Page 82 : 変化





 夜がより一層濃密になっている頃、時間とは隔絶されたようなかの閉鎖空間は静まりかえっている。資料が押し込まれた本棚に四方を囲まれている私室に、部屋の主であるラルフォと七はいた。彼は深々と椅子に座り、傍らに立つ七と共にパソコン画面を注視していた。
「出来損ないは即死か」
 ラルフォは黒縁の眼鏡を上げ直して、もう一度動画を確認する。カンナギの地下、子供達を幽閉していた部屋の角に設けられていた監視カメラの動画データだった。画質は荒く、無音。動画というよりも白黒の連続写真を確認しているようなものだったが、藤波黒と名乗る少年が、出来損ないと呼ばれている毛むくじゃらの子供を刺し殺す様子がはっきりと記録されている。火閃と考えられる刃物からは炎が盛り、あっという間に出来損ないは火達磨となり、炎は部屋に敷かれた藁に移って更に広がっていく。猛々しい光のような炎は画面中に散らばって、やがて煙に包まれたようにノイズだらけになった。
「現場、騒然としていた」
 動画が止まってから、七は涼しげな声でそう報告する。
「余計な邪魔入らないよう、何人かは先に殺した。けど、子供の悲鳴で、すぐに他の組員が合流。でも、二人とも躊躇しなかった。片端から殺していった」
「うん、なるほど。容赦ないねえ」
「けど、それほど周りは見えていなかった。身を隠していたとはいえ、恐らく二人とも私には気付いていない」
「冷静さを失っていたのだろう。少なくとも彼が笹波白なら、相手が君といえども気配を察知することくらいは容易いことだと思うのだが。けれど、出来損ないと対面した直後の行動を見る限り、やはり笹波白である可能性は高い。……今回のように、団に近い光景を間近にすれば、更にボロが出る可能性はある」
「それが、記憶?」
「……そうだね」
 彼は穏やかな顔をする。
「感情や記憶は曖昧で外からは見えないけれど、彼に植え付けたものはそう簡単に忘れるはずのないものなんだ」
 動画は繰り返し再生されている。紅蓮の炎の中に佇み刃を振るう姿は躍動している。荒くとも確実に一撃で屠る術を知っている動きだ。
 ラルフォは断定を下さない。どれだけ可能性が高くなろうとも、殆ど確信をしていても、確実といえる判断材料、証拠を手に入れるまでは。慎重な姿勢にもどかしく感じている団員がいるのも彼は知っている。周囲ではなく、自分の意志で見極めようとしていた。
「反抗心の強い人間を手に入れても言うことを聞かなければ意味がない。暴れ馬が暴れ馬であるうちは出来損ないに等しい」
 意味が伝わらなかったのか、七は首を傾げる。長い三つ編みが静かに揺れた。
 ラルフォはゆっくりと立ち上がる。痩せた身体は縦に長く、女性にしては背が高い七よりも頭一つ分は差がある。仮面をつけたように表情を変えない七の小さな頭を、骨ばった大きな右手が撫でた。任務を全うできた証だ。煙の香りを帯びた髪に、彼女も戸惑うような優しさが触れる。
「七、君はいい子だ」
 七は長い睫を僅かに伏せた。考える必要は無い。任務を完遂すること、上官の望むように動くことが、何よりも正しいことだった。
「彼も君のようになってほしいんだ。……丁度明日は雨。最適な人材を使おう」
 と、彼は微笑んだ。


 *


 栗色の相貌がゆっくりと姿を現して、控えめな睫が朝の光に瞬く。ソファに腰掛けたまま眠っていたのに気が付いて、そういえば、ノエルと話してから、クロ達の帰宅を待とうとソファで休んでいたのを思い出した。上半身を気怠げに動かすと、肩まで掛かっていたブランケットが床へと滑り落ちる。拾い上げながら顔を上げて、壁にかけられた時計で時刻を確認する。六時三十二分。静かな朝の気配が差し込み始めたばかりの頃。空気がどこか湿っていて仄暗い。部屋の窓から伺える景色は限られていたが、今朝は曇天で青空は隙間に顔を覗かせることすら許されない。
 重い瞳で何の気もなしに振り返ると、まるで普通を装って、いつも通りの寝袋に潜り込んで、ソファのすぐ後ろに並んで眠っているクロと圭の姿が目に入り、肺のあたりの質量がずしんと重くなる。
 無造作にブランケットをソファにかけると、ソファから浮き上がる音すら立てないように細心の注意を払って、忍び足で裏へと回る。くたりと仰向けになっている圭が奥に位置し、彼に背を向ける形で横向きになっているクロが手前で眠っている。つまりは、容易にラーナーが顔を見ることができる位置だったのだが、額に脂汗が滲み眉間に皺を寄せている様子を真正面からぶつけられる。え、と危うくラーナーは声をこぼしそうになって、堪えた。堪えた、というよりは、詰まって、出なかった。しゃがみ込み、クロに顔を近付ける。彼の指が寝袋に食い込んで、擦りつく音がする。身体が捻られているようなちぎられているような苦痛の表情があまりにも痛々しい。一方で彼の瞼は重い扉のように決して開かない。ラーナーの胸中は動揺しながらも全身は硬直し、彼を起こすべきかどうか逡巡する。
 と、奥の方でかさつく音がして、弾かれたように彼女は顔を上げる。先程まで天井に顔を向けていた圭が、ラーナーを見ている。けいくん、とラーナーは声を出さずに唇を動かす。圭は、わかっているような神妙な顔をして、人差し指を口の前で立てた。起こすな、という指示。それから圭も慎重に寝袋から這い出て、クロを見下ろす。ラーナーは戸惑って、助けを乞うように圭を見つめるが、圭は沈黙を貫いていた。圭の顔もまた、頬が下がり、熟睡したとは考えられないほど随分草臥れているようだった。そのまま、力無く口元を上げて、ラーナーと視線を交わし、おはよう、と、声を出さずに呟いた。たったそれだけの動作、身体から滲み出ている疲労、クロの軋んだ寝顔、それからノエルから聞き出した昨夜の出来事が目の前を渦巻く。最早その全てが、なにもかもを伝えているような気がして、ラーナーは唇を噛みしめた。圧倒的に無力だった。


 夢から覚めると、魘されていたのが嘘だったかのように、クロは淡々といつもどおりを振る舞っていた。疲労が滲んでいる圭と違って顔つきも涼やかなものだ。彼は隠すことに関してはずっと上手だった。一体なんの夢を見ていたのか尋ねるのもは憚られ、ラーナーはやるせなさに肩を落としながら、狐色に焼けたトーストにかぶりついた。焦げたパンのささやかな苦みと励ますようなバターのあたたかな甘みがじんわりと舌の中へ溶ける。
 朝食をとった後、ポケギアで短く通話してから、アランとガストンに会いに行く、と彼は短く告げた。
 荷物を軽く整えてから、クロとラーナー、圭の三人は同時にアパートを出た。事前に真弥に教えられた地図を頼りに、北区のメインストリートとして伸びているルージュ通りまで出る。時刻は十時半を回ったところで、交通はそれほど混んでいないようで、すらすらと気持ちよさそうに多くの車が道を走り抜けていた。その脇を歩き、大通り沿いに設けられた最寄りの駅に入る。セントラルで円を描くように走っている電車に乗ることが目的だ。通勤や通学ラッシュの時間帯は過ぎていたが、構内は多くの人が立ち並んでおり、ひとたび電車がホームに訪れれば、開いた扉から数え切れない人間の塊が足早に出て行く。
 キリを訪れたその時と変わらず圭は電車が苦手のようで、乗車前から既に顔に青筋が走っていた。そんな圭を尻目に、クロは淡々と流れていく窓外の景色を眺めている。静かな横顔。周囲に溶け込む、自然な顔つきだった。彼等が夕べの穢れを、一体誰が想像できるだろう。どんな人間がどれだけの数乗り込んでいたとしても、誰も等しく運ばれてゆく。街の隙間に刻まれた線路を緩やかに走っていき、がたんがたんと揺らされているうちに、目的地の最寄り駅に辿り着いていた。
 彼等が足を運んだのは、東区だ。
 東区は学生区という別名がつくほど多くの学校が寄せ集められている場所だ。他の区にもまったく無いわけではないし、小学校などは一般住民が多く住む首都郊外に多い。東区には大学や高等学校が多く、学校間での交流も盛んだ。今回ガストンやアランが参加している研究会はその東区にあるホールを用いて行われている。東区での開催ということもあって学生も多く出入りしており、アランのようなまだ随分若い人間がいても案外に馴染んでいるらしい。東区は地価が高いセントラル内では比較的安く宿泊できる上に交通の利便もよく、多くの参加者がホール近辺に泊まっている。アラン達も例外ではないというわけだった。
 駅を出ると淡い色をした石が敷き詰められた、開けた広場に出る。疎らに人が歩いており、広場の中心に造られているドーブルの銅像が遠目でもよく見えた。長い尻尾の先が筆のようになっているドーブルは、その尾を高々と掲げ天を仰ぎ、今にも何かを描きだそうとしているように堂々たる佇まいをしている。
 その銅像に背中を預け、新書に視線を落としている存在があった。その横顔。随分と久しく会っていなかったような、胸に沁みる懐かしさに思わずラーナーの顔が溶けるように緩む。
「アランくん!」
 我慢が出来ずにラーナーは大きな声をあげて相手の名前を呼んでいた。昨夜からのわだかまりを忘れようとするような、逃げようとするような、活気に溢れた広場の中でもよく通る声に、アランの顔が上がった。すぐに一行に気が付いて、彼も花が咲いたように笑いかけ大きく手を振った。
「ラナちゃん! ひっさびさ、会いたかったぜ!!」
 近くまで駆け寄るとアランは溌剌と彼等を迎えた。トレアスで共に穏やかに過ごした日々がラーナーの胸に鮮やかに蘇り、染み渡っていくようだった。
「アランくん、元気そうだね。私も久々に会いたかったよ!」
「ほんとかそっかそっかそりゃあ女の子にそう思われるのは男として感激しすぎて毎日積み重なってる疲労困憊の心が洗練されるようだ……あ、クロも久々」
「……勝手に一人で盛り上がるな」
 一歩下がった位置で、クロは今しがた再会したばかりのアランに呆れた言葉を突きだす。アランは軽快な半袖の白い上着のポケットに手を入れて、帽子と髪の毛で影になっているクロの顔を覗き込む。
「まあそんなに拗ねるなってちゃあんと気付いてたよ俺もお前には久々に会いたかったよほんとほんと」
「何を言ってんだ気持ち悪い……さっきからにやにやしてるのも、気持ち悪い」
「いやあなんかこうとりあえず元気そうな二人を目の前にしてみると想像してたより嬉しいっていうかさあ、なあ?」
「なんだよ、なあ、って」
 同意を求められたクロは疲れたように肩を落とす。そこに飛び込むように急にアランが片腕を肩に回してきた。その勢いの余りクロの体が大きく横へ揺れ、平静を保っていたクロは顔をしかめた。
「いって……ほんと何なんだよお前!」
「いやー藤波少年が元気そうで何よりだなあ!」
「あははっ」
 一連の行動を見守っていたラーナーは遂に我慢しきれず笑い声が溢れた。
「仲いいねえ」
「……よく見ろ、こいつが一方的にはしゃいでるだけだ」
 苦い表情を崩さずにクロはうまく体を後方に潜らせて無理矢理アランの腕から外れる。あっさり解かれたアランは少しつまらなさげな顔をしながら、ようやく落ち着きを取り戻したのか息をついた。改まってクロとラーナーを交互に見やった。
「タイミングがうまく合って良かったよ。急で悪かったな」
「別に。こっちも都合が良かったし」
「そっか。ならいいけど。……あ、それで、そっちが話してた新しい連れの人?」
 アランがクロのやや後方に注目する。
 自分は蚊帳の外といった風に一歩引いた位置から眺めていた圭の顔が上がった。
「ああ、そう。紅崎圭」
 これ以上短縮はできないであろう紹介の後、気兼ねなくアランは一歩前に出る。
「初めまして。アランっていうんだ。アラン・オルコット」
 気さくな挨拶に圭は目を丸くしつつ、少々硬直していた表情が穏やかに綻んだ。
「よろしく。紅崎圭だ、圭でいいよ。えっと、なんか割り込んでる感じになってちょっと申し訳ないけど」
 苦笑する圭を前に、慌ててアランは首を横に振る。
「いやむしろ急だったのにわざわざありがとうと言いたいよクロがどういう人とつるんでんのかは俺としてはけっこう気になるところだし」
「保護者か……」
「うちのクロがご迷惑をおかけしていないか毎日満足に眠れないほど心配で心配で」
「……やっぱり、なんかお前今日おかしいよ」
 饒舌に盛り上がっているアランを見て呆れるクロだったが、思い出してみればいつものことだったような気がした。随分と懐かしくて、目映い。アランは昨夜のことなど知る由も無いが、それ故の純粋で無邪気な人間性、姿。昨晩の凄惨な出来事もあり指の先まで存分に毒気に蝕まれた気分だったが、今この瞬間は、完全にはねとばしているとまでは言えずとも、ほんの少しでも解されているようだった。
 重たい湿気を帯びた曇天とは裏腹の、浮き足だった空気に弄ばれてどこかそわそわとしている中、ところで、とクロは切り出す。
「ガストンさんは? お前よりもよっぽど挨拶したい」
「お前はいちいち一言余計だよなあ師匠はホテルにいる。ここのところ朝から晩まで用事が立て込んでて疲れてきてるみたいでさ。でもまあクロたちの顔を見ればきっと元気になるよ」
「今日は大丈夫なのか」
「研究会が中休みだからなあとりあえず午前中は空けてあるよ。急だったけど予定合わせてくれてありがとな」
「さっきも言っただろ。別にいいから」
 本当につい先程も同じようなことを言っていたから、恐らく気にしているのだろう。半分呆れたようにクロが言うと、そっか、とアランは軽やかに笑った。いつも通りのようで、やっぱり、今日は少し違う気がした。薄く不透明な膜が一枚、クロの胸を包んでいるようだった。












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