Page 81 : 憔悴





 カンナギのボス、島田荒平のいる場所は、三階まで上がってまっすぐに伸びている廊下の、一番奥に設けられている私室であった。
 客室が並び絨毯が丁寧に敷かれた二階とは異なり、三階は地下と同様、無機質なコンクリートの質感が剥き出しになり、寒々とした雰囲気を放っている。現在は、冷徹な鼠色の面に、ところどころ赤が上塗りされ、事切れた身体が横たわっている。風の刃はガラス窓をも壊し、鋭利な静寂が廊下を傷だらけにしている。灰汁の強い血の臭いで淀んだ空気を真弥はゆっくりと堂々と突き進み、一本ずつ手の指を折っていくように、丁寧に手前から一部屋ずつ顔を出しては、中に居る人間を八つ裂きにした。騒ぎを耳にして姿を現した組員も片端から屠っていく様は、虐殺行為といっても過言ではなかった。幹部を殺害せよという依頼だったが、中途半端に残党を残せば顔を覚えられて面倒なことになる。真弥は、特に意味のない、面白味のない面倒事を頗る嫌う。
 顔色一つ変えずに淡々と進めていく彼は、一方で内心、自らの行為に高揚を覚えていた。次々と命を千切り落としていく感覚は、いつになっても、彼に達成感に似た歓びを与える。ふと口元がつり上がる。元々大袈裟に暴れて地下よりも上階に組織の意識を向けさせるつもりではあったが、その意図とは別に、余計に歯止めがかからなくなっていた。
 手を払い付着した血を飛ばすと、真弥は奥の部屋へと辿り着いた。ボスの私室であることは事前にノエルが得た情報から判明していたため、やはりここか、と当然のように納得する。
 そこに踏み入りその目に目標を捉えた次の瞬間には、部屋の奥で窓の傍に立ちながら煙草を吸っていたボス、島田の身体は風に切り裂かれていた。横に一閃、腹部。野太い悲鳴があがる前に、喉元。傷口から赤い飛沫が壮絶な勢いで宙を飛び、壁に張り付き垂れていく。呻くように壁に背中を預け、倒れ込む姿を真弥は終始冷ややかな目で追い、その傍に歩み寄った。真弥よりも一回りも年上の見た目だ。ふくよかな体つきをしており、限界まで見開かれたような目は血走り、真弥を貫かんとするように見つめながら、その根強い生命力とは裏腹に千切れた息で藻掻くように呼吸している。名前から李国系の人間であろうことは予想がついていたが、確かに、漆黒の髪や瞳、全体にやや平らな顔付きは生粋で平均的な李国人を彷彿させた。
 真弥は彼の手元からこぼれ落ちた吸いかけの煙草を踏みにじり火を消すと、しゃがみ込んで島田に顔を近付けた。金糸の髪が滑らかに影を落とす。
「聞きたいことがあります。きちんと答えてくれれば命は助けますよ」
 笑わない目をして、薄ら嗤う。
「地下にいる獣じみた子供がいましたね。あれは、なんですかね?」
 暫し、僅かな言葉も聞き漏らすまいと耳を傾ける。しかし、聞こえてくるのはひゅう、と乾いた音ばかりだった。痛みを堪えて伸ばしている手を真弥は見逃さない。指の先には床に落ちたモンスターボールが転がっている。右手を軽く払うように走らせると、皺の寄った大きな手を衝撃波のような風が一筋抉った。更に苦悶し脂汗をたぎらせている表情がとても醜悪に見えて、真弥はその顔ごと吹き飛ばしてやりたくなる。今まで行ってきた暗殺の依頼と比較しても随分と派手に血を浴びていて、どうにも気分が落ち着かない。今のところは、理性がざわめく衝動を抑えつけてくれている。
「ぎりぎり声は出るはずですが。……あれは黒の団のものだ。ここは黒の団とはどういう繋がりだ?」
「――ぉ」
 荒い息遣いに紛れ込んだような低い呻き声がして、真弥は耳を澄ませた。
「……の、野郎……て、……ぇ……」
 まともな言葉にもなっておらず、聞き取れなかった。勢いに任せて喉を深く抉りすぎたか。只でさえ逸りそうな精神だったのに、少しの苛立ちで一気に逆立てられるようだった。
「聞こえないな。時間はない」
 威嚇も含めて、静かに脅すように真弥は島田を急かす。
 相手は答えない。というよりも、答えられないという言葉が正解だった。体力の消耗も激しく急速に衰弱している。どいつもこいつも使えない。真弥は長い息を吐きながら徐に立ち上がり、ひと思いに手を大きく横に走らせる。直後には男の頭から足まで縦に切断する衝撃が部屋を揺らし、血が残り風も吹き飛ばす勢いで吹き出して、真弥は浴びるように返り血を受け止めた。自分のものでない血が全身をびりびりと刺激する。
 あたたかな血が指を滑り、落ちて、足下の血溜まりへと溶けていく。その僅かな音すら手に取れるような静寂が飽和する。
 あっさりと過ぎていく。依頼にあったカンナギの幹部級の人間はこれで全員だ。裏社会の一端を担っていようと蓋を開けてみれば所詮は弱って崩れかけていた砦。振り返ってみれば豆腐を切り刻んでいるようであまりにも呆気ないので、かえって心の芯の部分はしんと冷めていくようだった。彼の求めているスリルや面白味とはかけ離れている。相手が武器やポケモンを取り出し動くのを待ってみようかとも考えるが、それよりも早く手が動いてしまう。最早癖と化していて、抑えきれない。彼が気付いた時には、鎌鼬が相手の身体に襲いかかり、崩れ落ちていく。
 便利な力だ。一方で、万能すぎる。
 真弥は右手首につけたブレスレットを視線を落とすと、元々は黒のものに血がこびりついている。見かねて床に敷き詰められた絨毯に付着した血液を擦り付けると、ぎらりと冴え渡る墨汁のような黒が姿を現した。罅も入らず異常は認められないことを指でなぞって確認すると、真弥はすっと立ち上がり、無惨に裂かれた死体に背を向ける。
 引き出しや机上にばらまかれた書類などに手を伸ばして適当に漁ってみたものの、黒の団との取引を行った証拠品は認められなかった。形に残るものは使っていないのか、或いは厳重にどこかに保管しているのか。しかし空虚感と適度な疲労感が思考を邪魔する。殆ど波もなく一仕事を終えたおかげで気分が乗らず、早々に諦めて、静まりかえった部屋を出る。
 開けはなったままになってた出入り口に立ち視線を上げる。
 すると彼は、自らが思ってもみない光景を前にして、平たんな顔つきは嬉しそうに一変した。
「……君がいるということは、やはりここは黒の団と繋がっているんだね」
 真弥は廊下に出て、柔らかく微笑みを浮かべながら言い放った。
 あちこちで人間やポケモンの死体が転がっている廊下に、ふと佇むような淡い雰囲気を放つ女性がいた。子供と大人の境目にいるような若い見た目だが、背は女にしてはすらりと高く、膝の高さまで伸びている黒色の長い髪の毛は二つに分けられそれぞれ三つ編みで結われているのが印象的である。小柄で端麗な顔立ちに宿る双眸は深い淵のようで、そこを覆う長い睫が細やかに動きながら、じっと真弥を見つめている。白い顔は無の表情。黒い上着は黒の団のものだ。肩口で袖が切られており、上着の下には萎れたキュロットスカートを穿き、肌を隠すような服を着ている他の団員に比べれば幾分軽装だ。ただ、服からはみ出ている部分は殆ど黒地の薄い布があてがわれており、黒の団という名に相応しい服装をしている。
「七」
 と、彼はわざとらしく呼んだ。それは、彼女につけられた通称だった。
「僕を殺しにきた?」
 七は眉一つ動かさない。
「だとしたら、これは黒の団の罠かい」
「今日はお前に用、無い」
 凛とした少女のような声だった。静寂ではよく映える、透明で刺々しい声だ。
「……ふーん。それは残念。つまらないな。じゃあ君はどうしてここにいるの?」
「関係ない」
「つれないことを言わないでよ。……何か流出したら悪いものでも取りに来た? 出来損ないなら地下にいるんだろう」
「あれはどうでもいい」
「はは。どうでもいいなんて言葉で片づけられないでしょ。出来損ないは全て黒の団の中で管理・処理されていたはず。あれは俺への当てつけか。それとも実験は今でも続いているという主張のつもりか。或いは」ふっと試すような顔をする。「餌か」
「……」
 彼女は薄い唇を一切動かさず、真弥を睨みつける。
「沈黙は時に肯定ととられるよ。乗ったのだから正解くらいはっきりと言ってくれたっていいのに。ま、俺の方も利用したくらいの気持ちだけど」
 軽やかに調子良く話していた真弥を無視して、七は廊下を歩き、真弥の傍までやってくる。静電気のような、ささやかに痛むような緊張感が真弥と七の間に走り抜ける。真弥の右隣で立ち止まる。右手を動かした瞬間にこの右腕はもぎ取られる予感がして、真弥はぞわりと笑いたくなった。
「お前達が何をしようと考えているかは知らないけど」顔も向けずに、すれ違う瞬間の立ち位置のまま彼女は呟く。「何をしても、結局団の掌の上にいるということは、覚えていた方がいい」
 そう言い放って、彼女はカンナギのボスの個室へと入っていく。靴音が遠のいていくのを耳にしながら、背中越しに真弥は振り返り、微笑んだ。
「つまり俺の前に出てきたのは、心配してくれてたってこと?」
 直後に真弥の全身に鳥肌が立った。彼女の、大人しげな雰囲気からは想像もできないような、背中からでも痛いほど伝わる、あたりを一瞬で氷の世界にするような殺気だ。けれど、彼女は実際に手を動かすことはしなかった。放った殺気を即座に内側に押し込めると、遂に真弥の挑発には乗らずに奥へと進んでいった。
 真弥はつまらなさげに息を吐き、七を追おうとはせず、部屋から離れていった。無き左腕の、切り口の部分が冴え渡っているようだった。普段は気にならない服の質感が触覚を通じてざわめくように伝わってくる。
 ふと、真弥は空気に異質の臭いが混じっていることに気が付く。鉄の臭いで充満した室内に、焦げ臭い香りが染み込み始めている。不審に思った真弥は足早に階段へと向かい下の階へ降りていくと、煙の臭いは一層深くなり、目に見えて視界に靄がかかっていくのがわかった。目に煙の成分が入り込んで痺れるように乾いていく。火の元は不明だが、まだ落ち着いている一階の様子を見る限り、出所は地下からであると予想できた。自然とクロの姿が思い浮かんで、真弥の口元がゆるやかに持ち上がる。これが、出来損ないを前にしたクロ達の選択だった。


 *


 深い闇夜にその炎はあまりにも目立ちすぎた。建物を呑み込むような凄まじい炎と熱風に現場周辺は騒然としている。迅速に駆けつけた消防隊が消火活動に勤しみ、隊に属す水ポケモンが火を消しながら同時に救助活動を行っている。明日、首都に行き渡る新聞の一面はこれで決まりだろう。目立つことは嫌いではないが、不用意に尻尾を出すことを好ましいとは言い難い。依頼主が裏で動き誤魔化してくれるだろうが、想定していたよりもずっと大事になってしまった事実に真弥は溜息をつきそうになるが、仕方がない。
 カンナギは正真正銘、これで終わりだろう。主要な人物はみな死んだ。顔を見ていない残党も火事に巻き込まれ炎に焼かれているか、逃げて散り散りになっているだろう。依頼内容は十分すぎるほど達成された。
 落ち合うと約束していた場所には依頼主の男が車の傍に立っていた。闇夜に溶けているような黒い車。肥大化した被害は当然依頼主の耳にも入っており、渋い顔を見せていたが、真弥が生かし今も可憐に眠っている少女サラを一人差し出すと、それで納得したのだから、かえって笑ってしまいそうになる。
 部下に抱かれて車内へと吸い込まれていった幼いサラがこれからどうなっていくのか、想像はつくが、真弥にとっては知ったことではない。火事に呑み込まれて焼け死んでいった子供に比べれば生きているだけ運が良いと捉えるべきか、或いは生き延びたが故に不幸かどうかなどと、考える必要のないことだ。
 報酬内容を確認してから車を見送った後、現場から少し離れた静かな路地裏で、三人は合流した。それぞれ服や肌についた血は固まり、既に砂のように乾燥していた。実際に自分についている傷と最早見分けもつかない。
 クロも圭も互いに向き合うような形で壁に寄りかかり、重く考え込んでいるように俯いている。クロの隣にはポニータが控え、クロの顔を慎重に覗き込みながらも、それ以上彼に近付く様子はない。今にも壁からずり落ちて座り込んでしまいそうなクロに、腕を組んで足下を見つめている圭。互いに互いを見ようともせず、真弥が近づいても、その気配を察知したものの、殆ど身動きしなかった。
 二人の少年の表情は浮かないものだった。見えない圧力に圧し掛かられているように全身まとめて憔悴しきっており、良くも悪くも軽率な態度が板に付いている真弥でも声をかけるのに多少の躊躇いを覚えるほどだった。
 さてどうしたものか、と考えようとしたが、先にクロの重い唇が動いた。
「真弥さん、知っていたんですか」
 疲弊を隠せない低い声は、顔を俯いたままで、まるで溜息をこぼしているかのようだった。
 何を、と尋ねるのも野暮だろう。予想はついた。寧ろ、それが狙いだったのだ。
「うん」
 なるべく平然と悪びれもないように言う。
「どうして」
「どうして、と言うと?」
「……どうして、知っていて、俺たちを地下に向かわせたんですか」
 痛々しいほど感情を押し殺して、それでも滲み出てくる強さ。それは多分、混乱や、疑念や、怒りや、そういった類のものだった。行き場を求めて彷徨い、真弥に責任を擦り付けるためにぶつけようとしているようだった。それを正面から受け止めるのは容易い。多分、衝突した途端に、掬った砂が手からこぼれ落ちていくように崩れていく感情だからだ。儚い抵抗は、痛々しくてクロらしい。
「愉しそうだと思ってさ」
 真弥はいつも通りの声音を心がけた。
「出来損ないと君らが会ったら、どういう反応をするか、興味があった」
「ふざけないでください」
 クロの声は僅かに震えていた。
 ポニータの視線が上がる。帽子の鍔の下で、影に隠れたクロの顔が険しく歪んでいるのが、ポニータの目だけには鮮明に映りこんだ。
 今回の一件で強い衝撃を受けていることが真弥には手にとるようにわかった。圭も同様だ。二人とも顔を上げようとしない。カンナギに進入するまでの二人を思い返し、現在の二人との落差に目を細めた。
「正直に言ったつもりなんだけどなあ」
 あえて毛を逆立てるように暢気に言うが、二人には真弥の調子についていくだけの元気も残されていないようで、暫し沈黙が続いた。
 先に動いたのは圭の方である。
「俺、思い出したよ」
 俯いたまま、低い声だ。
「思い出した?」
「ああ。というか……俺たち、団からは逃れられないんだなって」
「何、今更。逃れるどころか、立ち向かうんだろう」
「いや、そういうことじゃなくってさ……もっと根本的というか。俺、最初の一太刀で、今までのこととか、感覚とか、全部、ぶわって流れ込んできて……ただそれをなぞるだけで良かった。信じられないくらい覚えてた」
 圭は譫言を呟くように言う。煤汚れた手は五月雨の柄を握りしめていた。肉に鞘の一筋一筋が食い込んでいるのが、彼の痛みを表しているかのようだった。
 そんな圭の様子を眺めながら、真弥は諦めるように視線を落とす。
「案外そんなものだよ。それが現実だ」
「……現実、か」どこか自嘲的な、投げやりな声音だった。「クロは、大丈夫か?」
 圭は相方の名を呼びながらも、殆ど顔を上げなかった。
 そしてクロは返答しない。ポニータがくぐもった声を転がしながら不安げな色をした顔を寄せても無反応である。
 元々クロは多く喋りたがらない性格であることを考慮しても、圭よりもクロの方がずっと混乱しているように真弥の目には映った。ビル一棟分全焼させるほどの規模の火事を起こせる人物などこの場においてはクロ一人しかいないのだが、彼は出来損ないどころか、人もポケモンも善悪も有罪も無罪もまとめて、取捨選択などせずに全て燃やして破壊することを選択した。イメージして、火閃はクロの想像と感情を受けて、忠実に暴力的にカンナギを呑み込んでしまった。この、まだ幼さの残した人間たった一人分の身体に渦巻いているものは、出来損ないを引き金にして、破壊衝動となって具現化された。クロの操る炎も、真弥と同様身に余るほど強大な力なのだ。それを果たして、クロはきちんと自覚できているのだろうか。そして、圭も。ここに立っている三人の誰もが、異常で、化け物であり、人間でもなければ、しかし獣でもない、中途半端な存在だからこその強さを、悍ましさを、わかっているのだろうか。
 少しだけ考えて、少しも顔色を変えずに真弥は口を開く。
「出来損ないと会っただけでそれだけ憔悴していては、今後が思いやられるな。黒の団を倒すって言っただろう。どれだけの覚悟があるかどうか、見たかった」
 そこでようやく、クロと圭の顔が上がった。二人とも酷い顔をしていた。凄惨な戦場を潜り抜けてきたような顔だった。その先にある真弥は、冷ややかな色をしていた。
 崩れていく音がした。きっと、彼等が、別れ、再び出会うまでの三年間で積み上げてきたなにか、笑いあっていたこと、胸のあたたかさ、心が解れる感覚、思い出、そういった類のものも諸共、凍りついて、ばらばらの破片に砕けて零れ落ちていく気配がした。一晩で、あまりにもあっさりと、まるで今まで得たものは張りぼてだったかのように。そして代わりに、取り戻していくのだ。
 今すぐ倒れ込んでしまいそうなほど憔悴したクロと圭の手に残ったのは、人をポケモンを殺し組織を破壊した事実と、灼けたようにこびりついた血の、その二つだった。他の全てを削ぎ落としたような実に簡潔な澱が、これから向かおうとしている道の真実でもあることを、クロは朧気な意識の中でもはっきりと理解した。赤黒く汚れた掌に視線を落とす。細かな皺に隙間なく入り込んだ血を見ていれば、とっくに麻痺している感覚を自覚することができた。自覚的になれる分まだ猶予はあるようで、しかし一方で、もう後戻りはできない。
 クロは視界の端で揺らめいている炎に引かれるようにポニータを見やる。健気な火馬の不安を払拭させるためにほんの少しでも笑いかけようとしたが、強ばった表情は微笑みすら許さなかった。
 真夜中が彼等を運んでいく。












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