Page 88 : 地下





 それぞれが黒の団と対峙している傍ら、圭はエアームドに乗りバジルを追っていた。ピジョットは逞しい翼で強まりつつある雨中を翔るが、決してエアームドを突き放すようなスピードではない。圭はもっとピジョットに近付くように指示すると、エアームドは従順に加速した。ピジョットの隣までやってくると、顔に襲いかかってくる雨と風圧に耐えながら圭は声を張り上げる。
「おい! どこに連れて行くつもりだ!」
 バジルはちらと圭を見やり、しかし無視して更に速度を上げさせた。挑発されているような感覚だった。この野郎、と思ったのはエアームドも同じか、ピジョットに遅れをとらないよう羽ばたく。
 威嚇も兼ねて五月雨を抜くことも考えたが、慣れない不安定な空中では思うように動ける自信を持てなかった。エアームドは鋼に覆われた身体をしているために、雨水で滑りやすくなっている。これだけの雨風、煽られながらがむしゃらに刀を振ったところでバジルには掠りもしないだろう。ただ、雨自体は、決して圭にとって不利な状況ではない。水を操る彼としてはむしろ好条件なくらいだ。それに、バジルの力は空中ではうまく発揮できないことも、圭は知っている。
 知っているのだ。
 リコリスでクロと再会した際に表情を柔らげた時のように、バジルに出会った時にも戸惑いと同時に無意識に懐かしさを抱いていた。口に出して言うつもりは毛頭無いが、言語による疎通が可能な今、話をしたい気持ちも無いわけではないのが、正直なところだった。
 彼らはセントラルの端が見える位置までやってきた。首都は、中心部を円形に囲むような深い川でセントラルと郊外を大きく分断している。川は周囲を白いコンクリートで固められており、架けられている橋の遙か下まで掘り進められている。どんなに大雨が降ろうとも、地上まで溢れることはまず決して無いと断言できる。
 ピジョットは徐々に高度を下げていったが、川の傍まできたところでその傾斜を急なものにした。地下、つまり川を囲む白いコンクリートの壁沿いに滑るように高度を一気に下げていく。臆することなくエアームドは後を追う。前のめりに落ちることのないよう圭はエアームドにしがみ付き、息を呑んでバジルの背を見つめた。一体バジルはどこに連れて行くつもりなのか皆目検討もつかぬままである。
 雨の日はやはり水流が激しく、近付くにつれて轟々と流れる音が鼓膜を引っかく。殆ど川の水面まで来ると、川の一部も流れ込んでいる壁の横穴が見えてくる。四角く切り取られた巨大な穴はピジョットやエアームドが飛行しているままでも通り抜けられるような大きさだった。当然だが、簡単に人の出入りできるような場所ではない。しかし、ピジョットは躊躇することなくその穴へと飛び込む。多少たじろぎながらも、行こう、と圭は声をかけた。頷いたエアームドも暗闇へと身を投じる。
 外から見ると真っ黒く口を開けているようだったが、中はぽつりぽつりと白い明かりが規則正しい間隔で壁に設置されていた。濁流のような水の音はあっという間に背後へ遠ざかっていく。穴の中を流れる水は外に比べれば幅が狭いせいか穏やかで、奥に進むほど顕著になっていった。雨もなければ、自然による横殴りの風もない。静かな廊下だった。ささやかな水の音と鳥ポケモン達の羽ばたきが不安定に反響する中、やがて大きな空間へと出た。道の中央を流れていた水流は巨大な部屋に入ったと同時に左右に分かれ、部屋を囲うように走っていく。
 壁には今までの道と似た白電灯がともっているが、それで照らしきれないほど天井が高いことが、音の感覚でわかる。先程は音がちらばってはすぐ跳ね返るような騒がしさだったが、今は音がまるで吸い込まれていくかのようだった。あの真っ暗なおぞましさすら感じさせるような見えない天井に吸収されて、戻ってこない。部屋には部屋を支えている巨大な円柱がいくつも設けられており、そこにも明かりが設置されている。途方も無く天井までが高い部屋だが、奥行きも深いものだった。どれだけ目を凝らしても、点々と照明が黒の中に佇んでいるばかりで、まるでその端が見える気配はない。首都の地下にこのような空間があったとは露も知らなかった圭は、悪寒に包まれたような静かで圧倒的な空気感に狼狽える。
 ピジョットは減速し、遂に猛勇な鉤爪が地を捉えた。羽ばたきが止んで、バジルの地面に降り立った音がした。エアームドも倣うようにゆったりと止まり、圭は鋼の背中から降りる。足元で薄い水の音が跳ねた。水流は遠くなっても、水気は満ちていた。
 全身が雨でずぶ濡れになっているため、圭はその水を少しでも払うように頭を振って、腕で顔を擦る。それから、仄かな灯りの下、正面に立ちじっと圭を窺っているバジルを見た。彼はボールを取り出す。続いて彼の手元から赤い光が伸びた。ピジョットを包み込んで、水の滴る鳥獣は光の中へとその姿を消す。バジルの周囲が急に侘しくなる。出会い頭に見せた痛烈な殺気は潜んでいた。バジルの雰囲気はどこか弛緩していて、まるで敵ではないような隙だらけの懐だと圭は思った。それでも、圭もエアームドにボールも向ける。赤い光が薄暗闇の中で瞬いて、エアームドは呆気なくボールへと戻っていった。
 静寂の中にぽつりと佇む。
 二人きりで立って、急に圭はどうしたらいいのかわからなくなった。込み上げる懐かしさをぐっと堪える。煌めいた思い出など無い。それに、バジルは黒の団で、圭の敵だった。そしてバジルがなんのためにここに連れてきたのかも、圭には検討がついていた。
「……久しぶりだな」
 言葉が分かる。何を言っているのかが解る。記憶の彼よりも声音が低くなっている。
 先にそう言われてしまって、圭は頷くしかなかった。
「元気そうだ」
「……まあな」
「それは良かったな」
「皮肉のつもりかよ」
「別に」
 バジルの顔は仮面でも付けたように無表情のままで、素っ気ない言動だけれど、多分、バジルの胸にも積もる話があるだろうことがなんとなく圭には嗅ぎ取れた。元々多くを語らない淡々とした人物だ。記憶の中の彼の人格が、そのまま変わらず成長して今に至っているのならば。
「……ずっと、聞きたいことがあった」
 声が暗闇に吸い込まれる。見えない天井の中へと消えれば、しなやかな沈黙が流れていく。
「どうして黒の団を出て行ったのか」
 途端、圭の丸い瞳がすっと細くなる。
 単刀直入に聞いてくる。仏頂面とは裏腹に、性急な心持ちなのかもしれない。オレンジの瞳を縁取る睫毛が下を向く。雨水を吸い込んで、刀の形に浮き出た上着に触れ、布越しに五月雨の鞘を、柄を、確かめた。
「笹波白にどう唆された」
「関係ない」
 即座に切り捨てた。
「理由なんてなんだっていいだろ」圭は素っ気なく答える。「そっちからしてみれば、どうであろうと裏切り者であることに変わりない。お前だって、今俺をここに連れてきたのは、人目につかない場所で俺を殺すため、だろ」
「……」
「全部覚悟していた」
 言いながら、圭は自分の身を固めているかのような思いだった。覚悟とは、自分で使いながら聞こえの良い言葉だった。脳が、神経が、耳が、指先が、冴えていく。カンナギ襲撃時のような衝動に肉体が突き動かされるばかりの暴力的感覚とは色の異なる、しんと痺れのような緊張感に圧迫されていく。
 バジルはひりひりとした圭の威嚇に、目を伏せ、右手を自身の胸の前へと突き出した。袖が引かれて、その腕につけられた黒い腕輪が顔を出す。
「俺はお前達が憎いよ」
「はっ」
 圭は鼻で嘲笑した。こんな笑い方、いつからしていなかっただろう。
「それでいいじゃん。余計な言葉は要らない」
 冷めた声。涸れた亀裂。
 一切の震えはなかった。圭は腰元に手を当て、姿勢を低くする。
「五月雨!」
「創樹」
 刀を抜くのと同時に圭が叫ぶと、刀身に淡い光が走る。襲いかかる鋭い枝を真正面から捉えると、まとめて切り落とした。矛先を失った枝は勢いも殺され、その横を走り抜けるように圭は間合いを詰めた。足下は水が敷かれており、一つ蹴るたびに水音が響く。しかし、バジルに近付こうと一歩先をいくたびに不思議と、地が、柔らかい。元はコンクリートで固められたはずの場所が、短い叢で覆われているのに気付く。
 初動を遮られたバジルだが、動じない。地に手をついて、音や掌に伝わる感覚から、右手から圭の位置を、速度を、そしてその周囲の草花を把握する。足下に広がる即席の草原に警戒したのか、圭が助走をつけて跳んだのが、バジルには手をとるようにわかった。バジルは顔をあげる。余計なものを削ぎ落とした、燃え滾る朱い両眼。両手に持って振り上げられた五月雨の、ぎらりと睨むような刀身の光が空中をまっすぐに輝き、バジルに向けて躊躇も無く力の限り振り下ろされた。だが、動きがあまりに大振りだった。バジルは横へ避け、右手の人差し指を持ち上げた。圭の足下から細い蔓草が束のように茂り、小柄な圭にせり上がって、バジルの右手が握られた途端、身体に絡まり付こうとする。ざわりといくつも這ってくる草はしかし弱々しい類のもので、抵抗するように、圭は五月雨を足下に突き立てる。
「水柱!」
 圭の周囲、ごく僅かの至近距離に細い水の柱が勢いよく突き上がった。土砂降りに当てられたかのように草は萎れて、圭から離れて水没していく。水が解かれたと同時に初動と同様の硬い枝が今度は真上から突き刺さらんとするばかりに走ってくる。視界が悪く、どこに何の植物が潜んでいるのか、把握しきれない。後方へ跳ぶように回避すると、横に視線を伸ばす。気配。バジルの身体は既に接近しており、防ぐ前に横腹に打撃が入った。靴の素材は硬く痛みは骨にまで響くようだった。圭の身体は床に転がり、しかし五月雨を握る手は緩めない。じんとした痛みに僅かに表情を歪めている端から、叢はくすぐるように茎を伸ばし圭に忍び寄る。得体もしれない植物だ。なんの毒が仕込まれているかもわからない。圭は起きあがって飛び退くと、その先の地面も柔らかく、周到な準備に舌を巻きそうになる。
 と、頭がぐらり、或いはふらり、と浮かんだような感覚が降りかかる。
 痺れ粉の類だとすぐにわかった。微量だが、この敷き詰められた叢の何かが花粉のように周囲にまき散らして、空気に忍び肺に入り、身を硬直させる。だがまだ十分に身体は動く感覚があった。鼻の奥に力をいれて喉を締め圭は目の前を見据える。バジルは右手を翳し、様子を窺っている。
 圭は刃先を後方へと向けて、そのまま引きずるように走り出した。切っ先が叢に当たり、走り際に柔らかさを裂いていく。右足に絡みつこうとするように茎が伸びても、圭は即座に振り解くように力強く走るので、バジルは目を見開いた。咄嗟の判断でバジルは腰に下げていたホルダーを開いて刃の太いナイフを取り出すと、下から突き上げてくるような五月雨に応戦した。
 金属と金属がぶつかりあう音が異様なまでに地下フィルターに響きわたり、余韻は遙か遠くまで引き延ばされる。二つのぶつかった衝撃は二人の身体を痺れさせる。両者引かなかった。長い刀身を持つ五月雨は持ち上げるには当然重く、うまく受け止めさえすれば上から押し込むようなバジルのナイフでも止められた。急接近した二人は互いに睨みつけあう。バジルはナイフを五月雨に滑らせて、圭が前のめりになる。流させた五月雨に当たらないようバジルは身体を捩り、そのまま切っ先を相手の顔に向けた。体勢を崩された圭はしかし頭を振ってその道を避け、寸で、顔の隣を刃が切り裂いていく。背中、互いに振り返ったところで、バジルの右手が自身に誘うかのように内側に動いたのを見て、圭は背後に勢いよく迫る枝の存在に気がついた。同時に五月雨を後ろに振るうと削る確かな感触が伝わってきた。そのまま、回転するように五月雨を前へ、バジルの腹を横に一閃する動き。バジルはまたナイフで受け止めて、二度目の金属音がこだました。
 四方八方に意識を集中させていなければ、どこかしらから抉られてしまいそうだった。光が不十分であり人工的な弱々しい植物群ではバジルの力は完全には発揮されないが、それでも、この一つの方向に囚われないあらゆる方向から多発的に攻撃を仕掛けてくるのが、彼の戦い方だった。しかし、これだけの広範囲、これだけの量の植物を掌握している事実に圭は顔を歪める。
 連続的に仕掛けるか。しかし、完全に動きを封じられるほどでなくても、筋肉を硬直させようとする地味な痺れがじわじわと圭の身体を疼いている。刃の長さでいえばリーチは圧倒的に自分が長く、至近距離での戦闘なら、と踏んでいた圭もバジルのナイフを突き返すことができず、むしろ押されていた。
 圭の額に脂汗が滲む。
 その時だった。バジルは後ろに気配を感じて、その場を咄嗟に離れた。圭から間合いをとり、しかし視線は圭から外れて、まだ距離のある地下フィルターの朧気な光に目を向ける。
 ほとんど闇の中で、光に照らされて姿を現したのは、女性だった。いや、その背後にもう一人いる。バジルとほぼ同程度の年齢とみられ、大きな団子をつくった髪型に、ボーダーのタンクトップの上に黒い袖の短いシャツを羽織り、ホットパンツの下からは異常なまでに長い羚羊のような足が伸びている。圭もバジルも思わぬ人間の登場に目を丸くした。
「ココ・ロンド」
 先にその名を呼んだのは、バジルの方であった。圭は驚きに言葉を失ったまま、彼女、ココを見つめる。
 ココは溜息混じりに、圭やバジルを含めて周囲を見回し、今の状況を確認した。
「随分やってくれてるじゃない。こんな地味なところで。何かをしようとしているとは、種を見つけた時から思っていたけど」
「……いつここに気付いた」
「あんた達が気付かないうちに。急に音がしたからもしかしてと思ったけど……また懐かしい奴まで」
 薄暗闇の中でも際立つような、明るい茶色の瞳が圭を射抜く。
 圭にとってもあまりにも想定外であり信じられない心持ちだったが、これ以上の助太刀は考えられなった。五月雨を構え直し、ココと挟み込むようにバジルを睨みつける。
「調べてみようとする前にくるとは思わなかったけど。で、どうする。三対一、数ではそっちが不利だ」
「……」
「無駄な怪我は、お互い作りたくないでしょ」
 静かなバジルに呼応するように、鬱蒼とし生長を続けていた叢の茎が、一斉に萎えつつあった。
「君からも言ってやりな」
 ココは隠れるように彼女の後ろに控えている存在に声をかける。陰に潜んでいたかのような黒い髪が輪郭を露わにし、それとは裏腹の金色の獣の瞳が瞬いた。
 バジルがその顔――ブレットの顔を確認すると、表情に明らかな動揺を色を見せた。
 獣の双眸は下を向いて、後ろめたさを引きずっているかのような雰囲気だった。嘗てバハロ近辺で発作に倒れたクロを助けようとしたブレットは、後を追ってきたバジルと戦い、そして敗れた。そういえば、あの日も夕立のような凄まじい雨が降っていた。当時の一挙手一投足が鮮明に思い出せるほどその記憶はまだ新しいが、互いに随分と遠い記憶のようでもあった。
「ペンダントだけ残っていたのは引っかかっていたが、本当に生きていたとはな」
「……僕も、まさか、もう一度会えるとは思ってませんでした」
 ブレットは怯えているような震える声を出して、勇気を出して顔を上げる。
「バジルさん、この場は……これで収めてください。あなたと無闇に戦いたくないです」
 切実な懇願だった。刃物のような沈黙が誰もの胸をすり減らす。
 バジルは右手にはめたブレスレットに視線を落とし、その疼くような淡い淡い濃緑の光を一瞥した。
「……決して逃げるな」ぼそりとバジルが呟く。「そうだろう」
 バジルを除いた誰もが身体を堅くした。圭は改めて五月雨をバジルに向け、ココはいつでも走り出せるよう一歩踏み出して、ブレットはまだ割り切れない表情を浮かべながら体勢を低くとる。
 対してバジルは薄く嘲笑し、右手に持っていたナイフを元のホルダーに収め、ポケットに入れていたボールを取り出した。「創樹」呟いてから、暗い空洞に白い閃光が弾け、彼のポケモン、ピジョットが再び顔を出す。
 彼等の足下にびっしりと敷き詰められた叢が、瞬く間に死んだように枯れていく。そもそもこのような人工的な閉塞空間は、バジルが用意したものの、彼にとって最良の環境とは言い難かった。光が届かず養分も足りなければ伸びる草木も細く弱々しい。相手が三人、それも誰もが近距離戦を得意とする面子だった。状況が最悪など、バジルにとっては火を見るよりも明らかであった。
 軽やかにピジョットに乗ると、最後に圭と視線をぶつけ合う。
「甘かったのは俺の方だった」
 冷たい顔つきだった。熱気を帯びた圭に断罪のような氷の刃を突き立てる。
「次は容赦しない」
 痛々しい火花が散り、ピジョットの翼が広がる。風が巻き起こり、水を含みしなっていた圭の上着もぶわりと大きくはためいた。
 羽ばたく音が遠のいていく。エアームドを出してその背中を追おうなどと圭は考えなかった。研ぎ澄まされていた闘争心は既に萎えていた。疲労感が後から全身に圧し掛かってくる。異様な感覚だった。確かに懐旧の情を抱いていたのに、後から考えれば圭自身も不思議に思うほど迷いなく刃を向けていた。
 羽音が彼方に吸い込まれて完全に聞こえなくなるまで、誰も動かなかった。
「……圭、久々」
「おう」
 煮え切らないような空気の最中、思い出したように二人は会話を交わす。圭は五月雨を鞘に収め、肩の力を抜く。尖りきった雰囲気でバジルを圧倒しようとしていたココは、ふっと脱力したかのように笑った。
「あんた、いつのまにアーレイス語身に着けたの? やるねえ。というか、真弥がセントラルにいるのは噂で知っていたけど、圭までいるなんて思わなかった」
「俺も来たのはつい最近だよ。クロもいる」
「クロ? ……そう」
 ココは隣にいるブレットに一瞥をくれる。ブレットは唇を引き締めてその言葉を聞いていた。
「……そいつ、誰だっけ」
 つられるようにブレットを見ながら、圭は眉間に皺を寄せる。会話の様子を見るにバジルとも関係が深いようだったが、圭はその存在を思い出せないでいた。萎縮したブレットの肩を、ココは守るように力強く叩く。
「ブレットよ。ブレット・クラーク。まあ、覚えてないのも無理ないかもしれないけどさ。元、出来損ないの」
「今も出来損ないですよ」
 縮こまっているブレットはそっと苦笑した。
「……ああ。なんか、いたような気もするようなしないような」
「あ、その言い方、全然思い出せてないでしょ」
「ま、そのうち思い出せるだろ。……でも、大丈夫なのかよそいつ」
「何が?」
「どっちにしろ黒の団だったんだろ。けど、俺はよく覚えてないってことはその後に団を出た奴……そんな近くに置いて、裏切ったらどうするんだって話」
 戦闘の熱を引きずっていて、圭の神経は未だ尖っていた。ブレットに向ける視線は疑念と敵意を籠めている。一瞬だけココは不思議そうな顔をしてから、そんな圭を吹き飛ばすように豪快に笑い始めた。地下フィルターに明るさが差し込む。
「平気よ。この子、あのバジルに立ち向かったからね。黒の団の裏切り者、ね」
「……ふーん」
 圭は疑いを拭わない。真正面から痛い視線を受けるブレットは身体を硬直させるのみだった。
 しかし、この場でブレットをとやかく言っている場合ではない。圭は肩を落とす。こうしている間にも、見えない所で刻々と状況は移り変わっているはずだった。
「まあそれは後でいいや。それより他を探しにいかなきゃ……真弥さんが見つけられたのかわからないし」
 圭は鞄からポケギアを取り出す。ぎこちない手つきで通話を選択しても、まるで反応しない。電波が届いておらず、ここがセントラルであるにも関わらず地下の閉塞空間だということを、遅れて思い出す。
「なに、はぐれたってわけ」
「つうかバラバラにされたんだ。……今回の目的は俺じゃなかったんだろうな。俺じゃなくて、他だ。いくら数でこっちが有利でも、あの様子じゃ本来バジルが逃げるはずがないだろ。バジルはただの時間稼ぎだった。クロはそんなに心配しなくても大丈夫か……いや、わからないな。あいつ、黒の団に誘われてるって前言ってたし」
「は? まさか」
「本気らしい。団にとっては今でも特別なんだろうな……とにかく、真弥さんに連絡とってみる。ここじゃ電波が届かないみたいだから、俺は外に出るよ」
「あ、待ってよ」
 その前に、とココは左手に腕時計のように巻き付けていたポケギアを差し出した。
「ポケギア持ってんなら、連絡先。交換しておいた方が、何かと後で便利でしょ」
「ああ……そうだな」
 改めて連絡先を登録する。ココのポケギアは圭よりも真新しく傷が少ない。型は同じだが深い赤色をしていた。小さな機械にまた一つ繋がりができて、それも相手は嘗て今後会うことはないだろうと踏んでいた人間で、こうして唐突とはいえ再び繋がったことに、二人とも不思議な気分で画面を見つめる。
「北区にある真弥さんの家にいる。ただ今日はこんな状態だ、どうなることかわからないけど……落ち着いたらまた連絡する」
「了解」
 圭は息をついて再度心を引き締める。が、思い出したように顔を上げると、ココの腕を掴み、女性にしては随分背の高いココの身体が前のめりになったところを、身体を伸ばし、耳元に口を寄せる。
「考えておいてほしいんだ」圭は囁く。「黒の団を倒したい。……協力してくれないか」
 ココが目を見開き言葉を失っている間に、圭は手を離し、その身を翻す。枯れた叢を走り抜け、その途中でエアームドを出すと、地下フィルターの狭い出入り口の光へと向かっていった。


 地下フィルターの外は相変わらず雨が降り続けていた。それも、地下に入った時よりもずっと勢いは増しており、バケツがひっくり返ったかのような土砂降りだった。その気配は、長い通路を進むうちに大きくなっていく雨音から容易に感じ取れた。川に通ずる出入り口を抜けると、その水嵩が増しており、濁流となって波まで立てている荒々しい川の様子に圭は圧倒された。まるで狂った獣だと思った。激しい水音の塊の中に、雄叫びのような雷の音まで飛び込んでくる。
 ポケギアの画面に視線を移すと、電波の強さを示すアンテナが三本表示されていた。真弥に連絡をとろうと選択をしている間に、先に真弥から通話が飛び込んできて、慌てて選択する。
「真弥さん! 今どこ!?」
『お、圭の方は無事だったか。こっちは東区だ』
 昨晩まで散々聴いてきた声なのに、何故だか随分と懐かしかった。
「そっか……バジルはとりあえずなんとかなった。そっちの状況は?」
『流石。ラーナーは回収した。黒の団に捕まってたけどね、無事だよ。けど、かなり憔悴してる。エーフィとブラッキーも今は使えないから、あまり動けない。クロは屋外だ。東区と南東区の間にある、高層ビルにいる』
 ラーナーの無事に胸を撫で下ろしたした直後、真弥の発言に耳を疑った。
「なんでそんなことわかるんだよ」
『ノエルは非常に優秀な人材だ、とだけ言っておくよ。まあそれはいいとして、加勢にいってやった方がいい。通話が変に切れたんだけど、その音がな……あいつのポケギア、多分破壊されたね』
 圭は息を止める。同時に、別れる直前に不敵に笑う女の顔が蘇る。周到に用意されていた作戦。あまりにも円滑に分断させられた流れ。恐らく時間稼ぎだったバジル。嫌な予感がした。
『俺も行けそうなら向かうけど、期待はするな』
「……了解。探しに行く」
 真弥のアパートで落ち合うことを約束した後、通話を切り、エアームドに場所を指示した。
 痛いほどの量の雨が降り頻る。逸る感情を抑えて、泥沼のような予感がただの杞憂であることを、今は祈る他なかった。












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