Page 79 : 侵入





 真弥がカンナギの経営する店の扉を開けたと同時に、ちりん、と鈴の音がした。薄明るい店内は、入ってすぐ左手に植木が部屋を分けるように並べられており、その隙間からテーブルやソファが置いてあるのが見えた。現在はそこに人影は見えない。待合い用だろうか、と真弥はぼんやり考えていたが、それよりも気になるのが、頭の中がふわふわと浮かんでしまいそうになるような甘い香りだった。仄かなさり気ない雰囲気を装いながら広がっているが、部屋にしっかりと染み着いており、身体中にも不躾に纏わりついていくのがわかる。いらっしゃいませ、と声がして、匂いに立ち止まっていた真弥は顔を上げた。入り口からそう遠くないところにカウンターがあり、スーツで身を包んだ男性が立っていた。二十代半ばといったところの若さで、ややふくよかな体つきをしていた。
 傍まで近寄ると、男はつり上がった目を細めて真弥を観察する。
「お客様、初めてのご来店でいらっしゃいますかね」
「そう、紹介を受けてね」
 真弥はポケットから名刺を一枚取り、差し出す。だが、実際のところ彼にはこの店に通っていて尚且つ彼を誘うような知り合いはいない。書かれた名前の人物は実在しているが、名刺自体は嘘のもので、真弥は顔も知らない。ノエルに用意させたものだ。そうだとはいざ知らず、男は名刺を見るとほぼ同時に、ああと含んだ声を漏らした。
「成る程、バルト様のご紹介ですね。かしこまりました。失礼ですが、お名前の方は」
「ダニエル。ダニエル・バロー」
「ダニエル・バロー様、と」
 何番目かもはやわからなくなった偽名を伝えると、男は手元にある資料に記載していく。それからいくつか身分に関する質問がしばらく続く。正直真弥にとっては鬱陶しいくらいだった。顧客の紹介とはいえ、予め連絡もとっていない唐突な新しい客に対しては警戒しているようだった。カンナギを中心として渦巻いている冷たい緊張を考えればある種当然か。怪しまれないように、毅然として普通の客を装う他ない。それもまた滑稽で面白い。真面目な顔をして書き取っている姿に、真弥を刺客だと特別疑っている様子は一切窺えない。不自然な笑いが零れてしまわないように固く表情筋を保つ。
 適当に繕ったダニエル・バローという偽物の自分の設定を粗方吐き出すと、子供の好みを尋ねられた。依頼先から要望されている通り、白い肌に黒髪のアーレイス人の女の子を要求する。序でに出せる金額を提示すると、少し驚いたような顔をしてから満足げに笑みを深める。ああ、そうですか。人気なんですよねえ、白人の子は。あ、丁度、人形のような自慢の可愛い子が今は空いていますね。まだ部屋に待機させているので、すぐ案内できますよ。いかがですか。
「じゃあ、その子で」
 にっこりと心から満足そうな笑みを作った。
 男は受付から出ると、真弥を先導する。呆れる程あっさりと最初の関門を通り抜けてしまう。きっとこの警戒心の詰めの甘さこそ、胡坐をかいて市場を動かし、反感を招いた組織に染み付いた精神だろうと真弥は思った。
 部屋の奥にある階段を二階まで上がると、廊下が長く伸びている。案外清潔な印象である。廊下には赤い薄地のカーペットが敷かれ、目立った埃も見当たらない。恐らく小部屋に繋がっていると考えられる扉が等間隔に並んでいるが、いずれもしっかりとした造りで、中がどうなっているのかは一切見えず、声も音も聞こえてこない。周囲には受付の男と真弥が廊下を歩く音だけが響いていた。
 廊下の中央あたりで立ち止まり、男が鍵を開ける。また、強く甘い香りが鼻を擽る。他の匂いを無理矢理押し込めて、思考を鈍くさせるような気配がある。内装は至ってシンプルだった。白色の薄明るさを保った電灯に照らされて、シーツが丁寧に整えられたダブルベッドが置かれている。傍に設置されているのは小柄なテーブルや椅子、それにクローゼット。使い古されてはいるようだが、際だった汚れや傷はない。玄関を入ってすぐ右手にあるのは、シャワールームのようだった。
 ベッドに浅く腰掛けていた十歳頃の女の子が、人の気配を感じ取った瞬間にすくっと立ち上がった。ノエルが集めた資料で見覚えがある、体の線の非常に細い少女だった。この細すぎる身体でどうやって大人に抱かれるのか、漠然と真弥は疑問をもつ。
「サラです。可愛らしいでしょう」
「ああ、確かに」
 部屋の仄かな白色電灯に照らされるサラは簡素な黒いワンピースを纏っていて、胸まで伸びた黒髪も相まって、子供らしいすべすべとした白い素肌が余計に強調されるようだった。人形のような自慢の子と男は言ったが、確かに顔も整っていて、ゆったりと笑みを浮かべ、媚びへつらう様子は幼い子供にしては随分大人びた色香を纏わせている。資料の写真よりずっと美人だな、というのが素直な感想だった。
「サラ、おいで」
 真弥も男に促されて部屋の中へと入る。無き左腕のおかげで布がさらさらと靡く様子を目にしたせいかサラは少々驚いたようだったが、すぐに元の表情に戻り、真弥の目の前まで歩み寄った。
 深い礼をした後、恥ずかしそうに手をもじもじとさせながら、大きな黒い瞳が上目遣いで真弥をじっと見つめていた。小さな顔。ほんのりと桃色に染まった頬。ワンピースから伸びた折れそうなほど細く白い素肌。近くで見ると、痛々しいほど笑みが引きつっていることが明らかだった。
「いい子だね。大人しそうだし」
「ええ。きっとお気に召すかと」
「じゃあ、この子にするよ」
「ありがとうございます」
 と、男がドアノブに手をかけようとしたところで、真弥は声をあげた。
「ねえ、聞きたいことがあるんだけど」
「はい?」
「今、ここのボスはどこにいる?」
 瞬時に、それまで穏やかな表情を崩さなかった男の眉間が歪んだ。ゆっくりと真弥に向かい直す。
「失礼ですが、それは、何故?」
「質問に質問で返さないでくれ。いるかいないか、それだけを聞いている」
「……」
 不信感を隠そうともせず、目を線のように細くして真弥を観察しているようだった。その間、彼の手元で不自然に手が動いていた。ポケットに手を伸ばしているのを、見逃さなかった。どうやらある程度は用心深い人間のようだ。少々圧力のかけ方が露骨だったか。
 真弥はふふ、と柔らかくはにかんだ。
「そんなに怖い顔をしなくても。この名刺の、バルトさんに、一言よろしく伝えてほしいと言われているだけなので、終わったら挨拶に窺おうかと」
「バルト様が……? はあ、それは」
 得意の客の名を出しても尚も訝しげな姿勢は緩まない。カンナギと他の組織が対立しているという話――実際真弥もその諍いの延長線上に立っているわけだが、カンナギも予感を滾らせて、組織全体で警戒しているのは当然のことだろう。気が抜けるほど難なくここまで侵入できたが、末端の構成員がこの様子では完全な平和ボケはしていないらしい。
「……申し訳ございません、今は席を離れております」
 出してきた答えはそれだった。慎重に言葉を選んだような口調だった。
「ふーん、そっか。いないの」
 真弥はつまらなさそうだった。再度男を一瞥する。申し訳ございません、と彼は謝る。下手の姿勢は崩さず、それ以上の介入を許さないような空気の膜を張っている。真弥はわざとらしく肩を落とした。
 こいつ、使えないな。
 一瞬だった。真弥の右手が素早く空気を横に裂くと、同時に目に見えぬ風が刃となり、男の首めがけて飛び込んだ。男は対応できるはずもなく、声を上げる間もなく首がぱっくりと割れた。
 壁どころか天井まで勢いよく吹き飛んだ鮮血を前にサラの顔は凍り付いた。その口から悲鳴が飛び出す前に、真弥は素早く彼女の口を右手で覆う。力の弱い少女に対する加減が強すぎたのか、そのまま彼女は後ろ向きに倒れ込んでしまった。背後で鈍い音が倒れ込む。彼女の前に壁を作るように、つまり男の死体を見せないようにして、真弥はサラに顔をぐっと近づけた。
 その顔はやはり、笑っていた。
「静かにして。君は殺さない」
 床に倒されたサラの顔は恐怖に染まっていて、真弥の言葉は聞こえていないようだった。大きな宝石のような瞳が潤み、いたいけにも小刻みに震えているのが伝わってくる。
「落ち着いて。大丈夫。サラちゃんは何も見ていない。何も知らない。何も解らなくていい。大丈夫」
 何度も言い聞かせるように真弥は優しい声を出すことに徹したが、彼女の口を覆う掌には絶えず熱い吐息が伝わってくる。ただ震える身体に抵抗する様子は見えないが、この瞬間手を離せばすぐに口から悲鳴が飛び出しそうだった。
 しばらくそのまま黙りこみ、彼女が少しでも落ち着きを取り戻すのをじっくりと時間をかけて待つ。金色の視線だけは決して逸らさず、頃合いを見計らってゆっくりと手の力を抜いていった。白く弾力のある頬に僅かに赤い指の跡が残っている。小さく開いた口で息ばかりが往復し、頭から爪先まで深く怯えているようだった。
 真弥は血生臭い空気にはあまりにも不釣り合いな微笑みを浮かべると、仰向けに倒れ込んだ彼女の腕を穏やかに引いて、床に座り込ませる。
「大丈夫だよ」
 撫でるような優しい声で彼は言う。
 恐る恐る見上げてくるサラにもう一度声をかけると、彼女の首の後ろに手を滑らせ、そのまま首の付け根を叩いた。サラの目がぐっと更に見開いたのも刹那の間、すぐに気を失い、真弥の胸元へと小さな身体は倒れ込んだ。軽く鎖骨のあたりに指を当てて脈をみて、息をしていることを確認すると、うまく片腕で抱え込むようにサラを持ち上げた。片腕でも余裕なほど、あまりにも軽い。真っ白な大きなベッドに丁寧に潜り込ませて頭まで入るようにすると、まるで何事もなく眠り込んでいるようだった。
 ふう、と安堵の息をつくと、あの不快だった甘い匂いを揉み消す、ひどい血の臭いが部屋に充満していることに改めて気付かされる。真顔で玄関へと向かい、臭いの根元と対峙する。脱衣場へと繋がる扉を弾くように開け、死体の首根を掴むと、乱暴に扉の向こうへと放り込んだ。中で叩きつけられた音が烈しく響き、それに同時に血飛沫が壁や床に大輪を咲かせた。あたたかな血潮が今もなお止めどなく流れ出ていて、それが部屋の中から少しでも漏れないように、扉をしっかりと閉める。既に足下は赤いカーペットが敷かれているように大きな血溜まりができていて、靴を動かすたびに水溜りを歩くような飛沫の音がする。誤魔化しようもないが、片づける暇もない。
 真弥は顔をあげる。既に彼自身も返り血で鮮やかに染まりあがっていた。
 さあ、始めようか。












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