Page 85 : 棘





 世界がひっくり返っても、今見えている現実が本当であるかを判断することは難しいとラーナーは思った。自分の見ているものこそが正しく真実だというのなら、確かに本物だ。ただ信じ難いだけ。
 いくら目を疑っても、目を凝らしても、窓辺に寄り添うように立っているのは、紛れもなくセルド・クレアライトである。この世に二人といない、血の繋がった弟である。この驚きを喜びに変換したらいいのか或いは不信に変換したらいいのか、冷静でないラーナーが推し量れるものではなかった。
「セルド……本当に……?」
 一歩踏み出した時、ラーナーは自分がきちんと立っているということを認識した。しかし尚、まるで夢うつつだった。
 弟の瞳と視線が絡む。自分より深い濃厚な飴色を宿した瞳。同色の髪。まだ幼い顔つき、年相応の成長途上の身長。懐かしさが瞬く間に膨れ上がって胸が押し潰されそうで、たまらず逆光の中へと飛び込んだ。熱情の掃き出し口を求めた彼女にはそうする他残されていない。慌てた速度で古い床を叩く。僅かに舞い上がる埃が光に照らされて、ちらちらと光っていた。
 雨の音が聞こえる。ずっと彼方で、細やかに降り続けているようだった。
 灰色の光に照らされながら、ラーナーはセルドの正面に立ち止まる。凛とした視線で見上げてくる弟の顔つきがあまりにも懐かしく、人の感情に容量があるというのなら、とっくに過大に膨張して溢れている。手を伸ばせば届く距離まで来て、彼女は改めて躊躇した。恋い焦がれるように求めてきた形が予期せぬ形で唐突にやってきたものだから、果たして本当に触れていいものか急に迷いが生じたのだ。諦めていたのだ、確かに。初めて嗅いだ頭が揺れるほどの血の臭い、誰もいなくなっていた玄関、主を失った部屋の喪失感は、昨日のことのように思い出せる。しかし、彼がいなくなった世界を、ラーナーは受け入れつつあった。傍には常にクロやエーフィ達がいてくれたし、ラーナーも今の仲間達を引き留めている。彼等を心の支えとしてきた。アーレイスを旅し、様々な人に出会い、様々な人と別れ、時には戦いに巻き込まれていた、その日々を走り抜くのに精一杯で、家族を失った哀しみを埋めてくれていたのは事実だった。セルドを忘れたことは一度も無い。けれど、悲哀からは少しずつ立ち直りつつあった。
 それが、死んだと思っていた、弟が、急に、目の前に、立ち、ラーナーを、見ている。
 あの日までと変わらぬ顔で。
 遠のいていた時間は一気に引き戻される。ラーナーの記憶の歯車が逆回転して、今と繋がっていく。
 震えながら、ラーナーは手を伸ばす。初めにどこに触れたらいいのかわからなかった。体感的には、もうずっと昔から会っていないような気がしてならなかった。弟への触れ方など、そもそもウォルタで共に住んでいた頃も考えたことがなかったし、恐らくきちんと触れたことなどしばらくなかったような気がするし、そんなことを今更考えさせられても、解らないに決まっている。
 濡れた手で、幼い活力の閉じこめられた柔らかな濡れた頬を撫でて、掌から伝わる温もりに胸が締め付けられる。
「セルド……!」
 何度夢に見たことだろう。何度夢の中で殺されたことだろう。何度一人きりの夜に焦がれただろう。何度会いたいと願ったことだろう。
 仮面を被ったように無表情を貫いていたセルドの口角が静かに上がった。ラーナーは速まる心臓をふわりと優しく包まれた心地にさらされた。
 しかし、ふと視界が広がって小さな違和感に気が付いたラーナーは眉を潜めた。波一つ立たない透明な湖に一滴の黒い水滴が落ちたような感覚。揺れるように黒は水を濁らせ、波紋は淡く広がっていく。黒、そう、黒い服。彼女はその服装に既視感があった。しかしセルドがかつて持ち合わせていたものではない。
「……その服……」
 かつてセルドを殺した男の着ていたもの、バハロで出会った少年の着ていたものと酷似していた。真っ黒な上着に真っ黒なフードをつけ、肩口には灰色が当てられている。サイズが大きいのか手は隠れていたが、それ故に余計に黒は強調された。弟への戸惑いがにじみ出てくる。いや、彼の纏うその服が真実なのだとしたら、セルドは。
 夢の中にいたような温もった感覚は波が引いていくように急速に冷めていき、眩暈がするようだった。セルドの両肩を掴み、懇願するようにラーナーはセルドを見下ろした。
「セルド。その服、黒の団のものだよね。どういうこと? どうして?」
 揺さぶるが、セルドは返答しない。思えば、彼はまったく声を出していないし、表情も殆ど変わっていない。決定的に何かがおかしい。しかし確かに触れている。この人の顔だけは、ラーナーは見間違えるはずがないと自分で確信していた。
 直後、セルドの手が俊敏な動きを見せた。急で素早い動きは、ラーナーのような一般人の目には止まらないような速度として実感させる。彼の細い右手がラーナーの細い首を掴みそのまま幼い容姿からはまず想像もできない握力で締め上げる。瞬きの間のことにラーナーは反応できず、驚愕と苦痛に顔を歪ませた。嗄れたような呻きが漏れて最後、声すら出せなくなる。気管は完璧に塞がれていた。首を絞めてくるセルドの手を離そうと彼の手を掴んだが、まるで岩を引いているようにびくともしない。そのまま首をもがれてしまうのではないかと錯覚するほどだった。息ができず確実に追い込まれていくと、顔は紅潮していき目の前がちらちらと瞬きはじめやがて手足が痺れを起こし始めた。
 震える身体で、ラーナーは気を失う前に辛うじて薄らと瞼を開く。息ができない苦しみに耐えかねて、弟の身体に向かって渾身の力で右足を振り上げ蹴り出した。がむしゃらな動きだったが、彼女の爪先は相手の脛へと入り、手が僅かに緩んだ隙に、一気に後ろに体重を掛けるように自身を引くと、雪崩れるように床へと転倒した。背中を打ち、重いセルドの体重を受け止めながらも、横に転がって咄嗟にセルドから離れた。すぐに背中は壁に当たり堅い痛みが弾けたが何もかまわなかった。思い出したように一気に空気を吸い込んで数度咳込む。足りなくなりつつあった酸素が一気に体内を駆け巡る感覚がして、ぐわんと目が回った。間一髪で助かった正直な安堵に震えながら、恐る恐る首に触れる。熱が、痛みが傷のように残っていて、言葉を失った。実際、彼の掌の残像が色濃く彼女の白い首に張り付いている。雨とは別の気持ちの悪い湿りが全身の皮膚から吹き出す。乾いた苦しみが部屋にこだまし、彼女の心臓は凄まじい速度で脈を打っている。ラーナーは固唾を呑んで弟を見つめた。ゆっくりと起きあがりながらうなだれていた彼の頭が徐に上がり、瞳の深さを真正面から突きつけられてラーナーは呆然とした。
 存在するのは暗闇で鋭い目を光らせているような、或いは暗闇そのもののような殺意の他になかった。ラーナーは目を瞬かせて、硬直する。それを向けられているのが他でもない血を分けた姉弟の片割れである自分だという事実がどうしても信じられなかった。
「セルド……どうしたの。黒の団に何かされたの? 私のこと、忘れたの!? 答えて!!」
 セルドは何も答えない。無言で立ち上がる。ラーナーもよろめくように立ち上がるが、その足に力が入らない。彼の目を覚ませるためにもう一度彼に触れる勇気は、首に残る恐怖に負けてしまい、ただ心だけはまだ信じていたくて、切願の思いでラーナーはセルドを凝視した。
「ラーナーだよ、セルド、君の姉の! ウォルタでずっとずっと一緒に暮らしていた! たった一人の、家族! 思い出してよ、セルド、ねえ、どうしてこんなことになったの、折角、どうして、せっかくあえて、こんなこと」
「あね」
 不意にセルドの口がついに開いた。ラーナーの耳が揺らぐ。強ばっていた心が少しだけ解けてしまう。あね、姉。ラーナーは少しだけ身を屈めてセルドの目線に合わせる。もう少しのような気がした。ほんの少しだけ閉じた扉を開けば、あとはこじ開けることが可能だと思った。
 しかし説得しようとしたラーナーを彼は黙らせた。セルドは微笑んだ。飴色の瞳は相変わらず穴の底のような暗闇である。
「ねえちゃん」
 圧倒的に懐かしい、まだ声変わりのしていない少年の優しい声。優しいのに、温度は、極めて低い。
「だまれよ」
 ラーナーの胸が遂に凍り付いた。
 耳を疑う暇もなく、ラーナーの腹に鈍い痛みが叩き込まれて呻き声が零れた。彼女の柔らかな身体にセルドの堅い右拳が入ったのを彼女自身は認識することもほとんどできなかった。気が付いたら殴られていて、その痛みは腹を中心として全身に電撃のように迸った。下腹部を両手で抑えたが痛みを堪えきれずラーナーは崩れ落ち、苦渋に満ちた顔でセルドを見上げる。灰色の光を浴びた影は恐ろしいほど濃厚だ。彼は至って平然と冷ややかな表情で見下ろしてきていた。お互いに雨を潜り抜けてきたために滴が落ちるほど濡れていたけれど、その力量差は歴然としていた。
 この短時間で二度に渡る明らかな暴力に今度こそ身の危険を確信したラーナーは、身につけている鞄の外ポケットに触れて無言を貫いている手持ちポケモンに助けを求めようと、すっとまっすぐ指を下げる。しかしなんの障害物も触れず、息を止める。いつもの二つの球形の存在は無くなっており、思わず鞄に視線を寄せたが、やはりエーフィとブラッキーの入ったボールが消えていた。いつのまに。一体、どこで。
 その様子を見守っていたセルドの右手が黒の上着ポケットに伸びて、中から出したものが固い音を立てて床へ落ちた。無機質な音の響きにラーナーははっと顔を上げる。埃の敷かれた床に示されたのは、二つの擦り傷だらけのモンスターボールだ。力無く床を転がり、やがて死んだように制止する。どちらも、開閉スイッチの部分から根を這うかのように無惨に罅割れていた。
 割れたボールは黙りを決め込んだまま動かない。それが何を意味するか、セルドが何を見せつけようとしたか、ラーナーは尖った沈黙のうちに理解してしまう。抜き取られたとするならば、いつ、どこか、恐らく人波の中ですれ違った時だ。ラーナーはクロと圭を追いかけることで精一杯だったし、そしてあの驚きの僅かな時間、セルドの顔にばかり注目して、隙だらけだった。しかし、それは一瞬だったはずだ。それも気付かれないように。その完璧に慣れている手際の良さも予め張られていた策略も、行為の何もかもが記憶の弟とあまりにもかけ離れており、ラーナーは益々混乱した。
「どうして」
 ラーナーはもう一度震える声で問いかける。最後の希望の光を求めているかのようだった。
「どうして」セルドの声は相変わらずとても平面的だった。「それは、ねえちゃんにもいいたいよ」
 今までの単語を並べるだけだったような話し方が、相変わらずほとんど抑揚が無いながらも流暢なものになる。しかし、その言葉の真意がラーナーには計りかね、何一つ言葉は出てこなかった。
「ねえちゃん、どうしてまだあのひとたちといっしょにいるの」
「……あの人?」
 セルドは身を屈め、長い袖から右手が伸びてきて、ラーナーの手首を掴んだ。その手首には彼等の母親ニノの遺品である白いビーズが繋ぎ合わされたブレスレットが填められていた。それごとセルドは包み込む。ぐっと身体を近づけてきた存在に、ラーナーは恐怖に似た感覚で動けなくなっていた。最早、逃げ場が無い。
「なにもしらないんだね。あたりまえか」
「何、を」
「へいきなかおをしていて、だまされていることにもきづいていないんでしょ」
 ラーナーは怯えたままセルドを凝視した。嫌な予感が細い煙のように漂ってくる。導かれるように、真っ先にクロの顔、圭の顔、真弥の顔、傍にいる存在が脳裏に浮かび上がった。境界線として深い溝を作り、遠くへいこうとしている支えの存在が。
「ぼくたちのかあさんととうさんは、こうつうじこでしんだとおしえられたけど、ほんとうはちがったんだよ」
 セルドは静かに言う。
「ころされたんだ」
 ラーナーの手首を握る力が強くなった。外で雨は降り続けているのに、吸い込む空気はかさかさに乾いていた。その先を聞くのが恐ろしくて、しかしラーナーはその言葉を止める術もなければ、止めようとも思わなかった。それは、この旅で出会う人々と母親の謎の関係性や、恨むなら自分の親を恨めとウォルタで黒の団の男に言われたあの言葉がずっと引っかかり続けていて、自分やセルドが命を狙われる対象となった事実も相まって、はっきりとした確証はもてなかったものの、ただの事故死ではなかった可能性について薄々勘付いていた部分もあったからだった。彼女が今まで知りたいと思い続けていながら混沌の中あやふやにされてきたために積もっていた不安や不満の証でもあり、同時に今セルドと会話しているというその事実が、たとえ彼が変わり果てていても、彼女に一筋の希望を与えていたせいでもあった。
「あのひ、ねえちゃんをたすけたこと、ねえちゃんとたびをしていること、それじたいなにかおかしいとおもったことはないの。ただのあかのたにんが、そこまでしてくれることになにかぎもんをかんじたことは、なかったの」
 明言はしなかったが、あまりにも露骨だった。深緑の髪をしたその背中が瞬く。不器用だけれど強い思いを秘めた、あの少年の姿。一緒にいてもいいと、言ってくれた存在。
「クロは」ラーナーは必死に抵抗するように声を震わせた。「クロは……違う。お母さんに命を助けてもらったと言っていた。だから私を助けてくれた。死んでしまったお母さんに恩返しはできないから、代わりに私を助けて、その延長で、一緒に旅をしてくれて」
「ほんきでそうだとおもってるの。たったそれだけでそこまでしてくれる、いいひとだって」
 雨脚の強まる気配がした。窓に当たっては垂れる滴が、動きの速い蛇のようだ。灰色の光は明度を落とし、部屋のはじで姉弟たった二人だけ、身体を寄せて、息を呑み込んでいる。異様な空気感がラーナーを乱していく。ラーナーは、歪んだ顔で弱々しく首を横に振った。
「騙されているのは、セルドの方だよ。一体、何を言っているの。黒の団に何を吹き込まれたのか知らないけど、クロは本当に、そんなのじゃない」
「じゃあどうしてあれはじこじゃなかったといまだにねえちゃんにおしえていない。じぶんにふりでなく、うしろめたいきもちもないのなら、かくさずにしょうじきにただしいことをいうはず」
「それは、クロにも考えがあって」
「ねえちゃんは、いいひとすぎる」
 無色の棘が、雨となって、密やかに刺さっていく。
「とてもきれいだけど、あまりにもきれいすぎる。だからつごうがいいんだ……ねえ、いま、どれだけのじかんがたった。あいつらなら、ねえちゃんがぼくをおいかけてはなれたことなんてすぐにきづくはず。それなのにここにくるけはいもない。けっきょく、どうでもいいんだよ、しょせん。めをさますべきは、ねえちゃんのほう」
「そんなこと言わないで。やめて、もう」
「ねえちゃん」セルドの爪がラーナーの皮膚に食い込んだ。「かあさんととうさんをころしたのは、あの、ふじなみくろだ」
 聞きたかった囁きで聞きたくもない言葉がラーナーの耳を通る。
「ねえちゃんをたすけたのは、おんがえしなんてきこえのいいものじゃない。ざいあくかんだよ」












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