Page 9 : 炎






 刃の炎はクロ自身を今にも包み込み焼けきってしまいそうなくらい、暴れまわるように燃え上がっていた。元々現在の季節は夏であるのに加えこの炎。気温は跳ね上がり、気をしっかりと持たせなければすぐに倒れてしまいそうだった。
 だがクロだけは異例だった。彼だけを見ればまるで暑さは感じさせない。涼しい顔で、汗も何もかいていない。
 ラーナーはさすがに身の危険を感じた。このままでは炎に呑みこまれてしまう、そう思い立ち上がり近くにあったドラム缶の陰に隠れる。それでも様子が好奇心から気になり、陰からそっと顔を出し息を呑む。
 クロは円筒の動きを止める。そして空いている左手を首にそっと当てて頭を軽く回す。軽いウォーミングアップといったところか。
 尚も刃から炎は噴き出している。燃える物などないはずだ。なのに何故あんなにも絶えず炎が暴れまわり、刃は無傷なのか。
 男は自分の目を信じることができなかった。彼の脳裏にある人物が走る。目の前にいるのはそれと全く同じ外見、攻撃方法。なのに同一ではないというのか。
 だが迷っている場合ではない。男は腰のベルトに付けていた焦げ茶の鞄から、数個のナイフを取り出す。両手にそれらを持つと、少し後ろに下がってから一気にクロに向かって投げる。
 刃先は真っ直ぐにクロへ向かって飛ぶ。クロは落ち着いてそれを見、左へ素早く避ける。が、その間にまた男は両手にナイフを用意していた。速い手の動きは戦いの慣れを感じさせる。
「まだだっ」
 男はすぐさまナイフを投げつける。今度は若干一つずつずらしながらだ。それもクロは避ける。がクロの足元に一本のナイフが突き刺さり、クロの動きは狂わされる。
 そのチャンスを男は見逃さなかった。今だと言わんばかりに男は左手に残っていたナイフを一斉に飛ばす。一直線にクロの体を狙って襲いかかる。
 しかしクロの判断は冷静で俊敏だった。クロはその右手にもっていた円筒を前に突き出すと、素早く空を横に切るように振る。
 鋭い金属音が三回鳴った。そしてクロの足元に無残にも力を失ったナイフが三つ、音を立てながら落ちた。
 それとほぼ同時に、クロの後ろ側で盛んに燃え続けていた炎の渦が弱まり始める。光に潰されていた影がだんだんと長さを伸ばしていき、周囲は暗闇を少し取り戻していく。
 炎の回転は上の方から無くなっていき、虚空に火は消えていく。風に押されては何も無かったように死んでゆく炎の中から、身体に大きな火傷を負いか細い呼吸を微かにしているザングース達が次々と姿を現す。目は誰も開けている者は一匹として居なかった。身体は力を完全に失ったようにだらりと地に伏せ、美しくも逞しかった白い毛並みは焦げていた。
 ただ黒い爪だけが鈍い光を反射させて、空しく倒れていた。
 そして渦が全て消え去ったとき、ポニータが涼しげに頭を軽く振る。つい先程まで炎を口から吐き続けていたのにもかかわらず、その顔に疲れは伺えない。
 普通では持ち得ない尋常ではない体力、そして攻撃力をポニータは持っていた。
「……さて、ザングースは皆気絶……でもないかもな。ただ体力は残っていても、あれだけ大火傷を負えば体を動かすことさえできない。ナイフの本数もかなり失った……。まだやるか?」
 クロは男に向かって挑発するように言う。口調は男を舐めているように感じさせる。
 それを聞いた男は肩を軽く上下させつつも、口元を釣り上げた。それを見た途端クロは不快だったのか少し眉間に皺を寄せた。
「くっくははははは!! ……藤波黒、といったな。その力は認める。だが、少々油断が過ぎるな」
 その言葉を聞いてようやく、クロは自分の耳に何か不審な音が届いているのを感じた。何か迫ってくるような音だ。小さい。だが、少しずつ近づいてきている。ただ何の音なのかが分からない。
 ポニータは駆け寄るようにクロに近付く。音は大きくなっていく。ポニータの地を蹴るような軽快な音ではない、もっと重く底からくるような音。
 その時、クロは直感した。そして瞬時にその仮定を肯定し、血相を変えて後ろを向いた。
「ポニータ、来るなっ――」
 忠告は遅過ぎた。
 ポニータの足元から何かが飛び出す。それは丁度ポニータの腹の下の位置にいた。
 手に持つ白く大きな爪がポニータの白い腹を切り裂く。途端ポニータは悲鳴をあげつつも、クロの忠告を聞いていたおかげか急所は避ける。が、続けざまに背中にある重なるように生えているハリで、ポニータの前足に力強く体当たりをする。
 大きな黒い瞳を持つそれは、サンドパンだった。穴を掘るで相手の動きを止めてから背中のハリを使った体当たりといった攻撃。加えて地面タイプの技である穴を掘るは、炎タイプであるポニータにとって相当の痛手だった。ポニータは腹の痛みと前足のバランスを崩されたことで、勢い任せに地に倒れた。
 ポニータの前足から血が出ていた。サンドパンのハリをまともに食らった足は、恐らく自在に動かすことは到底無理だろう。
「ポニータ!」
 クロは悲鳴にも近い叫びをあげ、二メートル程後方のポニータのところへ駆け寄ろうとした。
 が、瞬間男の方から殺気を感じ円筒を回す。思った通り、男がナイフを投げてきていた。一体いくつ持っているのか。舌打ちをしながらクロはそれらを刃でいなす。
「サンドパン、砂かけだ」
 男はすかさず命令し、サンドパンはその言葉を聞いた瞬間動いた。鋭い爪で地面に埋め込まれている石を削る。
 みるみるうちに石は削られ粉と化し、それなりの量が出来あがるとサンドパンはそれを発達した後ろ脚でクロに向かってかける。
 クロは右に避ける。が、少々体にかかり気をとられる。その隙に男は再び懐からナイフを右手に持つと、それを素早く投げた。
 ナイフの先がクロの左腕を掠る。が、掠っただけで十分だった。刃先はクロの黒い服を引き裂き、更には腕にも浅い傷を残していった。傷口に血が少しずつ出てくる。
 陰から見守るラーナーは初めてクロが押されているのに気づき焦った。だが自分が出たところで何もできない。
「油断は戦場では命取りだよ。持っているポケモンはポニータだけか?」
 男は形勢逆転したことで声が上ずっていた。
「…………」
 クロは左腕に出来た三センチほどの傷をしばらく見つめていた。表情は静かだった。風も波紋もないただ平らな湖のように、落ち着いていた。
 ただ目の光だけが冷えていくようだった。
「おい、なんとかいったらどう――」
「黙れ」
 クロの氷のような声が男を無理矢理黙らせる。声の重みが男を震えさせ圧倒していた。
 凛とした空気が流れ、クロは火をまとった刃の片方を地に荒々しく付けた途端、素早くそれを回す。自分を中心とした円を描いていた。まるでクロ自身がコンパスになったように。
 地面に傷が付き、描き始めと描き終わりの線が重なった時、円は完成した。その時、円の線から炎がちらつき始める。
 ぞくり、と男の背中に恐怖が走った。笑みが張りついたような表情が凍りつき、足は何故か動かなかった。
「一気に終わらせてやるよ……」
 その声は怒っているようにも笑っているようにもとれた。ラーナーは息をつまらせた。



「炎渦鳳来(えんかほうらい)」

 クロは呟くように言葉をなぞる。その瞬間円の炎が消え、途端同じだけの大きさの炎の円が男とサンドパンの周りに現れた。
 気付き逃げようとした時にはもう遅かった。その円から突如赤い炎が飛び出し、火柱が地面から天へ伸びる。勿論彼等はその中に巻き込まれた。
 ラーナーは悲鳴をあげそうになった。だが声は出てこなかった。涙は驚きで止まっていた。
 男は悲鳴をあげた。手が足が頭が腹が全てが炎に在る。耳の中を轟音が暴れまわっている。自分の体が燃えてしまう。死という言葉が今はっきりと脳に浮かぶ。
 が、すぐに気が付いた。おかしかった。
 ――熱くない?
「ポニータの炎を知ってるか?」
 クロは男の入っている火柱に近づきながら問う。
「ポニータは背中に火を持っている。だけど、自分が心を許した奴にはその炎を熱く感じさせない能力がある。――それとこの炎の原理はよく似ている」
「――っ」
 男は何か言おうとしたが言葉には出来なかった。
 クロは円筒を反回転させて改めて持ち直すと、少し右腕を上げた。右手は柔らかく包むようにその黒い円筒を持っている。
 熱風によって帽子の下から覗く髪が弾けるように舞っている。
 刃の炎と火柱、辺りは炎で包まれているのにもかかわらず、周りの木造建築の建物は燃える気配は微塵も感じさせなかった。
「俺は、自分の意思で炎で対象を“燃やすか”“燃やさないか”を操ることができる。……結構コントロールが大変だけどな。だから今あんたが入ってる火柱は見かけ倒しってとこだ。……ああでも出ない方がいい。外側は本物だから。サンドパンも同じだ」
 その声は男の耳にはっきりと届いていた。だんだんと荒くなっていく男の呼吸。胸の中に何かどす黒いものが滝のように流れてくる。
「戦いで自分の手の内を明かすのは死活問題。なのに今なぜ俺があんたに話したか。それにこんなにゆったり話してる……分かるだろ?」
 男は全身が震えあがった。目が見開き、呼吸が今までになく激しくなる。疲れているわけではなく、すぐ起こるであろうことに対する焦りと恐怖と苦痛からだ。
 外からまだその男の姿がよく見えた。炎の壁が邪魔になりながらも。クロは冷ややかな目でその様子をただ見つめた。


「さよなら」


 その直後にクロは大きく一歩を踏み出し右腕を大きく振った。刃が火柱に突き刺さりすぐにまた姿を現す。そこから血が噴き出し、二つの火柱の威力が増したかのように、少し炎が膨らんだ。
 男の姿はもう外からは見えなかった。声も聞こえなかった。無理矢理かき消された二つの悲鳴だけが、余韻としてほんの少しの間だけ残っていた。
 ラーナーの声にならない悲鳴も確かにそこに響いていた。












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