Page 72 : 住処





「本当にこんな所に住んでるんですか?」

 セントラル北区、ルージュ通りのとある交差点にて一行は車から出ると、開口一番クロは真弥にそう尋ねていた。

「なに、今更。まだガセ情報のこと妬んでるのか」

 クロからの返答は無い。固く顰めた表情は仮面が張り付いているかのように動かない。真弥は相変わらず薄笑いを崩さないでいた。

「ま、本当だよ。ただここらへんは高級住宅街だからな。俺の家はもっと離れたところにあるからここからは歩くぞ」

 真弥の言う通り、彼等を取り巻いているのは高層マンションの羅列であった。辺りはすっかり暗くなり、無数にある窓の多くは部屋の明かりで白く光っている。狭い面積に押し込めるように何百、何千、それ以上の世帯を取り込んだこの北区は、セントラルに住む多くの人間の居住区がメインの顔であるようだ。

 次から次へと送り込まれてくる車と車の隙間に吸い込まれていくように去っていくタクシーを横目に見送る。先程まで彼等が居た南西区――繁華街に比べると交通量は和らいでいるが、今立っている通りは車線も多く設けられた北区の巨大街道である。行き交う車両は決して少なくない。日が暮れて帰宅の途についていると思われる老若男女が歩道を行き交う中、クロ達は真弥の後ろに突き、暗闇に包まれつつある赤レンガ造りのメインストリート・ルージュ通りに沿って歩く。

「ラーナー、その格好、寒くない?」

 歩行を続けながら真弥は振り向きざまに言い放つ。唐突に呼び捨てで声をかけられたラーナーは一瞬目を点にしたものの、慌てて首を激しく横に振った。

「大丈夫です! 私けっこう暑がりなので……!」

「そう? セントラルって全国的にも暑い地域らしいんだけど、最近朝夜は冷え込んできたから」

「ああ……そうですね……秋になってきたという感じがしますね」

「だね。日中は相変わらず馬鹿みたいに暑いんだけど。俺は暑いの苦手だから早く本格的な秋になってほしいもんだ」

 寒いのも苦手だけどね、と真弥は付け加えると、ルージュ通りから離れるように左へ曲がる。

 足音をすり抜けていくような冷えた風に対して、いい風だと、真弥は実感を込めてそう呟いた。秋の息吹に左腕無き袖は緩やかに揺らいでいた。遠くをぼんやりと眺めるように真弥の背中を見つめていたクロは、静かに口を開く。

「楽しそうですね、真弥さん」

「楽しいよ。今日はいい日だ」

 即座に返してから、また真弥は左へと方向を転換する。刹那に見えた横顔は鼻歌でも歌いだしそうだった。

「懐かしくて楽しい気持ちになるんだよ、こうしてると。お前等と居た頃の思い出なんてろくなものがないはずなんだけどな」

 すう、と歯の隙間から空気を吸う音。そしてゆっくりと吐いていく音。そんな真弥の深呼吸が、後方にも聞こえてくる。今、彼の頭に過ぎっているのはかつての記憶。細目で見つめる、もう体感することのない、彼方の映像。共有は出来ないが、真弥の言葉を受けてクロや圭の脳裏にも同じように過去に自分が見て感じた景色が蘇る。

「……俺は、ろくなものがなかったからこそ、今クロや真弥さんといることはすげえなって思う。勿論、ラーナーとも」

 真弥は顔だけ振り向かせて、満足そうに頷く。

「そういうこと。皆よく生きて来てくれたよ。俺は幸せです」

「ですってなんだよ、真弥さんらしくないなあ」

 苦笑する圭の声は不思議と弾んでいて、どこか息苦しくなった雰囲気が酸素を得たように安寧が広がっていく。

「らしくないって俺からしてみれば圭もそうだからね。お前はほんと雰囲気柔くなった」

「へへっそれは自覚ある!」

 自慢げに胸を張ると、悪戯心が真弥の中で光る。

「そうそう、ちょっとガキっぽくなったよなあ」

「なんだとう!?」

「俺もちょっとそう思います」

「クロまで言うか!」

 ふと流れるように自然と圭の視線がラーナーの方へと向いて、その先で彼女は何故か胸の高さで右手拳を握りしめた。

「圭くんはそういうところが可愛いと思うよ!」

「あんまりフォローになってねえ!」

 笑い声が弾け飛んで、そこからは当たり障りの無い話が自然と続いていった。緊張がほぐされた状態で弾んでいく会話。足は確実に次の目的地へと近づいて行っていた。

 

 

 

 

 

「さーてもう目の前だ、けどその前に一言」

 一度立ち止まって、くるりと半回転。クロ達に向かい合う。

「ま、クロはもしかしたら知ってるかもしれないけど、一人同居人がいるのね。そいつちょっと人見知りが激しいんだよ。今日君ら連れて帰るのも連絡してないしどうなるかわからんけど……多少喚いてもあんまり気にしないでいて」

「喚くって……」

「俺が話つけるから気にするな。こっち」

 クロの呆れの声をかわして、真弥は建物の間の細い道を進んでいく。ささやかな街灯がまばらに点いているが、寂しげな光は足元を十分に照らせていない。黒く塗りつぶされたような頑丈なコンクリートの上を一歩一歩進んでいく。車の音は既に遠くの方へと投げ出され、ざらりと地を撫でる足音だけが鼓膜に響いていた。

 つきあたりを右に曲がってすぐの場所に、駐車場のような広場があった。周囲は細い道であり車など入れるわけがないのだが、少しでも空いた場所を埋めんとばかりに所狭しと建物が連なっているこの地域では珍しく、だだっ広い空間であった。その前にやってくると、広場の奥に二階建てのこじんまりとしたアパートが建っていた。今まで高層ビルに圧倒されていたためにそのサイズは余計に小さく見える。が、建物自体は清潔でしっかりとしたコンクリート造りで、古めかしさを感じさせないものであった。いくつかある窓に明かりがついていることで人気があることも確認できる。

 真弥の誘導で彼等は広場へと入り、そのままアパートの玄関口へと入る。階段はあるがその横をすり抜けて、建物の裏側へと回ると、いくつかのドアが立ち並んでいた。言うまでも無くそれぞれの住民の部屋へと繋がる扉である。真弥は一番奥へと進む。

 建物は勿論違うものの、ラーナーはウォルタで弟と共に住んでいた住居と似た景色を抱いていた。一階。廊下を一番奥まで進んだところ。全てが始まった、あの瞬間。――今、思い出してはいけない。ラーナーは拳を強く握りしめ、早まろうとする動悸を抑えつける。今は自分一人ではない。心強い人達が彼女の周りに居る。ボールの中には力強いポケモン達がいる。だから今は前を向いていられる。

「さて」

 一息ついたのち、真弥はインターホンの下に自分の左の親指を触れさせる。一秒程の間が空いてから、ピピッという可愛らしい電子音が鳴り、その直後に扉の錠が自動で開けられる音がした。曇りの無い動作だが、やっていることは富裕層の住む高層マンションにも負けない最新技術の一端である。

「すげえ!」

 真っ先に目を輝かせて感嘆の声をあげたのは圭だった。クロもラーナーも目に新しい技術に目を丸くする。

「指紋認識ってやつ。鍵持ち歩くのなんかめんどくさいからね。同居人がやってくれた」

 ドアノブに手をかけてその扉をゆっくりと大きく開け放ってから真弥が先に入り、暗い廊下の明かりをつける。クロ達は一瞬躊躇うように目を見合わせたが、先にクロが入り、続いてラーナー、そして圭と続く。最後に圭が恐る恐る扉を閉めきると、自動的に扉にロックがかかる。一瞬の光景に圭の胸は大きく高鳴った。しかし先に入った面々がどんどん廊下を進むのに一歩遅れて気が付き、慌てて追いかける。

 二人分は並べそうな廊下の横にはいくつか扉があったがそこは無視し、正面の扉へと向かう。半透明の小さなガラスが埋め込まれた扉は恐らくリビングルームへと続くものであり、中の様子は見えないが明かりが零れていることから、真弥の言う同居人が居ることが予想された。新鮮な気持ちに身体を強張らせた面々だったが、真弥はあっさりと扉を開く。

 隙間から音が零れる。ラジオから流れる小さな音楽だ。清潔感が保たれた――というよりそもそもほとんど物が置かれていないリビング。椅子に腰かけて穏やかな表情でコーヒーを飲んでいた人物が、真弥と、そしてその後ろから続いてきたクロの姿を目に留めた瞬間――前触れなくフリーズしたコンピュータのように彼の動作は完全に停止する。

「丁度良かった、今休憩中? ちょっと三人知り合い拾ってきてしばらくここに置くことにしたからよろしくー」

 全身を強張らせたままの同居人を横目に、真弥はクロ達を順次部屋の中へと招き入れる。忍びこむように三人は緊張の面持ちでリビングへと入っていく。入って左手側にラジオが乗ったテーブルに、椅子が二つ。同居人の青年はここに座っている。右手側に黒いソファとテレビ。それ以外には目立つものは見当たらない。真弥が扉を閉めて、計五人が収容される。二人で住むには十二分な広さだが五人ともなれば窮屈な空間のようだ。

 ラジオから流れる曲が途切れる。

 重い無音の世界が佇む。

 浅く溜息をつきながら真弥は同居人の近くに歩み寄り、彼の目の前で手を振る。

 茶髪を群青色のヘアバンドで括り、分厚い黒縁の眼鏡をかけた青年はゆっくりと視線を真弥へとずらしていく。殆ど停止状態だったがその手は僅かに震えているようだ。持っている白いマグカップに入ったコーヒーは揺れている。状況をまったく読めない彼は目で必死に真弥に説明を求めているかのようだった。

「さっきの聞いてた? こいつら、俺の知り合い。しばらく泊める。了解?」

 尋ねておきながら返事がやってくる前に真弥は再びクロ達の方へ振り返り、青年の背に手を置く。

「こっちがさっき言ってた同居人のノエル。この通り停止してるけど、ま、面白い奴だから仲良くしてやってくれ」

 簡単に紹介されたものの、クロ達の目は動揺していた。突然な訪問故に仕方の無いことだが、同居人・ノエルも事態を把握出来ず動揺している。歓迎とはかけ離れた、異様な空間だった。窮屈な空気の中で、真弥だけがリラックスして飄々と軽々しい自分のペースの態度を維持することができている。それでも真弥の作った流れに乗ろうと自己紹介をしようとしたか、まずラーナーが一歩を踏み出そうとしたそれとほぼ同時に、ノエルの真っ黒な瞳が一気に見開かれた。

「はあああああぁぁぁああああ!?」

 突然の叫び声に一同の心臓が露骨に跳ね上がる。静寂を切り裂く声、というよりも爆音そのものである。唯一平然とした様子を見せてているのは、声の源から一番近いはずの真弥であった。興奮が収まらぬままノエルは椅子から勢いよく立ち上がり、ぐんと見開いた眼で隣にいる真弥を凝視する。

「そんなの聞いてませんよ!? 大体どこのどいつですか! なに僕に言わずにずかずか家に入れてるんですか!?」

 一言も発さず石の置物のように静止していた人物と同じとは考えられない程、

「そんなもん言ったらお前絶対部屋に入れないからに決まってんじゃーん」

「なっ……そんな当たり前じゃないですか!! 知り合いって、あんたの知り合いが今までマトモだったことあるか!?」

「あー」

 後方でノエルに慄いているクロ達に一度視線をやってから、再びノエルと向き合う。にっこりと笑った顔はまるで相手と正反対である。

「大体俺よりマトモだから大丈夫」

「そういう問題じゃない!!」

「そう、問題はそこじゃない。遥々やってきた客をそんな風に言うお前の方が問題だ」

「僕にすり替えするな!! とにかく僕はそんなほいほいと認め――」

 ノエルが言葉を吐いているその最中、青年の背中に置いた真弥の手がざっと下に振り下ろされた。背に走った触感と同時に悪寒に貫かれて、彼の喚くような声は突然途切れる。

 返ってきた静寂。

 クロ達からは見えない位置で、表情が無に還っている真弥。

 無言の力がノエルに圧し掛かって、黙らせる。

 ふと、真弥がまた笑みを取り戻した時には、ノエルにある再び声を荒げるための気力は削がれていた。

「ちょっと黙れよ」

 既に黙り込んでいるノエルに止めの一言を刺してから、何事も無かったかのようにクロ達に手を差し出す。

「左からクロ、圭、ラーナー。クロと圭は俺の昔馴染だ」

 紹介を受けて、動揺は明らかに収まってないものの改めてノエルの瞳はクロ達を捉える。黒縁眼鏡を軽くかけ直して客の姿を凝視していたものの、居たたまれなくなったのだろうか。挨拶の一声も出せないまま、その場を乱暴な足取りで離れようと歩きだす。飲みかけのコーヒーを机上に残し、リビングから続く別室の扉の向こうへと早々と消えていこうとする。

「ノエル」

 扉が閉まる寸前、真弥の声がかかりノエルの動きは止まる。

「こいつらはお前が恐れるような奴じゃない」

 威圧を保ったままの低い声は、苦虫を噛んだように歪んだノエルの表情を崩すことはない。扉と壁の隙間からノエルは最後に抵抗するように真弥を鋭く睨みつけると、リビングが震撼するような大きな音を立てて扉は閉められた。乱暴に歩く足音が時間と共に溶けるように消えていくと、代わりに無音の圧力が増していく。

 その沈黙をゆっくりと裂くように、真弥の深い溜息が落ちていく。

「悪いな。あいつ、慣れれば落ち着いて話せる奴なんだけど、特に初対面は苦手でな。異様に警戒するんだ」

 真弥は肩を落としたまま苦笑する。

「いえ……というか、今更ですけど良かったんですか? 俺達、ここに来て」

「気にするなって言ったろ。こうなることは分かっていた」

 予想の範囲内だった真弥だが、クロ達からしてみればこの家の安寧を崩したのは紛れも無く自分たちであり、出ていくべきなのはノエルの方ではないように思われた。騒動を越えてみれば、旅の一行は呆気にとられて一歩動くことすら出来なかったのだが。今もどうすべきか分からず、立ち尽くしているといった様子である。

「ノエルのことも後々話すよ。あの感じだと本人からはまともに話せないだろうし」

「はい……」

「悪いな、空気悪くして。適当にそこらへん座りな。本当に何も無いけど、お茶くらいならあるから出すよ」

 真弥が促しに呼応するように、顔を俯かせていたラーナーの顔が急にぱっと上がる。

「あ、私、手伝います!」

 真っ先に言い放ち、先程は出せなかった一歩を踏み出す。テーブル横に併設されたキッチンに入って行こうとする真弥は、彼女の行動を制止させるように手を縦に翳す。

「いいよ。君はお客さん。今日一日疲れたんだからソファに座って休んでたらいい。そんな、コップに入れるだけだし」

「いや手伝います。運ぶの、大変でしょう」

 ラナの視線は無意識に真弥の左腕があるべき長い袖へと向けられていた。

 些細な所でモ強情を張るところがある。物怖じしない姿勢に真弥は、断るのは拒みに繋がると判断した。じゃあお願いしようかなと微笑む。

 真弥について入ったリビングは殺風景だが、キッチンも綺麗に整理されており、些細な傷がついたシンクの中には洗い物一つ残されていない。極限まで物を削ったような光景は、生活に対して無欲で簡素な傾向が垣間見えるようだった。ただ、生活感は丁寧に整えられており、極端に質素であるという印象は見受けられない。

「しっかりしてるね」

 コップの入っている棚の位置をラーナーに教えて、自身は冷蔵庫から麦茶の入ったペットボトルを出しながら真弥はそう述べる。

「そんなことないですよ」

 頭上付近にある棚の扉を開けて人数分のコップを出そうとするが、冷えたお茶を入れるのに適しているような透明のグラスは二つしかない。それらをまず調理台に出し、続いて隣にあったマグカップに手をかける。そこで僅かに迷いが生じる。マグカップは三つ伏せられている。一つ、二つと順当に出してから、間を置いて三つ目も取り出した。

「初対面の人の家でもあまり緊張はしないようなタイプなのか」

「緊張しますよ、普通に。今だってそうです。でも……前よりは慣れた気がします」

「旅の間に、か」

 真弥は一度ペットボトルを台に乗せる。ラーナーが開けようと手を伸ばしたが、その前に彼は右手の指先にぐっと力を入れてペットボトルの栓を回す。難なく蓋を取ってみせると、驚いたように目を丸くしているラーナーの前でそのままコップに順々に注いでいく。

「俺は今日初めて会ったから前の君の性格なんて分からないけど」

 五つ目のカップまで来た時に真弥の動きは止まったが、優しい笑みを浮かべながらそのマグカップにも麦茶は注がれていく。

「きっと旅の間に逞しくなっていったところもあるんだろうね」

「それは……どうでしょうか」

 ラーナーの声はあからさまに自信が無さげで、弱々しい。

「そんなものだよ。まあ、君の場合は昔からしっかりせざるを得ないところがあったかもしれないけど」

 暗に両親のことを指されていることをラーナーは察し、視線を落とす。初対面のはずなのに、どうしてこの人は全てを見抜いているような言葉を突いてくるのだろう。

 ペットボトルの中身はちょうど使い切られる。シンクに容器ごと置くその手を離さないまま、真弥はまた懐かしむような目で、細い息を吐いた。

「今のラーナーを見たら、きっとニノは喜ぶだろうな」

 実感を込めたようなその言葉は、ラーナーの心に波紋を広げるように染み渡っていった。













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