めるように隣に立つクロを見た。クロは関心を全て真弥の挙動に集中させておりラーナーの思いを汲み取ったわけではなかったが、彼の苛立ちからの発言は結果的にラーナーへ向ける真弥の注目を奪うこととなる。
「真弥さん、話はまだ終わってないです! いくら目立つからってこの広い空で圭のことはどうやって見つけて……それとその腕、どうしたんですか!?」
 唾を吐きだすような勢いで捲し立てるクロだが、対象とされている真弥は逆に呆れたように冷たい視線を投げかけた。
「……お前はちょっと落ち着きな。というか、俺に久々に会えて嬉しくないわけ? ちょっとは笑ってみせなって」
「躱さないでください」
「固いね」大袈裟に肩を落とすと、すぐ傍に立っている圭に視線を向けた。「圭、こいつ何かあったのか?」
「え? いやー……嬉しいとかそういうのより驚きが大きいだけでしょ。俺も会った時はかなりびっくりしたし」
「そーんなもんかね。俺が首都にいることはどうせ分かってたんだろ。そっちが俺を探すより圧倒的に手っ取り早いし俺から来たってだけ。……ま、サプライズとしては大成功ってことにしておくか」
 口元がにたりと少し吊り上がった時、大人びた風貌に悪戯心が垣間見えた。
 その瞬間を目前にしてクロの喉が一瞬閉塞し、同時に大きな確信を得た。驚きばかりが先行して夢心地のような気分を捨てきれないでいたが、今自分は真弥と再会し会話をしているのだというその事実が、ようやく彼の中で確かな現実として鮮やかな色を帯びる。
 この人は、昔から変わっていない。
 邂逅から数えた時は僅かであり会話もまともに出来ていないが、クロは何故かそう判断していた。
 ただし、変わっているものもある。
 目の前で音無く揺れている左袖がそれを粛々と象徴している。
「ま、積もる話が沢山あるのは分かる。俺からも聞きたいことは山ほどある。ただここは煩くて仕方ない。場所を移そう、いいな?」
 真弥の促しはもっともだ。セントラルの玄関口であり人の出入りの激しい鉄橋付近は今も多くの人が周囲を行き交っている。クロは煮え切らない表情を崩してはいないが、同意するように小さく頷いた。真弥の顔は満足そうだ。振り返ってみれば真弥は再会して以来、殆どの時間張り付いているかのように微笑みを絶やさないでいる。
「こんな大人数であんまり人目に付きたくないしな……タクシー拾うのが一番いいか」
 そう呟いて真弥は現在いる地点から数歩移動し、車道の手前までやってくると通りを走り抜けていく車の群に目をやる。
 クロ達は追うように彼の元へ集う。そして真弥の左側に立ったクロは垂れる彼の左袖につい視線を奪われる。何も通していないただの布でしかないそれは不穏を象徴しているようにクロには見えて、胸に渦巻く不安感を煽っていく。
「真弥さん」
「ん?」
 近くに空車のタクシーが来ないか視線を投げかけたまま、真弥は応じた。
「腕、どうしたんですか」
 クロは先程勢いで尋ねようとしたことを改めて問う。急き立てるのではなく、きっかけがあれば再度溢れだそうとする感情を無理矢理抑え込むようにゆっくりと。真弥を数年ぶりに目の前にして衝撃だったモノの理由を早めにはっきりさせておきたかった。彼の引き締まった表情を真弥は僅かに見やり、すぐにやってくる車の判別を再開した。
 遥か頭上で映し出されているスクリーンの音や行き交う車のエンジン、人々の笑い声といった様々な音が入り乱れる首都の喧騒を背景に、クロの放つ圧力は途切れることはない。傍から押し込まれてくる異様なプレッシャーに真弥は肩を落とした。
「大したことではないよ」
 相変わらず真弥の声音は物静かなものであった。
「俺、ずっとここにいるの。言うまでもないけど、けっこうリスク大きいんだよ。ちょっと油断したらこうなっただけさ」
「だけって……黒の団ですか?」
 引っ掻けるように自分の予想をぶつけたが、真弥の表情は殆ど変わらない。ただ口元が僅かに上がってクロの方に一瞥をやっただけだった。
「お前はこうならないように気を付けな。少し不便だし。――お、丁度良いタイミング。空車が来た」
 無理矢理会話は遮断される。真弥は右手を上げて、間もなく彼等の近くにやってくる客の入っていない黒塗りのタクシーを呼ぶ。スムーズな動作で歩道に車体は寄っていった。完全にタクシーが停止すると、真弥は率先して前の座席のドアの前に立つ。
「俺、前に座るね。三人は後ろで適当に」そう指示すると、扉を開いた。クロ達は互いに目を見合わせて、動き出しづらい微妙な空気感に纏わりつかれた後、痺れを切らした圭がドアノブを掴んだ。順に入っていき、ラーナーが最後に座り込んで扉を閉める。押し込まれた密閉空間にて、中年男性の運転手は色彩鮮やかなな客の姿に違和感を覚えたのか、バックミラーを使ってじろりと観察する。それを制するように真弥は愛想笑いを浮かべて話しかけた。
「北区までお願いします。北区の、ルージュ通りへ」
 真弥が要件だけ端的に伝えると、運転手は真弥に視線を移し、しわがれた声で応対した。その後道路を走る車の列を観察してから、車を再度発進させる。息を吹き返したエンジン音。緩やかに踏まれたアクセル。車の群れの隙間へと難なく滑り込んだ。
 独特の圧迫感に皆が押し黙っていた中で、後部座席でクロは一際怪訝な表情を浮かべていた。後頭部を見せている真弥に向かって、自らの疑念をちくりと刺す。
「南区じゃないんですか?」
 その言葉でラーナーは遅れて気付かされた。クロが今日一日で手に入れた情報を収集して自己解析した結果、真弥の住居はセントラルの南区にあり、真弥が直接会いに来るというアクシデントが無ければ圭と合流してそのまま向かう予定だった。しかし真弥が進行先として指定したのは北区。方向としては真逆の地区である。
 真剣な顔つきのクロを真弥はバックミラーで見やると、小刻みに肩を震わせた。そして勢い余って笑い声が口からはみ出してしまう。クロの中では勝負に負けたかのような嫌な予感が走り、その彼を嗤うように真弥はにやけた横顔を覗かせた。
「いやあ面白いよ、物の見事に引っかかってるな。それ、フェイク」
「……フェイク?」
「いくらなんでもそんな簡単に割り出されるようにはしてないんだな、これが」
 瞬時に引き攣ったクロの横顔をラーナーは見逃さなかったのだった。












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