Page 83 : 衝突





 そのままの足で彼等はガストンとアランが宿泊しているホテルへと向かう。点々とした人通りなため、気温が高くなってきても風通しが良く、歩きやすい。アランはラーナーと並んで、その後ろにクロと圭がつくという形で、コンクリートで固められた歩道をゆったりとした速度で歩いていく。
「今は北区に泊まってるんだっけ」
 アランが尋ねる。ラーナーは頷いた。
「うん。クロの知り合いの人に、お世話になってる」
「そっかあ北区って基本住宅街だよな。行ったことないんだよなあ大体どこもホテル代たっけえし。あいつ顔がそんな広そうに見えないくせに点々と知り合いがいるよな」
「それ、私も思うよ」
 一致すると、二人の間で朗笑が広がる。
「……髪がちょっと伸びたな」
 アランがそう言うと、ラーナーは思わず自分の栗色の髪の毛先に触れた。微かな枝毛が目に入って少しだけ億劫になる。しかし、確かに、そう言われてみれば伸びたかもしれない。ウォルタを旅立つ前夜、肩に触れるか触れないかというほどまで切ったのに、鎖骨まで届きそうになっている。
「言われるまで気付かなかった。よくわかったね」
「まあ久々だしな。そのまま伸ばしてみてもいいと思うけど」
「前は長くしてた。けど、まあ……短くしたい気持ちもあったから、ばっさりと、ね」
 遠い昔の思い出を話しているようだった。実際、随分と遠いところまで来てしまっている気がした。傷がかさぶたに覆われていくように喪失の痛みが乾いていくのと同時に、故郷の記憶のはじっこ部分はぼやけつつある。時が癒すとは、つまり忘れることだ。胸にちらつくのは、今生の別れとは別種の淋しさだった。
「じゃあ伸ばさない?」
「そうだね……とりあえずほっといて、また気になったら切り直そうかなあ。まだ暑いし、短くて丁度いいよ」
 成る程、とアランは返した。ラーナーはちらと目線を上げる。少しだけクロより背が高い彼を見上げると微笑んでいるのに気がついて、あんまりに綿雲のやわらかさのようだったので、気恥ずかしくなる。
「とりあえずは元気みたいで良かった」
 表情の色がそのまま滲んでいるような声で言うので、やはりくすぐられているようだった。慌てて目を逸らす。
「勿論! まさか心配した?」
「まあねえやっぱり気になるもんは仕方ないっていうか。クロはあんな性格だしあんな身体してるからそれについていくラナちゃんも大丈夫かなって」
「私は平気だよ。本当に」
 まるで泳いでいるような覚束ない言い方になってしまわぬようにぐっと堪えて、彼女は穏やかに笑った。アランもつられて笑った。小春のようなぬくもった空気が心地良い。
「それは何よりだ健康が一番だからな」
 発作に倒れるクロをずっとみてきた彼がそう言うと、他の誰かが同じことを告げるよりも質量が増すようだった。
 アランの方では、首都への道中、クロからラーナーが倒れたという連絡を受けた時のことを思い返していた。あの後クロが結局どうしたのか、ラーナーはどうか、引っかかり続けていたが、ここで直接話題を出すのも野暮だと思い、胸の奥にしまい込む。さて何を話そうか、と、足元に視線を落とした。隣、乾いた土で汚れきった灰色のスニーカーが目に留まる。
「……旅はしんどくないか?」
 優しく言ったつもりのアランだったが、ラーナーはぎくりと硬直した。
「……うーんと」
 しどろもどろになってしまいそうだった。それを自覚すると、自然と適当な逃げ道を導きだそうとする。
「しんどくないっていったら嘘になるけど、でも、楽しいこともあるし、大変ばっかりじゃないから」
 彼女にしては早足で言い切った。アランと別れてからのことがふと駆けめぐる。ホクシア、女性の笑み、ザングース、熱風、キリ、クラリス、雷撃、それから、昨夜に隠されている血生臭さ、クロの苦痛な顔、圭の諦めた顔。言葉とは裏腹に、楽しい思い出よりも苦しい思い出が激しく瞬いてたくさん流れ込んできたけれど、口にしようとは考えなかった。
 旅についてクラリスに尋ねられた時と似ていると思った。旅の話に目を輝かせたクラリスと自分との間に大きな壁を感じた瞬間が蘇る。
 共にいると信じられたはずなのに、クロ達はどこか違う暗いところにいってしまったようで、アランにも明かせず、一体彼女はどこに立っているのか。
「……そっか」
 一瞬見せた彼女のやつれたような横顔に不可侵の気配を感じ取ったのか、アランは短く相槌を打つに留まった。
「話ならいつでも聞くしあんまり無理はするなよ」
「ありがと。わかってるよ。大丈夫」
「それは怪しいやつだわ悪い部分でクロに似るなよ」
 まるで自身に言い聞かせているようにアランには聞こえたので、力無く苦笑した。



 駅から徒歩十分程度の場所に目的地はあった。ガストン達が参加している研究会の開催地も近く、現在は参加者向けに安価で部屋が提供されているらしい。色の褪せたような壁には年季の入りようを彷彿させ、しかし清潔感の保たれているロビーを抜けると、エレベーターで五階までやってくる。
「俺、場違いじゃないかなあ」
 濃厚なブラウンのカーペットが敷かれた廊下を歩きながら、圭は申し訳なさそうに呟く。
「今更。むしろ付き合わせてて悪いな」
 即座に圭は首を横に振る。
「それは全然いいんだ」
 アランが苦笑いを浮かべながら振り返った。
「師匠も会ってみたいって言ってたからさ安心しなよ。いい人だしそんなに緊張することない。さあ着いた着いた」
 長い廊下の奥まできて、アランは上着のポケットからカードキーを取り出し、扉の脇に設置されているカードリーダーに上から下へと通す。短い電子音の直後、アランは扉を勢いよく開けた。
「師匠! クロ達つれてきましたよ!」
 入り口に立つなりアランは声を張り上げた。
 扉の向こうには白い壁に囲まれた通路が奥へと通じており、トイレやシャワールームに続いていると考えられる扉もすぐに目に入る。その反対側には小さな台所が設置されており、長期滞在者にも向いた部屋であるようで、簡素なワンルームマンションのようである。台所の前を通り過ぎるとベッドが二つ用意された部屋に出る。奥の窓側のベッドに腰掛けてぼんやりとテレビニュースを眺めていた人物、ガストンは客人の姿に頬を綻ばせ、すっくと立ち上がった。
「クロにラーナー、久しぶりだな」
「お久しぶりです」
「ご無沙汰しています!」
 お互いにすぐ傍まで近寄り、簡単な挨拶を交わす。少年達の健康的な声にガストンは満足そうに頷いた。その直後、すぐに目立つオレンジ色の髪が彼の視界に入り、無意識に注目してしまう。気がついた圭はぐんと相手を見上げながら、小さく会釈する。
「紅崎圭、です」
「ああ、君がクロの昔馴染みだという。ガストン・オーバンだ。よろしく」
 ガストンは数歩前に出て、後方でやや萎縮している様子の圭に手を差し出す。圭は困惑した表情を浮かべつつ、握手に応える。大きく骨ばっているガストンの手と、それより小柄な圭の手が繋がった瞬間に、ガストンは少年のがっしりとした堅い皮膚に気がついた。
「……ガストンさんと並ぶと、圭の小ささが際だつな」
「うるせえ!」
 噛み付く様子に、どっと笑いが起こった。
 クロの言うとおり、体格ががっしりとしており背の高いガストンと、まだ体つきが幼く背も低い圭の間には頭一つ分以上の差が開いている。彼がぐんと顔を上げて、ようやく視線を絡ませられるようだ。
 雰囲気が和らいだまま握手を解くと、ガストンは各自に座るように促す。元々ガストンが座っていたベッドにガストンとアランが腰掛け、もう一つのベッドにはクロとラーナーが彼らに向かい合うように座る。圭は入り口付近に設置された机に合わせて置かれていた椅子を引き出してきて、円を描いたようになる。
 計五人という大所帯になれば、部屋も些か狭くなったように錯覚する。一気に人口密度が高くなり一呼吸を置いたところで、ガストンが切り出す。
「見たところ今は落ち着いているようだが、身体の調子は大丈夫か」
「はい」
 クロはすぐに頷いた。
「そうか」
 ガストンは慈愛を含めた微笑みを浮かべる。彼は一見肩幅が広くがっしりとした身体つきをしており一見圧倒されがちだが、内に秘めているのは穏やかな性分である。
「首都に到着したのは、いつ頃だったか」
「一昨日ですね」
「そうか、なら一日違いだな。タイミングが合って良かった」
「トレアスの店の方は大丈夫なんですか」
「調剤ができないからな、店は閉めている。エリアも友人と旅行に行くと張り切っていたよ」
「そういやおばさん友達とウォルタに行くって言ってたわ」
「ウォルタに?」
 ラーナーが素早く反応する。
「そうそうラナちゃんがいた頃に話聞いて行きたくなったんだってさ。確か今日帰るって言ってたけど。俺たちも明日研究会の全日程が終わって夜に懇親会に参加して明後日の朝に帰るんだ」
「うわ、じゃあぎりぎりだったんだ」
「そうなんだよ次いつ会えるかもわからないからクロの薬も持ってきたし渡しておきたかったんだよ丁度良かった」
 その話題を出すと、アランは素早く立ち上がり、ベッドの脇に置いていたボストンバッグを漁る。すぐに掌にすっぽり収まるだけの小瓶を取り出した。中には、鶯色の丸剤が瓶の七割ほど詰められている。クロのために調剤された発作抑制剤だ。
「残りはどの程度あるんだ。急だったからあまり多く作れなかったんだが」
 クロは無意識に顔を強ばらせる。
 些細な変化だったが、ガストンやアランはそれを見逃さなかった。何を意味するか想像に難くない。
「……見せてみろ。クロ」
 ガストンはいつも通りの落ち着きをはらった声音で言う。アランの責めるような鋭い視線も合わさって、濁す道も無いと判断したクロは、鞄に手を回す。間もなく取りだした小瓶には、アランの手にしているものと同じ丸剤が入っているが、どれだけ消費されているかは一見してすぐにわかる程度で、三錠しか残されてはいなかった。それを見て、アランは息を呑み、ガストンは僅かに眉を顰める。
「お前それ」戸惑いを隠せずにアランは言う。「本当ならまだ半分は残ってるはずだぞ」
 ラーナーと圭もクロを見た。
 クロの表情は変わらなかった。無表情を貫いており、外からは何を考えているのか読みとらせまいとしているかのようにもとれた。
 半分という理想と、三錠という現実が、どれほどの重みかを完全に理解しているのは、アランとガストンの二人だけだろう。そして彼らにとっての最大の問題は、服用過多に対してクロ本人がそれほど危機感を抱いていないとみられる、という事実だった。
 絶句していたアランが身を乗り出そうとしたところを、ガストンは制するように一瞥する。膝の上で手を組むと、長く細い息をこぼした。
「何か、つらいことでもあったか」
 肺がぐっと掴まれたような感覚にクロは襲われた。
「……どうして、そんなこと」
「これに含まれているブショウの葉は、クロに対しては発作を抑制する効能があるが、鎮静効果として、気持ちを落ち着かせる作用もある」
 ガストンはすらすらと話し始める。
「けど、過剰に服用すると、中毒症状がでる。精神依存に陥って逆に不安定になる場合もよくあるし、突然の麻痺や熱、睡眠障害といった副作用が起こる可能性も高くなる。最悪の場合は昏睡状態に陥る。服用のしすぎは厳禁……この話は、何度もしているはずだが」
「……はい」
「前の発作の時も、飲み過ぎていたな」
 返答できなかった。数週間前にトレアスを出た時には既に、わかっている、という文句は、最早形骸化して中身を失っていた。
「この間トレアスに来た時、薬を飲んでいたにも関わらず発作に倒れたのは、過剰摂取で体内バランスが崩れて逆に発作を誘発しやすくなったから。いつもより長時間昏睡状態に陥ったのは、鎮静効果が高まっていたから、だとも考えている……という話は、したか。けど、その時よりも短期間でずっと多く飲んでいるな。……薬に縋るのは、時に毒だ。クロの場合は、特にシビアだということを、どうして」
 言葉を呑みこむ。他の音も全て道連れにされて重圧の中に沈みこんだ。責任感と苦悩の重みがそのまま空気を形成しているかのようだった。
 代わりに出てきたのは、深い息。
「身体が妙に怠い感覚はないか」
「……ありません」
 ガストンは肩を落とす。
「その頑丈すぎる身体は考え物だな。鈍感といった方が正しいのか。正直短期間にこれだけ飲んで、普通に動けているのは逆に異常だ」
「はっきり言いますね」
「茶化そうとするのはやめなさい。現状、すぐに元に戻すのは難しいだろう。少しずつ、量を減らす。それは間違えれば、毒だ」
 クロは返答に時間を要し、じっと考える。膝の上に置かれたまっさらな掌に、赤黒い記憶が鮮明に映し出される。深く突き刺さるような真夜中の血は、これだけの明るみに居ても尚逃してくれない。
 あの出来損ないの瞳が二点、暗闇の中で、じっと責めるようにクロを見つめている。
 全てを燃やしてしまえば、何もかもが消えてなくなって、解放されるはずだった。しかし、出来損ないも、子供達や組員、ポケモンの悲鳴も、血も、火傷のようにこびりついたままだった。感じたのは解放ではなく、呪縛だった。彼を破壊衝動に導いたのは、殺せと言った遠くの声、癖、思い出、何処かより引き続けている、糸だった。普段は気が付かない程に緩んでいるのに、あの時、出来損ないを前にしたとき、存在を誇示するように締め付けた、糸。或いは、天から下がって身体を動かす、糸。その縛られた名残として、今、出来損ないの影が佇み、皮膚は見えない血で穢れている。いや、糸自体も本当はいつかのただの名残なのか。そうなのだとすれば、他の誰でもない、彼自身の意志、潜在意識が、糸となって、自身を動かして、自身を縛り続けているのならば。
 自由とは、一体なんだったのか。
 心の奥底で蜷局を巻いている形のない恐ろしさや暴力が自分自身だとして、制御出来なくなることの方が、ずっと、それは。
「……多分、無理です」
「どうして」
 クロは視線を上げる。
 身体を、心を、騙してでも、追いこんでも、求めているものがあり、進まなければならなかった。
「戦わなくちゃいけないから」
 静かな一言。ガストンとアランは自然と身構え、絶句した。
「最近、黒の団と対峙することが、本当に、増えました」
 しばらく傍観して過ごしていた圭が、クロが何を言おうとしているのかなんとなく察知したのか、鋭い視線をクロに送った。牽制のつもりかもしれない。クロは無視して、息を吸い込んだ。
「ずっと前、少しだけ話しましたよね。黒の団のことは。……もう、避けて通れないんだと思います。多分、もう、逃げられない。でも、俺は笹波零を探さなくちゃならないから、殺されるわけにもいかない。ラーナーやガストンさん達、無関係な人たちに危害が及ぶのは、もう終わりにさせたい。……俺自身も、本当の意味で解放されるために……ちゃんと決別するために、黒の団を、倒します」
 しん、と室内が静まりかえる。
 クロの放つ雰囲気も至って静かだが、その内にある猛々しさや冷たい覚悟が滲んでいる。ラーナーは輪からやや距離を置いている圭に視線をよこすと、彼もまた険しい顔つきをしていた。
「冗談きついな」
 切り裂くようなアランの声が唐突に飛び込んできた。クロは視線を渡すと、アランの訝しげな歪んだ表情があった。薬の話ではガストンに任せて口を閉ざしていたが、いよいよ我慢ができなくなったようだった。
「それ、本気なのかよ」
 部屋のどこにいても聞こえるような深いため息をあからさまについてみせる。
「何が言いたいんだ」
「何って」
 いつもなら考えるよりも先に口から出てくるかのように止めどない言葉が流れ出してくるというのに、珍しく歯切れが悪い。
「どうしてわざわざ自分からそんなことを。お前の目的は、笹波零を探し出すことだろう。それなのになんで黒の団にベクトルが向くんだ」
「零を探すことを諦めたわけじゃない。ただ旅を始めてから何も零の情報を得られていないことも事実だ。俺には黒の団と因縁もある。そこに零が噛んでいる可能性はある」
「……百歩譲ってそうだとしてもなんで倒すってとこまで話が進む? 俺は反対だ」
「それこそ、なんで」
「だってそれって自分から」躊躇いがちに目を伏せた。「……人を殺しにいこうとしてるってことだろ」
 クロの隣でラーナーの身体が硬直した。
「今までは自己防衛って盾があったけど、だめだろ、それは、どう考えたって。……だめだろ」
 渋い顔のまま、自分で納得するように、アランは頷く。
「師匠はお前が健康に旅をできるように薬を出してるし俺だって支えてやりたいと思って手を貸してる。それは人殺しの力をやるためにやってることじゃない」
「それには勿論感謝してる。けど、それとこれとは話が別だろ。俺のやることは俺が決めることだ」
「相談も無しに勝手に決めるなよお前はいつだってそうだよな」
 平静を繕っていたクロの顔だったが、その一言で遂に眉間に変化が訪れた。
「俺はいちいちお前に相談しなきゃ次にどうするのかすら決められないのか?」
「そこまで言うつもりはないけどこの間も言っただろお前は一人で生きてるつもりになってて周りのことをぜんっぜん気にしてないって、そういうところなんだよ。……ちゃんと説明しろ」
「説明?」
「目的も無しに突っ込むほど馬鹿なわけじゃないだろ」
「犠牲者を増やさないため」クロは吐き捨てた。「現状を変えるんだ、アラン。零も見つからない、本来なら直接関わることのない人間が危険に曝される……ラーナーがその筆頭だ。実際身内も殺されてる。彼女も標的。これからずっと逃げ続けなければならない。これがどういうことか、わからないか? 終わらない旅だ。アラン達も守るためにも、もうこれしか手は残っていない。むしろこれが一番確実だ。そして、奴等との因縁を切る」
「そのためなら自分がどうなってもいいって?」
 声が荒くなっていくのと歩みを同じくして、アランの顔は赤くなっていた。クロとアランの口論はこれまで何度も重ねてきたが、それ故に彼等の間に遠慮はない。その物言いにクロの苛立ちも高まっていく。
「……もしかして、俺が奴等に殺されると思ってるのか?」
「可能性は無きにしもあらずだろ。俺達を守るためとかかっこつけてるけどこういう時だけ都合よく他人を使うなんて自分の身の危険とかどうでもいいのかよ。そうやって命を無茶に晒すなよそんなことのために師匠はお前を助けてるんじゃない!」
「確かにガストンさんやアランのおかげで今こうしていられる。けど、その先は俺が決めることだ。そこまで首をっ込まれる筋合いはない」
「ああそうやってまあたお得意の線引きか」
 苦々しげに吐き捨てる。
「いつも、いつもいつもそうだ……周りの気持ちも知らずにお前ひとりで決めて……俺は、お前は変わってきてるって信じてたんだけどな……根本は何も変わっていないんだな……」
 悔しげに、拳に力が入った。
 空気が淀んでいき、尖っていき、火種は一層大きくなり感情は加速していく。
「何が、そこまで首を突っ込まれる筋合いはない、だ! 師匠に生かされてるってのにその言い草はなんだよ何様のつもりだよ!? とにかく一度頭冷やして考え直せ、俺は絶対に反対だ!」
「……そっちこそ、俺のことなんにも知らないくせに、人の命を助けていることでよくそこまで偉ぶれるな」
「なっ」
「あの店に来る客の一人一人と俺は変わらない。何も知らない客に、薬渡して、その先の生活にそんなに首を突っ込むか? そこまでしないだろ?」
「……ッお前は俺たちの家族みたいなもんだ! 俺はそう思ってるし師匠もおばさんもそうで」
「俺達は家族じゃない!」
 アランの言葉を遮る叫びが強烈に部屋に響く。
 剃刀で引き裂いたような言葉に誰もが声を失った。
 突き放した本人は、僅かでも後悔したように目を逸らした。しかし、再度、尖った視線でもって、ショックを隠しきれずに茫然としているアランと対峙する。
「所詮は他人なんて、今更だ」
「……ああ、お前はそういう奴だったな。性根がねじ曲がって恩の返し方も知らねえ」
「恩の押し売りをしているのはそっちだろ」
 クロのその一言に、アランの目の前が真っ赤に光る。頭に血が一気に登って弾けた途端、立ち上がってクロに飛びかかるように彼の胸元を引いた。唾までかかるような距離で、怒りに目を見開いて、クロも負けじと厳しく睨み返した。激しく血走ったような閃光が二人の間で爆ぜた。
「お前それ本気で言ってるのか? 師匠やおばさんに向かってそんな風に思ってたのか!? ふざけんのも大概にしろよ!!」
「ふざけてない、家族だのなんだの勝手に押しつけるな! 誰も命を助けてくれなんて頼んだ覚えはない!!」
「んだと……っ」
 胸倉を掴んでいない、もう片方の拳が振りあがった。
「いい加減にしろ!!」
 激化してきた口論を見かねたガストンの怒号が、口論を無理矢理に遮断するように部屋にぴしゃりと響いた。腹の底から突き出したような骨太い声は雷の如し。熱くなった場を一瞬で鎮めるのには十分な一撃だった。
 クロとアランは口を閉ざし、揃って驚いた目でガストンを凝視する。周囲が一切見えていなかった彼等の視界が、霧が晴れていくように広がっていく。険しく顔をしかめたガストンと、戸惑いを隠せずに怯えているラーナー、それに、口を強く紡いで睨むように厳しい表情をしている圭の姿。清潔な部屋に漂う空気は、重く、ひとたび動けば電撃が走りそうなほどに緊張感に満ちていた。
 ガストンは部屋にいる五人の中では言うまでもなく年齢が抜きんでているうえ、がっしりとした体つきをしていて、一歩踏み出して注目を浴びれば圧倒的な存在感を見せつける。無言の圧力が少年たちの熱に圧し掛かる。
 と、勢いよく椅子が動いた音がして、周囲の注意が圭のもとに集中した。相変わらず彼の顔は険しいままだった。
「ちょっと、外出てくる」
 裏表無く、声に苛立ちをそのままぶつけているかのような、素っ気なく怒りを籠めた声音だった。
 消しきれない苛立ちを滲ませながら、誰にも目を合わせることなく歩き始めた。そのまま足早に部屋を横切り、扉を叩きつけたような音が部屋を震わせた。
 あっという間にクロ達を置いて圭は飛び出していってしまった。何かが圭の癇に障ってしまったようだったが、その理由が何であるのか、冷静さを失っていたクロに解るはずもない。
 扉の残響が、気配としてまだ漂っている。後ろめたい、声をあげる糸口すら見当たらないようなもやもやとした空気に包まれた。
 アランはようやくクロから乱暴に手を離す。ガストンの叱咤と圭の退出をきっかけに、クロとアランの双方ははっきりと我にかえったようだった。二人の様子をよく確認してから、改めてガストンは口を開く。
「折角会えたというのに喧嘩してどうする。お互いの言い分はわかった。一度頭を冷やせ」
「師匠……師匠はどうも思わないんですか。クロがどうなったっていいっていうんですか!?」
「アラン」
 感情を押し殺したように静かだったが、口論の興奮が冷めやらないアランを見事に押さえ込む一言だった。ただ名前を呼ばれただけだというのに、叱られた幼子のようにアランはいたたまれない気持ちで俯く。しかし、まだ沸々と沸き上がってくる怒りを原動力にするように、勢いよくアランは立ち上がって踵を返す。誰も遠ざかっていく彼の背中を引き留めようとはせず、そのままアランは部屋を後にした。扉を閉める音は先程までの激情とは裏腹に実に静かだった。辛うじて取り戻した理性が必死に感情を抑え込んだのだろう。
 圭に続いてアランも姿を消してしまった。部屋に残ったのは三人だけで、幾分景色が侘びしさを増す。
「……クロ、いくらなんでも言い過ぎだよ」
 ラーナーが宥めるように呟いたが、クロは口を固く閉ざしたまま、動かない。
 喧嘩相手を失ったクロはひとり取り残されたような気持ちになる。逃げるなんて卑怯だ、とも思った。ガストンの言葉の矛先は、今自分にしか向かない。
 窓の外から、霞んでいるような車のエンジン音が届いてくる。張りつめた空気に染みだすように、首都の喧騒が入り込んでくる。片割れがいなくなっただけで、時間が経っていくうちに、ほつれた紐がほどけていくように空気は少しずつ軽くなっていく。頃合いを見計らって、ガストンは組んでいた腕をおろした。
「アランがあれだけ粘るのも珍しい。……クロ、叱るわけじゃない。顔を上げなさい」
 萎れたように俯いていたクロの顔がゆっくりと上がると、彼の予想に反して、ガストンの穏やかな表情がそこにあった。家族ではないとまで突き放したのだ。どんな叱責を受け、そしてどんな言い訳をすべきかまで朧気に考えはじめていたクロは面食らってしまう。
「あまり悪く思わないでやってくれ」
 表情に偽りがないように、声音も随分と優しいものだった。
「アランは随分とクロに会える日を楽しみにしていた。恩の押し売りだとお前は言ったけれど……そうだな。そうとも言える。けど、本心から心配しているのは確かだ」
 クロは何かを言いかけて、ぐっと堪えた。あまり変な言葉を使うと、自分の意に沿わない形で相手に伝わりそうな気がした。熱が完全に冷めきらない今は尚更である。頭は鎮まりつつあったが、鳩尾の底はまだぐつぐつと煮えたぎっている。
「わかっています、けど」
「けど、だろうな」
「……ガストンさんも、俺がしようとしていることを、止めたいですか」
 そう質問を投げかけると、ふむ、とガストンは再び腕を組んだ。次の言葉が出てくるのに、そう時間はかからなかった。
「勿論、当然」
 幻滅も憤りもしない。クロの表情は変わらないし、実際彼は落ち着きつつあった。予想通りであり、仕方がない、と。
「クロはいつも無茶をするからな。相談の欠片もしないで突拍子もないことを言い出すのは今に始まったことじゃないが、アランは特にそのことを気にしている。誰に似たのか、世話を焼きたがる性格でね」
「お人好しなんだ。過剰に」
 それはガストンや、エリアにも言えたことだと常々クロは痛感している。
「さて、誰のせいか」
 やや意地の悪い言い方だった。針がつんと指の腹を突いたような小さな痛みが、クロの胸に刺さった。
「……少し昔話になるが」そう前置きしてから、ガストンは続ける。「俺は、今でもあのリマで、黒の団とやらが突然店にお前を探しにきたことを痛烈に覚えている」
 クロの表情が歪む。
 まだオーバン夫妻とアランが、今住んでいるトレアスではなく、リマに住んでいた頃。発作を起こし生死をさまよっていたクロは、そのリマで彼等と出会った。彼等の懸命な治療の末、一命を取り留めた。が、クロがオーバン家に滞在している情報がどこかから漏れたのか、ある日突然黒の団はやってきた。そこからのことは、一瞬の出来事だった。クロは完膚無きまでに斬りつけ返り討ちにした。誰一人、一匹とて逃しはしなかった。オーバン家に罪はない。彼等は善意でクロを療養しただけだ。それでも、そのことで、あの家に血が流れたのは確かだった。黒の団を斬り捨てたと同時に、平穏に暮らしていた彼等に一生焼き付くだろう傷を与えてしまった。
 だから、クロは彼等に対して強い罪悪感を背負い続けている。
「普段、あまりこの話題は出さないようにしているけど」
「知ってます」
「あまり言わないようにしてくれているんだろう」ガストンは紛らわすように苦笑した。「アランはああ言っていたけど、クロはよく人を見ようとするようになったし、気を遣ってくれている。数歩引いているから、そっけないように見えるだけで。アランはその数歩の部分を埋めたくて仕方がないんだ。それは俺も同じだが」
 緑のかかった睫毛が下を向く。
「……あの時のクロの様子は普通ではなかった」
 記憶を手繰り寄せながらガストンは言う。
「単純に、君がまたああいった戦いに巻き込まれて、最悪、命を落とすことになってしまうだなんて、想像するだけでも恐ろしい。ただ、当人であるクロが一番わかっているはずだし、そのうえでの判断ではないかとも思う。けれど、クロ」
 快活なアランやエリアとは違い、基本的には一歩引いたところで見守るおとなしい気性で、それほど多くを語らないガストンにしては随分と喋るとクロは思った。こうして、面と向かって、薬のこと以外でつらつらと話しているのは随分と久しぶりのことで、とても珍しいことだった。だからこそ自然と、きちんと聞かなければならないと背を伸ばす。
「普段の、物静かで真面目なクロ、発作前後の、どこか遠くに思い馳せているかと思えば、急に気性が荒くなるクロ、君は、よく揺らぐ。発作のこともあるが、その不安定さが俺もエリアも気がかりだった。薬で発作を抑えることはできても、若いうちから作用の強い薬を飲ませて、悪い方に作用しないか、ずっと不安だった。けど、それでもこうして、目の前で話せる、薬を渡せるうちはまだいい。けど、自分から喧嘩にいって、君がどうなってしまうのか、正直不安だ。きっと、俺たちの手の届かない範囲になる」
 そこが、怖い。
 ガストンはあまりに素直にそうこぼした。クロは返す言葉を見つけることができなかった。絶句したまま、感情の在処もわからない。
「アランや俺がいくら言っても、覆らないこともあるだろう。けれど、このまま突き進んだら、なにか、とても良くないことが起こるんじゃないか。そんな気がしてならない。……君のやろうとしていることは、本当は、誰がなんと言おうと、やってはいけないことだ」
 ごく短い小休止を置いた。言葉を慎重に選びながら話しているのがわかる間だった。
「クロ、君を止められる術は、無いのか」
 噛みしめるように凝縮された苦渋の念。目線を合わせて話そうとしてくれているからこそ、痛いほどに突き刺さってくる願い。
 だが、放った言葉を無かったことにはできないように、人殺しの烙印は決して消えないように、クロは既に後戻りのできないところまで来てしまっていた。
 クロは黙って頷いた。そうする他なかった。


 *


 ガストンに別れを告げて重い足取りでホテルから出たクロとラーナーは、玄関の側にある花壇にじっと腰掛けている圭にすぐ気が付いた。気まずい思いを抱えながらも、無視して置いていくわけにもいかない。鈍い心持ちで彼等は圭に近づいた。圭の表情は未だに仏頂面で、腰に下げていた自らの刀、五月雨を握っていた。その手の甲に薄い血管が浮き上がり、痙攣しているかのようだった。
 皮膚を撫でる空気が湿りつつある。上空の雲は存在感を増し、鈍色に立ち込めている。雨の気配がした。
「圭」
 穏やかに努めようと、クロは彼に小さく声をかけた。
 返事は無い。圭はクロ達を見向こうともしなかった。もう一度、今度は先程よりも強く名前を呼んでも、圭は無視を貫いた。
 彼等の間に流れる重苦しい空気から背けるようにクロはぎこちなく振り返ると、隣に立っているラーナーも困ったように表情を曇らせている。
 刃物が鞘と擦れる音がした。
「なんだ、あいつ」
 唐突に圭は話し出した。激しい感情に任せてに鞘の先で地面を勢いよく突くと、硬いコンクリートの音がした。
「人のこと、俺達のやろうとしてること、知った顔でべらべらと喋って、やめろやめろって、そればかり。こっちの気持ちをこれっぽっちも知らないくせに。……知ろうともしていない。結局聞く耳なんて持っていなかっただろ」
「……圭」
「こっちはもう、覚悟してきてるっていうのに」
 衣を纏っていないあからさまな怒りだった。
 あの場でアランと直接話していたのはクロだ。アランと圭は初対面であり、二人の間に交わされたのは、ただ名乗っただけの挨拶のみだ。圭が旅に参加することになった経緯をアランは勿論知らない。
 また鞘を地面に叩きつけた。
「俺は」
 圭は呻く。
「ただ……守りたくて、……」
 クロは目を細めた。
 迷うように圭は顔を歪め、五月雨を持つ手に更に力を籠める。太い柄糸が皮膚に食い込んで、締め付ける音が聞こえてきそうだった。小さな身体の中で、抱えきれないだけの脆い感情が迸っている。
「何もわかってない。そういうなら俺はどうなるんだ。俺たちはどうなるんだ!」
「……アランは、悪気があったわけじゃない」
 耳を疑った圭は立ち上がりクロを睨みつける。燃え滾った朱い眼だった。圭は敏感に荒み尖りきって、何をされても何を言われても引っかかり、衝動にまかせて噛みつくだけの力が燃えていた。
「クロ! あれだけ喧嘩してたくせに、今更あいつを守るのか!?」
「そういうわけじゃない」
 ただ、とクロは間を置いた。
「仕方ないことだろう」
 とても静かな一言が落ちる。溜息をつくように、なめらかで、乾ききった声だった。撒き散らすような激しい感情を押さえつけて呑みこむだけの力が込められていたのは、クロの意志が揺るがぬものに為っていたからか。
 純度を帯びた静かな瞳に、圭はたじろいだ。
「俺達とアラン達は違う。あまりにも通ってきた道が違うんだ」
 躊躇うような息を吐いた。
「本当にわかりあえるはずなんて、ない」
 最後を明らかに強調した。まるで、その瞬間、誰かの背中を突き飛ばして崖から落とすように。重力に従って落ちていき、心臓が宙に置いていかれて息を止め、崖上にいるクロを見つめているのは、――隣でぞっと背中に寒気が走った、ラーナーだった。
 圭の激昂は火に水をかけたように通り過ぎていき、クロの顔をじっと見つめた。クロの表情は浮かないもので、同時に冷たさを帯びている。深緑はますます深海に沈んでいく。
 同じような顔をして、そうだな、と一つだけ圭は呟いた。


 クロの言葉がラーナーの頭の中で何度も反芻していた。冷たく寂しい断言は、焼き付いたように離れない。
 あまりにも露骨に溝の深い境界線を引かれてしまった瞬間から、どこからともなく底知れぬさみしさが沸き上がっていく。また遠くなっていく。あの深い視線、つまりは断罪のような拒絶が、ラーナーにも向けられている、或いは向けられていくことは彼女の想像に難くなかった。それがとても、恐ろしかった。
 空から雨粒が落ちてきた。触れて、音無く弾ける。皮膚を、髪を、服を濡らし、コンクリートの色をひそりと変えていく。












<< まっしろな闇トップ >><>