Page 91 : 友達





 ノエルは天才だなあ。
 懐かしい声がする。底の深い、地に足がついたような、低音の、ほっとする声。満面の笑顔で、ぐしゃぐしゃと髪をかき回すように撫でてもらった。小さな彼とは比べ物にならないほど大きくて硬い手が、ちょっと乱暴なようで、愛しげに、幼い頭を撫でる。さらりとした繊細な髪は、その動きに合わせてもこもこと動いて、既に分厚い眼鏡をかけていたノエルは、にへら、とてもとても嬉しそうに笑った。白い歯の隣にできた、深い笑窪が喜びをものがたる。
 彼の手にあるのは、ミニカーだったり、モノレールだったり、プラモデルだったり、リモコンだったり。大きくなってくると、ラジオだったり、ステレオだったり、ゲーム機だったり、ポケギアだったり、コンピュータだったりした。目についた気になるものを、彼は分解した。初めは力任せに引っ張ったり曲げようとしたり、壊そうとしているかのようだったが、父親がドライバーを持ち螺子を回して電池を交換している場面を目撃して、見よう見まねでドライバーを握りしめて、いつの間にか彼のおもちゃとなっていた。固く閉められた蓋があればとりあえず螺子を探した。せっかくのおもちゃもバラした。解体してばかりで放っておけばそれは壊していることと同義で、散らかしていると綺麗好きな母親から怒られたから、彼は元に戻すことを覚え、やがて動かなくなったものを修理するようになった。初めは、電車やロボットに憧れている男の子らしい趣味に過ぎないと微笑んでいた彼の親も、器用で緻密な指の動きには時折目を見張った。機械に弱い家庭だったから、幼くともノエルは頼りにされることがあった。それが嬉しくて、誇らしくて、益々ノエルは分解と修復にのめり込んだ。物を用いて遊ぶことよりも、物自体がなんたるかにばかり興味を持った。その姿はしかし奇異なものとして他の子供達の目に映ったのか、ノエルは人の輪に馴染めなかった。そのことを幼い頃の彼は特に気にしていなかった。手の中にある宝で十分満たされていて、夢中になっていて、他人の視線や声など気にしてはいなかったから。体裁を気にしていたのは親の方だっただろう。
 ノエルは天才だなあ。パパの誇りだ。
 父親はマイペースなノエルを常に肯定し褒めちぎった。後々振り返るとただの親バカだったと鼻で笑うのだが、その父親の存在はノエルの中で大きく、一人でいる時間が増えるほどに比重は増していった。折角買ってもらったおもちゃを受け取ってすぐさま分解にかかるノエルを母親は少々不安に思っていたようだが、父親は笑って吹き飛ばし、また頭を撫でた。それでいいよ。ゆっくりでいい。まず確かめたいんだよな。こいつの正体が一体なんなのか、確かめたいんだよな。満足するまでやったらいい。指先に集中する息子の隣、胡座をかいて時折アドバイスとちょっかいを出しながら見守る父親。ばらばらにして、納得して、直したら、父親と一緒にそれを使って遊んだ。笑いあった。あの頃は、壊れても全部直せるものだと信じていた。全部もとどおりになると、本気で信じていたのだ。



 ノエルの瞼が開く。
 夢を見ていた。目頭がじんと沁みる。
 ぼんやりと現実を眺めて、だんだんと自分が眠っていたことを自覚する。ポリゴンが作業を進めている。遠い眼差しをしながら、椅子に座り直した。
 嫌な夢だった。胸があたたかくなってしまうような、嫌な夢だ。忘れてしまいたいのに残像が濃厚に記憶に佇んでいる。
 いくらなんでも自分を酷使しすぎだ、とノエルは確信する。自分がもう一人二人は必要だ。漸くカンナギの一件が落ち着いたと思えば真弥のしでかしたビル倒壊や東区駅前でポニータが待っていた件を誤魔化すために、ありとあらゆる嘘の情報を流し錯綜させ、セントラル内一部の電波や電話回線を混乱させ、世間から真弥達の姿を眩ませた。警察や消防の足も多少は遠のかせたことだろう。真弥からは軽い態度であれやっておいてこれ調べておいてと連続して要求されるから時折ついていけない。果たしてポリゴンがいなければどうなっていたことか。どうにか急ぎの用は片付いて、再び黒の団の情報を集めている最中だった。しばらくまともに寝れていないから、身体が悲鳴をあげ、夢まで見てしまうほどに深く眠ってしまったのだろう。が、所詮は椅子に座ったままの睡眠だ。とてもではないが休んだ心地がしない。
 大きな溜息を吐き出しながらノエルは背中に体重を乗せて、流れるように腕を背もたれに回してモニターから目を背ける。毎日何時間も向かい合っている相棒の姿をしばらく見たくない。と、言っているわけにもいかない。
 起きあがって机の上にあるマグカップを手に取ると、コーヒーは底を尽きていた。淹れなおすには、この部屋を出て台所に向かわなければならない。しかし、懸念する点が一つあった。
「今、リビングには誰がいる?」
<真弥、ラーナー・クレアライトがいます。>
「だよな……」
 ラーナーとは先日会話したことで僅かには馴染んだ顔だが、わざわざ顔を出しにいけるほどの勇気は出てこなかった。扉を開いた瞬間、注目の視線が突き刺さるかもしれない。話しかけられてしまうかも知れない。無視されて微妙な気まずい空気の中を怯えるように過ごさなければならないかもしれない。可能性がいくつも浮かんできて、考えるだけで目眩がする。ひとはそう簡単に信じられない。黙って冷静にいられる自信がない。心の平穏とコーヒーを天秤にかけて、彼は迷うことなく平穏を選択した。
 空っぽのカップを机の端に置いて、彼はモニターに向かい合った。しかし指先まで疲れている感覚がして、手が動かない。椅子にずっしりともたれかかって、夢に感化されて過去に思考が揺れていく。一度引き戻されると溺れてしまう。だから忘れてしまいたいのに。傷んだ瞳を庇うように瞼を閉じた。


 ――消毒用エタノールの匂い。つんとした香り。触れた場所にかけていて、最初はちょっとだけ違和感を感じるくらいだった。無表情な母親の、無味な素振りで、当たり前のようにそのまま身体にかけられた時、ああ、そうか、自分は汚いんだとはっきりと理解した。あの父親の子供だから。気味の悪い趣味だから。いつも俯いてるから。殆ど喋らないから。通っていた学校でも煙たがられて、いつもはじっこの方で、椅子を少し引いて、膝の上、机の下の影の中で、昔父親に買ってもらった携帯ゲーム機の解体と組立を繰り返していた。狭いコミュニティでは子供も親も関係なく噂話がすぐに広がった。クビ、フリン、シャッキン、リコン、シュウキョウ、サケ、ギャクタイ、あることないこと吹き荒れたが、ノエルはひたすらに口を噤んだ。音を立てないようにした。周りは純粋に面白がっているだけだから、口答えをしたところで無駄だとまだ幼い彼は諦めていた。菌が、と。触れたら感染ると揶揄されて、触れれば誰にも触るなと言われたから誰にも触らなくなって物にも触れなくなって、ただ黙り込んで、自分の机だけ守って生活して、そのうち、自席にも居られなくなって、休憩時間になるたびにトイレや校舎の裏のはじっこに隠れるようになって、ただ、静かに、誰にも気付かれないように、誰にも見られない場所で、消えた存在になれるように、祈るように呼吸をしていた。家に帰って、母親はまた集会に行っていて、綺麗すぎるぴかぴかのテーブルの上には小銭が置かれており、それを握りしめて、わざと遠くの店まで夕ご飯を買いに歩いていた。近所の誰にも姿を見られないように、細くて鬱蒼とした裏道を通った。
 息を殺して生きていた。
 夜、知らない男の人が母親と一緒に家に入ってくるのを、よくわからない感情で扉の隙間から覗いていた。隣の寝室や、リビングで何をしているのか、なんとなく知っていたけれど、見ていないふりをして布団を頭から被って息を潜めていた。男の人の顔はよく変わって、キョウカイのヒトでとてもキレイナヒトナノヨと微笑む。
 いきものは誰しも穴を抱えています。生まれたときから欠けているのです。おなじです。ここにいるみなさんはみな欠けています。いたみやかなしみを背負っています。同じなのです。あなたのくるしみはあなたひとりのものだと考えていませんか。ちがいます。感情はわかちあうことができます。共有することができます。互いに穴を埋めることで、ほんとうの姿になれます。ここにいるみなさんで、欠けた部分を埋めあいましょう。
 お清めだと言われて休日に何度か集会にも参加したことがある。偉いひとのおはなしを聴いたり、みんなで唄を歌ったり、手を合わせて祈ったり、知らないひとと手を繋いだり、抱き合ったり、頭の中は乾いていて、よく、わからなかった。学校では接触を拒否されるのに、積極的に触れあおうとするあの場所の空気は不気味で気持ち悪かった。たぶん偉いひとの前に座らされて、よくわからない念仏のような言葉を投げかけられて、エタノールの匂いのする冷たい水をそっと上からかけられて、同じ水で濡らした手が、髪をかきあげて、頬を包んで、耳を挟んで、首をなぞって、背中をさすって、皮膚を辿るその優しげな動きに、いつも、吐き気を催した。触れられたところから肌が張り詰めて全身が凍りつき冷や汗が噴き出し恐ろしくて仕方がなく衣服を強く握りしめ頬の内側を噛み息を殺すことで、耐えた。ねえ、おかあさん、あんなことをしたところで、おきよめになんてなるわけないよ。帰宅して、諦めたように懇願するように母親に言うと、頬を叩かれた。罵倒。ヒステリックで叫びのような声。恐かった。だからそれ以降は何も言わなくなった。周囲に勧められてキョウカイのひとたちがたくさん住んでいるアパートに引っ越しても、あなたを正しく直すためと正当化。正しく、直す。直す、何を。わかんない。わからない。ぼくはもうこわれてます。なおしようがありません。ぼくはぼくのままかわりません。ただしくないぼくはもうどこにいるいみもありません。こわい。みんなこわい。みんなみんなきもちわるい。さわるな。さわるな。だいっきらいだ。他人はすべて敵で震えが止まらなくなったから、外に買い物をしにいくこともできなくなり、だんだんと家から出なくなった。誰もいない家では呼吸ができた。そのうち母親もあまり家を出なくなってしまったから、深夜の、寝静まっている瞬間を慎重に見計らって食品を漁るようになった。昼と夜が逆転して、カーテンを閉めた。殆どの時間をベッドの上で過ごした。空腹感に慣れて数日食べなくても何も感じなくなった。寧ろ、食べ物は喉を通らなくなった。時折ゼリーが置いてあったらこっそり食べようとしたけれど、だんだんそれも苦しくなった。固形物を食べると吐き気で余計に辛くなったから水を大切に飲むようになった。痩せて豹変した自分を鏡で見て確かに気味の悪い存在だと納得して、安心して部屋の中に閉じこもることができた。
 なにが、いつから、おかしくなったのだろう。確かに幸せな時期はあったはずなのに。壊れた携帯ゲームは修理しようとしても直らず、ゴミと化したそれを呆然と見下ろして、おとうさん、と嘆くように呟くと、あまりの虚しさに目が眩んだ。捨てられてもまだ信じていた、きっと。
 部屋でコンピュータにのめり込み始めたのは、いつからだったか。旧式の、懐かしい、父親がいた頃、父親が買って、壊れたと思ったものを、自力で直して、目を丸くされたことをよく覚えている。結局、仕事用に別で買ったから、お古として譲ってもらったものを大切に使っていた。インターネットに繋げてもらって、独学で学んだ方法で海を渡った。自室に籠もるようになってからはいよいよ加速した。ノエルが自ら広げた世界だった。声にならない不満をぶつけるように、様々なセキュリティを破り、機密情報を覗き見して、時にウイルスをまき散らし、なんだか少しだけ特別になったような気分で、こっそりと楽しんでいた。潜り抜けていく行為は機械を分解していく感覚に似ていて、守られている情報を前にした時はとても気持ちが良かった。同時にひどく空虚でたまらなく、暗闇の中に消えてしまいたいのに、いっそ死んでしまった方がこんなつまらない存在にはぴったりだと思うのに、勇気も無く、ひとりぼっちで、諦めていた。
 ポリゴンに出会ったのは、もうじき十五歳に差し掛かろうとしている頃。
 適当にネットをぶらついて掲示板で適当にそこにある話題についてけなしているときに、突然、ダウンロードを問う文言が現れた。特に何かをクリックしたわけでもない。当然、不審に思った。セキュリティには引っかかっていないが、それこそ新種のコンピュータウイルスでも引っ提げているデータかもしれない。明らかに怪しいのに、取り込んだのは、面白がったからかもしれないし、どうでもいいと思っていたからかもしれない。
 そうしてポリゴンは彼のパソコンに住み着き始めた。
 鬱陶しくなかったかと問われれば、当然その通りだと彼は応える。深夜になると口うるさく休め食べろと言ってくるし、ひどいと画面の一番手前に現れ邪魔をする。会話を持ちかけてくる、その中身の大半は他愛もない話題だった。しかし、ポリゴンは注意を促すことはあっても深追いはせず、絶対にノエルを否定しなかった。結局親の臑をかじって引きこもっているに過ぎないノエルを責めなかった。決して触れることのないその距離感もちょうどよかった。今まで破れなかったセキュリティも、ポリゴンの援助で効率化され突破できるようになり、要らないデータをポリゴンが取り込むことで容量の節約になり、古いパソコンの寿命を延ばした。余計な指示をせずとも最善を尽くす、優秀な存在。ポリゴン自身の解析は行えず情報も出てこず正体が不明な点については不気味だったが、気にしなくなっていった。初めてポリゴンに自分のことを話した時、思い出して苦しみのあまり泣いたら、ポリゴンも泣いていた。プログラムのくせにそんな意味のない機能が備わっているなんてなんだかおかしく、似たもの同士のような、奇妙な感覚がした。
 結果としてポリゴンは、閉じこもったノエルの世界を、より閉塞的にした。それでいいと思っていた。このままずっと、カーテンも締め切った部屋の中で、ポリゴンとくだらない会話をしながら、思い出したように機械の解体と組立をして、ネットを泳いで、眠って、それだけで、良かった。
 あの日、真弥が窓硝子を突き破ってくるまで、ノエルは完成させた不完全な世界で死んだように生きていた。
 文字通り風穴を開けられた瞬間の、長年をかけて澱んだ沼底のような部屋が久しぶりに吸い込んだ外の風。
 真弥は強い人間だった。強さとは、恐ろしさ。親という、ノエルにとっては強大なものも、恐ろしさと同義だった。何よりも恐怖の対象だったものをいとも簡単に超えていけるような、純粋で、圧倒的な強さを真弥は持っていた。それはノエルに縫いつけられた恐怖とは似て非なる、まったく異種の存在感を示していた。目につく、金色の髪。まだ両腕が存在していた頃だ。彼は笑っていた。ちょうどいいおもちゃを見つけたような顔をしていた。
 端的に言えば、真弥はノエルを拉致しにきていた。ノエルがハッキングした相手が悪かった。始末も悪かった。その行為がノエルのものであるとばれて、制裁のために真弥が送り込まれた。その頃真弥は組織に属していて、その一員として従順に動いていた。
 お前、俺と組まないか。真弥はそう言い放った。元から彼は組織を離れるつもりでいたのだろう。自由の身になり稼いでいくのに、ノエルは好都合な存在だった。
 初めノエルは拒否した。まともに話せなかったから、怯えた顔で首を横に振った。言葉が出てこなかったのだ。ポリゴンとの会話ですら当時はパソコン上でしか行っていなかった。声を出すという行為を何年も殆ど行っていなかった。
 ノエルの家庭事情を真弥はよく把握していた。だからか、彼は問うた。母親が怖いから出られないのか、と。母親が怖いか、と。何を言われても脳まで届かずよく理解できなかったけれど、ノエルは曖昧に、頷いた。そっか、と、真弥は笑った。でも大丈夫だよ、もう死んでるから。
 言っている意味が全く解らなかった。
 家は恐ろしく静かだった。
 一度も入ったことのない母親の寝室では、裸の母親と見覚えのない男が喉元を切り裂かれていて、バケツをぶちまけたような夥しい血液で布を濡らしベッドに横たわっていた。見た瞬間に事切れていることが解った。死体画像は興味本位でネット上で見たことがあった。けれど当然本物は初めてだった。それも肉親だ。ノエルは腰が抜け床に座り込んだ。その時の感情をどのように表現したらいいのか、今でも彼は答えを出せていない。そもそも衝撃で脳がかち割られたように、そのあたりの記憶は殆ど残っていない。ただ、後々、真弥はふとノエルに呟いた。お前、自覚してなかっただろうけど、あの時笑っていたよ。
 ノエルが狂っていたのか、真弥が狂っていたのか、母親が狂っていたのか、それとももっと別の何かが狂っていたのか。
 呼吸をするように殺せる真弥の手は、そのままノエルの喉元に切っ先を突きつけていた。他に選択肢の無かったノエルは真弥の手をとった。その先が地獄であることは、聡明なノエルには理解できていた。しかし、それまでの人生を悪夢として突き放して、この、強くて、恐ろしい、新たな存在を、新たな運命を、受け入れた。
 そうして、今へ至る。
 悶着を回避することはできなかったようだが、真弥は組織を抜け、セントラルにある現在のアパートに居を構えた。敷地内で抗争は起こらないよう裏で取り決めがされている場所なのだという話を聞いた時にはノエルは俄に信じ難かったが、どうやら真実らしく、実際、現在まで家から一歩も出ていないノエルに、突如外部から脅威が襲いかかってきたことなど一度も無い。ノエルは主に情報収集、真弥は依頼実行。無意味に生きていた頃と違い、認められていると思えた。自分という存在が保たれていた。その内容は一般的に誉められたものではなく、犯罪行為をし援助している自覚もあった。だからなんだそんな今更。こうでしか生きていられない。淀みに依存して、怯えながら必死で縋りつく。生かされている。そんな生きかたしかできない。もう絶望は味わいたくない。捨てられたくない。
 これでいい。このままでいい。


 あの音。ポリゴンが呼ぶ音が、ノエルをそっと叩く。驚いたように瞼を上げると、ポリゴンがノエルを振り返っていた。
<大丈夫ですか。>
「……うん」
 考えすぎてしまった。以前、特にあの家を出てからは、思い出していると自制が利かなくなり奇声とも言える叫び声をあげていたものだが、今日は心臓が速まるばかりで、その気配はない。ほ、と息を吐き、画面を見つめる。
「ポリゴンって」
 指を腿に落とし、曲げていた背筋を更に丸くする。
「夢とか見るの」
 我ながら阿呆らしい質問だと、尋ねてからノエルは嘲笑したくなる。言い出してから頬が熱くなってきて、いやさ、と誤魔化すように続ける。
「別に、なんていうかそう、深い意味はないんだけど、ちょっとさっき、懐かしい夢を、久々にみ、見て。何言ってるんだって感じだけどさ、別に深い意味とか、無くて。そう、全然。全然無い。ポリゴンもそういや、寝てるよなって思い出しただけ」
 一生懸命取り繕うとしているノエルを遮るように、吹き出しの音がした。上向いた目を疑った。
<たまに見ます。>
「へえ?」
 笑うような、驚いたような曖昧な声が出た。
「馬鹿言うなよ」
<ノエルが笑っている夢を見ます。>
 咽が詰まった。
 表情が一瞬解けて、すぐに強ばる。確かめるように文章を読み返して、苦しげに呼吸を再開する。
「やめろ、そんな都合のいいこと」
 肺に毒が回って苦しくなる。
「気持ち悪い」
 そんな幸せめいたものは突き放さなければ。設定された仮初めの優しさに甘えてはいけない。上っ面の優しさを信じてはいけない。深く入り込んではいけない。
 ポリゴンは、表情を変えなかった。
<ごめんなさい。>
「謝らなくていいけど」
<ノエルの癇に障りました。>
「別に……」
 ノエルは目を逸らす。もやもやとした後悔のようなものが尾を引く。
「僕の傍にいてくれればいい」
 ぽつ、と。
 脳を通らずに出てきた。しばらくして気付き、耳まで一気に熱が駆けた。
「違う、今のは違う! あ、ああああの、違う全然違う全然違うから!」
<はい。>
 ポリゴンは相変わらず無表情だった。何を、慌てているんだ、真っ赤になったノエルは顔を覆い息を絞り出す。変な夢を見たせいで浮ついているのだ。慣れない会話などするものじゃない。ヘアバンドを少し上げて気分を広くした時、モニター上で起こっている明確な違和感に気付く。
 打ち込んでいた文字が勝手に明滅し始め、変わっていく。消えたり増えたり変化したり、瞬く間に動きは加速する。不審に思ったノエルは試しにキーボードを叩いてみたが、反応が悪い。数秒遅れて文字が出現する。しかもその文字は自分の選択したものと違う。内部が崩壊したようなめちゃくちゃなコードに戸惑いは隠せない。コンピュータウイルスにやられたのか。厳重に気をつけているつもりではあるが、壁の穴を潜り抜けられたのかもしれない。パソコンには重要なデータが数多く収納されている。使い物にならなくなれば、巨大な損失だ。焦ったノエルがマウスに触れた瞬間、静電気のような衝撃が指先から伝わってきた。
「いっ」
 反射的に手を引っ込めた後には、青白く光る電撃のようなきらめきが機械に纏わりついていた。
 何が起こっているのか検討がつかなかった。モニターを再度見やり、今度は先程とは異なった非日常を目撃する。彼は眼鏡を上げてその画面中にある光景を見つめた。
 ポリゴンとは別の何かが画面奧に映っている。開かれたファイルは次々に閉じていったり開いていったり、混乱している様子を背景として、ポリゴンと、その何かが相対している。青く弾ける稲妻を纏いオレンジ色の身体をした、けたけたと笑う異色の存在。
<ロトム>
 と、ポリゴンの吹き出しがいつものように示された。
「ロトム……?」
 ノエルは狼狽えた声で繰り返す。
 パソコンに内蔵されたスピーカーから笑い声が聞こえてきた。
 オレンジ色をした異形ーーロトムの身体を中心に、電気が集まっていき、膨張していく。膨れあがり、弾け、パソコン内のデータを次々に破壊していく。ノエルのパソコンも火花が散っているような音を立てて、触れることも許されなかった。
 じっとノエルに背を向けて静止していたポリゴンは、身を縮こませる。すると、ポリゴンの、青と赤のパネルを組み合わせたかのような身体が一部変色して、目映い黄色へと染まっていく。背中や足、尾といった身体のパーツが塗りつぶされていくようだった。当然ノエルが指示したわけではなく、ポリゴンは自己判断で動いており、自ら己を変えていく姿にはプログラムを超えた力のようなものをノエルは感じた。それは、ずっと前から、違和感を抱いていたけれどずっと目を背けていた疑いでもあった。固唾を呑んでポリゴンの変化を見守る。ポリゴンから吹き出しは何も出てこない。機械音のような、声のような、聞いたことのない不思議な音がスピーカーからこぼれてくる。
 そしてポリゴンは、今も尚電気を集めて肥大していくロトムへ向かって一直線に滑空しだした。え、とノエルが呆気にとられたような声を漏らしたのは刹那のこと。ロトムの口が尖った三日月のように笑んで、まるで悪魔のようにノエルの目には映った。ぞっとして、しかしポリゴンは止まろうとせず、暴走したように一心不乱に、近付くにつれ威力を増していく電気にも怯まず、ただロトムへ目がけて走り抜けていく。変色は武装かなにかのつもりだったのだろうか。しかし、端から見れば裸で爆弾に突入していく自殺行為のようだった。
「ポリゴン! 止まれ!!」
 嫌な予感がしてノエルは叫んだが、ポリゴンは命令を無視した。使われるものが、使うものの命令をきかないことなどあるか。
 ぽーん、と、あの音がした。吹き出しの表示される音だ。画面の端に、小さく映し出されている。
<あえお;い・ア・rekuha。・aelhr・ゥハクサス、ア・ム・ソ。シ・>
 心臓が粟立つ。
 ぽーんぽーんぽーんと速いテンポで次々に重なっていく。
<あr・e・ugぇおりえあえ;あjんxre・ア・キウ・モクワ2ョ・aoerj・gaeorairホンA・レ&ゥンgja;dlkjg;oir>
<ゆaoeirgoc8o゙シMCh・Iホンahpjml;あへrgぱ>
<うえェg・イ。kdhgア>
<さ・シウ・。nejroiagjergoajodjva:pシシ・・スゑス・ク・ケ・trhrsa/pjlytospコ・ア・イ・ore,avjre・ス・・agoerイ・aojァ,eprkaアergpaj・er@goaek@cokgえらごr;おあえあお;えいrjあリガとうえrgじゃ;どいVンN・Bレサニw_池fごいfda.prekca/e:raク・ア・イ・ウ・エ・e:@a・ke@・・rkgajorアhgaurhgadnらげおいあ;goajeojc@.read;ljgairj・haoich;iojdiojga,eoirgjapoek.c@aprekaあえrぎはぺるあぽdじゃいれあすキサヨならえおpがおktydrうぃlj>
 滅茶苦茶な文字の羅列の吹き出しがいくつも浮かんで弾けていく。暗号でもなんでもない。文字化けに等しい。おぞましい異常な光景にノエルの額に脂汗が滲む。こんなこと今まで一度も無かった。言葉、言葉が。言葉がまったくわからない。
<せskhぎえrhpがじぇr0・ア・イ・・-・1あえr・。じゃ・イチ・c・・lぺear4r。ア・リ・ごメンなサいあえk4jぱj04ae;rg・ア・jaioejr・g;oai。e896.あえい。・>
 ロトムが蒼い電撃を放った。ポリゴンは一切逃げる素振りも見せることなく相対した。ポリゴンの身体が電撃の中へと吸い込まれていく。衝突の瞬間、凄まじい閃光がモニターから発せられ、ノエルは目を瞑った。激突。すぐに身を乗り出し、画面の様子を確認した。不安定なデータの煙の中からポリゴンが一点、突き抜けた、耐えた。けれど、透明感のあった身体は傷つき焼けていて、こぼれていくような煙があがっていた。「やめろ」震える声で呟いてもポリゴンの加速は止まらない。やめろ。なんで。ロトムはけたけた嘲笑い、再び電気エネルギーを貯める。素早く、巨大に、膨張する。蒼白い目映い強さはロトムすら覆い尽くし、まるで雷の怪物のよう。しかしポリゴンは怯まない。臆しない。迷いの欠片も見せずに、渾身の体当たりで、ロトムに突っ込む。ロトムが充電したエネルギーを放電したのは、ポリゴンと、肉薄した瞬間だった。
 目を凝らしていたノエルの目の前で、パソコンが雷の落ちたような音を立てて、爆発した。
「うわあッ!」
 咄嗟に腕で顔を守れたのは間一髪だったが、身体にマウスに手が触れたときのような痺れが纏う。ロトムが膨張させた莫大なエネルギーはネットの中に留まらず、外界へと飛び出してきた。
 煙臭さに鼻が痒くなりながら、恐る恐る腕を下ろして瞼を開いた。
 火はあがっていないが、パーツの至る所が電気を纏って今も細く黒煙が部屋に漂う。三つ並べられたモニターは何れもひび割れ、死んだように画面は消えており、ポリゴンやロトムがどうなったのかを確認することはできなかった。動悸が激しくなる。ポリゴンはどうなった。これだけの電気製品を全て壊して、修復できる予感はまるでしない。直るのは、動かなくなったものや異常な挙動をしているものだけだ。壊れたものは、壊れたまま、直らない。真弥になんと説明すればいいのか、ぞっと背筋が凍り付く。集めてきた情報は。抱えていた依頼は。個人情報は。バックアップはどこまでとってあったか。震える脳は残酷なほど明確に不安を挙げていって、どうするのが最善か考えられずに停止した。
 部屋の扉を開けようとする音がする。鍵をかけているため、容易には入ってこれない。しかし、それを無理矢理にでもこじ開けてしまうのが、たとえば先日のラーナーのエーフィの力であり、真弥の力である。まるで躊躇の無い、扉をはり倒す音。部屋の中に風がなだれ込んだ。パソコンの爆発にも負けない音が家に響き、部屋の中に倒れ込んだ扉は最早意味をなさず沈黙した。
 空気中に舞う塵の中、真弥が血相を変えて部屋に入ってくる。
「どうした!?」
 珍しく彼は驚愕した声をあげた。常に余裕を持ち笑いを絶やさない彼のそういった姿をノエルはあまり見たことがない。
 真弥は破壊されたパソコン群を前にして、目を瞬かせた。言葉を失っているが、それはノエルにとっても同じだった。何が起こったのか、どうした、などと、ノエルの方が問いたいぐらいである。
 あまりにも一瞬で不可解な出来事だった。
 ポリゴンはどうなったのだろう。とてもではないが真弥の顔を見られないノエルは、改めてモニターを見たが、やはり沈黙しているばかり。
 と、ふと画面にノイズが走る。
 続くように同じような灰色のひっかき傷のようなモーションが中央のモニターにのみ繰り返し現れる。静かに、決して死ぬまいと息を吹き返そうとしているのか。息を呑んでノエルは目を皿のようにして見守った。頼むから、少しだけでも希望が欲しかった。
 割れたモニターに、途切れたような画面が映し出される。あまりにも鮮やかな青だ。罅割れたブルースクリーン。ロトムの姿は無い。ノエルは右手を画面に当てて、その向こうで、青に浮かび上がったように全身黒焦げになって倒れているポリゴンを目撃し、尖った空気を吸い込んだ。
 ポリゴンの身体からは今も吸収しきれない電気が走っている。赤も青も、変色した黄色も無かった。煤けた煙が身体から力なくあがる。今、現実でパソコンから上がっている煙と同じような色をしている。ノエルは画面の中に手を伸ばそうとしているように指先をそっと動かした。ポリゴンからの応答は全くない。僅かにも動かない。吹き出しも出ない。生きている気配がない。
 生きている、気配がない。
 ノエルは求めるようにもう片方の手もモニターに触れさせた。けれどその向こうに倒れているポリゴンには決して届かない。壁が邪魔をする。これを破壊すればいけるのか。違う。その向こう側は、絶対に踏み込めない領域だ。触れられない距離感がちょうど良かったのに、こんなに今はもどかしい。
「ポリゴン」
 この感情の名前はなんだろう。
 この感情の正体はなんだろう。
 わからない。感情は分解できない。理解のできない形の無い朧げで不明瞭なもの。あたたかくなったり、つめたくなったりする、不思議なもの。
 手が強ばる。
 火傷の塊が瞬いたように震えた。一瞬ポリゴンが息を吹き返したのかとノエルは目を見開いたが、その後ポリゴンはまるで透明で見えない力に持ち上げられているように浮き上がる。足と思しきパーツは力なくだらりと垂れ下がっており、ポリゴン自身が動いているようには見えなかった。背を向けていたポリゴンの身体が反転して、顔だったパーツがノエルに向き合った。つい数分前までは、当たり前のように喋っていた平坦な顔もやはり真っ黒に煤けていて、その急激な変容を信じることができない。ポリゴンに修復はかからない。彼が剣とし盾としていたキーボードももう動かない。剥がれた武装は焦げ、沈黙し、使い物にならない。だからポリゴンにしてやれることがない。深夜にアラームをかけるという要らない設定をしておきながら、眠り涙するどうでもいい機能をつけておきながら、自己防衛機能を備えていない。欠けている。ポリゴンも、自分も。
 モニターに爪を立て、歯を食いしばった。真っ黒のなにか。ポリゴン。ポリゴンはきっと、守ろうとした。日常を薙ぎ払う暴力に対抗した。結局少しも歯が立たず、パソコンは壊れてしまっても、それでもきっと、抗おうとしていた。一瞬の判断。決意。勇気。ようやくできた、大切な、友達。その結末が、こんな。
 こんな。
 急にこんな、さよなら、あってたまるか。
「ポリゴン!!」
 名前の無い感情を剥き出しにして、叫んだ。
「生きているなら返事してよ――ポリゴン!!」
 ぴしり、と罅がのび。
 音。
 声が。
 耳を痺れさせる。
 黒い顔に、白い瞳。ほんの僅かに覗いた。機械音。ポリゴンの鳴き声。
 心許ない声と共にノエルの顔は歪み、ほどけていく。強さに立ち向かった勇気は、連鎖し、ノエルを貫いた。諦めてはいけないと。まだ終わっていない。まだ壊れていない。ポリゴンは生きている。












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