Page 78 : 探り合い





 熱いコーヒーと冷たい麦茶のどちらにするかを少し迷い、シンクの隣に置かれたインスタントコーヒーの粉が半分ほど消費されているのを見て、ラーナーはコーヒーを淹れることにした。殺風景ともとれるリビングと同様に、殆ど物が外に出ておらず美しく整えられた台所だが、その台所ですぐ目に見える場所に置いてあるということは即ち普段から使っているということだろうと判断したからだ。伏せてあった白いマグカップを手に取り粉をスプーン山盛りで一杯加え、沸かしたお湯をゆっくりと注ぐと、忽ちカップの中からたっぷりと湯気が膨れ上がる。黒々としたコーヒーをスプーンで軽く掻き混ぜて粉末の感触が無くなれば、準備は万端だ。
 使用したスプーンを軽く洗った後、よし、と彼女はカップを持って台所を出ようとする。すると、何時の間にか隣で行儀良く座っているエーフィが目に入った。人懐っこい大きな紫紺の双眸を、興味津々といったようにラーナーに向け、忙しなく二又の尻尾を揺らしている。まるで期待しているかのような素振りに、ラーナーは苦笑した。
「違うよ、これはエーフィのものじゃない」
 軽く諌めるように言うと、エーフィの脇を通り過ぎる。尻尾の動きがゆるりと止んで、エーフィは不思議そうな顔をしてラーナーの後を追いかけた。
 台所を出てすぐ傍にある扉でラーナーは立ち止まり、ふうと息を吐く。ラーナーはこの扉が開けられたのを一度しか見ていない。初めて真弥の家に来たばかりの時、逃げ込むように使われた部屋だ。つまり、ノエルの自室である。
 俄かに速まってきた鼓動を振り切って、ラーナーは軽く握りしめた手を扉に翳し、三度叩いた。木製らしい籠ったような音が遠慮がちに鳴り、身の引き締まるような静寂が訪れる。しかし、どれだけ待っても中から物音は聞こえてこず、確かに叩いて出てきたのは小さな音ではあったので、ラーナーは早計に、先程よりも大きく鳴るように心がけてもう一度三回ノックする。意志的に口を一の字に結んで辛抱強く待ったが、それでもやはり返答は一切無い。左手に持ったコーヒーは素っ気ない態度で湯気を噴き出すばかりである。
 さて、どうしたものだろう、とラーナーは肩を落とす。三度も試みるのはなんだかしつこいようで、話したことのない人に第一印象としてしつこいと思われることはどことなく憚られた。助けを求めて、というつまりではなかったのだが、隣に立っているエーフィに自然と視線を落とすと、エーフィはきょとんとした顔でラーナーを見つめ返した。
 目の前に立ちはだかっている壁、もとい扉に向き合っていると、二又に分かれた尻尾がラーナーの足に触れた。エーフィが一歩前に出て扉に近付くと、額に埋め込まれた赤い宝石が妖しげな光を発する。ラーナーが怪訝な顔をするより前に、あっさりと錠の開けられる音がして、彼女はぎょっとする。言葉を失い思わずエーフィを振り返ると、エーフィは涼しげな、どこか得意気な顔をしてにっこりと笑っている。
 サイコキネシスを自在に操るエーフィには、鍵を開ける繊細な作業すら造作もないことなのか。改めて自分のポケモンの才能を目の当たりにする。ただ、悪びれもなくまるで褒めてほしいとでも言わんばかりに尻尾を左右に振って笑っているエーフィを前にしては、突飛で独断的な犯罪行動に対して叱る気持ちも湧いてこず、かえって呆れたようにラーナーは苦笑いを浮かべた。



 ノエルの部屋の扉の鍵が、彼やポリゴンの操作なく勝手に開けられたのは、その日の二十三時を回った頃である。ノックの音も、鍵の開く音も、扉の開く音も、ノエルには聞こえなかった。真弥は出掛けたばかりで帰ってくるにはまだ時間があるために十分に油断しており、その証拠に持て余した足を椅子に乗せて寛ぎ、寝起きの心を鼓舞するようにイヤホンを耳に装着して大音量で音楽を流していたからだ。しかし、家の管理、特に防犯面の監視に重点を置くよう指示されているポリゴンがそれに気付かないはずがなく、すぐに画面上に白い吹き出しが現れた。パソコンに繋いでいるイヤホンを通して、ノエルの耳にも音楽を遮断するようなぽーんという独特の電子音がく。
<ラーナー・クレアライトが訪問しました>
 軽快にキーボードを叩いていたノエルの手が急に止まる。時間が止まったように部屋から音が消えた。ノエルの耳には相変わらず音楽が流れこみ続けていたけれど、まるで頭に入ってこなかった。
 強ばった動きでノエルはイヤホンを外し恐る恐る振り返る。視界の端に、半開きになった扉に立っているどこかで見覚えのある人間と、その足下に紫色の毛並みをした細身の美貌を抱く生き物を捉えた時、強烈な眩暈に襲われた。そのまま気絶してしまいたいくらいだったが、人間そう簡単には気を失えない。
 ぴたりと動きを完全に止めたノエルを、不安げにラーナーは見つめた。彼女もどうしたらいいのかわからず、動けなかった。エーフィの二股に分かれた尻尾だけが、ぶらぶらと無責任に揺れている。
 痛々しい沈黙にも耐えられず、先に均衡を破ったのはラーナーの方だった。
「あの」
 一声かけただけで、大袈裟なほどにノエルの肩は飛び上がった。エーフィがサイコキネシスで鍵を開けたことには勿論背徳感を抱いていたが、途轍もなく悪いことをしているような罪悪感が襲い掛かってきて、ラーナーの不安も更に深まる。けれど、このままでは彼を訪問した意味がない。包むようにマグカップを持っている手に力を籠めた。平静を保とう。さっきの声だって強ばってしまっていた。普通だ、普通でいればいい。
 ゆっくりと彼の傍に歩み寄り始めると、一歩一歩ラーナーが踏み出すたびにノエルの全身の筋は緊張して痛むようだった。椅子に座ったまま後ずさるものの、当然傍にテーブルがあるため逃げ場は無くなる。ラーナーは、近付きすぎない程度の、二メートルほど離れた位置で、手に持っている白いマグカップを差し出した。白い湯気が立ち上っていて、対照的な真っ黒なコーヒーが中で揺れている。
 ノエルはマグカップに視線を移し、続いてラーナーを見て、再度マグカップを見た。声を発する気配の無いままぎこちなさが空気をがちがちに固めていた。
 そのとき、ぽーん、と毛糸玉のような柔らかい電子音がパソコンから発せられた。場違いの能天気な音だったが、ぎりぎりまで膨らんだ風船に小さな穴を開けたような、空気を変える音だった。ポリゴンから吹き出しが発せられた報せである。
<ラーナー・クレアライト自身に害は無いものと考えられます>
 ラーナーは目を丸くした。赤と青のパネルで形成されたような、まるで玩具のような見た目のプログラムが、ノエルのパソコンの中でそわそわと動いている。ぽつんとペンでかいたような黒い小さな目が画面越しにノエルを覗き込んでいた。そこで、ふと昨日のクロと真弥の会話が蘇ってきた。パソコンに生き物のようなプログラムが入っている、と。名をポリゴンといったことも思い出す。
 吹き出しに目を通して、それでもノエルは不安げな表情を浮かべている。
 ラーナーはエーフィに視線を落とす。ポケモンは、存在が強大な力そのものだ。後ろめたい思いで深い紫紺の瞳をじっと見つめる。
「ごめん……エーフィ、リビングに戻ってもらってていい?」
 申し訳なさそうに尋ねると、エーフィの大きな耳がぴくりと上下に動く。彼女は抵抗するようにしばらくは静止していたが、ラーナーも一切譲ろうとしないので、諦めたように踵を返す。先程ラーナーが忍び込むように開いた扉の隙間を潜るように部屋を出た。その後独りでに扉は閉まり、器用にもサイコキネシスを使って動かしたことがラーナーには解った。しかし端から見れば勝手に扉が動いたようにしか見えず、ノエルは叫びたい衝動を理性で必死に押し留めていた。
 エーフィが姿を消した後は二人だけ部屋に取り残される。ブラッキーもいない。正真正銘、ラーナーの持ち合わせているものはコーヒーだけとなる。
 エーフィに指示をして退出させるという行動は、ノエルに害を加える気はない、という主張のつもりでもあった。しかし、相変わらずノエルは張り詰めた挙動をとっており、静かではあるが冷静ではないことが手に取るようにわかった。
「……パソコン、すごいですね」
 視野を広げて目に留まったパソコンについて、チューブを絞るように会話の種を拾うと、ノエルは俯いた。あまりにも平凡で簡単な言葉を吐いてしまい自分の無知を晒してしまったようで、ラーナーは恥ずかしくなった。初めて話しかけるにしても、もっと他にあっただろうに、と後悔した。これで多少会話が成立すれば救われるのだが、虚しくもノエルからの返事はない。くる気配もない。ラーナーはパソコンに詳しくなく、それ以上会話を膨らませることもできなかった。
 肺が引っかかれているような気まずさに潰されそうになりながら、ラーナーはモニターを見た。パソコンを見慣れないラーナーからしてみれば三つもモニターが並んでいるだけで圧倒されるようだが、相変わらずその中にはポリゴンがいた。どうやらモニター間を自在に行き来できるようで、暇を持て余すように電脳世界で揺れながら、間の抜けたような顔でずっとこちら側を見つめている。他に映し出されているものはどれも平坦で淡泊で、文字だけ目眩がするほど並べられているようなファイルだらけなのに、ポリゴンだけはやたらと立体的だった。
 そのポリゴンに目が釘付けになっていると、固まっていたノエルの腕が動き、指がキーボードに置かれた。と思えば、彼は自らを落ち着かせるように長い息を吐き、意を決したように目にも留まらぬ速さでキーを打ち、モニターに文字が映し出された。その文字はすぐに巨大化し、目を凝らさなくてもよく読めるサイズになる。一瞬の出来事にラーナーは呆然としながら、ノエルの綴った言葉を目で追う。
『どうしてここにきたんですか帰ってください』
 手痛い一言である。
 面食らったラーナーは萎縮しながらも、引き下がらなかった。扉をいくらノックしても返答が無く、遂にエーフィのサイコキネシスで鍵をこじ開けてしまったことに関しては罪深さに頭を下げる他ないが、そうまでして来た意味もなくなってしまう。妙な図太さがずるずると成長してしまっているのを自分でも実感して、苦笑したくなる。
 それならば、さっさと本題に移ってしまおう。
「ごめんなさい、どうしても、教えてほしいことがあるんです」
 相手の意志を裏切るのは勇気のいることだった。緊張しながらラーナーは文字が打たれるのを待ったが、画面は何も変わらない。何か返す言葉を探っているように指が固い動きでキーボードの上を泳いでいたが、見つけられていないようだった。
 この人はきっと本気で追い返せるだけの力が無い人なんだ、と勘付いた。椅子から立ち上がって、部屋から追い出す力が、無い。それに、頑なに頭から完全に拒否するほど気丈でもない。或いは、迷っているのかもしれない。どうであれ、聞き出すチャンスはありそうだった。
「真弥さんたちは……今日、どこに行ってるんですか」
 隠すこともなく言い放つと、揺らめいていたノエルの指が完全に静止した。間を置いて、ノエルの顔が肩越しにラーナーを窺うように僅かに振り返る。視界のほんの端に彼女の姿を捉えるだけの些細な動きだったが、初めてラーナーは彼が自分を正面から見てくれたと思った。それは確かな手応えだった。
 すぐには返事が無かった。やはり迷っているようである。彼女を見たのはその一瞬だけで、今は画面と対峙している。ラーナーは急かすこともなく沈黙を貫き、応答を根気強く待った。
 やがて、キーを叩く音がした。先程よりもずっと遅いタッチは、そのまま彼の慎重な様子が映しこまれているかのようである。
『どうして?』
 生唾を呑み込む音が耳元で聞こえてくるようだった。短い問いは文字だけだと冷たく感じられる。絞り出した言葉は感情を押し殺しているよう。見えない圧力と戦っているようだった。ラーナーは返す言葉を選ぶ。
「私と一緒に旅している人も真弥さんと一緒に行って、どこに何をしにいったのか、知りたいからです」
 素直に吐き出すと、緊張で凝り固まった心から糸がするすると抜けていくようだった。
 やや間が空いて、今度は先程よりも早く返事が来た。
『何も話は聞いていないんですか』
「はい」
『それはあなたに話すべきではないと判断したのでは』
「わかりません。そうかもしれません、が……あなたは知っているんですね」
 暫しの沈黙を挟む。ラーナーはもどかしくなって、畳み掛けるように続けた。
「ここを出て行くとき、雰囲気が普通じゃなかったんです。なんだかとても嫌な予感がするんです。教えてください」
『それを知ってどうするんですか』
 ピシャリとはねのけるような言葉だった。
『行くつもりならあまりにも浅はかです』
「……そういう訳じゃありません。行ったところで足を引っ張ることくらい、私が一番解っています」
 自分で断言しておきながら、ラーナーは自分の首を絞めているような感覚に駆られた。
『なら、どうして』
「絶対に……言わないと思うからです」
『仲間外れが嫌ということですか』
 一気にラーナーの頭に熱が膨らんだ。
 触らないでいた急所に矢が射られたような気持ちだった。仲間外れ、という言葉はどこか幼稚で、しかし的確なようで、つまりラーナーは自分が幼稚で浅はかな嫉妬の精神で動いているのではないか、と気付いて絶句した。
 そうなのかもしれない。ただ一人、置いてきぼりにされている不快感を少しでも解消したいだけなのかもしれない。どう足掻いてもクロが振り向こうとしている兆しがあっても、やはり彼女とクロ達の間には高い壁があり、彼女は孤独を拭いきれない。ただ、そうだとしても、御託はいいから教えてほしかった。行きようのない朧気な胸騒ぎを形にしようとすることで、感情の逃がす路を見出したかった。不安ばかりが先行していて、堪らなかったのだ。
 だとしても、自分の勝手だ。
 重い沈黙が続いている中、ぽーん、というポリゴンの吹き出しが出た音がした。二人は揃って文章を追った。
<真弥は今日はカンナギという組織の討伐に向かっています>
 ラーナーもノエルも、揃って目を丸くした。
「ちょっと、ポリゴン」
 身をモニターに乗り出して、焦るノエルの声。慣れ親しんだプログラムの一言であり、驚きのあまり思わず声を発してしまったのだろう。叫びでもどもり声でもない芯の通ったテノールの声を、ようやくラーナーは耳にした瞬間だった。
「何勝手なことしてるんだ。真弥さんになんか言われたらどうするんだよ」
<特に問題は無いと判断したのと、ラーナー・クレアライトの考えを考慮して最善を導き出した結果です>
「なんだよそれ……お前は何もされようがないからいいだろうけど僕は全然良くない」
 机に肘をついて軽く組んだ手の上に皺の寄った額を乗せる。他人の考えを考慮、プログラムが。依頼内容について伏せていることに万が一理由があれば、責任を追求されてしまう。もしもこの一言で真弥の機嫌を損ねようものなら、と考えただけでノエルは頭を抱えたくなる。本来なら降りかからないはずだったストレスほど嫌になるものはない。
「これだから嫌なんだ……」
 ぼそりと独り言を漏らして、深い深い溜息をついた。
「……なんだか、ごめんなさい」
 欲していた情報の内容云々よりも、すっかり意気消沈している背中にラーナーは強い後ろめたさを感じた。しかし、ノエルは顔を伏せたまま首を横に振る。
「今更そんな都合良く謝らないでください……謝れば許されると思ってるんですか……勝手に来て無理矢理聞き出そうとしておいて……」
 切実な不満をふつふつと沸き上がってくるように呟く。いよいよラーナーは自分の行動が如何に彼にとって迷惑だったかを推し量ったが、既に遅い。浅はかな己を恥じて、顔が熱くなる。それでいて、頭の中ではポリゴンに伝えられたクロ達の今夜の外出理由が回り続けていて、ラーナーの目的は達成されたことに少なからず達成感を覚え、そんな自分を余計に恥じたくなる。謝っても突き放され、かといってこのまま部屋を出て行くのも後味が悪い気がして、何を行っても墓穴を掘る予感しかせず、身動きがとれなくなる。
 やがて、ノエルが一段と長い溜息をついた。そして、意を決したように椅子を回してラーナーを振り返ると、深く青ざめた彼女の顔をちらと見た。
「……ポリゴンの、言う通りです。それで、満足ですか」
 ラーナーは歪んだ顔のまま、頷いた。
 ノエルは冷静にラーナーを見ていなかったため、改まったように彼女を見る。とてもまじまじと観察するような勇気は出てこなかったが、さらりと視線を動かしただけでも、細い身体はまだ幼さが残っているようにあどけないことが分かった。年齢は自分よりも下であろうと彼は推測する。常識外れで性格に難はあるものの、大人であり自分を養っている真弥とは異種の存在である。まだ、子供。そう思ったとき、ノエルの胸が不意に沈み込んだ。勝手に入ってきたことは間違いなくラーナーが悪い。しかし、利害や植え付けられた真弥の圧力が彼の思考を一辺倒にし、何よりも急な訪問に加えてコミュニケーションのとり方があまりにもわからずに頭が混乱していて、話をまともに取り合おうとしなかった自分も、大人げないし、自分のことしか考えていない。
 年下か、と改めて考えて、ノエルはまた息を吐いた。今度は、ラーナーの行動に対してではなく、自分に対して。
「……そのコーヒー、まさか僕に持ってきたんですか」
 ラーナーは青ざめた顔を上げてノエルを見て、掌の中で湯気をあげているコーヒーを一瞥してから、小さく、はい、と応える。ノエルからしてみれば、あれだけ強気に食ってかかってきたのが嘘のようだった。
「コーヒーが、冷めるのは、勿体ないです」
 殆ど片言だったが、ノエルはそう言って右手を差しだす。ラーナーは彼の手とコーヒーを往復して、迷ったようだったが、おずおずと彼にマグカップを渡す。温もりがノエルの手へと渡っていく。
「……ごめんなさい」
 謝っても仕方がないと解っていても、ラーナーはそう言う他なかった。
「もう、いいですから。コーヒー、ありがとうございます」
 先程の明らかに棘だらけの声よりもずっと穏やかに努めると、相変わらず痛々しい表情をしているものの、ラーナーは小さく頷いた。本当に子供みたいだ、とノエルは思った。真弥とは違うことなど当然だ。何をしているんだ、子供相手に、自分は。受け取ったコーヒーを一気に飲む。ぐっと苦い味が口を満たして、まだ十分熱い液体が喉を灼くように通り過ぎて、カフェインは吸収されていく。彼が自分のためにいつも淹れるものよりも苦い。ラーナーがノエルのことを知らないように、ノエルもラーナーのことを知らない。当たり前のことだ。当たり前のことを、もうずっと忘れていたし、もう考える必要など無いと思っていた。
「……カンナギの件は、真弥さんがいますし、そんなに、心配しなくていいかと」
 自分のリズムを整えてから言ったつもりだったが、慣れない言葉を使うと普段使っていない神経をフルに活動させているようで、喉は乾き顔は熱くなる。一方で普段使っている脳が眠っているように、話したそばから言葉が霧散していくようだった。自分で自分が何を言っているのか、きちんと話せているかどうかすらも判断できないまま、彼はトランス状態に入ったように続ける。
「そういう、組織の討伐依頼が、真弥さんに来ていて……その、あなたの仲間も行った、というのは、……真弥さんの気まぐれだとは思いますけど……カンナギと黒の団の間に関わりがある可能性が、ある、ということなので、ついていったのでは」
 自分でも混乱して顔を真っ赤にしながら、時折かみながらも拙い滑舌でノエルは言う。これだけの言葉を自分の声で話しきる、それも真弥以外の人間に対して行うということは、たいへん体力と精神力が必要だった。喋るという行為はこんなにも疲労するものだったろうか、とノエルはげっそり頬がこけた気分になる。ラーナーの顔を見ていなかったのに気付いたのは、いつも真弥の顔色を窺うのと同じ要領で彼女の顔を見上げた時だ。ラーナーは、驚いたように目を少し丸くしながら、その分生気を取り戻したように表情筋の強ばりは多少解れたようだった。
「……ありがとうございます」
 少しだけ、ほっとしたように彼女は言う。罪悪感は払拭しきってはいないために、もう一度謝るべきかとラーナーは思ったが、彼の、謝れば許されると思っているのか、という発言がその一歩を踏みとどまらせた。
 しかし、ラーナーの不安はノエルに対するもの一つに収まらない。彼の気遣いで少なからず安堵を覚えた一方、北風のような冷たい予感が脳を痺れさせていた。討伐、という言葉が確かめるように反芻する。
「……討伐って、人を殺すってことですか」
 僅かに震える声がノエルの鼓膜を揺らして、彼はふっと緊張が抜けたような表情になった。ラーナーの発言は薄暗く物騒ではあったが、不慣れな気配があり、彼はある種の、普通という、一般という言葉に括られる常人の感覚を思い出した。それは真弥には欠けていて、真弥と過ごしているうちに自分からも掛け離れつつある感覚だった。ラーナーはまだそれを抱いている。単純にも、少しだけ仲間意識のようなものが彼の中に湧きあがり、ポリゴンの、彼女は無害であるという言葉を漸くきちんと呑みこむ勇気が生まれてきた。浮きだっていた足がしっかりと地に着いたように、ノエルの冷静な部分が、もがいた末に息を吹き返したようだった。
 ノエルは黙って頷く。彼が平静をなんとか掴んだ一方、その返答にラーナーは身の毛がぞわりと沸き立つ思いがしていた。
 クロは、圭は、真弥は、人殺しにいっている。胸の底に沈んでいる、黒く重い淀みがごぽりと蠢いた。












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