Page 80 : 呪縛





 ポケギアから鳴りだした三度のコール音が真弥からの着信であったことを確認すると、クロと圭は身を引き締めた。目的の建物の裏口に素早く回り込み、裏口の周辺に誰もいないことを確認すると、扉の前へとやってくる。鉛色をした扉の横にはカードを通すであろう縦の窪みが入った機械が壁に設置されており、クロは渡された灰色のカードを矢印に沿って上から下へと通した。素早くスキャンされ、あっさりと錠の外れる音がして、拍子抜けする。ここはノエルの技術力に太鼓判を打つ他ない。
 クロはそぅっと慎重に扉を開ける。真弥に見せてもらった地図と同様、扉を開けたらまっすぐ廊下が奥まで伸びていた。すぐ傍には誰もいないことを目視で確認すると、二人は中へと侵入した。
 恐ろしいほど中は静まりかえっていて、もう真弥が殲滅したのではないかと疑うほどだった。だが、血の香りは一切嗅ぎとれない。無臭で、無色の空気だった。
 できるだけ音を立てないように息を殺して廊下を進んでいく。コンクリートで固められた廊下は、白い電灯に照らされ、緊張感も相まって無機質で重厚な雰囲気を醸し出していた。いくつか扉があり、前を通るたびに立ち止まり人が出てくるか気配を探る。と、とある扉の前でささやかな話し声が聞こえて二人は息を止める。部屋の奥で話しているのか声が小さいのか、内容までは聞き取れなかったが、決して気付かれないように細心の注意を払ってその場を通り過ぎる。通り過ぎてからも部屋から人が出てこないか注視したが、幸いにもその様子は無かった。
 廊下を半ばまで進んだところに地下へと潜っていく階段に辿りつく。資料の間取り図通りの配置である。階段は電灯も点いていないため、下の階まで視線を移せば暗闇へと誘われていくようだった。
 二人は顔を見合わせると、意を決して地下へと一段一段慎重に下り始めた。踊り場を過ぎると一階の電気も届かなくなり、いよいよ目の前すら満足に見えなくなる。足下を静かに探りながら、生唾を呑みこみ、耳にも神経を張り巡らせて、冷たい緊張の中を確実に一歩ずつ進んでいく。精神的負担と暗闇のおかげで、随分と長い階段のように錯覚した。本当に地下まで辿り着くのか、このまま暗闇をひたすら下っていくだけなのではないか、と不安になるほどだった。
 もう一段降りようとして、すぐに足が着いて、ようやく地下一階に辿り着いたことがわかった。緊張で心が擦り切れていたが、とりあえず何事も無く関門を潜り抜けることができたことに安堵する。振り返ってみれば逆に恐ろしいほどに順調だったが、それに疑問を抱けるほど、彼等に余裕は無かった。
 緊迫感を締め直し、辺りを見回す。夜目に慣れてきたうえに、左右に伸びている廊下の奥まで視線を投げてみれば、部屋からこぼれているような淡い光がぽつりぽつりと見えた。事前に得た情報によれば、地下は子供達が収容されている部屋が並んでいる。この暗い閉鎖空間に閉じこめられ、生活しているのだ。同時に、開店時間内であれば待機場所でもある。真弥が侵入に成功したとわかっても、現在真弥が何をしているか具体的には不明である以上、いつカンナギの人間が子供を呼びにくるともわからない。素早く行動を移すのに越したことはない。
 引き続きクロが先導して、左へ曲がりまっすぐ廊下を突き進み、重い扉に備え付けられた小窓から明かりがこぼれている、一つの部屋を選択した。クロは背伸びして、その小窓から中を覗きこむ。
 六畳ほどの部屋は質素なタンスが部屋の端に用意されている以外に家具は無く、六人の子供がそれぞれ散らばって無気力な顔で敷かれた藁のような敷物に座り込んでいる様は、子供達が部屋の置物として佇んでいるかのようだった。上は十二、下はまだ六歳くらいともみられる幼子もいる。
 圭はクロの身体を肘で小突く。早くしろ、とでも言いたげだった。クロは改めて一人一人の子供の顔を確認すると、部屋の手前側に、黒い髪を肩で切り揃えた、白人の女の子がいた。真弥から受けた指令をもう一度頭の中で反芻し、圭を見て頷く。行こう。
 冷たい金属のドアノブに触れる。捻ると、それだけで扉は軋んだ。隣にいる相棒の呼吸のみ幽かに聞こえるような沈黙の中で、その音はやたらと大きく響いた感覚がして、二人は心臓の飛び上がる思いを味わった。
 扉を開けると、子供達が一斉にこちらに注目しているのがすぐにわかった。だが、現れたのは、彼らの見知らぬ人物。それぞれの全身が強ばり、動揺が見て取れる。
 部屋の中へ入り扉を慎重に閉め、奇妙な緊張感に包まれた空間で、クロは向かって左側の壁に背中を預けている少女に視線を移す。標的となった少女はびくりと大きく震え上がって、クロは自分が悪者になったかのような感覚に曝された。
 一方、圭の方は別のものに目が釘付けになっていた。
「クロ」
 久々に喉を通り抜けてきた声は掠れていて、一瞬クロは自分が呼ばれたことに気が付かなかった。顔だけ振り向いて、そこで圭が驚愕で顔を真っ青にしていることに気がついた。
「あれ」
 ゆっくりと腕を上げて、圭はそっと指をさす。
 どうしようもなく、とてつもなく、クロは嫌な予感がした。けれど、示されたものは反射的に確認してしまうのが、生物の性というものだった。
 クロの視線は圭の人差し指の先を追いかけ、部屋の角へとぶつかった。部屋の中央に備えられた朧気な電灯では、六畳ほどの部屋ですら満足に照らせていない。しんとした隅の暗闇に無理矢理にでも溶け込もうとしているように縮こまっている、その子供の姿を見て、クロは目がぐんと丸くなった。
 膝を抱え込んでいる腕が、ベージュと茶色で乱雑に混ざり合っている深い毛で覆われていた。被っているというものではない、生えている。右手は大きく変形しており、明らかに人間のものとは異なる巨大な薄汚れた白い爪が発達して鈍く光っている。腕の下に覗いている足に目を向ければ、両足とも腕と同様の毛が不自然にも部分的に育っている。乱れた長い黒髪の下、二つの深い暗闇がクロ達をじっと窺っていた。光がまったく見えず、生気の感じ取れない瞳だった。深い穴の底を覗き込んで、得体の知れない化け物と目が合ったかのような感覚だった。
 クロの呼吸が細くなる。圭も同じだった。呆然と、少年を見つめ、我がものではないかのように足が竦み、額にじんわりと気持ちの悪い冷や汗が滲み、背中を鋭く裂くような寒気が走り、警告の如く心臓が強く大きく鳴り響き、一方で琴線のような細い耳鳴りが囁き、感覚を失ったように指先の力が抜け、ただ瞳だけは己の確かな力で強く少年を捉えていた。視線だけは一切離せなかった。
 重苦しい沈黙に耐えきれず、圭が遂に視線をクロに移し、口を開けた。
「なあ」
 どうしたらいいんだ。そう尋ねようとした瞬間だった。
 クロの脳を一閃の声が貫く。圭のものではない。遠く、誰かの声が。
 殺せ。
 圭が一瞬で異変に気が付き制するように彼の名を叫んだ時には、クロは既にその場を離れて少年に向かって走り、同時に懐から破るように掴んだ武器の名を呼んでいた。彼の手元で鳴る金属音。鋭く光る一対の刃と、それらを包むように一瞬で燃え盛る一対の炎。火は空気に軌道を描く。狂いも迷いも乱れもせず、一筋の線が走る。射抜くようにまっすぐ、少年の身体へ。
 深々とした毛をものともせず、腕を貫き、決して止まらず、一気に胸へ、心臓へ。
 目の前が真っ赤に光ったような錯覚にクロは襲われた。肉を刺す独特の重みがクロの手に反動のように伝わる。少年の胸に接するほど深々とクロは火閃を突き刺しており、背中まで貫通していた。刃を包む炎は少年の毛に燃え移り、瞬く間に広がっていった。クロは炎に決して怯まず、逆手で刺している火閃を持ち替えて腕に力を籠めると、少年の身体を肩へ向かって力ずくに引き裂いた。彼の背後にある壁まで削る音がした。同時に噴き出した血が、弾けるように壁に張り付き、しかし止めどなく彼の身体から流れていく。少年は炎に包まれながら、呆気なくその場に倒れた。ゴトンと頭がコンクリートの床に打ち付けられた音が、部屋中に重々しく響く。
 遅れて、誰か少女の甲高い悲鳴があがった。それが合図だったかのように、目が覚めたかのように他の子供達にも連鎖していき、何重にも重なった叫びが爆発した。
 動けずに終始の出来事を見守っていた圭は子供たちの悲鳴で我に返ると、燃え盛る少年の前から動こうとしないクロに駆け寄った。クロがまた火閃を縦に動かし、それがもう一度とどめを刺そうとしているのだと圭は察知して、クロの腕を後ろから掴み、無理矢理引き戻した。
「クロ! もういいだろ!」
「……」
 熱風と汗に乱された深緑の髪に隠れた顔が、圭にふと向いた。青白い肌。震える瞳。ほうと僅かに開いた唇。まるで感情を失ったような表情に、圭は凍り付いた。
「クロ、おい」
 圭は泣きそうな声をしていた。掴んだ腕を揺らしても、腕に加える力を強めても、クロの心はここに無いように表情は変わらなかった。
「ころさなきゃ」
 頬も唇もほとんど動かさず、口の中で飴玉を転がすような小さな声で、クロは呟いた。
「出来損ないは、殺さなきゃ」
「クロ!!」
 それは最早悲鳴だった。
「目を覚ませ! 出来損ないはもう死んだ。もう、いいんだ……!」
 炎は少年だったものを呑み込み、傍にあった粗末な藁の敷物を巻き込み、部屋を浸食していこうとしていた。子供達の悲鳴が途切れずに響いていて、遂に彼等は立ち上がり、重い扉のドアノブに手をかけた。
 圭の言葉がきちんと届いたのか、クロは炎にくるまれた人間だった黒い物体をじっと見下ろして、徐々に火閃を振り上げていた腕を下ろしていった。その間にも炎はぱちぱちと火花を散らしながら、轟々と燃え、天井にまで手を伸ばす。
 深緑の瞳が焦点を据え、クロの顔に色味が差す。やがて、クロは大きく息を吐いた。そこから、まるで呼吸がうまくできないかのように、何度も何度も荒い呼吸を繰り返した。肩が激しく上下して、圭の手から擦り抜けるように、火閃を持たぬ左手で髪を掻く。掌の下で苦しげに表情が歪んでいる。ああ、と声が漏れた。震えていた。ひどく弱々しかった。
「圭」
 堪えきれなかったようにクロは呟いた。
 子供達が扉から飛び出して、炎の音だけが部屋に充満していた。煙の臭いと血の臭いが空気中で絡み合う。圭、と繰り返した時、その声が圭の背中をぞわりと走った。
「燃やそう、全部」
 芯まで疲弊したような声音だった。
「全て、ここにあるもの、ここにいる人、全部、燃やしてしまおう」
 子供の声が遠くなっていく。恐ろしく静かだった地下の空気は一変して、やがて痛烈な男の怒声が響いた。また一際甲高い子供たちの悲鳴が廊下を貫いて、クロ達の耳にも入ってきた。
 と、クロの懐から小さな光が飛び出し床に着地すると、一気に肥大化する。炎の毛並みがぶわりと踊って、背後で少年を燃やす火焔と同化する。同じ性質、同じ炎。しかし少年を食い尽くそうとする炎とは裏腹にポニータの炎は随分と優しく、愛らしい黒い双眸はしんとクロを見上げた。ポニータはクロの胸に鼻を擦り寄せる。無色の表情で、力ない炎の宿る深緑の瞳は、ポニータの瞳を捉えた。
 熱風に煽られながら、圭は戸惑うように後ろに数歩下がる。一人と一匹の創り出すその光景がひどく儚げなものに見えた。そこだけ空間が切り取られているような、箱庭のようだった。誰も干渉し得ない、彼等だけの世界。言葉のいらない空気。ある種の、特別の気配。
 圭は外側から眺めながら、徐々に過去の情景を思い出していく。
 その空気を振り払うように、廊下を走り抜ける音が近づいてきて、解放されたままの出入り口に一人の男が辿り着いた。熱気が狂い、燃え盛る炎と立ち竦んでいる見知らぬ少年達の姿を見て、一瞬、男は呆気にとられる。
 クロの視線がゆったりと移っていく。
 同時に、圭の右手は自然と腰にある柄を握りしめていた。不思議と心はとても落ち着いていた。
「貴様等なんのつもりだ!」
 強烈な叫びのような怒声。男の両手には既にモンスターボールが握られていた。しかし彼の手が開閉スイッチを押したのとほぼ同時に、圭は姿勢を低くし、一瞬で間合いを詰めていた。所詮は狭い部屋だ。たかが知れた距離。男性のすぐ傍まで飛ぶようにやってくると、銀色に光る長い刃が顔を出した。身体を鈍らせていた迷いごと斬り捨てる、鞘を削るような鋭い金属音。オレンジの眼光が男の胸を貫き、次の瞬間には、刃が男の身体を一閃していた。右腰から、左肩に向かって、斜めに斬り上げるように。振り上がった圭の腕、その手に握られた五月雨が、血に染まっていた。刀身を取り出すその勢いにそのまま力を乗せたその一撃は、深く相手の身体を抉った。身体の中を刃が突き進み、肉を斬る弾力も、骨の当たる感触も、血管がぶちぶちと切れていく感覚も、全て五月雨を持つ右手から電撃のように全身に伝わってきた。思い出した、と圭は思った。この感覚だった。記憶は身体に焼き付いており、ただそれをなぞるだけだった。力強く全身を脈打つ衝動が圭の身体を、心を突き動かす。もう、理性で止められない。
「五月雨」
 刀の名を呼んだ。
 美しく反った刃についた血を流すような光が纏わる。青白いような、淡い冷たさ。上がったままの刀を、今度は上から下へと勢いよく重力に乗って振り下ろす。水の気配を纏った刃が男の体を再び削ぎ落とした。男は大きな呻き声をあげながら後ろに倒れ込んだ。切り裂いた場所からの出血は半端な量ではなく、瞬く間に彼の服を真っ赤に染め上げ、数秒もすれば床に血溜まりが広がり始める。手が傷口を探り壮絶な痛みに身じろぐことすら困難のようだった。二度の斬撃をまともに食らい、放っておいても動かなくなるであろうと想像はついた。
 しかし、彼は手にとっていたモンスターボールの開閉スイッチは押していたようだった。置き土産は形を成し、圭を挟むように黒と灰の毛で覆われた大型の犬型ポケモン、グラエナが二匹現れた。
 その姿を目で捉えるとほぼ同時に、圭は五月雨を素早く逆手に持ち替えて叩きつけるように刃を床に突き刺した。刀身を覆う光がこぼれ落ちていくように流れていく。
「水柱」
 言い切るか言い切らないか、刀の鞘ほどの太さの水の柱が地平から飛び出し、ポケモン達の身体を突き抜いた。動きが止まった瞬間を逃さず、素早く刀を引き抜いて、右側に位置するグラエナを睨んだ。刃の届く範囲内だ。相手も牙を剥き出しにしてその赤い目が圭に向く。柱から引き抜けて襲い掛かる前に、一瞬の戸惑いがあれば十分だ。大きく前に力強い一歩を踏み出して、勢いのままに刀を横に躊躇なく走らせれば、丁度刃の中ほどに当たり、黒犬の首を真っ二つに裂いていた。吹っ飛ぶ頭とふらりと倒れた胴体を前にして、圭は身体の芯が真っ赤な熱で疼く思いがした。振り切るように素早くもう一匹へと振り向いた頃にはクロが後ろにいた。グラエナの片割れの開かれた口には喉まで貫通する勢いで刃が突き刺されており、そのままクロは胴体を蹴りつけた。刃は抜かれ、口から血を吐きだしながら、壁に叩きつけられる。火閃の刃をクロが振ると、刃に残ったグラエナの血液が床に走る。そのまま頭から勢いよく燃えゆく獣の身体。それでもなお動こうと炎の塊はふらついたが、クロに辿りつく前に、苦しむように擦り切れた鳴き声をあげながら膝を折った。
 クロの身体が血に染まっているのを見て、圭は自分の身体を顧みた。べっとりとついた返り血は、現実の姿だった。五月雨を持つ掌まで、赤黒く煤けたように汚れている。は、と掠れた息が口から漏れる。震えた息が、疲弊によるものか、興奮によるものか、恐怖によるものか、快感によるものか、察しがつかなかった。
 戻ってきた、と圭は思った。指の先まで覚えている殺し方、何も考えなくとも動いている暴力。黒の団と何が違うのだろう。倒すと言って、同じことをしている。黒の団の牙が大切な人に向く、その最悪の事態が起こる前に、守るためと言って踏み出した、あの健気な決意。その先にあるのが、これだ。変わらない。何も変わらない。殺している。手を汚していく。黒の団を倒す、それは即ち、ああ、そうだ、倒す、そんな生温い言葉じゃない、ころす、殺しにいく、そうだろう。
 圭は、そこで考えることをやめた。断ち切って、クロを見た。クロも圭を振り返っていた。相棒の瞳は深海のように黒々としていて底が見えなかった。きっと、クロも思考を停止させたのだろうと思った。












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