Page 84 : 逆光の中で





 うたた寝をしてぼんやりとした夢見心地に包まれている中、定められたリズムのノックが聞こえてきて、敏感に反応したノエルは現実にゆっくりと帰ってくる。視界はキーボードに置いたままの手、モニターに、ポリゴン、いつも通りだ。既にポリゴンは吹き出しで扉の前での真弥の来訪を示している。
 あの音にだけは、彼は何をしていても気がつかなければならなかった。たとえ耳をイヤホンで塞いでいて音楽を流していても、今のように眠っていても、そして真弥の顔を見たくない時でも、振り向かなければならない。身体の方がその空気の震えにすら反応するように出来上がっているかのようだった。
 再度いつものリズム。トントントン、と三度小刻みに叩かれた後、少々の間、トンと一つ。ノエルは慌てて立ち上がると、鍵を開けて慎重に窺うように扉を開く。隙間から見上げようとしたら、引き裂くようにその右手が扉にかけられて一気に開放された。薄明るい部屋に、リビングを満たしている朝の光が入ってくる。
「遅い」
 冷たい表情に付け加えられたドスのきいた一言はノエルの背筋に冷水を流した。しかし、すぐに真弥の顔はころりと一転し、いつもの柔らかな笑みを浮かべる。
「なかなか反応しなかったけど寝てた?」
「……あ、いや、えっと……」
「口元涎ついてるぞ」
 今度こそ一気に目が覚めた。慌ててノエルは口元を素手で拭くと冷たい水の感覚が皮膚を擦り、唇には薄い名残が置き去りになる。急速に羞恥心が膨らんでいくのを誤魔化すように大きな溜息をついた。
 真弥は軽く高笑いをしながら部屋の中へと入ると、いつものようにベッドに座り込む。ノエルもパソコン前の椅子に座る。不覚を取ったせいで頬が熱を帯びていた。
「忘れてください」
「何を?」
「……あーもう、いいです」
 ノエルはモニターを見やり、現在の時刻を確認する。朝の十一時を過ぎたばかりだった。彼の体内時計は随分前から狂っていてそのままだったが、普段なら既に布団に潜っている時間だ。
「そんなに眠いなら寝たらいいのに」
「そう言うなら、そこをどいてくださるのが先では」
「やだよ」
「……なんなんですか、本当。何かあったんですか。というか、何の用ですか」
 つれないなあ、と真弥は笑った。ノエルは未だにこの男を掴むことができないでいた。いつものらりいくらりと軽率な態度で笑っていて、ふとすれば、幾人も殺してきた死神のような姿とは重ならなくなる。油断のならない人間だった。
 薄いベッドのスプリングが音を立てる。真弥は右腕を立てて前のめりになる。
「カンナギから辿れたか? 黒の団」
 ほら、油断できない。
 ノエルはモニターを見やり、表示されたままのブラウザに目を通す。今後主の手で更新されることのない、カンナギの内部情報が敷き詰められていた。その端っこで、ポリゴンが縮こまるようにして様子を伺っていた。相変わらず、真弥がいると随分挙動がおとなしくなる。いつもふとした瞬間にノエルを覗き込もうとしているかのように顔を近づけてくるのに、今は背を向けて、遠くの方を遊泳している。
「アクセス記録とかメールとか凡そ確認してみたんですが、既に消去されていましたね」
「手が早いことだ」
「書類とかも全然残ってなかったんですよね?」
「そう」
 それらしく深い溜息をついてみせて、いかにも残念といった雰囲気を醸し出しているが、気が乗らず殆ど探索をしていないのが実際である。そうですか、とノエルはまるで疑う素振りを見せない。用心深く外部に対して異常な警戒心を持ちながら、その懐に入り少しでも信頼感をもたせてしまえば許してしまう、ノエルの純粋な点はあまりにも容易く、真弥には好都合だった。
「七がいたからね。黒の団がなにかしら関わっていたことは間違いないんだろうが……彼女が全て処理してしまったんだろう。いや、実に優秀だ」
「あなたのその、敵なのに絶賛するところ、僕には理解できないです」
「俺は優秀な人間は須く好きだよ。美人なら最高だ」
 逆に、平凡や凡才には、見向きもしないのだ。この真弥という人間は。
 ノエルは手持ちぶさたであるかのように、膨大な受信メール一覧をスクロールする。これほど需要があるという事実に、目眩が起こりそうだった。しかし、どれほど探しても、黒の団の記録は残されていない。
「黒の団、流石に、足跡を消すことが上手いんですね」
「へえ」真弥は目を細くする。「負けましたとは言わせないよ」
 金色の瞳が冴える。一瞬だけ、見えない冷たい刃先がノエルの喉元に突きつけられた。
「……まさか」冷や汗を背筋に感じながら、ノエルは必死で抵抗するように薄い笑みを浮かべた。「上等だ」
 分厚い眼鏡の奥で目が爛々と光ったので、真弥は満足げな顔をする。ノエルの心は躍っているのだ。パソコンの中の世界は、ノエルの大きなプライドでもあった。
 真弥は思い出す。たった一人で閉じこもった部屋で、分厚い旧式のコンピュータを前に、深いキーボードを叩き、干からびたような細い身体で、声を失ったように静かに、遊ぶように荒れていた。彼の部屋の外は暗く堕落の一途を辿り、彼自身もまた狭い世界を出ることができずに荒廃していくばかりだった。
 刃物めいた風に撃たれて粉々に割れた分厚いガラス窓を潜ってきた真弥を見て、心底から脅えていた顔。ネットの海という、隔てなく無限に広がる世界を自由に泳ぎ回る手段をもちながら、どうしようもなく孤独な世界にいたところを無理矢理に引きずり出した、あの日。普段は凍り付いたようにまったく喋らないのに、時折混乱のあまり口を開けばヒステリックに叫び出していた人間も、その癖が完全に抜けたわけではないが、磨けば丸くなるものだ。
 何も変わらないとすれば、未だに、狭い部屋の中だけに縋って生きていることだった。
「愉しそうだねえ」
「あなたがそれを言いますか」
 ノエルはやや呆れたように呟く。
「にやついてるのは、真弥さんの方ですよね」
「面白いことが起こる予感がするんだ」
「あなたの面白い、は、まったくあてになりませんが」
 はは、と真弥は嬉しそうな声をこぼす。
「恐らくだけどね、ココが来ている」
「……誰ですか」
 ノエルは露骨に嫌な顔をした。脳裏には、彼にとっては許し難い、この家に泊まっている少年達の存在が浮かび上がっていた。
「昔馴染みさ。けど、彼女は用心深い。すぐには俺を探ってきてない。というより、多分、既に色々察してるかもしれない」
「何に」
 僅かな一考の後、真弥は試すような顔つきをした。
「セントラルには、巨大な地下フィルターがあることは知ってるだろう」
「はあ……まあ、知ってますけど」
 会話が飛躍しがちな真弥の話についていくには思考を回転させ続ける努力が必要で、体力を削がれる。が、疲れてきたからとて適当に流していればすぐに気が付かれてしまう。身を乗り出すように椅子に座り直す。
 セントラルの地下フィルターとは、まさに彼等が立っているこの下にも広がっていると考えられる、巨大な地下空間だ。セントラルは、深く深く、百メートル以上も掘られた円形に流れる川に囲まれている。薄汚れた白いコンクリートで固められた、一見すれば人工的な地形だ。落ちれば当然ひとたまりもないため、その異様で遠い存在感に、川底には投身自殺の死体が転がっているだの、セントラルから流出したヘドロが溜まっていて鼻がひん曲がるほど臭いだの、噂話は絶えない。地下深くまで掘られたのは、首都における水害を避けるためとも考えられてる。長期にわたる土砂降りが降ろうと、川に流れていって、その深さ故にどれだけの量が天から降り注ごうと、滅多なことで氾濫は起きない。
 地下フィルターは、逆に水不足の際の貯水空間でもあると説明がなされている。が、ただの水に関する都合だけでなく、いざとなれば、セントラルにかけられた橋を全て落とせば、絶望するほど深い堀に囲まれた、外界の進入を拒む孤独の街へと変化して、地下は避難場所、あるいは次世代のセントラルの街として機能する、との噂もされている。アーレイス内でも首都に異様に経済成長が集中している象徴ともいわれるが、噂は膨れ上がるばかりで最早心霊スポットと似たような扱いだ。いずれにせよ、普段の日常生活においては話題になることすら殆どない場所だ。誰も、足下から地下奥深くに広い空間が用意されていることなど、あまりにも日常とかけ離れており具体的には想像できない。
「今は当然無人で、誰も入れないようになっているけれど、唯一外から自由に出入りできる場所がある。セントラルと郊外の間の川、あれのコンクリートの壁に沿ってひたすらに降りていくと、川との接続地点がある。そこで、少し前の晩に黒装束の青年……今日の朝、ココの姿もそこで目撃されている」
「黒装束……」
「話を聞いた感じでは、黒の団だな」
 ノエルは沈黙する。
「ココは団の動きを窺ってる。慎重で、なのに大胆でスピーディなところが、彼女らしい」
 ココという女性のことを真弥は高く評価しているようだった。加えて、随分親しみを感じている様子で、おかしそうに笑っている。
「彼女にも会いたいところだけど、黒の団の動きが気になる。結局、カンナギに団員がいたはっきりとした理由は結局不明だけど、何かの前触れというか、何か試そうとしていたような……」
「わかるんですか」
「はっきりしたことはわからない。けど、俺が出来損ないとクロ達をわざと会わせたように、奴らにも思惑はあっただろうさ。……カンナギは、組織の規模から考えれば、もっと手応えがあってもおかしくなかった。あれ、既に黒の団が根回ししていたよ。“出来損ない”はただの餌だ。何人かは七が既に殺していたみたいだし、俺達、完全に使われたね」
 真弥はノエルに目配せをする。
 結局団の掌の上にいるということは、覚えていた方がいい。カンナギ襲撃の際にそう言い放った、七の宣告が思い浮かばれる。
「まったく」真弥は自嘲を浮かべる。「本当、離れられないものだよねえ」
 意味深げな言葉にノエルは眉を顰める。離れられない、何から。素直に、黒の団から、だと受け取れば、以前はもっと近い存在だったかのような言い素振りだった。“出来損ない”についてもそうだ。彼はよく知っている。昔、黒の団について調べようとして強く脅された記憶が被さって、真弥と黒の団の、とても軽薄とは言い難い関係性に名前をつけてしまうのが、信じ難く、恐ろしかった。それが知ることだとして、ノエル自身も確実に呑み込まれつつあった。
「俺は東区に向かう。動きがあるとすれば、クロ達に何かしらの接触があり得る。何かあれば、こっちから指示するから……絶対に、寝ないように」
 真弥は、さっぱりとした、満面の笑みを浮かべ、ノエルは表情を引つらせた。
「さあて、面白くなってほしいものだな!」
 真弥はノエルの左肩を軽く叩くと、やはりどこか浮き立ったような足取りで部屋を後にした。
 漸くノエルは解放されたように肩の重みが消えた。頑なに凝った肩を軽く回すと、簡単に関節が音を立てる。けれど、真弥に触れられたその部分から、ぞわぞわとするような痺れが走り抜けている。左肩には付いているはずもない烙印が残ったかのような感覚がした。は、と震えた息を吐く。
 ぽーん、と、あの音。真弥がいる間は沈黙していた、言葉の合図。
<休憩をお勧めします。>
「……うるさいよ」
 幾度となく繰り返してきたやりとりだ。日常は、元のテンポを刻み直してくれる。
 ノエルは身体をぐんと伸ばし、背もたれにのし掛かる。陰の濃い天井は、閉塞的な空間であるにも関わらずどこか遠い。だらりと下がっている骨ばった細い腕を上げて、目頭を隠す。身体の毒素まで抜くように腹に力を入れて長い溜息をついていくと、安堵が広がっていく。いつまで経とうと緊張感は抜けないのだ。左肩には期待と圧力の名残。あの笑顔の下ではいつも凶器を携えており、表裏一体の感情はくるくると弄ばれているようにひっくり返り、気を抜いたらいつでも殺すと言われているような、そんな感覚が、いつまでも抜けない。
 ぽーん、とひとつ、間の抜けた音。ノエルを呼ぶ声は、彼の胸を優しく叩く。
<休憩をお勧めします。>
 ポリゴンは繰り返す。馬鹿の一つ覚えのように、登録された言語にノエルは草臥れたような笑みを浮かべた。
「できないよ。真弥さんを待たせられない」
<ノエルの身体が優先です。>
 ああ、と、ノエルは思う。
 同じ言葉を毎日毎日何度も決まったタイミングで放ってくる従順なプログラム。このデータの集合体に、不覚にも、どれだけ励まされてきたことだろう。かつて絶望の中にひとりぼっちでいながら、ひとりぼっちではなかったのは、この青と赤の存在が、ノエルが常に向き合っていたパソコンの中に常に居てくれたからだ。
 存在を肯定してくれる存在。このプログラムも、そして、真弥も。
「……大丈夫。手伝えよ、ポリゴン」
 机に身体を寄せる。キーボードに十本の指を乗せた。
 遅れて、合図の音と、吹き出しが現れる。
<了解です。>
 いい奴だ、と思う。流れ者の自律型プログラムは忠実で、ノエルが常にパソコンの傍にいることと同義で、ノエルの常に傍にいる存在だった。たとえ彼の時計がいつまでも狂っていても彼の依存しているものは淀んでいるとしても、この狭い部屋が彼の居場所であり彼の総てだった。


 *


 針のように細い雨がさめざめと降っている。不透明な空気は、むせかえるような湿気を伴っている。パレットの上で乱暴にかき混ぜたような灰色の雲が空を覆い尽くしていた。色味の無い天とは裏腹に、道は彩るような様々な傘が行き交っている。心なしか、いつもより人々は肩を縮こまらせ、視線を落とし、言葉少なに歩いている。平坦に整えられた道でも水たまりは佇み、雨水を含んだ道を歩く音は独特だ。水の跳ねる音、抑えつけられる熱気、さざめき、雨の香り。特別、雑踏の音が際だつ。
 足早に人波を突き進んでいくクロと圭の背中をラーナーは必死に追いかける。
 喧嘩別れをして、溝は深く抉られたまま、一層彼らは遠のいていく。孤独を深めていく。それぞれが点となってひとりずつになっていく。
 待って、とラーナーは一言あげた。あっという間に静かな喧噪に吸い込まれていく。どこかから聞こえてくる。火事の話。北区の歓楽街で、どこどこの場所で、火事があったらしいよ。死傷者、消防車、深夜、広がり、煙、――恐い。規模は完全に隠蔽しきれるものでなくセントラルに炎が広がっていくように駆けめぐっていた。見て見ぬふり。聞こえぬふり。知らぬふり。ラーナーの目の前を歩く、あの二人がその中心にいて、人を殺し、それは恐らく罪で、恐怖の対象で、ここは首都であり、発展の裏には危うさを常に抱えていて、それでも当たり前のように人々は日常を生きていて、均衡を愛していて、そのために全てを受け入れていて、汚くも美しく平衡のこの場所は、誰に対しても平等で誰に対しても残酷だった。
 アランやガストンははっきりとクロを止めようとし、彼の決断を否定した。クロは真正面から決別し、圭は憤りと自らの決断に身を震わせた。ラーナーはその迸る意志のぶつかりあいと鮮烈な火花に圧倒されて、何もできなかった。初めから伸ばすことを躊躇うほどに誰もが遠い。けれど誰も助けてはくれない。
 雨は降り続け、歯車は狂いだす。
 雑音と人混みの中、正面から、彼女の脇をすっと歩いていく、ただの見知らぬ通行人であるはずの人の顔がラーナーの視界に入る。見過ごしそうになった仮面の大群の中で、彼女の目は一抹の違和感を、ただ一人を逃さなかった。思わずその人物を目で追う。
 思考は停止。足は止まる。彼女を避けて、知らない人間が何人も通り過ぎていく。人混みに紛れて彼の人は向こう側へと過ぎ去っていく。
 何も考えられなかった。考える前に、ラーナーは身を翻していた。頭を塗りつぶしていたクロや圭達のことすら、彼女の正直なところ、頭から吹き飛んでしまっていた。目に留めた一つのことだけを追い求める衝動に突き動かされ、走り出した。すいません、すいません、と謝りながら、彼女はもどかしくなって傘も閉じて、人を押し退けるように突き進んだ。彼女の様子がおかしいことにクロが気が付き漸く振り向いた時には、既に彼女は随分と離れ、無我夢中で人波を逆流していた。足がもつれそうになりながら、視線を上げてそのひとを見失わないように必死に目を凝らす。相手もぐんぐんと逃げるように歩いているのか、距離は簡単に縮まらない。やがて、その人の波の隙間から、そのひとが道を逸れて建物と建物の間へと足を踏み入れるのが辛うじて見えた。ラーナーは慌てて突き進んでいく。
 雨に濡れ水溜りが蔓延っている隙間は、人間一人が通れるほどの幅である。雨天では心なしか薄暗さすら感じたが、突き当りを左に曲がっていくそのひとの姿を見つけ、ラーナーは躊躇いなく路地に飛び込んだ。足元で水溜りが弾け靴の中まで水でぬかるんでも、頭上から降り注ぐ雨で全身が濡れていこうとも構いはしなかった。入り組んだ路地を次々に曲がっていくので、思ったように速度は上がらず、距離は縮まらない。それでも直向きにそのひとを追いかけ、倣うように突き当りを左に曲がる。しかし、そこでようやくラーナーの足は遅くなった。曲がった先には人影がなかったのだった。
 肩で息をしながら視界に広がっている隅から隅まで様子を伺ったが、人の気配はまるでない。まっすぐ歩いてみたが、足音は聞こえなかった。見失ってしまったのだろうか。落ちる雨が髪の毛からしたり落ち、全身を濡らしていく感覚に自分という形を取り戻していく。手元を見て、傘がなくなっていることに気付く。どこかで手から滑り落ちるように捨ててきてしまったことに、自らの行為であるにも関わらず覚えてもいなかった。身体が煮えているように熱い。我にかえったラーナーは肩で呼吸をしながら後ろを振り向いてみたが、クロ達が追ってくる様子もなかった。そこでようやく、一人になってしまったという事実に気付く。
 ずぶ濡れになり、髪も服も靴も全ていつもよりぎゅっと縮こまったように身体に張り付いてきて、ひどく重たい。
 嘘だったのかもしれない。もしかしたら、追い込まれているがために見てしまった幻想か、あるいはとてもよく似た人間だったのか。
 とりあえず来た道を辿ろうかと踵を返した時、物の崩れたような派手な音が耳に飛び込んできた。音のした方を反射的に見やる。木の戸が開いたままになっている建物が目に入った。外見は周囲とさほど変わらない、煤けた灰色の壁をしたビルディングだった。
 ラーナーは手を引かれるように玄関口に近付くと、建物の中は暗く、雨の日の灰色の光が一筋、部屋の中へと入っていた。目を凝らしてみると、黒い足跡が床に残っている。外面はコンクリートで固めてあるが、中の床は木でできているのだろうか。塗れた足を拭かずにそのまま中に入ったようだった。光を受けると水独特の煌めきを放っていて、まだ新しいことがわかった。その足跡と先程の人影がラーナーの脳内で繋がり、中に立ち入る決意を固めた。
 閉じかけの扉をゆっくりと開くと、錆び付いた音が空気を引き擦った。玄関からすぐに大きな一室が広がっている。正面にいくつか窓があるが、どれもその向こうは別の建物の壁があり、明かりをつけていないこともあって閉鎖された空間であるように感じられた。息を吸い込み、髪や指先からぽたぽたと滴を垂らしながら、扉を閉め、ラーナーはぐるりと大きく部屋を見回す。手前から奥へ向かって、足跡が伸びている。窓から差し込んでいる淡い灰色の光を頼りに、よく目を凝らして、ラーナーは部屋の隅に人が立っているのに気が付いた。
 逆光の中にいるそのひとの顔を遠目で確認して、ぐっと顔が歪んだ。見かけた瞬間は驚きで頭が白くなってしまったが、時間をかけてじっくりと見つめていると、得体の知れない喜びが肺の奥からじんわりと沸き上がってくる。彼女より重い色素の茶色の髪はさっぱりと切り揃えられていて、それと同じ色の両眼。肩幅、体格はまだ幼く、あどけない、まさに少年という言葉がぴったりと当てはまる素朴な顔つき。
 ずっと焦がれていた人だった。上乗りするように日々を生きていても、故郷の記憶がぼやけていこうとも、忘れたことなど一度も無かった。
 喉の奥から上がってきた名前を、素直に吐き出す。
「セルド……?」
 ラーナーの弟――あの日故郷ウォルタで、彼女の目の前で黒の団に刺された、セルド・クレアライトがそこにいた。












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