Page 89 : 崩壊





 あまりにも、一方的だった。
 冷酷に静かな屋上。鞭の音が三度続けざまに劈いた。背中を狙った攻撃だった。ザングースの爪に抉られた場所だ。生々しく裂けた肉と赤黒い火傷が露出したそこに直接打たれれば、鋭さに少年の身体は戦慄き腰が落ちた。続けざまに倒れぬようにと肘を立てている腕に巻きつければ、皮紐を伝って電撃が全身に一瞬で迸った。押し殺しきれない悲鳴が飛び出し、辛うじて四つん這いで堪えていた身体が崩れ落ちる、その間際、滑り込むように枷場の足が腹の下に潜りこんで、蹴り上げた。身体が転がる。詰まった喉から血混じりの胃酸が溢れた。彼等の軌跡を物語るように、雨で流れきれていない傷跡のような吐瀉物が点々と床に張り付いている。邪魔だと早々に脱ぎ捨てられた血塗れの上着や靴や無残に壊れた黒いポケギアが屋上の中心に転がって、火も刃も収まった火閃は只の鉄の円筒として端で雨に打たれて、そこから少し離れたところに帽子とゴーグルがひっくり返っていた。
 枷場は横向きに止まった様子を涼しい表情で見つめていた。
 静止したクロは奥に水が入った耳で雨音を聴いていた。
 身体の感覚が悴んだように死んでいる。ただ、痛みだけ。手始めに身動きの取れぬよう足を重点的に攻撃されたのはおぼろげに記憶にある。脛から脹脛まで鞭打たれ電撃が走った。足の爪が割れそれから指の骨が折れ、その後はよく覚えていなかった。稲妻のような鋭い痛みも、滲んでいるような淡い痛みも、多分、全身でもう痛くない場所なんてないのだろうと思うくらい、隅から隅に至るまで疼いていた。それと、熱。痛むところは漏れなく熱気が膨れ上がり、血液の代わりにマグマが流れているようだった。しかし、灼熱のような熱を帯びているのにとても寒かった。代謝が狂ったように全身汗が噴き出していたが、雨が容赦なく叩きつけて流していき、熱を閉じこめるように彼の身体を凍らせていく。か細い息が痺れた気道を行き来する。口の中には雨の味と鉄の味と酸の味。区別が付かずに混ざり合い、気持ちが悪い。どこかの歯が折れて欠片が頬粘膜に突き刺さっていて、そこに自らの胃酸が触れると容赦なく滲みた。霞む視界で、血の滲んだ服の破れた部分や裾の隙間で火傷の皮膚が露呈しているのがなんとなくわかった。鞭はいとも簡単に布を破り肌を裂いた。醜い身体。ケロイドで埋め尽くされた身体。誰にも見せないように必死に守ってきた身体。健気だが、雨中に晒された今、何もかも無意味だった。指一本も動かす気にはならなかった。破壊された思考で床に耳を当てていたら、足音が近づいてくるのが地響きのように伝わってくる。
 ああ、また。もう、やめてくれ。
 震えた、次の瞬間には鳩尾に一際大きな打撃が入る。そのままクロは低く跳ねるように床を転がりフェンスにぶち当たった。がしゃん、とか、どしゃ、とか、べちゃ、とか、あまりにも頼りない音がした。
 ぼろ雑巾のように雨水を全身に含み草臥れているクロに枷場が近づく。大きく逞しい手がクロの片腕に伸びて、力ずくで彼を引っ張り上げた。乱暴な素振りだったが、横倒しになっていたクロの上半身がフェンスにもたれる体勢になる。手を離す。直後、クロの腕は重力に従って床に落ちる。手に衝撃と水たまりの弾ける音。人間の形をした傷だらけの人形のようだった。
「顔を上げろ」
 ぽつりと低い声がクロの耳に辛うじて届き、思考が停止したまま顎が僅かに上向いたが、首に激痛が走ってすぐに止まってしまう。すかさず頬が鞭打たれ、その勢いのまま再び倒れ込んだ。頭まで落ちる、鈍い音だった。
「起きろ」
 混濁する意識の中――いっそこのまま意識が吹き飛べばどれだけ喜ばしいか――何故か相手の声だけはっきりと聞こえる。けれど、身体は動かないのだ。雷駈がよく効いているのか痺れていて、激痛が浸食していて、筋肉が反応しない。そのまましばらく静止していると、枷場は投げ出されたクロの右手に右足を乗せて、そのまま捻り潰すように体重をかけた。堅い靴底が皮膚を削り、一瞬でないじりじりとした強い負荷に指が悲鳴をあげて、思わずクロの口から弱々しい声が漏れた。彼の声ではないかのようだった。
「意識はまだあるじゃねえか。さっさと起きろドブコラッタ!」
 踏みつけていた右手ごと顔まで蹴りつけた。視界が銀色に光った。とてつもない衝撃が目の奥まで届いた。鼻の骨が折れて潰れる。両穴から鼻血がぼたぼた零れ落ちて流れていく。額に開いた傷口から出た血とやがて混ざり雨とも混ざり冷たさと熱さが顔の上で殴りあっているようだった。
 何も考えていられなかった。彼を立たせていた自尊心はとうに殺されて、悔しさも感じず、ただこれ以上の暴力が怖く、そう、どうしようもなく怖く、その静かな恐怖感が糸となって彼を突き動かして、クロは筋肉を動かす、たったそれだけの行為に集中する。新鮮な痛みで使い物にならない右手は放って、左手を軸にしてフェンスに寄りかかるように元のように起きあがった。顔面が狂うように痛んで、遅れて痺れ始める。どうしてまだ目が覚めているのだろう、とふと考えた時、クロは自らの頑丈すぎる身体を呪う。
 不機嫌な顔をしている枷場は、一度だけ納得したように頷く。
「顔を上げろ」
 順序を守るように、階段を一段ずつ上がっていくように、彼は一つ一つはっきりと命令していく。そのたび、クロの何かが剥がれていく。
 首の激痛を堪えて、クロは降りしきる雨に向かって、正面に立つ枷場に向かって、忠実に顔を上げた。流れ落ちる血と汗と雨水で髪の毛は顔に張り付き、草臥れた服はこれ以上水分を吸えないほどにたっぷりとしていて、確かに路地裏で泥にまみれたコラッタと同様に汚く、皮肉なことにちらほらと見える火傷がクロ自身よりもずっとはっきりと鮮明に存在感を示していた。端正だった顔は原型を留めておらず、鼻の形は潰れ、瞼は瞳に覆いかぶさらんとばかりに膨れ、どこもかしこも痣まみれでひどいものだ。頬につけられた鞭による赤い線は腫れあがっている。死んだような瞳にうずくまっているのは黒々と深い色ばかりで、確かに存在していた彼の意志は完全に消え失せていた。
 不思議なことに、涙はまったく出てこなかった。
「きたねえ顔」
 枷場ははっきりと吐き捨てた。心底から歪めたような顔をしている。コラッタとして見ているならまだいい、転がっている虫の死骸でも見ているような目つきだった。
「団の規則を覚えているな」
 遠い雨の音。誰もいない。一人ぼっち。
「言え」
 瞬くクロの目。瞼も切れていて、瞬きだけでも痛みがちらつく。切り傷で膨れ上がり真っ赤になった唇が動こうとするが、まともな声の出し方を忘れたように喉は枯れていて息しか出てこない。その息すら、唇の薄い皮膚を撫でると、ひりひりとした痛みが走った。
 枷場は鋭く舌打ちした。
「言え」
 二度目。同じ指示。苛立ちを含めた指示。恐らく、次は無い。
 深海に陽光は届かないように、深緑の双眸に光は差さない。
 服従。抵抗。
 どちらを選んでも、苦しむだけ。
「……ゆる、されぬ」
 ひとつひとつ。
「決して」
 こぼれおちていく。
「倒れるな」
 たとえば彼の守ってきたもの。
「決して」
 たとえば彼の築いてきたもの。
「滅びるな」
 たとえば彼の創ってきたもの。
「決して……」
 崩れて、荒野に吹き荒ぶ風に流れていく砂のように、静かに消えていく。
 もう、戻れない。もう、何も残っていない。
「……」
 少しだけ躊躇した。ほんの僅か。割れた爪で床を僅かに掻く。抵抗でもなんでもなかった。ただ、自分の弱さを恨むだけだった。
「……逃げるな……」
 絞り出すように言い切って、しばらく黙り込む。やがて、何の反応も無いことを不思議に思ったのか、請うようにクロは枷場の顔を見上げた。
 腕を組んで、枷場は満足そうにまた深く頷いている。そして、フェンスの傍で傘を差し傍観しているフェリエの方を振り向いた。
「ドンピシャ。笹波白で正解だ」
 嘲るような結論。
 違う、とも、そうだ、とも、クロは思わなかった。何も考えられなくて、自分の手には何も残っていないこと、たったそれだけが真実だった。あろう事か、自分から捨ててしまった事実が重く圧し掛かる。
「よく言った」
 弱々しい視界にほんの少しだけ表情が柔らかくなった男の顔が映る。許された、と思った。漸く許してもらえた。ならば、これ以上の痛みを味わうことなく済む。心の底から安堵して、風船から空気が抜けていくように、気力がまた身体中の穴から噴き出していくようだった。だから、何故余計な一言が直後に零れたのか、彼自身も理解できなかった。
 クソヤロウ、と、クロは呟いていた。無意識の発言である。脳を通らずにそのまま口にしたような感覚だった。強い雨脚の中、ひっそりと隠すように叩いた言葉を、しかし枷場の地獄耳は拾っていた。
 次瞬、顎が蹴られ胸が蹴られ前かがみにえずいた背中に踵が勢いよく落ちた。何度も。真っ赤に重なる衝撃でクロは倒れ込んだ。枷場は一度雷駈をしまい、クロの肩を掴んで仰向けにさせると、上乗りになって、躊躇なく顔を殴りつけた。筋張った拳に血が付く。熱。激痛。何度も。幾度も。
 気付けば、首に右手がかけられていた。握りしめられる。気道が狭くなる。首は死の象徴だった。だから彼はそれを選んだのだろう。点滅する靄がかった視界に、枷場の顔が映った。暗い。影の中。無表情。真っ黒な両眼。零度の冷たさ。見せしめか、本当に殺されようとしているのか、そんなことは興味が無かった。
 目の前にある何もかもがどうでもよかった。雨が降り頻る中、指の先が悴んでいて、とても寒い。身体の至る所が軋んで悲鳴をあげていたのが、まるで死んだように静かになっていく。ただ、首だけは、締め付けられている首だけは、妙な現実感を抱いている。
 このまま殺されるのかな。それだっていい。這い蹲るように生きていたって傷つくだけ。歩き続ける先にあるのは痛みだけ。自由なんてどこにもなかった。幸せなんてどこにもなかった。結局のところ枷は繋がれたままだったのに、所詮たった子供一人如き、それも自分のような中途半端な存在が欲深くなって、そんなものを手に入れられるといつから夢見ていた。全て幻想だ。まぼろしだ。愚かに信じて手を伸ばしたところで在るのは深い絶望だけだ。ああ、わかっていたのに。何を今更。本当はとっくに諦めていたくせに。こんなところで、こんな世界で、求めるものなどどこにもありはしない。
 何を期待していたのだろう。
 どうして逃れられると信じていたのだろう。
 どうして打開できると勘違いしたのだろう。
 どうして変われると願ったのだろう。
 どうでもいい。
 何もかも。
 ――全て燃えてしまえばいい。
 クロは自身の首を絞めるその鋼のような腕にそっと指を添えた。何の力も無く、軽く触れるような動作だった。能動的な行動に枷場は眉を潜めたが、クロの表情に相変わらず意志は欠片も感じられず、虚空を見ているような深い緑には何の感情も掴み取れない。最後の無意識的な足掻き、取るに足らない抵抗だと枷場が判断した、その瞬間だった。
「火閃」
 掠れた声で、呟いた。
 直後、クロの掌から突然炎が広がって、枷場の腕が火炎に包まれた。
「なっ……」
 驚いた枷場は反射的にクロを突き放し、素早く雨水で満たされた床に自らの腕を叩きつけた。初めこそ勢いがあったが、この雨に加えて枷場自身も随分と濡れているため、炎は呆気なく消えていく。しかし、黒い服からは焦げた臭いが立ち上り、皮膚はひりひりと痺れ、軽く焦げた袖を捲ってみれば案の定赤い火傷が広がっている。
 結果として大きな怪我には至らなかったが、暫し枷場は自らの腕を見つめ、唾を吐いて笑った。
「こいつ、本気で俺を焼こうとしやがった……とんだ化け物だな……!」
 枷場が振り向くと、フェリエは興味深げに顎に指を当てて、事切れたように倒れているクロを見つめていた。
「……イメージと呼称が」目を細めながら呟く。「興味深いけど、少々厄介ね。強制的に黙らせて。制御なら後でどうとでもなるでしょう」
「初めからそうすれば良かっただろうが」
「順序は意外と大切なんだってあの人は煩いの。十分布石は打った」
 枷場が面倒くさげに左手で頭を掻いていたが、聞き覚えの無い音を拾い、空を仰いだ。
 灰色の空に浮かび上がるようなオレンジが迫ってくる。雨に鈍く鎧を光らせて鋼の翼は堂々と羽ばたき、雨風をものともせずに一気に加速してくる。
「紅崎圭」
 低い声がその名を濁りなく紡いだ。
 クロが枷場の姿を一見した瞬間に寒気で硬直したように、圭も枷場だと理解した途端にたじろいだように顔を凍り付かせた。しかし、糸の切れたボロ人形のような相棒に目を留めれば、怯んでいる場合ではなかった。
「クロ!!」
 たまらず、滑空するエアームドから屋上へ向けて飛び降りた。浮遊感を物ともせず空中で抜刀、水溜りに足を滑らせ体勢を崩しながらも、着地直後に枷場に肉薄、恐怖を振り切る様に思い切って斬りつけた。枷場は力強い剣筋を読み、避ける。息もつかせぬ勢いで圭は刺突を繰り返す。素早い動きに枷場は眉を顰め、後ろへ跳び間合いをとった。滅茶苦茶な攻撃だ。相手も悪く、初めから当たるとは圭も期待していなかった。距離をとれただけ儲けものである。深追いはせずに、圭は振り向いてクロに近付く。
「クロ、ポニータとアメモースはどう」
 どうした、と最後まで尋ねる前に声を切った。あまりにも変わり果てた満身創痍のクロを目前にして圭は息を呑む。五月雨を落とし背中から起こし抱き上げるようにすれば首も腕も足もだらりと力を失っており、まるで動く気配の無い様子に焦り口元に耳を寄せる。辛うじてか細い呼吸の音が聞こえてきた。細く覗かせた深緑の瞳は光を完全に失っていつもよりずっとまっくろで、乾いた闇の中に青褪めた圭の顔が映る。
「……けい……」
 魂まで全てを抜き取られたような枯れ果てた声だった。圭は我に返って、気持ちを引き締めた。けたたましい警告音が全身に響く。圭自身も昨夜のカンナギ襲撃とバジルとの一戦、そして土砂降りの中での長時間の飛行で確実に体力が削られていた。勝算などないと判断すれば、クロを連れて一刻も早く脱出しなければならなかった。と、クロの手に本来なら握っているはずであろう火閃が無いことに気付く。圭は顔を上げ、軽く見回したが、端に転がっている火閃まではここから距離があった。とても回収している暇などない。覚悟を決めて震えそうになる足を叩く。
「喋るな、逃げるぞ」
「に、げ……」
 しかし、断罪するような鞭の音が突き抜けた。
 クロが反射的に痙攣したのと同時に、雷駈に迸る電気が屋上に満ちた雨水を伝って走り抜けた。刹那のうちに二人の少年の元に辿り着いて、全身を濡らした彼等にも容赦なく電撃が弾ける。身体の中が弾けるような感覚と焼ける感覚が爆発した。内側か外側かどこからきているかもわからない凄まじい衝撃で、目玉が飛び出していきそうだった。圭の鋭い悲鳴が響く。放電が途切れた後には、至る所の皮膚が弾け焦げた身体が崩れた。辛うじて圭は肘を床について堪えたが、最早叫ぶ力も残っていなかったクロは圭の身体から擦り抜けてぐったりと倒れ込んだ。
 エアームドの甲高い声が圭の耳に飛び込む。影がかかっていたオレンジがはっと開く。その声がよろめいた圭を奮い立たせ、痺れを振り切って、祈るように、或いは縋るように、苦渋に歪んだ顔をぐんと上げた。
「エアスラッシュ!」
 天を仰いだと同時に、旋回していたエアームドに力の限り叫ぶと、黄金の瞳が輝いた。鋼鉄の翼を振り上げ、猛然と羽ばたく。雨水を伴った風の衝撃波が、黒の団の二人へと襲いかかる。枷場はすぐさまピジョットを出し、その大きな翼に守られるように回避、フェリエの方もユンゲラーが盾となって届かない。
 息を切らしながら、圭は傍にある刀を両手でとり、刃を下に向けて振り上げた。
「五月雨――水柱!」
 敵がエアームドの攻撃に気をとられている隙に圭は刀の名を呼ぶと、そのまま切っ先を床に叩きつけた。依然雨が降り注ぐ外界は五月雨にとってみれば絶好のホームグラウンドである。水で満ちた空間に、細い水の柱が竹林の如く突き上がった。枷場達の姿が見えなくなるほどのそれはまるで水の壁だ。凄まじさに圭も驚いたように目を見開いた。狙いを定めるほど器用な余裕は圭に無かったが、圭の想像をも超えたこの威力ならば時間稼ぎにはなる。驚きにかえって頭が冷めたのか、それならと、冷静な部分が閃く。
「エアームド、火閃を!」
 攻撃を終え高度を下げつつあるエアームドに向かって、圭は顎で火閃の位置を示す。緊迫した状況だからか、短期ながらも波長の合った一人と一匹だからか、エアームドが優秀な個体故か、恐らく全てが合致していたのだろう、圭の端的な指示を瞬時に理解したエアームドは頷き、一気に急降下。逞しい足で器用に円筒を掴みあげた。それから低空飛行を続け、圭達のすぐ隣に着地し、急かすように声をあげる。
 エアームドの手柄を称えるのは後だ。圭は五月雨を発動させたまま鞘に収める。全身で弾けた電撃の傷に耐え、クロの身体を背負い、エアームドの背に乗り込もうとする。クロの服は海に沈んできたかのように血と雨水を限界以上まで吸い込んでいて、そのうえクロも殆ど動けないため、予想以上の重量だった。
 傷が痛むのか、クロは呻き声を漏らす。
「……けい」
「喋るなって言っただろ。安心しろ、もう大丈夫だから」
「……だめだ……」
「え?」
「にげちゃ……」
 クロの様子がいつもと違うことを圭はすぐに察知した。しかし戸惑っている暇など無い。雨で威力が向上しているとはいえ、水柱の効力はそう長く保たない。無理矢理クロの身体を投げ込むようにエアームドに乗せると、そこから自ら降りようとするように倒れ込むクロを慌てて後ろから抑え込み、エアームドの身体と圭の身体で挟み込むようにクロを支える。
「エアームド! 悪い、重いけど踏んばってくれ――飛べ!」
「待て!!」
 地響きのするような怒声に圭もクロも背筋の凍る思いがした。
 気合いを入れるようにエアームドは鋭い雄叫びをあげた。尖った歯を食い縛り背中の質量を実感しながら、足に力を入れた。枷場達から逃げるように助走をつけ、加速、羽ばたいた。鍛え抜かれた鋼鉄の身体は二人を乗せても飛び上がる。なんという力か。圭は舌を巻きながら、屋上に立つ黒の団の様子を窺った。
 水柱は一面に雪崩落ち、そこには翼を貫かれてうずくまるピジョットと、運良く回避したのか無傷で立つ枷場の姿があった。苦々しい顔で圭達を見上げている。フェリエの方は、危険を察知し即座にユンゲラーのテレポートで逃げたのか、その場から忽然と姿を消していた。
 偶然とはいえピジョットを抑えたのは上々である。これなら恐らく追ってはこられまい。圭は久方ぶりに息を吸い込んだような気持ちになる。
 しかし。
「……だめだ……逃げちゃ……戻らなきゃ……」
 魘されているようにクロはぽつりぽつりと呟いていた。濡れたクロの髪がぞわりと圭の胸を撫でて、圭は震え上がった。飛び始めても尚戻ろうとしている。小柄な圭よりも小さく縮こまったようなクロが落ちないよう抱きかかえるようにしているため、その呟きも内側から込み上げるように圭の耳に入ってきていた。しかしこれだけ痛みつけられたクロが、この期に及んで何を言い出すのか、微塵も理解できなかった。
「クロ……落ち着け」
「だめだ……逃げちゃ、だめだ……戻らないと殺される……」
「違う! あそこにいたらそれこそ殺されるぞ。助かったんだよ!」
「たす、か……は……」
「そうだよ助かったんだ! だから大人しくじっとしてろ!」
 激昂するように声を荒げた圭とは対照的に、震える緑髪が怯えるように横に振れる。痣と赤い線が重なる手で在り処を探るように弱々しく朱い服を掴んだ。
「ちが、け、あ、……圭……俺……ああ……倒れたら……逃げて……だめだ……そんな……どうしたら……ちが、違う、ちがうち、う、あ、だめ、ちが、あ……あ、う、ああ、あ、ああああああああ、あ、あああ……」
「……ッ」
 圭は絶句する。絶望的に、言葉を失う。
 雨音が妙に膨らんだような気がした。圧迫してくる沈黙の中の弱々しい声で耳がどうにかなりそうだった。聞いていられなかった。いっそ気を失わせてしまえば、その方がずっと胸を掻き毟られなくてすむ。しかし圭はそうできなかった。クロの目はゆらゆらと泳いでどこも見ていなかった。狂う様子にはある種の暗い執念が纏わりついているようで、しがみついてくる恐怖が圭を硬直させる。同情する余裕もない圭には特別どうすることもできず、落下しないようにしっかりと抱えることしかできなかった。必死で無視を貫いている行為は罪悪感と化し責め立てる。どうしようもなかった。クロの痛みは、分けることのできない、クロだけの痛みだった。真弥の住むアパートへと向かい、着地した瞬間にようやくほんの少し救われたような顔をして意識を手離したその時まで、クロは絶えることなく譫言をあげていた。











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