Page 86 : 雨





 雨が降り頻る中とはいえ、ラーナーがその場を翻り一瞬で離れていったのを、感覚の鋭いクロが把握しないはずがなかった。しかし、人波に逆らい突進していくかのように離れていったラーナーは、引き留める前に手の届かない場所へと進んでしまっていたのだ。咄嗟に彼女の名を叫んだが、まるで聞く耳を持たず、やはり様子が普通ではなかった。圭を引き連れて追うが、訝しげな顔をした人の波が邪魔をして、思ったように動けない。その間にもラーナーは進んでいき、あの細くひ弱な身体のどこにそれほどの原動力があるのかと疑問に思うほどである。どこかで見覚えがある、と過ぎったのは一瞬のこと。あの日、あの朝、キリでクラリスから手紙が届き、クラリスに会うために必死に無我夢中に走った、あの鮮烈な姿。クロ達も置いていくほどの爆発的な衝動だ。今度は何が彼女の情動を突き動かしたのか彼等には解らなかった。
「ラーナー!」
 雑踏と雨に紛れてラーナーの気配が掻き消されていく。視界からはとうに消えてしまった。頭の中も空白になっていって、遂にクロは歩みを止めてその場に立ち尽くした時、全ての音が自分から遠のいていく感覚がした。
 急に雨がやんだ。違う、彼の頭上に傘がさされた。自らの傘すら道に放り捨ててしまっていたらしい。帽子もゴーグルも服も髪も雨に濡れて、ただでさえ普通でない見た目をしたクロが更に目立って、道行く人々は不審な目を向けている。
 圭が無言で隣に立って、クロに傘をさしていた。ゆっくりとクロが振り返ると、圭は妙に落ち着いた雰囲気を携えていた。
「圭」その声も顔も、見ている圭の方が擦り切れそうだった。「胸騒ぎがする……そう、今日、夢を見た。あの出来損ないがずっと見つめてきて、何度も殺して、燃やして、出てきたもの全部敵に見えて、あいつも」
「探そう」
 短く言い聞かせるような声が有り難かった。子供のような顔をしたクロは少々面食らう。それから、小さく頷く。弱々しさが残るクロを励ますように、圭はへらりと笑った。
「大丈夫だって。まだ遠くには行ってない。止まってたってしょうがねえよ。夢なんてただの夢でしかない、クロらしくもない。……そんな頼りなさそうな顔するなって」
 圭は丸まったクロの背中を叩いた。指摘されるほどの顔をしていたのだろうか、とクロは考える。滴が髪の先から落ちて道に霞んでいく。ふ、と息をついた。
 道の途中で止まったことで通行人に次々に避けられ、圭に見守られる中、クロは目を閉じる。湿った熱気はクロの中に吸い込まれていき、周囲が冷めていくような錯覚に圭は襲われた。五感のうち視覚を遮って、暗闇の中で感覚を冴え渡らせる。雨に打ち消されて嗅覚の類はほぼ使い物にならなかった。雨音、靴音、声音、流れるような無数の雑音、奥に突き進むように掻き集めては選択する。たった両耳にだけ神経を集中させる。あとは頼りになるのは直感に近しいものだった。雑踏の中の静寂ですら掴み取ろうとするように、波紋を広げるかのように、耳をそばだてる。混乱したかのようなたどたどしい足取り、凄まじい勢いで遠のいていく足音、人々とぶつかる音、その狼狽えた声、探り、探り抜いて、その一筋が暗闇の中で浮かび上がる。
 ウォルタでラーナーを探し出した時にも同じことをした。あの時よりも音の数は何十倍にも膨れ上がっているが、冴え渡らせれば不可能ではなかった。
 深緑の瞳が再度姿を現して、黙ってクロは歩き出した。圭が慌ててその後を追う。迷うことのないしっかりとした足取りだった。ほんの少し見せた狼狽ぶりが嘘であるかのような自信の持ちようで、圭は安堵しながら舌を巻く。
「……クロって、やっぱり、すげえのな」
 感嘆のような、ある種の羨望のような複雑な声音で圭が言うと、
「ちょっと黙ってて」
 ぴしゃりとクロははねつける。耳はまだ遠くの音を掴み続けていた。
 人波に逆らいながらも速度はあがっていく。気配が途切れてしまうその前に、と道を急いだ。彼女は短時間にして随分と長い距離を横切ったようだった。やがて、ラーナーが曲がった場所と同じ角に差し掛かると、迷うことなく折れ、幾分細くなる路地へと入る。やがて人気が目に見えて消失し、水たまりばかりが道に溜まっていた。ラーナーの姿はまだ見えない。壁に圭の傘の端が当たり、いっそのこと、というように傘を閉じた。前を急ぐクロの足取りは最早雨を気にしてもいない様子だったからだ。
 セントラル内であるにも関わらずあまりの閑散とした雰囲気に呑み込まれそうになる。あれだけ騒がしかった雑音は既に彼方へ消えていて、道筋を辿るには容易で有り難いが、逆に言いしれない不安が朧気に浮かぶ。
 が、その淀みのない足先を止める存在に、その時は、圭でも気がついた。
 何度目かの角を曲がってすぐ、黒衣を纏った男が道の中心を塞ぐようにして立っていた。ただの赤の他人ならば、先程までの人混みと同様にすり抜けていくものだが、生憎その容姿には見覚えがあり、彼等は立ち止まらざるを得なかった。
 かつての記憶よりもずっと身長が伸び体つきも大きくなり、深く被った黒フードの下、精悍な顔つきになった顔に、息を止める。誰もがそうだった。誰もが身体は成長し、幼いままで止まっていた時間が進み始める。
 黒の団、バジルは暗闇から二人の様子を窺っていた。
 思わずクロと圭は慄いた。暫しの間金縛りにあったかのように互いに動かなかったが、やがて圭の方が口を開いた。
「お前、もしかしてバジル?」
 恐る恐る出した問いかけに、バジルは眉を潜めた。
「……言葉」
 戸惑うような声音もまたとっくに幼少を捨てていた。別人のようでもあった。初めは発言の意図を計りかねたが、やがて思い当たる節に出会って、圭は頭を掻いた。
「ああ……喋れるようになった、そう」
「……ふん……」
 バジルの痩せているような目が更に細くなる。
 間を切り取って急に繋ぎ合わせたような感覚に誰もが戸惑い、時の流れを目の当たりにした。微妙な空気が流れていって、再び双方の口が閉ざされる。どうしてこんな奇妙な雰囲気になるのか、最早三人の誰にも明確な答えは解らなかった。
「……黒の団が何の用だ。こんな昼間に、こんな人に見られやすい場所で」重苦しい声でクロが尋ねる。「先を急いでいる。そこをどけ」
「ラーナー・クレアライトか?」
 あっさりとバジルは言ってみせ、きんと緊張の糸が硝子のように光る。
 深緑の眼差しはバジルを厳しく掴みあげた。
「……あいつに何をした」
「何も。彼女は自分の足で自分の意志で動いただけだ」
「それだけ言えるということが既に答えだ。嘘はお前等の得意技だろ」
 バジルは苦々しく嘲笑した。黒い服が揺れる。
「そうやって決めつけようとする。偉くなったものだな」
 毒の滲む言葉からしっかりと昇っている、青白い炎のような憎しみ。深淵から睨みつけてくる存在はあまりに深く、クロと圭の背に火花が散った。ぞ、と雨とは別種の小さな寒気が、濡れた服の隙間を這ってくる。僅かな鳥肌が立つほどに。
 クロは右腰に下げているポーチに入った火閃に手をかけた。武器に触れ戦闘を行おうとする兆しは自分で自分の心を逆立てた。圭も倣うようにして五月雨に触れる。緊張感はそのまま刃となり、バジルへと突き立てた。
 後ろにふと現れた存在にも気付かずに。
「あなたはこっちで遊びましょうよ」
 背後であっけらかんとした声がした、と感じた頃にはもう遅かった。クロも圭も俊敏に振り返ったが、そのクロの肩には細い手が置かれ不敵に笑う女が立っていて、更にその後ろには彼女の連れている黄金の二足歩行の獣がいた。黒の団特有の上着を纏った彼女は、先日ホクシアでクロと対峙したあの女だった。その顔、肩に触れた手にクロは足の先まで急速に凍り付いた。圭も驚きに表情を変えた頃には、クロも女も、そして女のつれていたユンゲラーもその場から一瞬で消えてしまった。ユンゲラーの技、テレポートだ。
「クロ!?」
 思わず圭は叫んでいたが、まるで誰もいなかったかのようにその場にはクロの痕跡は欠片も残されておらず、愕然とするような空白だけがぽっかりと置いていかれた。一瞬の出来事に圭はただ目を丸くした。
「……っバジル! クロはどこにいった!?」
 改めて腰に備えている五月雨に手をかけ、バジルを睨みつけた。対するバジルは冷ややかな姿勢を少しも崩さない。
「言うわけが無いだろう」
「言わないなら無理矢理にでも吐かす!」
「どうすると? ここで五月雨を抜けば人目につく」
 言い返しが思いつかず、圭は口籠った。
 バジルは懐からモンスターボールを出し、すぐさま開閉スイッチを押した。中から出てきたのは、彼の相棒でもあるピジョット。窮屈な路地でもすらりと伸びるような体躯が殺風景な路地に堂々と風格を表した。
 圭は不審げな表情を浮かべつつ、自分もボールを出す。相手と同様の操作で出てきたのは、銀色の鎧を纏う鋼の鳥。逞しく育て上げられた身体に雨水が流れ出す。
「場所を変える。ついてこい」
 雑な言動に圭は顔をしかめたが、バジルは気にもとめずにピジョットの背中に軽々と乗り上げる。人の話も聞かないで、と圭は文句の一つも言いたくなったが、ピジョットは路地の狭い空間で挑発的にも器用に翼を広げ、その場を飛び上がった。
 エアームドは強ばった圭を見やる。罠の可能性をまったく考えなかったわけではない。ラーナーの顔も頭を過ぎった。しかしここでバジルを無視すればより非道い未来になりそうな予感がした。クロにはポニータとアメモースが、ラーナーにはエーフィとブラッキーがいる。呪縛のような思いが身体を締め付ける。問答無用で遠ざかっていくピジョットの後ろ姿を睨みつけているうちに、圭はどす黒い不満と焦りに急かされてやがてはエアームドに荒々しく乗っていた。何かを選ぶということは何かを捨てるということ。この選択が正しいかどうかなど、彼にはわからなかった。振り払うように雨の降る空に向かって翔る。
 雨に塗れた手で鞄を探り、すぐに取り出せる内ポケットに入れていたポゲギアを素早く操作した。連絡した先はほどなく電話に出てきた。
「……真弥さん。今どこ。……東区? ちょうどよかった。ラーナーを探してくれ。あと、クロも。二人ともどこにいったかわからない。クロはテレポートで黒の団につれていかれた……うん……わからない。俺はバジルに会った。多分見逃がされないだろうからさっさと終わらせていく……きっと」
 無数の雨粒に抵抗するように、圭は顔を上げた。高度はぐんぐんと上がっていく。空気を切り裂いていく。オレンジ色の瞳が決意をしたように燃えた。


 *


 テレポートによる浮遊感はほんの一秒にも満たない僅かなものだった。浮遊感というより軽くその場を跳んだような感覚で、そして跳んで次に地に足をつけた時、周囲の景色は雑多で簡素な路地裏から随分と様変わりしていた。
 閉塞感とはまるで縁遠い、突き抜ける風は冷たく、降りしきる雨は容赦がない。屋外だ、それも高い。四方を囲うようにフェンスが設置されていて、首都にいては建物に切り取られてばかりだった空が圧倒的な存在感を見せつけるように目線の高さまで広がっている。空は深い鉛のような色をした雲で、そこからさめざめと落ちてくる雨は霞むような降り始めの頃から勢いを増してきており、灰色のコンクリートの床に大きな水たまりを創り出しては力強い波紋を無数に瞬かせる。目に見えるもの全てがくすぶった色でできていた。風景を見て、何処かのビルの屋上だとクロは判断した。
「ハアイ」
 背後から囁くような声がして、瞬時にクロはその場を跳び退いた。足元で大きな飛沫が破裂した。水浸しの床は彼が想像していたよりも滑りやすい。旅で歩き潰したスニーカーの中までずぶずぶと水が浸透していく。
 鈍色の世界にぽつんと浮かび上がるような赤い傘を差している黒の団の女は、柔和な微笑みを浮かべ、ふわりと緩く丸まった髪を掻き上げた。
「ホクシア以来ね。会いたかったわ」
 相変わらず耳を擽るような喋り方だった。胸が妙にざわついて、落ち着かなくなる。
 クロは先手を打たんとばかりにボールを取り出した。雨の音が沈む中、ポニータとアメモースはその姿を現す。雨という気象条件はアメモースにとっては不自由ないが、炎タイプであるポニータにとっては圧倒的に不利だ。立っているだけでも体力を奪われていくだろう。だが、出し惜しみをしていられるほどの余裕もない。
 距離を置くように後ずさりをすると、すぐにフェンスにぶつかった。ちらと後ろを見やると、眼下には無秩序なビル群が立ち並んでいる。それなりに高い場所にいるようだ。テレポートで攫われたとはいえ、恐らく首都、それもセントラルからは離れていない。風を操り空を飛べる真弥ではないのだ、落ちようものなら間違いなく助からない。クロは再び視線を前へと移す。屋上から下へ繋がる階段があるだろう部屋は屋上の隅にあり、クロから見てほぼ対角線上にあった。距離が開いているし、容易に突破できるほど甘くもない、と、そこまで考えて、いかに逃げるかを無意識に考えていることに気が付いて、苦笑いしたくなる。
 相手は大袈裟に肩を竦めると、傘を持たない左手で服のポケットを漁り、やはりモンスターボールが出てくる。スイッチを押しては投げるという動作を次々に行い、壇上には五匹のザングースが揃った。ホクシアの印象がまだ強く残っているために、クロは予想よりも少ないように感じた。ユンゲラーを含めて、六対三。数的不利は変わらない。しかし覆せない数ではない。
「いきなり臨戦態勢に入らなくてもいいじゃない。もっとお話しましょうよ。折角二人きりになれたんだから」
「……そんなの、ない」
 女は溜息をついた。
「つれないわね。そうだ、この間のことは考えてくれた? 黒の団に来て、という話」
 無言で厳しく睨みつける。答えは言うまでもなかった。
「つれないわねえ」同じ言葉を繰り返して、しかし平気そうに彼女は笑う。「君は特別よ。どれだけ経っても、未だに君のような逸材は出てこない。成功したと思っても、身体への負荷が大きすぎてすぐ死ぬのよ。何が理由で君はできあがったのか、実際どれほどのことができるのか、とても興味があるわ。私たちは歓迎する」
「そんなの、俺は興味ない。特別でもなんでもない。それにそっちが言っているのは笹波白だろ。あいつはとっくに死んだ」
「まだそんなこと言うのか。ま、いいけど」女は曇天を一瞥した。「今日はね、それを確かめるのも兼ねてここに呼んだのよ」
「……確かめる?」
「そう。もう一人来る予定なのに、遅刻ね。いつものことだけど困ったものだわ」
 つまり増援が来る予定ということだ。クロは身を引き締める。逆に、少ない今が好機だった。ならば先手必勝だ。受け身になっていては相手の思う壺。クロは腰に備え付けたポーチの留め具を弾くように外すと、武器を取り出した。
「火閃ッ」
 円筒の両側から長い刃が飛び出して、炎が覆うように燃え上がった。しかしやはり雨水と湿気で普段より随分勢いが無い。初めこそ盛んに膨れ上がったが、瞬く間に雨に流されて刃の中に吸い込まれていくように萎んでいく。クロは思わず眉を顰めて火閃を見つめた。辛うじてちらついている炎は文字通り風前の灯火である。いつもより随分と弱々しい刃のように錯覚した。炎を用いた攻撃は使い物にならないことなど使う前から目に見えた。が、刃が健在ならば斬れる。ポニータとアメモースに目配せすると、二匹は頷く。クロは水溜まりを蹴り出した。彼のポケモン達も同時に雨の中を駆ける。
 俊敏なクロがすぐに詰められる間合い。一気に接近して彼女の喉元を貫きたいところだったが、そう簡単に辿り着けるはずもなく、白と赤の獣が飛び込んできた。咄嗟に振り上げた火閃の刃はザングースの硬質な爪に弾かれる。激しい硬質な残響が曇天に響いた。
「ほら、そうやってすぐ暴力に走る!」
「うるさい!」
 彼女の笑顔を崩すことはできない。軽い足取りで水溜まりを蹴り、後方へと下がる。彼女の前を陣取るように立つザングースの瞳は、ホクシアの時と同様に異様なまでに血走っていた。
「ポニータとアメモースを突き放せ!」
 痛烈な指示を聞いた直後にはユンゲラーのスプーンがぐにゃりと曲がり、二匹の動きが鈍くなった。そこに体当たりをするようにザングースが飛び込み、ユンゲラーもテレポートでクロの前を離れポニータとアメモースの方に追い打ちをかけた。
 黄金の存在が一瞬で消えると、その穴を埋めるようにすぐさま別のザングースが飛び込んでくる。巨大な爪を振り上げる。死角からの攻撃だった。雨天は炎にとっては不利でしかないが、動く音は露骨なまでに耳に届く。加えて相手は飢えた獣のような殺意をまき散らしていて、気配も容易に感じ取れる。冷静になれば余裕で対応できる。火閃の刃と、振り下ろしたザングースの爪が相見える。しかし、まるで壮絶な火花が散ったかのような衝撃はクロの予想を逸脱しており、表情が苦く変容した。正面から受け止めて軽くいなせる程のレベルではない。腰の深くまで重みが伝わってくるような一撃。更に力が加えられる前に咄嗟に火閃を縦に滑らせ、爪の軌跡が刃をなぞるように落ちていったところで、ザングースの背が見えた。火閃をもつ手首を捻り、円筒のもう一方から伸びる刃がザングースの首もとめがけて回りこんだ。が、その刃が肉まで触れたと思えば、ふくよかな身体は地面を蹴り上げ、隙が出来ているクロの横腹へと飛び込んだ。捨て身の衝突。クロの目の前が目映く光る。遅れて身体の内側まで亀裂が走るような痛みが響いて、堅い床に打ち付けられた。ひたひたに満ちている水溜まりに倒れ込むと、口の中に鉄の味の水が流れこんできた。雨水と攻撃の衝撃に幾度か咳払いをしたが、追随してくる気配は休む暇を与えさせなかった。倒れ込んだところに群がるようにザングースニ匹が同時に飛びかかり、クロはその場を即座に退く。爪が床に突き刺さったかと思うと、コンクリートが砕けて破片が宙を舞った。クロの表情が痙攣する。
 雨のせいか、身体が重い。肌に張り付く服が鬱陶しくてたまらない。ザングースの毛並みも荒んでおり、荒々しい呼吸が遠くにいても伝わってくるようだ。
 ざり、と足を開いて水の浸るコンクリートの感触を確かめる。破壊力は相手が勝っていても、動きは直線的だ。冷静に、とクロは苛立つ自分を諫める。ああ、雨が邪魔だ。皮膚の下を蠢くような気怠さが、邪魔だ。
「ニ、三、連続斬り!」
 女の鋭い指示が飛ぶと、二匹ほぼ同時に四つ足で走り出した。クロはウェストポーチの、火閃の入っていなかった方の留め具を外すと小型の薄いナイフを取り出して、牽制するように片方へ一直線に投擲した。理性が吹き飛んでいるようなザングースの視界はしかし頗る鮮明だった。軽々とジャンプして避けると、何にも当たらずナイフは虚空を切り裂いていった。その向こうにアメモースとポニータがユンゲラーとザングース二匹を相手に戦闘を行っている姿を垣間見て、クロは距離が離れてしまったことを思い知る。
 先に到達したザングースの攻撃を火閃で受け止める。先程の一撃とは違って随分軽い。しかし指示通りならば、最初は軽くとも回数を重ねるに従い鈍く鋭く重いものに変わっていくはずだ。それが連続斬りである。遅れて二匹目がやってきて、集中力を一気に高める。軽い分、素早い。無我夢中になって次の攻撃の位置を予測し、受けて、あしらう。攻撃を重ねるほどに相手の勢いが増していくのが手に取るようにわかる。剣捌きは冴え渡っていく。雨の飛沫、金属の音、獣の深い臭い。動きながらでも捉えられる。隙は見つけられる。息継ぎも許さないような止め処ない攻撃にひたすら耐える。だんだんとその一撃に込める力が強くなっていけば、それを溜めるだけの呼吸も必要になり、弾いた直後の反動も大きくなる。まさにその隙、向かって左側のザングースの連続切りを渾身の力ではじき返し脇が開いた瞬間、クロの深緑が閃いた。それまで受けてばかりだった、足下に力を入れて、走り抜けるようにザングースの脇に肉薄したのと同時に、火閃の刃が、ず、と獣の腹に沈み込む。その弾力もまとめてクロは奥へ力を込める。ザングースも前へ進む勢いが止まらず、すれ違うようにして、その刃が横腹を裂いた。炎がないためそこから追い打ちをかけるように相手に着火する技は使えないが、その傷口から鮮烈な生きた赤が飛び出した。雨の冷たさを丸呑みするほどの熱がクロにも張り付く。獣の金切り声が割れんばかりにつんざき、暴走は一瞬息を顰め、よろめく。
 が、目の前に必死になりそのことだけに神経を尖らせているが故に、背後に意識が及ばなくなるのは当然のことだった。
 突然の背中を引き裂く一撃に、クロは目を見開いた。上から下へ、縦に滑るような、しかし確かに抉る攻撃。頭から抜け落ちていた、残りの一匹によるものだった。
 火閃を持つ手の力が弱くなって、ザングースの爪は遂に火閃をはたき落とした。血生臭さと裏腹の美しい金属音が殺伐とした雨音を背景に響きわたる。地面に叩きつけられた火閃が跳ね返り宙を踊る姿が、クロの網膜に焼き付くようだった。遠くで、ポニータやアメモースの悲鳴のような声が聞こえた気がした。
 挟み撃ち。セオリー通りの戦い方。がら空きの背中はどうぞ攻撃してくださいとでも言っているようなものだった。
 クロは前へと倒れ込み、辛うじて片手をついたが、それ以上動けなかった。背中が燃えているように熱い。呼吸で肺を膨らませるだけで背中にざわめきのような痛みが広がり身体を硬直させた。彼の背中は鮮烈な赤で染まり、崩れ落ちた場の水溜まりに血が滲んで溶けていく。耳元で鳴っているかのような心臓の音は激しく、脈打つたびに背中の激痛が全身にこだました。
 ザングースの攻撃は止んだ。ホクシアの時と同じだ。今、相手に本気でクロを殺す気はない。そういう指示がされていたのだろう。まんまと作戦にはめられたというわけだ。
「痛そうね」
 こつこつと床を鳴らしながら女が近付いてきた。赤い傘。鮮やかな赤。その下にいて、彼女はまっさら、無傷で笑っている。クロは威嚇するように睨みつけたが、彼女の表情は変わらない。
「でも流石。この雨天でもあれだけ冴え渡るなんて。……ああ、ようやくもう一人も来たみたい」
 空を高く仰ぎながら、女は言い放った。うずくまるクロは導かれるように空を見た。
 曇天の下、滑るように鳥ポケモンが飛んでくるのが見えた。見覚えがある。雨の中でも堂々と毛並みを棚引かせて飛ぶ、あれはピジョットだ。黒の団が飛行手段に用いるごく一般的な存在である。
 徐々に近付いてきて、クロの霞んでいる視界でもその顔が朧気に確認できた時、高熱を帯びた背を一筋の槍のような寒気が貫いた。
 視認してからはあっという間だった。羽ばたきに合わせて水溜りがふわりと揺れ、ピジョットは女性の隣へ恭しく最小限の音で着地すると、その背に乗っていた男が降り立った。長いコートのような黒い上着は、やはり黒の団のものだ。濃紺のタオルを頭にかけているがまるで意味がなく、雨の中を飛んできたのだから当然の如く全身ずぶ濡れだった。女性より身長は頭一つ分以上高く、猫背気味だが体つきは良い。見た目の年齢は恐らく女を超えており、若々しいとは言い難いが、肩幅の広さや身体の分厚さは逞しく鍛え上げた男性のものだ。
「フェリエ」
「遅いわよ、枷場(はさば)。どこをほっつき歩いてたの」
「ああー……」
 気怠げに男、枷場はタオルを床に捨てると、ガリガリと黒髪を掻いた。
「どこにも行ってねえよ。大体こんな雨に出させるとか、有り得ないだろ、普通」
「まぁたあんたは文句を言う。雨の日に決行するってことは前々から言ってたでしょ」
「だったらせめて俺にもテレポートできるポケモンを貸してほしかったよ……で、白はどこ」
 女、もといフェリエは顎で、ザングースに囲まれてしゃがみ込んでいるクロを示した。枷場は目を細めてクロを見る。クロの心臓がまた特別大きな脈を打った。どくどくと血は流れ続けているが、意識は遠のくどころか、枷場から目は離せず、より頭が鮮明になっていく思いがした。
 枷場は弱っているクロを前にして、強い舌打ちを打った。
「……なにあれ、俺がどうこうしなくても既に手負いじゃん。ドブコラッタかよ。俺の知ってる笹波白ならザングース如きに遅れをとらないはずなんだけど」
「言っておくけど、ただのザングースと同じにしないでほしいわね」
「ああーはいはい。得意の滋養強壮ってやつね、別に解ってるけど」
「この雨でかなり善戦してたのよ。十分誉めたいわ」
「あんたらはあいつを過大評価しすぎなんだよ。夢見過ぎだボケ」
 そう吐き捨てると、不意に雨ごと吹き飛ばすような銀色に煌めく鋭い風が巻きおこった。傍にいた枷場のピジョットが敏感に気が付いて対抗するように羽ばたき、呆気なく勢いを相殺させる。
 アメモースの銀色の風だ。その小さな羽から、強烈な風を創り出す。黒く丸い瞳はぐっと引き締まり、高い空中から敵を見下ろしている。
 ザングースとユンゲラーの攻撃を潜り抜けて、ポニータがクロを取り巻いているザングースへ向かってその口から炎を吐き出した。雨ではその威力は弱まってしまうが、牽制にはなる。自慢の足でザングースの群を散らすようにクロに駆け寄り、そこにアメモースも合流した。まるでクロの壁になろうとしているようだったが、その二匹共既に身体は擦り傷だらけで、全身で呼吸をしているかのようだった。
 ポニータとアメモースの相手をしていたザングースとユンゲラーも怪我を負っているが未だ健在だ。逃した獲物を狙うように、距離をとって様子を窺っている。
「へえ、アメモース」男の声のトーンが上がった。「そんなの持ってたのか」
「あんたって本当に報告書とか見ないわよね」
 女性は苦い悪態をつく。
「は、載ってたっけ、そんなこと」
 仏頂面のまま流すと、枷場は腰に手を当てた。それから場面を観察し、なるほど、と頷いた。
「ポケモンが邪魔だ。特に飛べるやつはろくなことがない」
 そう呟いて、金色の獣に視線を放った。
「ユンゲラー、サイコキネシスでアメモースをフェンスに叩きつけろ」
「――ッアメモース! 銀色の風!」
 痛みに耐えていたクロの指示は遅かった。アメモースが再び強烈な羽ばたきを行う前に、ユンゲラーのスプーンは深く曲がり、まるで見えないものに殴られたようにアメモースの軽い体がいとも簡単にフェンスへと激突し、アメモースの苦い声があがる。その様子を見て、途轍もない嫌な予感がクロの脳裏を走った。「ポニータ、アメモースを守れ!」「一、アメモースを取り押さえろ」ほぼ同時の指示。しかしポニータはすぐに動けないクロの元を離れることに躊躇した。その一瞬が命取りだった。ザングースのうち一匹がフェンスから落ちるアメモースへと飛びかかる。手はアメモースの羽を、足は目玉のような触覚を抑えつけ、アメモースは床に貼り付けられたように完全に身動きをとれなくなってしまう。
「羽をもぎ取れ」
 枷場はさも当然のように淡々と言い放つ。
 クロはしんと絶句した。
 ザングースの真っ赤になった目がぎらりと光った。鋭く発達した歯が剥き出しになる。
 その太い歯がアメモースの一枚の羽にかぶりつく。まるで肉に喰いつくように引っ張り上げ、アメモースの真っ黒な丸い瞳が戦慄き、すべすべとした身体に想像を絶する激痛が雷のように貫き、聞いたこともない冷たい悲鳴が劈いた。痛みに身を捩ろうとしてもザングースは一切逃さない。血走った目。口から滴る唾液。ぶちぶちと繊維が切れる音が聞こえてきそうな一瞬。金切り声。尖りきって爆発する。まるで、断末魔。
「アメモース!!!」
 自らの激痛を忘れ、クロは悲痛な叫び声をあげた。
 美しい空色の羽をザングースの歯が完全に喰い破った、その千切れた場所から鮮血が吹き出していき、映像のようにクロの目に焼き付いて、クロは自らの血と雨に塗れた身体を顧みずにその場を飛び出した。
 手元に火閃は無い。懐からナイフを取り出すような余裕もない。クロはがむしゃらにアメモースに乗りかかり空色の羽を血だらけの口からぶら下げているザングースに体当たりした。猛然とした勢いにザングースは反応できず、そのままアメモースからはがされる。
 クロはザングースを突き放すとすぐにアメモースに寄った。そしてその惨憺たる光景に言葉を失い、括目した。
 アメモースの羽は三枚のみになって、非対称的な様子があまりにも歪だった。一枚羽をもがれた部分からは生々しく千切れた痕跡のある肉が見えており、そこ流れる血は止まることを知らず、雨水すらも呑み込んでいく勢いだった。全身は痙攣していて、時折びくりと飛び上がっては静止して、震え続けている。黒い瞳はうつらうつらと震えるような瞬きを繰り返していて、視界がぼやけても必死に何かを探す。やがてようやく主人を見つけだして、か細い糸のような声を捻り出した。雨音に掻き消されてしまうほどの弱々しさ。見ているだけで、聞いているだけで、クロの胸は擦り切れて傷だらけになっていく。あまりの呆気ない破壊行動であるが故にかえって信じられないぐらいだった。しかし、一面が灰色のこの場所では、赤は嫌になりそうな程鮮烈だった。
 このままではアメモースが死ぬ。
 最悪の可能性が過ぎったとき、その血塗れの現実から目を背けるようにクロは震える手でアメモースのボールを取り出し、アメモースをボールの中へと戻した。手の中に血だまりを閉じこめたような気分だった。ひやりとした無機質なボールに生々しい温もりを錯覚する。目の前に赤だけが残る。血。アメモースの血。上塗りするような雨の波紋。赫が揺蕩う。臭いが歪む。雨の雑音が鼓膜を掻き殴っていく。呆然としたままクロは動けなかった。漏れ出た息もまた震えていた。背後に駆け寄ってきたポニータの蹄の気配を感じた時、凍り付いていた思考が割れて、弾かれるようにクロは振り返った。
「ポニータ! アメモースを連れてここから逃げろ!!」
 腹から突き出すような、怒声にも等しい叫びだった。ポニータは真っ黒な瞳を丸くした。クロは猛々しい形相で立ち上がり、ポニータの前にボールを差し出す。
「すぐならきっと間に合う……お前の脚力だったら、ビルを渡りながら移動できる! 真弥さんが見つけてくれる……それにこれだけ人がいる首都なら、病院に連れて行ってくれるような人がいたっていいはずだ……!」
 他人に頼る、甘い考えとも今は思わなかった。ここでゆっくりと死を待つよりはずっと現実的で堅実的だと彼は判断していた。クロはこの屋上での戦闘がどれほどのものになるか、想像はしきれなかったが、既に泥沼化を覚悟していた。しかしそれを予想できたのは、ポニータも同じだった。
 ポニータは戸惑うようにクロを見て、彼の汚れた手が強く握りしめているアメモースのボールを見て、震える声をあげる。アメモースを助けるということは、連れて逃げると選択することは、即ちこの場でクロを捨てるという意味と同義だった。
 クロは急かすようにボールをぐっとポニータに近付ける。
「早くいけ。アメモースがこのままじゃ……それだけは絶対にだめだ! あいつらが用があるのは俺だけだ。俺はここに残って食い止めるから!」
 雨の中でも分かるほどに黒い瞳が潤む。首が力無く横に振られて、また細い声。絞り出した声。嫌だ、とでも言いたげな声。切実に胸を切り裂かれているような声。主人に逆らってでも、アメモースを放置することになってでも、ポニータは自己犠牲を厭わないクロを選択しようとした。やがて、ポニータは力の限りに首を横に振った。炎が膨れて激しく揺れる。必死の抵抗だった。ここまでポニータが感情を露わにするのは珍しい。けれど、クロはポニータの懇願に刺々しい苛立ちを募らせる。どうして否定する。どうして理解しない。どうして行ってくれない。こうしている一分一秒だって、惜しいのに!
「行けって言ってるのが聞こえないのか!! 命令だ!!!」
 渾身の叫びは空気を震撼させた。
 正面のすぐ傍、目前で声は爆発して、ポニータは大きく震え上がり硬直する。益々勢いを増す雨脚は、諫めるように降り注ぐ。血走るような深緑の瞳を、ポニータは見た。熱い激情。普段は顔を出さない炎の意志。囂々と燃えて、その中に、一筋の祈りが宿っている。早く行け、行ってくれ、頼むから、お願いだから、早く。深緑を覗き込めば覗き込むほど、ポニータに伝わってくるのは痛ましいほどの必死の懇願だった。雨水に紛れ込む一筋の涙が、ポニータの目からこぼれ落ちた。
 ぱっと周囲を閃光が瞬いた。静かな雨粒の間を置いて、遠くで長い雷鳴が轟き、深い地響きのような音が雨の中を切り裂いていく。
 ポニータはアメモースのボールをゆっくりと甘噛みすると、クロの手元から小さな命がついと離れた。クロはポニータを見上げる。ポニータはまだ涙ぐましい顔をしていた。火馬の真意は完全に掴めなくとも、離れたくないと訴える圧力は刺さるように伝わってくる。
 強ばっていたクロの顔が、一瞬だけほどけた。雨の中、草臥れたような静かでやさしい顔をポニータは見せつけられ、弱々しい炎が大きく揺らめく。
 そこで遂にポニータはクロに俄かに背を向け、助走も無しに跳び上がる。ふわりと軽い動き。フェンスを器用に蹴り上げ、屋上から空へ駆ける。その間、最後に名残惜しげにクロを横目で一瞥し、やがて眼下の景色へ吸い込まれるように落ちていった。
 やや胸の竦むような光景だったが、クロはようやく安堵したように肩を落とす。しかしそれも束の間のこと。
 これで、本当に、一人になってしまった。
 ポニータもいなければ、アメモースもいない。ただ一人取り残された孤独の圧力。顔を上げて、現実を見る。怪我の程度に差はあれど、五匹のザングースに、一匹のユンゲラー。黒の団の人間が二人。手元に火閃は無い。その火閃はクロの手元を離れて力尽きたように刃を筒の中に納め、床に転がっていた。その火閃の傍にゆっくりと歩み寄る黒い存在。枷場が拾い上げ、しげしげと観察する。
「漸く温い芝居は終わったか。待ちくたびれさせんな」
 苛立った声で男は言い放った。火閃を軽々と投げては受け止めてを繰り返し、弄ぶ。
 アメモースの衝撃で忘れていたが、クロの背中に再び血が通い始めたかのように激痛が唸りだした。しかし、虚勢を張るようにクロはその場からゆっくりと立ち上がる。そして、アメモースの羽をもぎ取るよう指示した冷酷な男を純然な敵意をもって睨みつけた。しかし、は鯖はびくともしない。
「頼りないな。さて、お前が白かどうか、だったっけか」
「うっかり殺さないでよ。大事な子なんだから」
「うるさい。そこで黙って見てろ。あと、ザングースはしまっておけよ。制御不能になってこっちに来られたらたまったもんじゃねえ」
 はいはい、とフェリエは肩を竦めて、興奮が収まらぬザングース達を次々にボールへ戻す。五匹分の獣の気配が消えると、雨の存在感がより一層増し、しんとした静けさが代わりに満ちていく。
 火閃を手にしたまま、枷場はクロの方へ向かって歩み寄る。警戒するクロは間合いを保つように後ろへ下がるが、すぐにフェンスにぶつかり、後が無くなってしまう。
 二メートルほどの距離で枷場は止まり、ふうと息を吐いた。そして、持っていた火閃を床に転がすように投げる。からん、と音を立てて、火閃はクロの足下にぶつかり、静止した。行動の意図が読めず、クロは不審げな瞳で相手を窺う。
「火閃だろう、それ」顎で武器をさしながら言う。「使ってみろ。俺はまだお前がそいつを使ってるところを見ていない」
 ぞんざいな口振りの指示だった。
 大人しくなった火閃をクロはじっと見つめる。火閃が手の届く場所まで戻ってきても喜ぶ気にもしめたという気にもなれない。手に取られるのを待っているかのような円筒を一瞥しながら、クロは無言で抵抗する。背後のフェンスの針金が、背中の傷に食い込む。
 まるで動こうとせず、深緑の瞳だけは帽子の下で爛々と光っているクロの姿を見て、枷場は深い溜息をつく。
「聞こえなかったのか。それとも、李国語でわざわざ喋れっていうのか。どうでもいい。早くしろ」
 枷場の神経が逆立っているのが昂ぶる声音から分かる。それでもクロは動かなかった。心臓が速まっていく。背後の針金を強く握りしめる。その指先が痺れたように冷たい。雨のせいだ、と思いこめば、少しだけ楽になる。そうだ、雨のせいなのだ。全ては、雨のせいだ。また、雷の轟音。稲妻は彼等の輪郭を鮮明に照らし、一粒一粒の質量が重くなった雨は容赦が無く、景色も雨の中に霞んで全てが等しく灰の色をしていた。
 数秒待っても現状が変わらないので、枷場はまた一歩踏み寄った。彼の背は高く当然足も長く、その一歩は大きい。
 目の前に来ても、無言の圧力にひりひりと圧倒されても、クロは逃げなかった。体内にけたたましく迸る寒気や危険信号を悉く無視した。自尊心が彼を立たせ続けるのだ。逃げることだけはできなかった。
 お互いに篠突く雨に曝されてしとどに濡れ、どちらも視線を離さない。しかし、明らかな敵意を向けているクロに対し、枷場の身体はどこか弛緩し、至極つまらなさそうな顔をしている。
「お前、さっき自分のポケモンに言ってたな」
 男の静かな軽蔑の視線がクロに突き刺さる。押し殺しきれていない冷たさに一瞬胸の竦む思いがした。
「聞こえないのか、命令だ、って」
 ゆっくりと大袈裟な抑揚をつけた後、男の足が動くのがクロには見えた。右足の、膝。振り上げられる。そのまま、自分に向かって直線方向。咄嗟に防ごうと腕を上げようとしたが、自分の身体ではないかのように途轍もなく身体は重く、容赦なく重い膝の一撃が腹から背中まで響いた。
「おい聞こえてんのか!! 命令だっつってんだろうが!!」
 熾烈に荒らげた怒声が雨の中を殴りクロの筋肉まで痺れさせた。また同じ場所に更に躊躇のなく足蹴が入って、耐えられずクロの口から呻き声が漏れた。苦痛に顔が歪み、フェンスに縫いつけていた指に力がこもった。
「図体だけ一丁前にでかくなりやがったと思えば、態度までとは随分調子に乗ったものだな。なあ?」枷場は足下に転がっていた火閃を踏みつけた。「お前が笹波白だろうと別人だろうと別にどうでもいいが、これも仕事だからな。白なら俺のことを覚えている、或いは忘れてる……別人なら知らない……それだけの話だ」
 呻いてフェンスに寄りかかりながら、クロはひとまず痛みを堪えるので精一杯だった。痛む腹を手で抱えるように押さえていると、青白い顔に骨ばった拳が躊躇なく飛び込んできて、遂にクロは膝を折った。水たまりの中に頭から転がり込んで波のような水飛沫があがったところを、枷場は腕を伸ばしてクロの帽子をゴーグルごと捨て去るように払いのける。露わになったクロの頭を見て、枷場の手はクロの深緑の髪を左手で乱暴に掴み上げ、倒れていたクロを無理矢理に引き上げた。普段隠れている額と瞳が完全に姿を晒けだされれば、冷たい空気と雨に直接触れて恐ろしく寒々しく、その強引な力強さで髪が引きちぎれてしまいそうだった。クロは細い視界で相手を見る。枷場の顔色が少しも変わっておらず平然とした表情であることに気が付き、ぞっと凄まじい寒気が襲いかかった。だが、一方的な攻撃で簡単に折れるほどクロの精神は弱いものではなかった。自尊心と抵抗感はまだ生きていた。
「知らない……」
 殴られた衝撃で滲んだ口内の鉄の味と雨の味を噛みしめながら、クロは声を振り絞った。
「知る……もんか……ッ」
 反抗的態度を剥き出しにした。掠れ声であろうとも、自分を保つように。
 瞳の深緑は、雨の中でも、痛みの中でも、強く輝く。
 しかし、相も変わらず男の顔は変わらない。
「……はーん」
 そして、つまらなさそうに頷く。
「まあそう言うだろうな。誰がなんと言おうと否定する、ね。ああ、成程。だけど、隠せないほど滲んでるぞ、そうでもなさそうな空気。口と目だけは一人前だが、身体が一切抵抗を見せない。そんなに痛むか。それだけではないだろう」
 髪の毛を掴んだまま、フェンスへとクロの頭を叩きつけて軽々とした金属音が揺れる。そのまま押しつけると堅い針金が頭皮にまで食い入った。為すすべもないかのようにクロは顔を歪ませる。
 空いている枷場の右手がコートのような黒い上着をめくりあげて後ろ手に回る。腰から下がっている縦に長いホルダーを外すと黒く細長い棒状の柄が出てきて、そこに巻かれていた革製の紐がだらりと棒から下がり床へ落ちる。彼が手を動かせば蠢く様子は、黒々とした蛇のようだった。クロはその蛇から目を離せなかった。肺が乾く。汗ばんだ手が針金を掴む。ふわりと革紐が浮き上がって、しかし勢いよく男が振り下ろせば、反り上がった紐は目にも止まらぬ速さで水たまりを簡単に壊し張り裂けるような音を立てた。クロの肩が反射的に飛び上がる。制御できる感情とは他の部分で、そこで初めて彼の表情に怯えが点った。
「――雷駈」
 間近でクロの様子を観察してから枷場は呟く。雷駈という言葉に反応した黒い鞭に白い閃光が走る。静電気よりもより明確な、稲妻。その電撃のエネルギーで紐は震え、また床に叩きつけられれば電気性の火花が迸る。反射的にしゃくりあげるようなクロの声が漏れると、隠すように唇を紡いだ。
 瞳孔が開いた深緑の双眸を暗闇が捉える。は、と枷場は薄い嘲笑を浮かべ、クロの濡れた髪を握る手に更に力を加えた。
「忘れさせるほど温い教育はした覚えがないな。折角わざわざ来てやったんだ。骨の髄まで思い出させてやる」












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