Page 95 : 真夜中の夢へ





 あたたかなポニータの炎に照らされながら、翅の一枚ちぎれた飛べないアメモースが、心許ない表情でクロを覗き込んでいる。欠けた部分を覆うように、胴体ごと斜めに包帯が巻かれていた。血は滲んでいない。しかし欠損には嫌でも視線が向き、痛烈に胸を圧迫する。
 鎮痛剤の類を打たれ、クロの身体はひたすらに重いだけで、あの豪雨の中、身を粉々に砕いた激しい痛みは不思議なほどにぼやけていた。その影響か、瞼は目に沈み込んでくるかのようだった。容体は安定に至ったものの、医者からは絶対安静を伝えられていた。しかし、一人にさせてほしいと頼んで圭も部屋を出て行った後、その通告を無視し上半身を起こしてしまっていた。誰かに咎められようと構いはしないと思った。それよりも今のこの一瞬がとても大切で、同じくらいに哀しかった。クロは包帯の巻かれた右手でアメモースの額に触れる。ざら、と擦れる音がした。手の全体が遮られており、直にはアメモースの質感に触れられなかった。もどかしく思い、親指の根本あたりに歯をかけると、そのまま引いて噛みちぎる、そうしたら、アメモースの身体が震えて、その様子を見たクロの脳裏にも翅が失われたあのおぞましい一幕が掠めていった。発達した牙が翅を捕らえ、泣き叫ぶ声と、ちぎれていく繊維のひとつひとつがひどい雑音のように走っていって、それから最後に、血の滴り落ちる口から一枚の翅が垂れ下がっている光景が鮮やかに突きつけられた。やるせない思いに駆られて、何も言えず、包帯をゆっくりとほどいていく。罅の入った黒ずんだ爪と、青痣と赤い切傷が重なったような淀んだ指が現れて、今度こそほんとうに肌と肌が重なる。輪郭をなぞり、確かめ、無き翅の部分で動きを止めた。ふわり、ふわり、力無く大きな触覚が揺れる。
 病室を横に断つようにベッドが置かれている、その窓側の隙間の、ひと一人分だけ通れるほどの場所を占領するようにポニータが立ち、顔を突き出して、ほんの少しだけ舌を出してクロの顔にそっと触れた。ガーゼや包帯の隙間に覗いている肌の部分を、大切になぞる。獣の匂いをくるめた息遣いが顔を刺激して、クロは目を細めた。
 ポニータを諫め、ガーゼの下、腫れて青ざめた顔で、クロは不器用に微笑む。
「アメモース、痛むか」
 未だうまく出ない、強張った声で尋ねる。アメモースは躊躇して、しばらく考え込んでから、弱々しく頷く。素直なポケモンだ。そういえば、キリで同じような質問をポニータに投げかけた時、ポニータは即座に首を横に振ったものだった。歩くこともろくに出来なかったというのに強がった。いつだって、壊れない自分を置いて、周りが傷ついている。
 アランが死んだ。
 ガストンが死んだ。
 エリアが死んだ。
 眠っている間に、あまりにもあっけなく、掌に乗った綿に息を吹きかけて見失ったようにいなくなってしまった。まるで嘘のようだ。ほんとうに嘘ではないかとも思う。しかし、圭の歪んだ顔が真実を物語っていた。あのぐしゃりと潰れた顔で、圭はひとつひとつゆっくりと口にした。ホテルの一室で息絶えた後に別の薄暗い部屋に移されたらしい、ガストンの肉体変化を記録しているかのようないくつもの写真がノエルの仕事用のメールアドレスに向け送られてきて、トレアスにて火災が発生し、火元であるオーバン家の住居にいたエリアの死亡が全国ニュースで伝えられ、黒の団に追われた末、バジルに全身を刺されたアランは圭の腕の中で事切れた、と。ガストンについては遺体を実際に視たわけではなく、エアームドに乗って窓から確認したところ、遺体は無く、部屋は不自然なほど自然な美しさが保持されていたという。しかし、まるで死後の経過を追った数々の衝撃的な写真のリアリティに、間違いないと判断された。トレアスの火災はまだ詳細が不明だが、クロはかつてホクシアで黒の団が放ったデルビルの件――毒性の高いスモッグを吐き出し、それを引火させて爆発させることも可能だと彼女は語っていた――を薄らと彷彿させていた。アランの最期に関して、時折言葉を詰まらせながら圭はきちんと話をした。昼間アランに憤っていた事実を忘れさせるほど、切実に、暗闇でも顔が青くなっているのがわかるほどにとても苦しげに、話したのだった。その凄惨な内容、一言一言に向けて、クロは現実とも夢とも判別のつかない空気の中で、静かに耳を傾けていた。
 アランに呼ばれたのは、何故だったのだろう。確かに、聞こえたのだ。それこそ、嘘みたいに思うけれど。
 点滴薬が流れ続ける左腕も動かすと、針からチューブにかけて、肌の上でぴんと張ったのがわかった。構わない。邪魔なくらいだ。
 クロは繊細な硝子細工に触れるように、優しい手つきでアメモースに両手で触れる。そのまま抱き寄せるように後ろに手を回した。やわらかな身体だ。弾力があって、気持ちがいい。
「ごめんな、アメモース」
 穏やかに抱擁されて安らかに身体を委ねていたアメモースは、傷だらけのクロの顔を見上げた。影の中、彼は哀しい顔をしていたけれど、深緑の瞳は死んだように乾いている。
「お前のことは、絶対にいつか野生に返そうと思っていたんだ。お前には、帰るべき場所があるから。それなのに、……」
 それ以上続けることができなかった。
 トレアスにいる、アメモースの慕うもの。アラン達の家にクロが赴く度に、彼はまっすぐに彼女の元へと翔ていった。気まぐれなアメモースはモンスターボールから解き放たれれば自由に羽ばたいた。その後ろ姿が、トレアスでは普段に増して生き生きとしていた。いつも見ている方も気持ちが良くなるほど、突き抜けるように大空を飛んでいたのに。
 飛行を移動の主体とするアメモースは歩くことができない。飛べなければ動けない。動けない野生は滅びの一途を辿る。瞬く間に自然に呑み込まれて、駆逐されてしまうだろう。
 クロは際限なく広がっていく感情をどこに流せばいいのかわからず、心にある壺のようなものに滴がひとつふたつと落ちて溜まっていくのを感じた。ひたひたと既に溢れかえりそうになっているところに、危うい波紋がいくつも刻まれる。誰よりも辛いのはアメモースであるはずなのに、当のアメモースは、小さな声をあげて、まるでクロを慰めているように身を擦り寄せてくる。健気で、余計に傷が抉られるように締めつけられる。
「ごめん……」
 全身に不幸を背負ったようにクロは呟く。そのまま耐えられずに、息を止めて、アメモースを強く強く抱きしめた。生きてくれた。生き延びてくれた。それなのに、死ぬよりも辛い運命を背負わせてしまったような気がした。
 自分を囲うものが、傷ついていく。
 自分はたくさんのものを、傷つけている。
 生きているだけで。
 匿い支え続けてくれたアラン達は、自分がいなければ殺されることなど無かった。今だって健やかに笑うことができただろう。朝日を疑わずに眠ることができただろう。幸せなこれからを過ごしていたに違いない。いつかやってくるかもしれない最悪の可能性を危惧していたにも関わらず、利用していたのは、甘えていたのは、自分の方だ。近付きすぎてしまったのだ。そして、すべてを壊してしまった。未来を奪ってしまった。もう戻ることなどない日々。もう会えない。もう話せない。もう笑えない。もう。もう、もう、もう、もう、二度と。二度とだ。これから先、永遠に。それが死ぬということだ。
 生きているだけで、命は燃える。まだ、のうのうと燃え続けている。
 今まで何人も何匹も殺してきた汚れた身だ。こんなことでは傷つかなかったはずだ。一切を手放し身ひとつになっていたはずなのに、大事なものを手に入れすぎてしまっていた。なにもかもいらなかった。求めてはいけなかった。重ねたところで跡形も無く壊れるのなら、重ねることになんの意味がある。こんな世界にこんな自分に自由も幸福もありはしない。わかった。わかっていた。ぜんぶわかっていた。そして思い知った。零を探さなければならなくて、どうしても会わなければならなくて、ずっと続けてきた旅だった。だから死ぬわけにはいかなかった。けれど、きっと零はどこにもいない。零はどこにもいないのだ。――あれ。引っかかる。どうして、笹波零を探さなければならないんだった。どうしても、その理由はなんだった。誰の旅。誰の願い。誰の望み。誰の自由。誰の幸福。誰の。誰。誰でもない。なにもない。なにも残っていない。ひとりぼっちの荒野。血の臭いと傷の痛み。旅路の果てにはなにもない。なにもない。守ってきたもの、唯一だったものさえ自分から手放してもうなにもない。これから先なんてもうみえない。もういい。もう、いい。もう、充分頑張っただろ。終わりにさせてくれ。
 抱いていた腕が緩み、アメモースを解放した。奧に深緑を秘めた真っ黒な目が、アメモースを見る。寂しげな鳴き声が返る。ポニータを見る。くぐもった鳴き声が返る。
枕の脇に置いていた二つのモンスターボールを手に取る。部屋の隅をぱっと照らす赤い光が瞬き二匹を包み、すぐに音も無くボールの中へと吸い込まれていった。
 残ったのは、深い暗闇と静寂だけ。
 元の位置に正し、気怠げな重い動きでベッドに潜り込んだ。静かな闇の中、たったひとりきり、恐ろしいほど透明に枯れた夜。傷だらけの香り。
 ボールを見つめながら、ふと、彼女の横顔を思い出した。栗色の髪が風に大きく靡いて、白い光に輪郭が照らされている。その顔が振り向いた途端、光が強くなり、その中に溶けて表情は見えなくなって、現実の闇夜と重なって黒く塗りつぶされた。
 真夜中が彼を運んでいく。
 風前の灯火が、揺れる。
「少し……疲れたな」
 呟いて、目を閉じ、世界をみることをやめた。
 閉じた直後、ゆらりとすべてが揺れて力が抜け、クロは、暗闇の中の、更に奥の深みへと誘われるように、あたたかくてつめたくてまっくろな深海へと沈んでいく。底無しに広がっているのは、なんの光もない、ほんとうの闇だった。からっぽのまま、音もなく落ちていく。どこまでいくのかも知らないまま、やがて彼の指先はじわりと墨に沈んだように滲んで、黒に融けていく。侵蝕が始まって、暗闇との境界線があやふやになる。動かない身体は為されるがまま。じわじわと、指先から奥の方へ向けて進行してきて、感覚が失われていく様を自覚しながら、そのまま委ね、受け入れる。とても優しくて心地が良かったから、呑み込まれたって何も怖くなかった。












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