Page 90 : 傷





 憔悴。潰れた顔。晒された火傷。叩きのめされた雨水の塊。壊れ、意識を手放したクロを目の当たりにした真弥は、動転している圭とは裏腹に何も言わなかった。唇を締め落ち着きばらい、死体だと言われても納得するような、けれどきちんとあたたかなクロを、北区某所、雑居ビルの中に構えているその診療所へとひっそりと連れていった。到着して事務員がクロを見た瞬間、事の重大性に空気は騒然とした。そのまま慌ただしく治療室へとクロは運ばれていきベッドに横たえられると、圭と真弥は締め出され、重い扉は固く閉じられた。残された人間は冷たい廊下に立ち尽くした。物悲しく深い虚無感のみ、静かな余韻となり漂っていた。
 その少し前のことだ。真弥に手をとられたラーナーも全身に突き刺さった怪我と、混濁した思考、加えて重い疲労で膝を折りそのまま立ち上がれなくなり、軽い身体検査と怪我の治療を受けた後、同施設で空いていたベッドに寝かせられていた。その診療所は個人経営のもので決して大きくはないが、真弥も今まで世話になっている医者がおり、口も固いのだと話す。優しい微笑みを浮かべる、初老の男性だった。しかし何かしら訳ありで、無関係者ではない仄暗い気配を匂わせる。また黒い泥濘に足が沈んでいく感覚になりながら、しかしラーナーは何も尋ねずに誘導されていくだけに徹した。安心させようとしたのだろう。真弥自身もロジェと相対してから一時は追い詰められたような表情をしていたにも関わらず、終始彼はどこか優しげな言葉を吐き出し続けていた。夢だったと考えるくらいが良い、エーフィもブラッキーも心配は要らない、何もかも不安に思う必要は無い、と。しかし、土台無理な話だ。なんらかの疚しさを誤魔化そうとしているかのような言葉の連なり方には、逆に申し訳なさが立ちこめてきて、身が縮こまるような心持ちになった。
 目を閉じ、カーテンを閉じる音と共に傍から人間の気配が消えて、ラーナーは漸く一息をつけた。真弥が悪いとは考えていない。彼には助けられた、それは紛れもない事実だ。ただ、一人の時間が欲しかった。眠りたかった。一切合切、何も考えたくなかった。
 清潔にぴんと張られたシーツと布団に挟まれて、思考を放棄したラーナーは浅い睡眠と覚醒を繰り返す。全身が重く上から押し付けられてベッドの底まで沈み込んでいるようである。吸いつけられているような眠り方をしていると、人形になった気分だった。まるで熟睡はできなかったが、それでも横になっている分いくらかは楽だった。ひたすら放心し怠惰に休んでいれば、頭の中がからっぽになってくれる。指先までじっくりと休めている間に、陽は西へ傾き、ベッドを仕切っているベージュのカーテンの外から差し込んでくる光がゆっくりゆっくり弱くなっていく。手近に時計は無く、朝から何も喉に通していないにも関わらず食欲は湧かず、ラーナーの時間感覚はぬるま湯の中で揺蕩っているように朧気だった。
 やがて、カーテンが遠慮気味に開けられて、夕陽と同じ色の髪をした少年が姿を現す。圭の来訪時には丁度ぼんやりと目を覚ましているところだったので、ラーナーはすぐに気が付いて、怪我の痛みを堪えて起きあがろうとする。
「ああ、いいよ。しんどいんだろ」
 制しようとしたが、ラーナーは構わず背中を壁に預けて、ベッドの隣に置かれた丸椅子に腰かけた圭と視線を合わせた。
「平気。ずっと寝てただけだし、そろそろ起きなきゃ」
「そうか? だったらいいけど」
 会話はすぐに途切れる。探るような、疲労感に満ちたぎこちない空気が、鬱蒼とした森の空気のように漂っていた。
 圭は様子を窺うように浅く笑う。
「大変だったんだってな」
 後ろめたげに落としていた栗色の視線が、ついと持ち上がる。
「真弥さんから聞いた、黒の団に会ったんだって」
「……うん」
「無事で何より。怪我の具合は?」
 ラーナーの顔や腕にあてがわれた絆創膏やガーゼに視線をちらつかせる。ラーナーはすぐに首を横に振った。
「大丈夫。硝子の刺さったところはちょっと痛むけど、綺麗に治療してくださったから痕にはならないって」
 降り注いだ硝子の雨は肌を抉り、赤の強調が全身至るところに点在していた。中には大きな破片が肉まで刺さっている箇所もありなかなか止血できなかったが、丁寧に破片は取り除かれ安定している。
「そっか。なら、良かった」
 圭の顔が綻ぶ。それまで圭の頬は下がっていて、漸く自然と出てきた笑顔なのだと見え透くような表情だった。
「行けなくてごめんな。俺たちも黒の団と鉢合わせになって」
「そんなこと謝らなくたって。私こそ、突然勝手な行動して、ごめん。圭くんこそ身体は大丈夫?」
「俺は平気。怪我っていっても大したことない」
「でも」
「ほんと。全っ然痛くない。一応検査も受けたんだけど、やばいところはないってさ」
 至る所にガーゼを張り付けた圭は、これ見よがしに腕を振ってみせる。痺れ粉の影響も残っていなければ、電撃による衝撃で身体の中が弾けたわけでもなかった。焦げたような火傷も適切な処置が施されたからか、雨でよく冷やされたおかげか、こちらも傷跡にはならないという話だった。その他は、軽い切り傷や擦り傷ばかりである。しかし、程良く日焼けした肌に真新しい白いガーゼは、見た目としては深い怪我をしていると思われても致し方ない。
 ほら、と右腕で小さな力瘤を作ったところで、ラーナーの顔がほどける。
「わかった。わかったから、もういいよ」
 ラーナーが微笑むと、圭は満足げに腕を下ろした。
「圭くん見てるとちょっと安心する」
「なんだそれ」
「そのまんま。朝からずっとぎこちなかったから、なんだか、元に戻ったみたいで」
 不安の滲んだ素直な言葉だ。圭の表情が一瞬硬直したが、そうかな、と笑ってみせた。
 僅かに見せた動揺をラーナーは感じ取っていた。少々不思議な気分になる。無意識のうちに、顔色の変化を窺っているような、粗探しをしているような、相手の些細な行動も細やかに観察している感覚だった。
 ラーナーは息をつく。少し和やかになった今なら、気になり続けている存在について尋ねられるような勇気が湧いた。
「クロは、今どこに?」
 今度こそ圭の顔がはっきりと歪んだのを見て、ラーナーは少しだけ後悔した。
 圭は口を噤んで、どう答えるべきか迷ってしまう。良くも悪くも自分の感情が表に出やすい人物だから、芳しくない状況にあることなどすぐに伝わった。
「クロは……?」
 じわじわと沁みていくような追随。圭は数秒惑った後、長い溜息を吐いた。
「クロの方は酷い」
 躊躇いが嘘だったように、はっきりと圭は言い放った。
 ラーナーは黙り込む。厳しい表情をしている圭を見つめ、無言の圧力で次の言葉を求めた。
「ラーナーが急に飛び出した後さ」
 意を決して、圭は話し始めた。
「俺たちも追いかけたんだけど、その途中で黒の団に会ったんだ。クロはテレポートで南東区のビルの屋上まで飛ばされて、俺は鉢合わせた奴と別で戦って、俺は……まあ、どうにか躱せたけど、クロの方がな、非道かった。あいつが起きないと詳しいことはわからないけど。全身痣と傷だらけだしあちこち骨が折れてるって話だし、意識は戻らないし、かなり衰弱してる。きっと、もう少し遅ければ、手遅れになってた。本気で殺す気でいたのかも。そうでないと、あそこまでは壊れない……俺が助けに向かったんだけど、精神的にもかなりやられてたみたいで」
「……」
「拷問だったんだろうな、あれは」
 重い一言。聞き覚えの無い、現実感の無い単語に圭の苦々しい言い方も相まって鉛となり、ラーナーへ沈み込む。
 淡々と状況を説明しながらも、圭もまだ整理がついていない様子だった。目が泳いでいる。煮え切らないような顔つき。なんの感情を示しているのか推し量れなかったが、怒りというよりも、怯えているようにラーナーには見えた。
「アメモースも翅をもがれてたんだ」
 ぽつんとした言葉が、ラーナーの耳を一瞬素通りしようとして、引き止めた。
「……どういうこと?」
「……それも詳しいことはクロに訊かなきゃわからないけど……ほら、東区の、朝行った駅の前に広場があったじゃん」
「うん」
「あそこにポニータが立ってたんだって。俺はよくわかんないけど、ネットとかでも画像が回ったって。すぐに真弥さんが行ってくれたけど……ボールを持ってたんだ。中には、翅が千切れて血だらけになってるアメモースがいたらしい。そっちは結局どうなったのか、俺もまだよく知らない」
 言葉が出ず、ラーナーは手元に視線を落とす。
 あの、アメモースが。
 時間が経っていくほど、想像は濃密になっていく。強雨に打たれるポニータ、弱々しく揺れる炎の鬣、ボールから光が放たれ、広がっていく血、明らかな欠損、か細い息、途切れそうになっている命。あの美しい、滑らかな空色に透き通っているような身体が、本物の空色に溶けていくようにのびのびと自由に飛んでいたアメモースが、雨に打たれ、地に倒れたのだと。
「なんか、なんだろうな」圭は考え込んだ末に、結局何も出てこなかったかのような疲れた声を出す。「無力感っていうかさ」
「うん」
「こんな風に、突然、変わってしまうものなのかって、何もできないものなのかって」
「うん……」
 適した返しをしたくても、何も出てこない。
 いつだって、どこでだって、理不尽は強大で圧倒的で暴力的で、虚しくなるほど簡単に彼等を呑みこんでいく。現実という暗闇の中、今、立ち尽くすことしかできない。
「……アメモースの治療は?」
「病院にいってる。真弥さんに連絡いくよ」
「そっか」
 ラーナーは視線を落とす。無意識に握りしめていた手の内から、布団の皺が四方に伸びている。包帯を巻かれた手を中心に、硝子の罅が走っているように見えた。
「誰も失いたくないな」
 ぽつんと、ひとりごとのように吐露すると、暫く間が空く。
「ああ」
 一言だけ、神妙な顔つきで圭は頷く。五月雨の柄を撫で、握りしめる。
「クロもアメモースも、注意深く見とくべきだと思う。あのノエルって人と、真弥さんが手を回して情報操作してくれてる。黒の団にどれほど効くかわからないけど、少しくらいは時間稼ぎにもなるし、ここにいるってことも誤魔化せるかもしれない」
 ラーナーの胸にちくりと針が刺さった。
 ロジェが言っていた、ブレスレットに取り付けられているという発信器の件が頭を過ぎる。あの話が真実ならば、自分がここにいることは今も筒抜けになっており、自然とクロ達もここにいると特定されてしまうだろう。
 そうだ、そのことを言わなければならない。けれど。解っているのに言葉が出てこない。考えるほど、喉が詰まり、胸の鼓動が速まっていく。
 迷ってしまっていた。今に始まったことではなく、ずっと、旅の始まったあのウォルタからずっと、彼等の歩んだ道筋は垂れ流しになっていたのだという。それならば旅の間に重なった黒の団との邂逅も説明がつく。その度に傷つくクロやポケモン達の姿をラーナーは目の当たりにしてきた。今回の苛烈な襲撃もそうだ。知らなかったとはいえ、罪の意識は否が応でも湧き上がる。しかし、告白した時自分へ向けられる視線の痛みを想像すると、怯む。
 お前がいなければ――。
 はっきりとした言葉が自分の内側から聞こえてきて、震えた。
 出来るのならば知られたくない、隠しておきたい、隠し通してしまいたい、その心理が邪魔をした。違う、それでも言うべきだ、それはわかっている、わかっていても、勇気が出てこない。
 きれいできれいできれいすぎてだいっきらいだと、ロジェは吐き捨てた。罪を認めようとしない。だからきれいなのだと。きれい。成る程、良い人間であろうと、ありたいと、嫌われたくないと、離れていってほしくないと、まっさらなままでいたいと願い、そうあろうとすれば確かにきれいな人間のように見えるかもしれない。その内側にあるのは、むしろ汚れたほんとうの姿のように思えた。唾まで乾いていく感覚がした。今、圭に自分はどう映っているのだろう。普通に振る舞えているだろうか。普通にしているように見えているだろうか。ラーナーは圭を見ることができなかった。
 ラーナーが内心で格闘している最中、カーテンが開けられた。肩を大きく揺らしたラーナーとは裏腹に、戯けたような顔を見せた真弥は、こっちにいたかと苦笑いをして素早くカーテンを戻す。
「クロとアメモースは」圭が尋ねる。
「アメモースは治療を受けてなんとか安定した。ボールの中で絶対安静ってことで、回収してきたよ。さっきクロのところに、ポニータも一緒に置いてきた」
 ほ、と二人が安堵の息をついたのも束の間、ただ、と真弥は続ける。
「二度と飛べないことを覚悟した方がいいってさ」
「……そんな」
 思わず困惑した声をあげたのは、ラーナーだった。
「そのつもりだったんだろうね。飛べなければ、飛行タイプは然程脅威に成り得ない」
「でも飛べないんじゃ、アメモースは、自分で移動もできないです」
「そうだね。相手の狙い通りだ」
 あくまでも冷静な態度に、ラーナーはもどかしくなった。抑え込むように、真弥は即座に畳み掛ける。
「アメモースの翅は全身の一番下部分についている。普通、飛べるポケモンっていうのは、鳥ポケモンのように腕の部分が翼だったり、背中に羽がついていたりするものだろう。あの、下についた薄い翅だけで安定して飛ぶために体重と全身のバランスを整えるのは、実はすごく難しいことで、ただ懸命にばたつかせてるように見えて、微細な調節をしながら翅を凄まじい力で動かし飛行している。一枚翅がなくなっても他に三枚あるから大丈夫、なんてうまい話にはならない。今までだって側からすれば奇跡的な平衡感覚だったんだ。左右の平衡がとれない、つまりバランスがとれない。少なくとも以前のように自在に飛ぶのは不可能、らしい」
 淡々と、説明されてきたのであろうことを忠実に真弥は話す。整然と判決を下しているような言い振りには反論する隙が見つからず、アメモースに襲いかかった望みの無さに二人は唇を薄く開けたまま固まっていた。
「……まあねえ」
 真弥はふと微笑んだ。底が見えない、いつもの柔らかさ。いつも通りの、余裕。
「俺も片腕取られたし、アメモースの痛みは多少わかる気がする。腕と足では、重みが違うだろうけどね。でも、今は、アメモースが生き延びたことを喜んであげた方がいいんじゃない。自分のためにも、アメモースのためにも」
「……」
「一番辛いのはアメモースであり、クロの方だ」
「わかってるよ!」
 圭が苛立ちを露わにした。
「わかってるけど」
 わかっていても、煮え切らない。
 すぐに萎んで、収まっていく。胸の、奥の、更に奥深くに。
 腕を失った経験があるからか、或いはアメモースと共にいた時間が圧倒的に短いからか、単に異常事態に対して慣れているのか、真弥には感情的な動揺が見えない。彼は既に事実を事実としてだけ受け止めているのだ。湧き上がる感情を押し殺して、黙って受け容れろと無言のうちに諭しているかのようだった。しかし、正しさは、時に、いくら正しくても、素直に飲み込み難い場合がある。ラーナーも圭も、もやもやとして、真弥の宥めを素直に飲み込むことができなかった。
 時化た、分厚い曇天のような灰色の空気である。再び沈黙した二人を前に、真弥は呆れたように肩を落とす。
「クロは相変わらず。意識は戻ってない。とりあえず一晩寝かせてもらえることになった」大きな溜息をつく。「まったく、世話のかかる奴だね」
 軽口を叩いたものの雰囲気は緩まなかった。
 ラーナーは布団の上で、包帯の巻かれた自分の右の掌をひっくり返す。掌にはモンスターボールの罅が、手の甲には硝子の破片が食い込み、纏めるように手当のされた布の存在。大袈裟なくらいだ。クロやアメモースに比べれば、こうして平気な顔をして起きていることも、のうのうとベッドを借りて休んでいることも恥ずかしく罪深く思えた。圭も真弥も黒の団と戦い抜いたのに、自分は。それどころか、本当は。自分のせいで。
「ラーナー」
 真弥が呼んだだけで大袈裟なほど身を震わせた。そこに、真弥の右手が差し出される。その手に握られているのは、二つのモンスターボールだった。
 何を示しているか、徐に思い至る。
 脈が速まっている中、恐る恐るラーナーは真弥を見上げた。
「エーフィとブラッキー」
 穏やかな表情を浮かべながら、真弥は掌を返し五本指で器用に支えているボールの顔を見せる。光に照らされつるつると輝く、殆ど傷の無い真新しいボールだった。
 ラーナーは震えながら両手を出し、その掌に真弥はボールを優しく乗せる。二つ分の命が閉じ込められたボールは、そうとは考えられないほど軽いけれど、いつもよりずしりと掌に沈む。受け取り、握りしめ、開閉スイッチを押した。
 問題なく開き、白い光が周囲を照らす。一つは圧し掛かるようにラーナーの身体へと、もう一つは枕元の近く、ベッドサイドの床へと着地した。瞬く間に光は生き物を形成し、本物の重量が具現化される。
 エーフィは大きな目を更に見開き、泣きそうな顔をして、ラーナーの怪我も厭わず決壊したように彼女の胸に飛び込んだ。全身を使った行動にラーナーは気圧されながら、しかし温もりをゆったりと受け止める。ブラッキーも前足をベッドに乗せ、下からラーナーを熱を帯びた視線で投げかけている。懸命なまでに擦り寄ってくるエーフィの滑らかな体毛を慰めるようにゆったりと撫でながら、ラーナーはブラッキーも誘うように手を振る。痛みが無いわけではない。けれど、愛おしさが勝った。ブラッキーは逡巡しながら、器用に枕元に飛び乗ると、全身を寄せるエーフィとは対照的に、やや遠慮気味に肩に顔を寄せた。美しい二匹の頭を撫でて、ぐっと両腕で引き寄せる。
 ラーナーは思わず泣きたくなった。なんのしがらみも無く、まっすぐに自分を見ている二匹の存在が大きかった。触れて、伝わってくる熱が、勿体ないほどにあたたかい。
「ごめんね……」
 抱きかかえるようにしながら呟く。
「セルドがいたんだ……それが、信じられなくて、周りが何も見えなくなって……ボールが盗られていたなんて、少しも気付かなかった……」
 語りかけるラーナーの傍、圭は真弥に目配せする。不審げな顔つきだった。セルド――ラーナーの弟は、死んだと聞いていた。真弥は小さく頷く。
 二匹を撫でる手が、ふと止まる。胸から見上げているエーフィを、ちょうど視線の高さにいるブラッキーを、順番に見やって、痛々しげに微笑む。
「……結局、違ったんだけどね。でも、本当にセルドだと思った。触れたときあたたかくて、声も、顔も、全部セルドそのものだった……でも、違った。セルドは、多分、本当にもう、いなくて」
 たとえあの存在が偽物であったと理解していても、鮮明な彼の姿を思い返すと、胸の深いところまで軋む。
 ロジェの言葉がラーナーを縛り付けるように蘇る。容赦の無い罵倒のような言葉の数々は毒の雨のようだった。ラーナーは暫く黙り込む。随分と長い間、口を閉ざした。考えようとするほど勢いよく洪水のような毒が回り、脳の先まで浸透していく。思考は自然と止まってしまう。情けない。しかしどうしても、震え、自力で動けない。立ち上がれない。考えられない。ひとり、目の前は暗闇で、道の先がまったく見えない。
「どうしたらいいのか、わからない」
 それが、すべてだった。
 沈黙を破り、小さく零したラーナーの顔は蒼白になっていた。
 セルドが死んでいる現実などとうに覚悟し、少しずつでも受け入れつつあったこと。しかし彼女に圧し掛かっているのは、セルドのことに留まらない。発信器のことも、両親のことも、クロのことも、アメモースのことも、驚きも怒りも哀しみも不安も孤独も困惑も罪悪感も秘密も掻き混ぜてひとつになってしまっている。様々な色がぶつかり、混ざり、最終的に濁った黒へと変貌したような、抱えきれないだけの混沌。雨降りしきる、あの灰色の光の中で心の内側に膨れ上がった血溜まりは、生々しく黒ずんでいる。
 目に見えて消耗しているラーナーを前に、エーフィとブラッキーは硬直し、圭もかける言葉を失った。代わりに、見かねた真弥が口を開く。
「君はもう少し休め。疲れてるんだろう。整理がついたら言える範囲で話せばいい。それと、あの黒の団のガキの話をあまり真に受けない方がいい。あれは頭の捻子が数個吹っ飛んでいた。……圭、一度出よう」
 圭は一呼吸置いてから頷く。カーテンを開けて出て行こうとするところを、ラーナーは遮るように身を乗り出した。
「あのっ……クロのところに連れて行ってもらっていいですか?」
「……クロのところ」
 布を掴む手に力が篭もり、渋い声で真弥は繰り返す。圭も苦い顔をして目を逸らしている。
「話はできないし、ショック受けるだけだと思うよ。後で、もう少し回復してからがいいんじゃない」
「今、行きたいんです」
 ラーナーはゆっくりと強調するように懇願する。
 射抜く、強い、眼差し。
 圭と真弥はどちらが合図をするわけでもなく、ほぼ同時に目を見合わせた。どうしても拒む理由も持たない二人は、案外すぐに彼女の要求を受け入れる。やめておいた方がいいと思うけどね、と真弥は釘を刺すように呟いたが、ラーナーは聞く耳を持たなかった。どこにどう進むべきなのか何を信じるべきかわからない。だから、迷子は確かな道標を求める。目に見えるものばかり真実ではないけれど、目で確かめなければ納得できないものだってある。願い、そして、祈り。ラーナーはどうしてもクロに会わなければならなかった。



 そこはとても静かな場所だった。
 褪せた白の中に横たわる少年。簡素な灰色の病衣に包まれて、白い布団の中で静かに眠っている。点滴を打つために腕はだらりと力なく布団の上に乗せられて、両の手首にそれぞれ一つずつ針が刺さり、白透明のチューブが伸びている。チューブは他にも彼の病衣の隙間へ這うように沈み込んでいた。鼻と口を覆う人工呼吸器は透き通っていて、その中にある赤く腫れ上がった唇が異様なまでに浮き上がっているようだった。
 半殺しにされた彼の全身は包帯やガーゼで覆われていた。首から下は殆ど衣を着たミイラのようで、針の刺さった部分と瞳や唇の周囲だけまともに肌が露出していた。点々と布の隙間で元々の火傷の赤黒さが際立ち、白さの中に汚れのように佇んでいる。深緑の髪の毛とその火傷が、辛うじて彼が藤波黒であることを証明していた。それ以外には何も確証が得られないほど彼は豹変していたし、生気をまるで感じさせないこの姿でも衝撃を与えるのに十分だというのに、その白の下に隠れているほんとうの傷や痣を考えると身の毛がよだつ。しかし、ラーナーの想像力は現実に対して貧弱で、実際にはどの程度酷いものなのか、思考が無意識に遮断されてそれ以上は恐ろしくて考えられない。
 彼は眠っていた。息苦しい静寂の中で、音も立てずに点滴薬が静脈へと流れ込んでいく。
 痛かったのだろう。
 これだけの傷を負って、痛かったのだろう。
 彼の痛みの分だけ空気は澄まされていて、周囲まで締め付ける。クロの、このたったひとりの、たった一人分だけの身体では持ちきれないだけの痛みが、きっと空気に染み込んでいる。溢れ出た、或いは決壊した、傷の重み。そうなのだとしたら、この部屋は丸ごとクロのものだ。そこにいながら、不在である、クロそのもの。しかし、共有はできない。クロはクロで、ラーナーはラーナーで、自分は自分で、他人は他人。圧倒的な孤独。クロの痛みをいくら理解しようとしても、まるで分かりあえない。擦り切れて傷だらけになった空気にただ圧倒されるだけだった。
 壁がある。彼は意識を失っていても尚透明の壁を作っている。拒絶と絶望。決して踏み込めない、彼だけの世界。
 息苦しくなるばかりだった。部屋にいればいるほど、自分との境界線がはっきりと感じられるだけだった。ただ、ただ、無色で、無力だった。
 ああ、この強大で混沌とした濁流の中、生きてくれているだけで、ここにいてくれるそれだけで、きっともっと安心するべきなのに、それどころじゃなく。ましてや両親を殺したのかどうかなどと、目前で朽ち果てている少年に対してどうして今疑うことができるだろう。
 ごめん、と。
 何も言わずにクロに背を向ける。扉の側で、圭と真弥が諦めたような顔をして待っている。歩き出す。離れていく。吸い込む空気が痛い。喉が擦れて肺がいっぱいになるまで膨らんで裂かれていきそうになる。
 アパートに戻らせてください、ラーナーはぽつりと呟いた。伸びた髪が俯いた顔を覆っていて、誰にもその表情は見えなかった。












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