Page 92 : 邂逅





 昼から降り続けていた雨は、夜に差し掛かろうとしている頃に止み、熱っぽいたっぷりとした湿気を地上に残して闇夜に沈んでいった。相変わらず空は分厚い雲に覆われていて、今夜は月も星も見当たらない。
 アランとガストンは早めに夕食をとり、現在はホテルで休憩している最中だった。気の知れた師弟同士、男同士、特に話すこともなく淡々と時間が過ぎていく。
 ガストンは部屋にあるテーブルに向かっており、膨大な荷物となりつつある研究会の資料を整理している。明日には全日程が終了となり、明後日の朝には首都を発つ。トレアスに戻る日は刻々と迫っている。目的はあったとはいえ、羽も伸ばし、少々長い休暇をもらったような感覚だった。妻であるエリアも店を閉めている間はトレアスを離れ今日で旅行を終え、先程帰宅したことを告げる電話も届いた。
「師匠とおばさん仲良いですよね」
 電話を終えてからやや茶化すようにアランが言うと、
「こんなものだ」
 と顔色を変えずにガストンは返した。
 こんなものなのか、とアランは自分の方が少しだけ気恥ずかしい気分になった。
 基本的には寡黙だが、懐の深さや落ち着きは、なにかと行動や言動が忙しないアランには憧れだった。人望が厚いのは人徳ゆえだと理解できる。ガストンの帰りを待っている人間も少なくはないだろう。首都の煌びやかさや最先端の刺激、数多くの関係者との交流も悪くはないが、目新しさにも慣れ、そろそろトレアスの趣深い空気が恋しくなってきた頃である。
 ガストンは分厚くなった書類入りのファイルを、傍の椅子に立てかけていた使い古した黒革の鞄へとしまう。一段落ついて背もたれによりかかり、まず聞こえてきた背後の溜息に振り返った。
 ベッドに突っ伏して枕に顔を埋め、十秒に一度は深い溜息をつき、時折たまらなくなったように寝返りをうっては、また元の体勢になって溜息をつく。アランはそんなループ現象に陥っていた。
「アラン、もう一度外の空気を吸ってきたらどうだ?」
 見かねたガストンが提案しても、アランからは気力の無い生返事がかえってくるのみであった。まるで愚図る子供のようだ。彼らしくもない。午前中の一件を経てからずっと沈みこんだままで、気を利かせようとしたガストンが今日は首都の観光に彼を連れだしたが、師弟の男二人旅に日中は雨となると存分には楽しめず、むしろどこか気まずい雰囲気になってしまったのだった。エリアは滅多なことではへこまない快活な女性であり、その元気な声と身振りで周りも晴れやかにする力があるが、ガストンは人を励ますのはどちらかと言うと苦手だった。思い出せば、トレアスでラーナーがクロと喧嘩をして沈み込んでいた時もどうするべきか惑っていたものだった。アランも滅多なことではへこまないのだが、普段気丈な人物ほど深く気落ちすれば腐りこむものなのかもしれない。
 ガストンは、外出中、コーヒーを飲みながらぽつりぽつりとアランが零した言葉を思い返す。
 ――あいつ俺達のこと一歩引いてるどころか拒絶してると思うんです。わかるんです。俺達だけじゃないかも。全部多分拒絶していて本当の意味では俺も師匠もおばさんも信じていないって。一人で生きてないのに心がずっと一人きりでその自分のことも大切にできてなくて……一方通行を打開したくて諦めたくなくてずっと支えてやってるつもりだったしラナちゃんを旅に受け入れたあたりから漸く何かが変わってきてると思ってたけど結局肝心なところは何も変わっていないんですよね。伝わってないんですよ。でもそれだって本当は俺が無理矢理クロに介入しようとしていただけでただの押しつけになっていたかもしれない。今思うと俺の自己満足に過ぎなかったのかもなって。今日のことはどう考えても致命的でしたよお互いに。今まで誤魔化していたことが全部明らかになっちゃって。あんな風に拒まれたらもう何も届かないような気がしてくるんです。
 淡々と、暗い顔で自分の気持ちを整理しようとするように話していたアラン。あれほどまでにクロに対する行き場の無い虚しさをきちんと言葉にしたのは、初めてだったかもしれない。
 しかし一方で、若いな、ともガストンは思う。考えがひたむきなのだ。それに、怒るには、大きなエネルギーを必要とする。内容が泥沼であろうと、動力源が相手を想う気持ちであり、同時に自分の曲げられない意志であるという点が、実に清潔で泥臭い。罵倒の許容を超えそうになったためあの場は咄嗟に諌めたが、全力で声を荒げ率直な考えをぶつけあい喧嘩しあえることも、ある種の信頼が無ければ成り立たないものだと、クロとアランの間柄を見ていると考えさせられる。
 さてどうしたものかとガストンが思案していると、長く響くような鈴の音が部屋を叩いた。来訪者の印だ。ホテルには研究会に参加している同業者も多く泊まっており、部屋を訪ねてくることもそう珍しいことではない。何しろ大規模な会だ。全国から人が集まり、見知った顔もある。これまでガストンも友人や以前働いていた職場の先輩後輩への挨拶のために他の部屋に向かったし、逆もまた然りである。用件はただ言葉を交わし合うだけの挨拶であったり、お茶の誘いであったり、酒の誘いだったり様々だ。
 ガストンは玄関まで向かい扉を開くと、背の高いガストンとそれほど身長差の無い男が立っていた。短く整えられた黒髪に分厚い黒縁の眼鏡をかけて、少し草臥れた白いカッターシャツと黒いズボンを着ており、全体に最低限の清潔感は感じられるが、特筆する点は特に無いような身形である。
 ただガストンは疑問符を浮かべる。素早く記憶の引き出しをできる限り開けてみるが、相手にはまったく見覚えがなかった。日程の長い今回の研究会には参加者が多く、そのうちのたった一人に過ぎない彼が知るのは一握りだ。しかし、こうしてわざわざ部屋までやってくる人物は往々にしてある程度深い面識のある間柄であり、初対面となると会場で挨拶するのが定石だった。
 男は柔和な笑みを浮かべ、会釈をする。
「夜分に申し訳ございません。初めまして、ラルフォ・ヒストライトと申します」
「ヒストライト……?」
 その名前にはどこか引っかかった。どこかで聞いたことが、あるような。最近ではない。もっと昔、薄らと、直接会ったわけではないけれど、目にしたことが。懸命に思いだそうと脳を回転させていると、ふと、文字列が頭を走った。はっと驚いた顔をする。
「もしかしてあの? 昔、生物学の……ポケモン、携帯獣学の研究をされて、論文もいくつか発表されていた」
「ああ、まあ……覚えていらっしゃるとは」
「大雑誌に論文が掲載されて、新聞でも取り上げられていましたよね。ただ、確か……」
 ガストンが言葉を濁すと、ラルフォは苦笑した。
「不正の話ですか」
 すっきりと突かれてしまったので、野次馬になったような後ろめたい気分で、ガストンは曖昧に肯定した。
「そうですね……実際のところあれはいちゃもんのようなものだったと僕自身は思ってるんですが、研究内容よりもそっちを強調して報道されましたしね。ただ十年近くも前のこと。今では過ぎた話です」
「今はもう研究はされていないんですか」
「干されてしまいまして」
 肩で浅く笑った。明るめに振る舞っているようだが、暗がりのようなものが深いえくぼに窺える。実験内容の不正が明らかになるまで、若いのに立派なものだと舌を巻いた覚えがある。報道の火が落ち着いていくにつれて、真相があやふやなままいつの間にかラルフォも消えて、忘れるという自覚もなく自然と人々の記憶から忘れ去られていったという印象だった。
「遅くなりましたが、初めまして。ガストン・オーバンです。しかしどうしてわざわざ。今回の研究会に来られていたんですか?」
「……ああ、そうだったんです。といっても、傾聴役に徹しましたが」
 ラルフォは少しだけ考えるような間を置きながら、柔らかく微笑む。
「そうだったんですか……」
 ガストンは特に違和感を持たなかったようで、しみじみと頷く。
 玄関先で盛り上がっている二人のことが気になったのか、寝転がっていたアランはのっそりと起き上がり、背を伸ばして様子を覗き見る。アランにとっても勿論見覚えの無い人物だったが、自分の師が朗らかに構えている姿を見て、どことなく居たたまれなさに包まれる。
「師匠!」
 アランが声を張り上げると、ガストンが会話を中断して振り返る。その前に立つラルフォとアランの視線が合って、ぎこちなくアランは身を引き締める。
「俺やっぱり外出てきます! なんか邪魔するのも申し訳ないし中で喋ったらどうですか」
「いや、アランが出て行くまでしなくても」
 ガストンがラルフォをちらりと見ると、彼は柔和な微笑みを浮かべる。
「どちらでも構いませんよ。でも、もしもガストンさんのご都合が許してくださるのなら、少しじっくりお話できればと」
「私は構いませんが……」
「どうぞ師匠。俺も気分転換のつもりで行ってきますし!」
 先程までの鬱蒼とした雰囲気を吹き飛ばすような爽やかな笑顔が向けられる。逆に引き留めるのも良くないと思ったのか、或いは急に空元気を振る舞い始めたアランに微笑ましくなったのか、ガストンは諦めたように力なく笑った。
「わかった。まあ、あまり夜遊びはしないように」
「わかってますって。隣の喫茶店で勉強してます。じゃあごゆっくり」
 アランはベッドの上に投げ出していた黒いリュックサックを背負うと、二人に深々とした丁寧なお辞儀をしてから、ラルフォの横をすり抜け、足早に廊下を去ってしまった。身軽な少年の背中を、男二人はゆっくりと眺める。
「……すいません。騒々しくて」
「いえいえ構いませんよ。お弟子さんですか? 師匠と呼ばれていましたが」
「はあ、まあそんな大層な肩書きのつもりは一切無いんですが、うちの居候です。将来薬屋になりたいんだと言って、勉強してまして」
「そうなんですか。あの若さではっきりとした夢を持っているとは、素晴らしいことだ」
「ちょっと頑張りすぎていて不安にもなるんですけれどね。頭もいいし、ひたむきな努力家なのは私も見習わなければと尻を叩かれています。……折角気遣われてしまいましたし、中で話しますか」
「ああ……では遠慮なく。実は、差し入れも持ってきておりまして」
 そう言ってラルフォは左手に持っている紙袋を持ち上げた。ちらとガストンが中を見やると、細いボトルが見えて、苦笑した。
「準備がいいというか、元々部屋で一杯するつもりだったんじゃないですか」
「すみません。ガストンさんはお酒が強いと聞きました」
「普通ですよ。確かに好んで飲みますが」
 そうしてガストンはずっしりとした紙袋を受け取りながら、ラルフォを部屋に招き入れて部屋の扉を閉めた。


 *


 勉強、などと言って飛び出したがそんなことが今の状況でできるほどできあがった人間でもない。
 思いついた時にどこでも行けてしまう、どこでもつれていかれるのが、この街がいかに利便を追求したかを物語っているとアランは思う。湿った空気が人の隙間に満ちている。電車に揺られながら、車内の白い蛍光灯に項垂れる。何をしているのだろう。そのまま北区の中心駅に降り立って改札口を抜けてから、ぼんやりと嘆くように立ち尽くした。
 昼間、東区駅前に立っていたというポニータの噂はアランにも届いていた。自然と弟分のようなあの姿が思い浮かんだ。試しに鳴らしてみたポケギアは繋がらない。喧嘩の内容が内容なだけに、胸騒ぎがした。互いに互いを厳しい言葉で斬りつけたせいで、今更後に引けない感情がある。それなのに今ここに自分が立っている意味は。謝るためなのか。違う。自分が間違っているとは思っていない。なのに何を謝るというのか。
 帰宅の途を急ぐ人達で北区は賑わっていた。住宅の多い地区だから、夕方からこの時間帯は特に人が増えるのだろう。北区を両断するような巨大な煉瓦造りの通り、ローズ通りを正面に据えた、中央口を出て、アランは辺りを見回した。当然ながら、知らない人ばかりだ。北区のどこかに宿泊しているということしか知らない。
 人波に一人で留まり、改めて何をしているんだと自分に投げかける。こんな虚しいこと。
 東区と同様、他の地区もそうだが、中央区からちょうど真北の位置に値するこの駅の前には大きな広場が設けられている。案の定、銅像も建てられている。北区を代表するポケモンは、ガルーラらしい。遠目でも視認できる。ポケモンを外に出すことすらあまり馴染んでいないアーレイスの首都での存在感は、異様ではあったが、悪くはない。簡素な東区よりも趣向を凝らし、銅像を囲うような円形の花壇がある。ちらほらと人が座り込んで、待ち合わせをしたり、気ままに喋ったり、それぞれに時間を過ごしている。
 気が付けたのは、アランの目が良かったというよりも、やはりあまりに目立つ外見だからだろう。
 ぽつ、と銅像の陰で、花壇に腰を下ろし、前のめりになって膝を見つめている。オレンジ色の髪の毛。夜になり視界が悪くなってもなお鮮やかに浮き上がる。
 不思議に思い近付いてみる。寄せ付けないような雰囲気と、その髪の色ゆえか、誰も彼の周りにはおらず一歩引いているような空気感があった。傍まで寄ると、腕に貼り付けられた白いガーゼが目に飛び込んだ。彼は膝の上で何か手で弄っていて、何をしているのかと目を凝らしてみると、折り紙をしていたので、アランは不気味に思った。いやいやいや。こんな賑わう駅前でたったひとり、何が虚しくて折り紙に興じているんだ。あの腹が立つほど面倒臭いクロの友人というからには掴みづらい人間であることは覚悟していたが、午前中のくだけたような印象とはまるで違う。こいつはそういう不思議系キャラだったのか。慄いているアランに一切気が付かず、圭は皺だらけになった紙を覚束ない動きで折り畳んでいる。
 見ていないふりをして遠ざかろうかとも考えたが、なんとなく放っておけないような気もして、更に歩み寄った。
「……なあ」
 恐る恐る声をかける。気付かなかったらしい。
「なあ」
 気付いた。そんな気配がした。ああ話しかけてしまった。人々の声が遠くなり、圭の顔が徐ろに上向き、頬に貼られた絆創膏に一瞬アランの焦点が定まった。オレンジ色の瞳が丸くなり、続けざまにあからさまに面倒くさげな表情を見せた。衣を着ないわかりやすさだった。なんで、と無言のうちに問いかけている。こうなれば後戻りはできない。内なる覚悟でしっかりと立ち、しかし気合が入っていることは悟られないようになんでもない顔をして、あくまで自然に。
「クロの友達だろ。紅崎くんだっけ。どうしたんだこんなところで一人で」
 軽快に尋ねるが、圭は黙り込んでいる。推し量るようにアランを見つめている。
「クロとラナちゃんは」
「会いに来たのか」
 明白に不機嫌な、黒色の声音。殆ど初対面のアランにもわかるような攻撃的な態度。流石にそうも敵意を向けられては、朗らかな態度を心がけていたアランも穏やかではない。
「なんで怒ってるんだよ」
 返事はない。押し黙って、折り目が大量についた薄い和紙を鞄にしまう。苛立ちは手つきに現れなかった。大切なものを扱うように、丁寧に広げて、端の隙間に挿し入れた。一瞬の動作でありながら、優しげな手つきが妙にアランの目についた。
「なんか元気無い?」
 滑るように尋ねると、指の動きが静止した。訝しげな視線が持ち上がる。
「なんで」
「いやなんとなくそんな気がしたから。怪我してるし空気暗いし」
「暗いって」
 うんざりしたように繰り返すと、だらりと立ち上がる。
「俺のこともなんにも知らないくせに」
 む、とアランは顔を顰める。
「そんなのろくに話もしてないんだから当たり前だろ。なに君もクロと喧嘩でもしたとか」
「違う」
「じゃあなにがあったらこんな駅前で一人で折り紙なんてしているわけ。知らない奴ならドン引きして避けるところだったけど一応は顔見知りだし余計に気になりすぎて話しかけちゃっただろ」
 次々に浮かんできた言葉を軽々と捲し立てると、ぶつけられた圭の表情はぽかんと丸くなっていた。
「なにその顔」
「いや」呆れたような顔をした。「正真正銘のお人好しなんだなって思って」
「そんなはっきりと言うかっつうか馬鹿にしてるだろ」
「まあ」
「うわ隠しもしない」
 一瞬だけ、圭の頬が崩れた。
「変な奴だな」
「君に言われたくないな」
 はは、と今度こそ圭ははっきり笑った。渇いた声だった。何がおかしかったのかアランには解らなかったけれど、出会った時から圭が張っていたバリアみたいなものがほんの少しだけ剥がれたような、そんな気がした。
「あーあ」圭は諦めたような、悔しそうな、頼りない声を漏らした。「何やってんだろうな、俺は」
「いやほんとだよなんでこんなところにいるんだ」
 ぶっきらぼうに鞄を肩にかけ直した圭を眺めながら尋ねる。
「そういう意味で言ったんじゃないけど」
「ん?」
「いや。なんでここにって、ま、一人になりたかっただけ」
「ここ一人になるどころか大量に人がいるけど」
「ただの他人だし。誰もいないところにいたら気が狂いそうで」
 やっぱり、とアランは思う。何も気にしていないようだけれど、気怠げな物言い。そんな雰囲気。やっぱり、元気無さそうじゃないか。ほぼ初対面でもわかるわ。というかわかりやすいわ。明らかに嫌われている雰囲気なのが気になるけれど。
「ちょっとここで待ってな」
 アランは足下を指差し、圭の返事を待つこともなく小走りでその場を離れた。突然取り残された圭は、何がなんだかよくわからず、駅前で行き交う人の群れの中に混ざりこんでいくアランの背中を眺めていた。周囲の人の声が大きくなって、押し潰されるようだ。圭は肩を落とした。
 程なくしてアランは戻ってくる。嫌になって人の話を聞かずにどこかに立ち去ってしまうのではと急いだが、圭はちょこんと先程の場所に座り直していた。オレンジは目立つけれど、体格が小さいので埋もれているみたいだった。
「ほら」
 と、ペットボトルのオレンジジュースが圭に差し出された。
 圭は固まる。ジュースを見て、それからアランを見上げた。驚いた顔。アランはしてやったりとでも言いたげな顔をする。
「そこの自販機で買ってきた。モモンジュースとかミックスオレとかと迷ったんだけどさ、外見判断で。あげるよ」
 圭は何か言おうとしたが、喉で詰まって、黙り込んだままそれを受け取った。きんとした冷たさが強ばった掌に伝わる。
「俺も喉渇いてたんだよね」
 自分の分も併せて買っていたらしく、もう片方の手に持っていた、おいしいみずと銘打たれているミネラルウォーターの蓋をさっさと開け、ぐっと飲んでいく。喉仏が何度も上下する気持ちのいいほどの飲みっぷりを見つめて、圭も遠慮がちに蓋を開けて口をつけた。甘酸っぱい味が口の中を軽やかに流れ、頭の先まで冷たさが伝わってくる感覚がした。
「前にさあ」
 アランは思い出し笑いをした。手で揺らしているミネラルウォーターは半分近くまで無くなっていた。
「トレアスで、あ、俺の今住んでる場所トレアスっていうんだけどこの間クロがラナちゃんつれてきたときあの二人喧嘩してあのくそ野郎は旅についてこなけりゃいいとかそんなこと言いやがったんだよ。結局まあ仲直りのきっかけにってトレアスでいっつも休日にやってる朝市に二人を行かせたのな。俺とりあえず困ったらジュースを奢ればとりあえず相手は悪い気はしないし喉が潤うと頭もはっきりするし場繋ぎにもなるし飲み物くらいなら安い買い物だしあのくそ暑い中そういう気遣いって重要だから場に困ったら飲み物買えってこっそりきつめに言っておいたのな。クロのやつただでさえ口下手だから適当に会話して場を繕うとか誘導とか無理だしそうやって行動しないと駄目だって思ってたんだけどあいつ結局どうしたんだろうなって今ふと思い出したわ結局仲直りしたけどそれについては教えてくれなかったんだよなあ」
 矢継ぎ早に話す様は、現在クロと喧嘩しているのはこのアラン本人だということを忘れさせるかのように楽しげだった。それが圭には不思議だった。
「クロのこと気に入ってるんだな」
 深く考えずにそう言うと、アランは少しだけ顔を顰めた。気分を害したというより、なんと言おうか迷ったような顔つきだ。
「っていうか放っておけねえんだよな」
「昼間の、気にしてないのか?」
「は? まさかまだ許してねえよそれとこれとは話が別だ」
 苛立ちが混ざった。根は深そうだ。そして圭自身もアランのことを許していない。だから、どうしたらいいのか、余計にわからなくなる。手元で、濃厚なオレンジが小さな波を打つ。
「これも場繋ぎ?」
 圭はもらったペットボトルを揺らす。嫌な言い方だと圭自身も思ったが、気にしていないようにアランは首を横に振った。
「場繋ぎっていうより励まし?」
「……ふーん」
 圭は手元を見つめる。人が良すぎるような気もしたが、善良な眩さに拒絶する心がちりちりと焼けていく感覚がして、苦い。やさしさがいかりを融かし奥底の澱みを流していこうとする。もやもやと、感情がないまぜになる。
 ざわめきの上にぎこちない沈黙が乗る。
「あのさ東区に立ってたポニータって」遠くを眺めるような目つきでアランは続ける。「あれクロのポニータだろ」
 圭は沈黙する。
「違うか?」
 追い打ちをかける。圭はそれでも何も言わなかった。アランの中ではほとんど確定していた。
「その怪我もなんか嫌な予感がするんだけど、何かあったんだろ」
「その話はここじゃだめだ。場所を変える」
 決心したように圭は声音を切り替えた。ペットボトルを鞄の中に乱暴に放り込むと、その場から急遽逃げるように圭が早足で歩き出したので、慌ててアランは追いかける。
 広場を横切り、駅と併設しているショッピングモールの前も通り過ぎていく。夜の間だけ点く人工的な白い明かりが目映く彼等を照らし、それも遠くなる。マンションの立ち並ぶ北区らしい町並みになってきた頃、苦しい沈黙に耐えきれなくなったように、圭は隣で必死に足並みを揃えようとしているアランを振り返った。
「なあ、鶴の折り方って知ってるか」
「鶴?」
 あまりに突拍子もない話題だったので思わず聞き返してから、なんとなく勘付いた。皺だらけになって汚くなってしまった小さな紙。
「忘れちゃったんだ」
 馳せるように呟く。
「あんなに教えてくれたのに、ずっと昔のことみたいだ」
 それから、圭はまた何も話さなくなった。
 適当に建物と建物の間の暗い道を通って、ビルの裏側に回る。大通りを外れていくほど、周囲は暗くなる。人気を遠くに置き去りにしたような場所で周囲を確認してみれば、夜の沈黙を吸い込んだ褐色の壁が遙か頭上まで伸びているばかりで、現状人の気配は感じられなかった。だんだんと圭の足は遅くなっていき、辺りを厳しく見回す。
「黒の団のことは知っているんだよな」
 途中で立ち止まり、圭は試すように確認する。全身から針をそばだてて威嚇しているような雰囲気に気圧されて、アランはやや萎縮した。
「名前くらいなものだけど……」
「十分」圭は力強く頷いた。「確かにあのポニータはクロのポニータだ」
 と、話し始めた。
 アラン達と別れてから昼間に何があったのか、自分の解る範囲内でアランに簡潔に説明する。クロ、ラーナー、圭のそれぞれが分断され、それぞれで黒の団に対峙したこと。ラーナーは自身の弟と考えられる人物と出会ったが、黒の団の紛い者で、今精神的にもとても弱っていること。クロは心身共に致命傷を負い、現在も意識を失っていること。圭も黒の団と戦ったが、相手が途中撤退し、クロの救出に向かったものの、その時には既にクロは重傷だったことなどを淡々と述べた。
 話しながら圭は盛んにアランの顔色を確認したが、彼の表情は固いまま殆ど変化せず、腕を組んで何度も頷くだけだった。一通り説明を終えても、やはりアランは動かなかった。静かに怒っているのだろうと圭は思って、正直に話して果たして正しかったのかわからなくなる。
「もっと早く行けていれば……クロはあそこまでの傷を負うことはなかったかもしれない」
「……」
 言い訳がましいことを言うと、まるで逃げているようだった。何しろあの喧嘩の直後の話だ。ほら俺が言った通りだろ本当に死にかけたじゃないかと嫌みったらしく言われてもおかしくない。怒るなら怒ってほしかったし、哀れむなら哀れんでほしかった。かえって圭は苛立ちを感じ始める。自分は意を決して正直に話したというのに、この反応の無さはなんなのだろうか。はっきりとしてほしい。何をしているのだろう。覚悟を否定されたような気がして許せないと思っていた人間に、絶対にわかりあえることなどないと線を引いたはずなのに、どうしてすらすらと喋ったのだろう。
 と、アランは歯の隙間から吐き出すような息を吐き出す。細く長い息は肺から全ての空気を出しきるように続いた。
「それでクロ達はどこにいる?」
 圭はアランの顔を見上げた。
「え」
「えじゃないよ倒れたんだったら俺に何かしてやれることなんてないけど。どこにいるんだ?」
「……クロは北区の病院。ラーナーは北区のアパートに」
「ならすぐだな」
 アランは頷く。それからリュックに手を回し、外ポケットに入れているポケギアをとった。時刻を確認してまた納得したように、うん、と呟いた。
「ラナちゃんも心配だけどとりあえずはクロに会いたい。面会はできるのか? って意識不明か」
「……部屋には入れる」
「そっか」
「なあ」圭は強く言い寄った。「普段クロの発作を治してやったりしてるんだろ。お前なら、クロやラーナーを助けられるか」
 真摯で、どこか切実な問いかけだった。
 射るような、試すような、眼差しが、覗いている。まっすぐと心の深淵まで見抜こうとしているような強い瞳だ。掴まれれば、逃れられない。
 アランはのけぞりそうになりながら、それをきちんと受け取った。本気で訊いてるんだろう、きっと。それならば本気で返さなければならない。アランは暫し考え込み、その間圭の視線は少しもぶれなかった。
「俺にできることなんて何も無いよ」
 考えた末に、空白の時間が嘘だったかのように、アランは淡泊な答えを出した。
「クロは起きるのを待つしかないしラナちゃんだって俺がどうこうしたところでそう簡単に元気になるとも思えないし俺は見習いだし知識も経験も全然ないし力になれることなんて本当に限られてるしクロ達のこと正直そんなによく知らないんだよ。クロに関しては師匠なら何か具体的にいい方針を思いつくかもしれないけどさ」
 長い静寂を潜り抜けて漸く出てきた後ろ向きな返答内容にも、大量の言葉を早口でさらさらと言ってのけた勢いにも圭は面食らった。言葉を吐けば吐くほど心に膿がたまっていくかのように、アランの表情は暗くなっていた。
「……でも、クロを普段診てるんだろ」
「違う。さっき言っただろ俺はまだまだ見習い。それに師匠もクロを診察しているわけじゃない。クロの発作を治しているわけでもない。発作を予防する薬を作っているだけ。そしてもしもクロが発作で倒れた時にはベッドを貸してやってるだけ」
 アランは溜息をつく。自嘲を含めた草臥れた顔をして。
「それだけなんだよ」
 所詮は、と掠れる声で付け加える。
 圭はどこか居たたまれない気持ちに駆られた。自分は彼の地雷を踏みつけてしまったのかもしれない。
 言い切ったアランは空へ向かってぐうんと伸びをした。益々重くなり凝り固まっていく空気を解すような動作だった。
「さーてくそめんどくさいけどしょうがねえから見舞ってやるか。案内してくれよ」
「あ、ああ――」
 圭は戸惑いながら了承した。その直後。
 急に彼の顔つきが強張り、鋭く左方向に走る。ぴりっとした緊張感、湿った空気を裂く不審な音が耳を突き抜けて、咄嗟にアランの肩を掴むとそのまま力ずくで押し込み、アランを巻き込んで二人とも地面に倒れ込んだ。急なことでまったく予想できなかったアランは呻き声をあげた。
「いっ……なんだよ急に!」
「黙ってろ!」
 と言った後、先ほどまでアランが寄りかかっていた壁に警笛のような金属音が響いた。二つのナイフが壁に食い入り、振動していた。
 絶句するアランの目前で、圭は直ちに体勢を立て直すと、すぐさま腰に差している刀を抜いた。恐ろしいほど精悍に輝いた五月雨を前にして、更にアランは息を呑む。
「おまえそれ」
「黙ってろって言ってんだろ」
 圭は苛立った態度で制し、周囲の様子を探る。ナイフはやや左方向、かなり上の方からやってきた。ビルの窓から放ったのか。だが人影も無ければ物音もせず、気配も感じ取れない。次はどこからやってくる。最悪だ。こんな行き場の限られている狭く暗い場所で、しかも非力な一般人を背後に回して。こっちは昼間にも戦闘を交えたばかりで疲労も残っている。
「……」
 緊張感の高まった空気の中、圭は五月雨を正面に構えたまま、右手だけそっと離し、上着の裾を沿うようにしてズボンのポケットに入れる。手に握られて出てきたのはハイパーボール。それをそのまま後ろで呆然と座り込んでいるアランに差し出した。アランは目を丸くして圭の背中を見上げる。
「さっさと受け取れ。エアームドだ。いざとなったらそいつで対応して、うまく逃げるんだ」
「……え」
「早く」
 右手がぐっと伸びて、アランの目の前に突きつけられる。圭は意識を前に集中させていて、一切アランの方を見ようとしない。
「他にポケモンがいるのか」
「いない」
「……それじゃ君一人になるだろ」
「そうだな」
「そうだなってポケモンを使わずにどうする気だ? 無茶だ!」
「無茶じゃない。いいから早く受け取ってくれ!」
 周囲に集中をはらうのに注力させてほしかった。急かす圭はボールを軽く後ろに投げる。緩い弧を描いて落ちようとするボールをアランは慌てた手つきで受け取った。
 その時、ふ、と圭は五月雨を振るった。同時に金属音が響き、勢いを失ったナイフ二本が地面を滑っていった。先ほどと同系統のものだ。方向。投擲の元。正面のビルの三階相当にある窓を睨みつけた。
「五月雨」
 ぼそりと囁くと、音もなく刀身が淡く蒼い光を放つ。それを横一直線に構えると、後ろにいるアランにも刀の変化が見て取れ、微細な動きも焼き付いていきそうなほど凝視する。
「水斬……ッ」
 一等五月雨の放つ光が強くなり、刀で空気を斜めに切り裂いた。その空気の切れ目をそのまま描いたような三日月型の水の衝撃波が飛び出して、睨んだ窓へ向かって一瞬で辿り着き、横殴りに衝突、ガラスや壁の割れる音が炸裂した。それと共に爆発したような砂埃が窓を覆い尽くし、下まで降り注ぐ。
「行け!!」
 鮮烈な音に負けず、圭は叫んだ。アランは自分に言われているのだと解って、腹を括って立ち上がり圭の後ろから飛び出して元来た道を辿ろうとした。しかし、圭は砂埃の中に一瞬煌めきを目視した途端、すぐにアランの後を追った。すぐに追いついて、後ろの首根を掴み力任せに引き寄せる。戸惑ったアランを無視して再び伏せると、頭上を鋭い刃が一直線にに飛び、鋭い金属音を立てて地面を跳ねた。そのまま立って走ったままなら、背中に突き刺さっていた。
 今の攻撃で相手の狙いをはっきりと察した。そうとなれば、話はまったく別。
 行けと言われて走り出したのにも関わらず阻まれたアランは混乱したまま壁に張り付いた。何が起こっているのか、慣れない状況では正常に思考が回らない。
「相手の狙い、お前だ」
「え」
「作戦変更だ。傍を離れるな」
 圭は集中力を漲らせて、引き続き敵を探そうと辺りを見回し耳を澄ませた。今ので終わったとは考えていない。ただの威嚇行為に過ぎない。
 と、その時路地裏の暗闇の中に一層暗い影が映りこんで、圭はアランが走り抜けようとした道に切っ先を向けた。
 恐らくビルの三階から飛び降りたのだろう、その人物は、相応の大きな音を立てて地面へと着地した。しかし、その滑らかな動き、そしてするりと立ち上がる様子には、高所から降りてもまるで身体に衝撃が無かったかのようだった。
 黒の団だった。女性だが、身長が随分高い。肩部分で袖が切られた団服に身を通している。肩の下から指先まで、それから長い足の肌まで殆ど隠すような黒。闇夜に佇みながら、露出している肌は淡白く、切りそろえられた前髪の下に真っ黒な夜の色をした瞳が佇み、左右に二房、膝付近まで伸びた三つ編みをして揺れている。
 昼間に相対したバジルとは違って、圭は彼女に見覚えがなかった。が、身のこなしや的確なナイフの投擲は目を見張るものがあり、徒者ではないことなど明らかである。アランを庇うように前へ一歩出て刃先を向けたまま相手の動向を窺うけれど、寸とも動かず、細長い凛とした姿は立っているだけで息を呑むような存在感があった。夜が、そのまま形を成しているかのよう。とても綺麗で、とても深く、とても冷たい。
 挙動の、前触れもなく。
 動いた。不意な動きは最初から加速がついていたような速度で、目の認識が追いつかない。気付けば目の前にいた。小さな、淡白な顔が圭達の傍まで。跳ぶ。浮かび上がる。背の高さとは裏腹の細やかな軽やかな動き。爪先が、とんと刀の背面、峰に乗った。一瞬の重みが両手にかかり刀が沈み込んだ直後、相手の膝が下から顎を突き上げた。一瞬閃光が目の前をよぎり脳が揺れた。息を止めた最中、彼女はくるりと空を縦に回り、緩んだ圭の手の中の、踏み台にされ地面に刃が向いている五月雨を掴み、有無を言わさぬうちに引き抜いた。軽くなる手。剥がされた五月雨。蒼い光が淡く閉じていく、傍で長い三つ編みが圭の頭に触れて、瞬きの裏で、彼女の足がよろめいた圭の腹に食い込んだ。速い。そのまま後ろに押し込まれ、背後の壁に背中から激突した。目の前で繰り広げられた接近戦に目が追いつけないアランの肩が倒される。骨までコンクリートに叩きつけられたような音。道に縫い付けられて、奪い取った五月雨の切っ先が、彼に向けられた。
 反射的に圭は飛び出し手を伸ばす。長い黒服の裾を掴み無理矢理引いた、そのまま体重を後ろにかければ、軽い彼女の足元が崩れた。
「逃げろ!!」
 叫びながら女性の上をとり、五月雨を掴んだ。握り返されるところだが、力自体は圭の方が上手だった。掴んだ柄の端、金属部分を、彼女の額に向けて叩きこんだ。頭蓋に響く鈍い音がしてすぐ、乱れた前髪の隙間、皮膚の薄い頭部から血が込みあげて流れる。ふらりと相手の上半身が揺れ、地へ落ちた。
 女性に叩きつけられたアランは目の一寸先までやってきていた死の瞬間にすぐに動けなかった。震え。覚束ない動きで立ち上がろうとするが、圭達の速度と比べると余りにも拙い。圭はそのアランの右腕を掴むと、無理矢理引っ張りあげる。アランの足はもつれていたが圭の力はその小さな身体からは想像もつかないほど大きくて、殆ど引きずられるように走り出した。
 曇天の夜、逃避行は始まる。












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