[びいだまよほう。]




　どうしよう、動けない。
　自覚した途端、冷や汗が滲みだす。ハスボーは衝撃の事実に驚きを露わにした。六本の小さな足をじたばたと動かしてみるけれど、あまりにも短すぎて少しも頼りにならない。体を横に振ってみようにもうまく力が入らない。背中の蓮が大きくて重くて言うことをきかないのだ。
　あれ、どうしよう、本当に動けない。
　空と地面が逆になった視界だった。彼はひっくり返って身動きがとれなくなっている。虚しく空を掴む足。あるいは手。
　落ち着け、冷静になれ、どうしてこうなったんだっけ、そう思い返す。つい数十秒前、ハスボーは木々の間の道を歩いていた。短い草が生い茂ったそこで、狭い視界を頼りに進んでいた。そう、ぼーっとしてたら草むらに隠れた石に気が付かなかった。足が引っかかって、前のめりになった。バランスはとれなかった。重心はいつのまにか前へ。頭から地面に突っ込んだかと思えば、すってんころり。そしていつのまにか動けなくなっていた。鮮やかな前回り失敗例。問題は彼がハスボーであるという点だ。
　真っ青なお腹を思いっきり剥き出しにして、そよぐ風すらくすぐったい。
　しかしそんなのんびりした感想を述べていられるほどハスボーは平常でなく、心中で必死に葛藤していた。しかし名案は思い浮かんでこない。ぐいいっと足を右方向に寄せて力を入れてみる。重心が傾く気配は無い。彼が考えているより背中は安定しているらしい。
「うー……」
　小さく唸る。
「たーすー、けーてー……って言ってもなあ……たーけーてーすー……」
　弱々しく頼りない言葉は、虚空にあっけなく吸い込まれていく。無意味に手足を細かく動かす。見た目には、静かに駄々をこねる子供のようだ。ああ、どうしようか。このまま動けず餓死してしまうのだろうか。途方に暮れたハスボーは運動を持続したまま、目の前の草むらに虚ろな視線を向けていた。
「……何やってんの」
　ばたばたと動いていたハスボーの動きが、時が止まったように制止する。思わず自分の耳を疑った。僅かなものであったが、女の子、そう、女の子の呆れた声がすぐ傍から聞こえた。しかし、彼の視界ではその姿かたちが確認できない。彼の目の前ではただ草が無限に広がっているだけだった。
「だ、誰かいるの！？」
「まあ……いるけど」
　返事が戻ってきたことで空耳でないことを確信し、ハスボーの胸の中の熱気は一気に上昇していく。
「あっあの……僕転んじゃって……この通り動けなくなっちゃって……良かったら助けてもらえないかな……！」
「はあ？」
　明らかに不機嫌な声音にハスボーは萎縮する。もしかしたらこのチャンスを逃して助からないかもしれない。更に言葉を重ねていかに大変な状況にあるかを説明したかったが、焦燥が思考を妨げて、まっしろになる。それでも、本当に身動きがとれないことを主張するように、手足を精一杯に動かして助けを必死に求めた。
　数秒間の沈黙が訪れる。訪問者からの反応の無さに、まさか立ち去られてしまったんだろうかと背筋に悪寒が走った直後、彼のお腹に何かが乗っかった。
「ぐえっ！？」
　思わず声をあげたが、感覚としては随分軽い。驚きで思わず大きな声が出てしまっただけだ。
　実際、彼のお腹に乗ったその訪問者はハスボーよりもずっと小さいサイズの生き物だった。
「あなた、本当に動けないわけ？」
「そ、そうだよ！　このままだったら僕死んじゃう」
「大袈裟！」
　訪問者は鋭い声を浴びせるが、大袈裟でもなくハスボーには文字通り死活問題であった。
「あの、たすけてください……ほんとに……」
　小さな蝋燭の火のような弱々しい声でハスボーが懇願すると、彼の様子が只事ではないことを察したのか、彼女は思考に入る。数秒の間を置いて、大きな溜息がハスボーの腹の上で零れた。
「もーっしょうがないわね！」
　と、ハスボーのお腹から重さが消える。地面へと跳び降りたそれはハスボーの隣へとやってくると、体全体を使って押し始めた。体長はハスボーの方が大きく、体重は言うまでもなく。白い顔を真っ赤にしたそれの全力。息を止めて体中の体重を前へ前へと力強く。すると、ハスボーの体は遂に傾き始めた。あ、と思った瞬間、ハスボーも足を渾身の力を込めて引き寄せ、重心をずらす努力をする。もう少し、もうちょっとだと草むらで奮闘する二匹。しかしなかなか彼の体はひっくり返らない。もどかしい拮抗した状態がしばらく続く。両者とも諦めきれず持てる力を振り絞った。
唐突にその時はやってくる。ぐるりと彼の視界は回り始めた。
「わあ！」
「きゃっ」
　二匹の声が跳ねる。と同時にハスボーの体は大きく半円を描く。草がクッションになって再び転がりこんでいくのは塞がれる。六本の足は再び地面を踏んだ。ぐえ、とまたおかしな声を出して、ぐちゃりと溶けるようにその地に潰れた。
　瞬きをする。地面が下にある。ふと視線を動かすと、青々しい空が上にある。ハスボーは起き上がることができたという状況を時間が経過するにつれて理解していく。ゆっくりと湧き上がる喜びに、自然と表情は綻んでいく。
「……も、もど、ったあ〜！」
　のんびりとした口調の安堵の声。対して、草むらに転がりこんで姿が見えなくなっていたそれは怒った顔で立ち上がった。
「戻ったあ〜じゃないわよ！　なに、その気の抜けるような感想は！」
「え、ええっ……というかどこから……」
「もーっここよここ！」
　声のする方にハスボーは目線を向けるがなかなかそれらしい生き物は見当たらない。そもそもハスボーは頭の大きな蓮の葉と嘴のおかげで視界がとても狭いのだ。葉のおかげで常に影になった視野だし、見えないのも無理はない。と、草むらを掻き分けてくる音がした。草と草とが掠れあう中から、ひょこりと小さなそれは顔を出した。
　ハスボーは目を丸くする。小さく声が漏れる。相手に焦点を一気に合わせたら離せなくなってしまった。はっきりと姿が自分の視界に全て映っていた。なんて小さな生き物だろう。自分より大きい黄色い花に捕まって、ふわりと浮かんでいる。花弁に包まれた中心にいる黒く円らな目をした真っ白いポケモン。フラベベだ。可愛らしい外見に無意識に見惚れていると、相手は機嫌を悪くしたのか顔を顰める。
「なによ、じろじろ見て」
「えっあの……すごい、ちっちゃいなって」
　悪気の無い素直な感想は、フラベベの癇に障ったようだ。彼女の小さな眉間に更に細かい皺が寄る。
「小さくて悪かったわね！」
「ちが、悪いわけじゃないよお！　あの、すっごくいいと思う……！」
　思わず口走ったハスボーの言葉にフラベベの白い顔にほんのりと赤みがさした。
「――なんか調子狂う」
「ご、ごめんよ」
「ごめんじゃなくって、さ……もう！」
　ぷいとフラベベは顔をハスボーから背ける。何が何だか分からないハスボーはただ戸惑いながら思考を回転させつつ、あることに行き付いてはっと顔を上げる。
「そ、そうだよね！　助けてくれてありがとう。本当に助かったんだ……！　僕はハボ。君の名前は？」
「……――」
「え？」
「……ラムネ」
「ああ、ラムネかあ！　いい名前だねえ」
　フラベベもといラムネは実感を込めて褒めるハボに、ちらと視線をやる。彼の表情はのんびり口調と同調したような柔らかな微笑みを携えていて、更にラムネのリズムは崩される。
「あんたって、なんか天然っていうか……能天気ね！」
「えへへ、よく言われるんだあ！」
「褒めてないから！」
　貶したはずが逆に美味しいものを食べた時のように口元を緩めるハボにラムネは思わず鋭く突っ込む。なぜ能天気というネガティブな発言でにやけるのか、ラムネには理解できなかった。必死の運動に上乗せされる僅かな会話でラムネは疲れは深まっていく。重たい空気が小さな体に圧し掛かり、最早ハボの呑気な瞳を見るだけで全身の力が抜けていくようだった。あのまま放っておくべきだっただろうか、苦々しく数刻前の出来事を彼女は思い出す。
「ところで」
　ハボが言い始めると、自然とラムネは顔を上げる。
「ラムネはこの辺りに住んでいるのかい？」
「え？　ああ、まあそうだけど」
「そうなんだ！　じゃあ、ちょっと教えてほしいんだけど、ここらへんに綺麗な水がいーっぱいあるところはある？」
「綺麗な水？　……川なら近くにあるけれど」
「川！　良かったら案内してくれないかなあ。僕、綺麗な水を求めてここまで来たんだ」
「なによ急に。大した距離じゃないわよ？　別にいいけど……」
「ほんと？　やったあ良かったあ！」
　そう発言した瞬間、ふわりと浮かび上がるようにハボは跳び上がって喜んだ。リアクションの大きさにラムネはの全ての思考回路は即時停止した。変なやつだ。確信した。まるで違う世界を生きているよう。
「そうと決まったら早く行こう。ほら、僕のこの蓮の上に乗っていいからさ」
「え、いい。なんか土だらけだし」
「え」
「……何？」
　少し表情が変わるハボ。軽いショックを受けたような声音にラムネは気持ちが引きずられる。間伐入れず断ったのが傷つけたのかと錯覚したが、ハボはまじまじとラムネを見つめ続けている。ラムネには何を考えているのかまったく予測もつかず、動揺してたじろぐ。少し空気が萎んだところで、やがてハボの方から口を開いた。
「こんな草茫々のところに住んでるのに土とか気にするんだね……」
「うるさい！！」
　少しでも心配した自分があほらしいと思えた。


　＊


　なんの因果か偶然に出会った二匹は一番近くにある川へと向かう。大きなポケモンにとっては目と鼻の先にあるようなものだが、揃って小さいハボとラムネにとっては十分程歩く必要があった。
「僕のいたところはとっても美味しい水がいっぱいになった池だったんだけどねえ、なんか美味しすぎたせいなのか最近突然怖いのが増えちゃって。歯がぎざぎざで、目もこーんな感じで尖ってるんだ」
　そう言ってハボは限界まで目を細めて、ほぼ一直線のところまで作りだしてみせる。が、彼の表現しようとする努力も虚しく、傍から見れば目と目の間に皺が寄っていてどこか間抜けな顰め面で、ラムネには怖さが微塵も伝わってこないのだった。
「いや、わかんないから」
「ええっ」
　思わず真顔で返すと、全力をあげて表情筋を強張らせていたハボは顔をそのままに固まる。どうも今度はショックだったらしい。しかしついでに歩行まで止まってしまう。ラムネに苛立ちの波が押し寄せる。
「ああもう。わかる、わかったから！」
「そ……そう？」
「そうなの。だから行こ！　あとその顔ももういいから！」
　言われてハボはすぐさま筋肉を緩めて元の表情に戻り、先を行くラムネを慌てて追いかける。
「……でね」
　すぐに追いついたハボは話を続け始めた。
「その怖いやつ、最初は少なかったんだけど、強い上にいつのまにか子供もいっぱいできて増えて、そしたら生活がぐちゃぐちゃになっちゃって。僕弱いから追い出されちゃったんだあ。まいったよねえ」
「……そ、そう」
　話を流せず、ラムネは自然とたじろいで言葉を濁す。
　呑気な言い口と話の内容の重さとのギャップが大きすぎて、ラムネはどんな感想を述べたらいいのか分からなくなる。この僅かな時間だけで数々の天然発言天然行動を繰り出し、そして何より、彼には危機感というものがまるで無いように見えたが故に、ハボのその話が真実かどうかすらラムネにはいまいち掴むことができなかった。しかし、不思議と嘘を言っているようにもラムネには見えなかった。だから、疑いながらもきっと真実なのだろうと呑み込む。
「大変、だった、わね」
　沈黙するのも申し訳なく、当たり障りのない言葉をぎこちなくかける。が、すぐにハボは彼女の隠しきれない暗い表情を察知し、慌てるように声をあげた。
「あっ……ごめん、気に障っちゃったかな」
「違う。そうじゃないんだけど」
「自己紹介で言ったつもりだったんだあ。だからね、あんまり深刻にとらなくていいよ。そりゃあすごく好きなとこだったけど、しょうがないんだよねえ。あんな怖いのに勝てる気もしないし悔やんでも仕方がないから、新しい綺麗な水を求めてここまで来たんだ。それで、もうすぐ川に着くんでしょ？　もうね、早くお腹いっぱいになりたいなあ」
　彼の脳内辞書には不安や心配といった言葉は無いのだろうか、と錯覚するほどハボは至って平常でマイペースを貫いていた。
「……あんたって、なんかいいわね。平和で」
「うふふ、褒めたってみずでっぽうしか出てこないよお？」
「皮肉って言うのこういうのは！」
　相変わらずラムネはハボのペースに乗りかかることができないでいた。そもそも乗れる気がしなかった。
　そうしていると、彼等の耳に生き物の鳴き声の隙間で、水の流れる音が届いてきた。ハボの感情は自然と高揚していき、相関するように足取りは軽くそして速くなっていった。ラムネもスピードを合わせるように上げていき、やがて長い草の群れは終わりを見せようとしていた。跳びはねるように彼等は草むらから出る。瞬間、ぱっとハボの顔は輝いた。
「わあああ、お水だああああ！」
「ちょっと危な……きゃっ」
　ぱっしゃーん！
　日光をきらきらと反射させながら、外からでも水底が簡単に見えてしまうような澄み切った浅い川。ハボは我もラムネも忘れて無我夢中で跳び込んでいた。ラムネを巻き込んで。
　勢いが良すぎたせいで彼等には不釣り合いな巨大な水飛沫が空中へと弾ける。流れはそこまで強くなく、ハボは余裕で踏みとどまることができる程度だ。川の水面に蓮の葉が一つ、浮かんでいる。やがて、隣でいくつもの小規模な泡が立ち上がり、黄色い花と共にラムネが顔を出し、流されないように必死の形相で川の石にしがみ付いて、時間をかけて上る。身の安全を確保した後に体ごと振って水を弾き飛ばすと、真っ赤になった顔でハボの葉に乗りかかった。
「ちょっと、突然跳び込まないでよ！　私までびしょぬれになっちゃったじゃない！」
　怒りを炸裂させながら小さな手で葉を殴る。が、ラムネの力のなんと弱いことだろう。ハボはびくともしない。
　周囲に水を飲みに来ていたポケモン達はそんな二匹の慌ただしい様子を遠巻きに不思議そうな目で窺っていた。その視線に気が付いたラムネは羞恥心に急にしおらしくなって、手を止める。
　すると、ハボがようやくゆっくりと顔を出し、長い息を吐く。
「ぷっはああぁぁああ生き返ったあ！　お腹いっぱい〜」
「あんたねえ……」
　恥ずかしさと怒りで顔を赤く染めたまま、ラムネはふわりとハボの顔の見えるところまで浮かび上がる。彼の目を見てどんな説教を食らわせてやろうと思ったラムネだったが、心の底から満足そうにのんびりと笑みを浮かべているハボの表情を見た瞬間、言葉が出てこなくなる。しあわせと彼の口元から零れる。ラムネから毒気が吸い取られていくようだった。
「もう……いいや……」
　怒ったところで自分が一方的に疲れるだけだと彼女は悟る。それにこれだけ喜んでいるところに無闇に感情をぶつけるのもなんだか気乗りがしない。
　対するハボは夢中になっていたためにようやくラムネが落胆している様子に気が付いて顔を傾げる。
「ラムネ、どしたの？　あ、ラムネも飛び込んだんだね！　わかるわかる、この川の水美味しいもんねえ！」
「――ッちっがーう！　誰のせいだと思ってんの！！」
「えー！」
　結局怒るのだった。


　＊


「ごめんね……ごめんね……」
「もういいから……あたしだってもうそこまで怒ってないから……というか逆にうざいから」
「うざ……？　うう、ごめん」
「だからー」
　これでは同じことをぐるぐると繰り返すだけ。ラムネは深い溜息をついた。
　お腹が水でいっぱいに満たされたハボは地面に溶けるようにひっついて、目の前にいるラムネに申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。決して彼に悪気があったわけではないのだが、周りが全く見えていなかった状況をただ今は悔やむ。
「なんか、僕にできることがあるならなんでもやるよ……！　ほら、ひっくり返っていたのを助けてもらったり道案内してもらったり、たくさん優しくしてもらえたから、御礼しなきゃ、だし！」
　何やら張り切ってラムネを見つめるハボ。点のような黒目は爛々と光っている。妙な圧倒感に押されたラムネは少し体を仰け反らせながら、考える。しかし思考時間は長くはなかった。考えるというよりは、言い出すのを迷っているかのようだった。
「そうね」
「うん」
　ハスボーは一歩ラムネに近づく。やる気は満ち溢れているようだ。
「……丁度、誰かに手伝ってもらいたかったことがあるの」
「僕にできるなら！」
「その点は大丈夫よ。ちょっと大変なだけで」
「うんうん、だいじょぶだいじょぶ！　それで、何をしたらいいんだい？」
　内容の欠片すら聞かずにこの快諾っぷりである。ラムネは薄ら笑いを浮かべた。
「ちょっとね、あたし探し物してるの。それを手伝ってほしいのよ」
「さがしもの？　……へえ、そうだったんだ！　何を探してるの？」
「ええっとね」
　ラムネはこほんと一つ咳払いをしてから、両手を精一杯横に広げる。それをハボは不思議そうな目で凝視した。
「こーのくらいの大きさでっ透明なの。透き通ってて、とっても綺麗な丸い石を探してるのよ！」
「透明の……石？」
「そう」
　ラムネは腕を元に戻す。しかし、ハボの方はぴんときていないようで、先程までの気合は少し収束して疑問符を表情に浮かべた。
「そんなのがあるの？」
「そうよ。大切なものなんだけど……落としちゃったのよ」
「ふうん……でもなんかぴんと来ないや。石って、この石でしょ？」
　ハボは尋ねながら軽く足元を叩く。少し大きめでごつごつとした川岸の石が敷き詰められているが、ラムネは首を横に振った。
「こんなに荒くないの。石は石なんだけど。びいだまっていう名前だったかな」
「びいだま？」
「そう」
「ふうん……なんかよくわかんないけど、探してみるよ。どこらへんで落としたの」
「そこ」
「ん？」
「だから、そこ」
　ラムネは小さな手を真横へと伸ばす。ハボはそれを追いかけるように視線を移し、その先にある清流を眺めた。
「……川の中？」
「そう」
「……じゃあ、流されちゃってもっと遠くにいってる可能性もあるってこと？」
「そう」
　淡々とラムネは返す。
　一方のハボの心には重いものが圧し掛かっていく。一つ覚えのように何も考えず何も聞かずに了承したことを、ちょっとだけ後悔した。


　＊


　瞳をぐんと開く。浅い川の底には大小様々な形の石が転がり重なっている。眩く輝く太陽を背に、ハボは念入りに目を凝らす。石の上、隙間に視線を委ね、漂う。比較的穏やかな流れに押されることのないようにうまくバランスをとる。小さな足は水を掻く。水流が足元で零れていく。小石が力無く水の中を駆けるのを目で追う。あれは違う。灰色に濁った普通の石だ。ハボの頭の中でびいだまの形がはっきりと投影されているわけではなかったが、少なくとも透明じゃなければ違うと思っていいだろう。時折石を持ち上げながら、彼は水底を進んでいく。
　そんな彼の泳いでいる様子は、外にいるラムネの目にもよく見えた。この川の水は澄んでいるし、ハボの蓮は大きくてたとえ潜っていても目立つ。
　自分でも河原に目をかけてはいるものの、きっと陸には無いだろうという諦めがあった。ハボには話していないが、彼女は数日前からたった一人でびいだま探しを敢行している。それでも見つからないで今に至っている。力が弱く川に入っても簡単に流されてしまうだろう彼女は水中を探すことができないことが大きな原因の一つだった。故に、泳ぐことのできるハボは正に適材である。だが、それでも見つかることが保障されたわけではない。
　溜息をつきながら視線をあげると、偶然向こう側の川岸に佇むポケモンと目が合う。このあたりに棲んでいるであろうナゾノクサが二匹。だが、すぐに視線は逸らされる。水を飲みに来ただけらしい。口のまわりを濡らしたまま、お互いに顔を見合わせてから仲が良さそうにゆっくりとした足取りで踵を返していった。
　黙ってそれを見つめていたラムネは、二匹が草むらの隙間に消えていったのを見届けてから空を仰いだ。無性な淋しさが胸の奥で揺蕩う。
「会いたいな」
　ぽつりと呟いて、感傷に浸る。



　美味そうだ。
　一目見て、彼は直感した。
　枝の上で足にぐっと力を入れて、息を止める。目を鋭く光らせて獲物に焦点を一気に合わせる。僅かな挙動も逃さない。大丈夫だ、あっちはまったく気が付いていない。一瞬顔を上に向けた時は何か気配を察せられたのかと悪寒が走ったが、それは思い過ごしだったようだ。こちらに目を向けることなく、再び足元に視線を戻して何やらうろうろとし始めた。黄色い花の中にいる、白い小さな生き物。腹の足しになるかは分からないが、確実性を選ぶべきだ。何より大切なのは、成功するか否か。黒と黄の鮮やかな翼を音無く立てる。急降下しつつ空気を滑るように飛べば、殆ど音無く近づいていけるはずだ。スピードでは負けない自信がある。たとえ気付かれても手遅れな範囲であれば確実に狩れる。緊張と高揚に高鳴る心臓を落ち着かせるように細い息を吐いて、ふっと翼を軽く動かして枝を蹴った。
　照準は獲物に固定。まだ気付いてはいない。
　風を切る音すらほぼ無し。自分で惚れ惚れとしてしまいそうだ。
　スピードが瞬く間に上がっていく。
　と、ふと獲物は振り返った。気付いたからか、偶然か。どちらでもいい。この距離なら相手が逃げようと仕掛けようとその前に捕まえられる。
　いける！
　確信した直後だった。
　真横から痛烈な水鉄砲が襲い掛かってきたのは。



「ギャッ」
　間抜けな声がその朱色の鳥――ヒノヤコマから飛び出した。予想外だったらしいが、それはラムネにとっても同じだった。ふと何気なく視線を移した時にはヒノヤコマがすぐ傍に居たのだ。驚きで一歩も動くことができず、声もあげられなかった。
　しかし目まぐるしく状況は一転。鋭く飛んできたヒノヤコマを弾き飛ばす力強い水の一閃。弾ける飛沫がラムネにもかかってきた直後に我にかえり、咄嗟にその出所へと振り返った。
「ラムネ！」
　水鉄砲を収めて、ハボはラムネの傍へと走り込んだ。
「だっだだだっだ大丈夫！？」
　慌てふためいて口を噛みまくるハボに対して、ラムネは恐ろしく速い鼓動を胸に抱えてハボの顔を見つめた。鬼気迫る状態でありながら相変わらずのんびりとした顔が逆にラムネの心を少し落ち着かせる。しかし代わって恐怖がじんわりと顔を出す。急に自分では制御できないほど体が震え始める。足を竦めて顔を歪めているラムネを見て、ハボは息を呑んだ。
　許さない。
　彼の心に大きな炎が灯って、目は尖った。
　ハボはラムネを守るように彼女の前に立ち、地面に打ち付けられた水浸しのヒノヤコマを睨みつけた。
「おまえ、ラムネに何するんだ！」
「……っ」
　朱い鳥は足に力を込めると徐に立ち上がり、体を思いっきり振り乱して水を弾く。それからハボに対抗するように強い視線をぶつける。
「てめえ……」
　細身で可愛らしいともとれる見た目からは想像できない強い口調に、ハボは一瞬萎縮してしまう。けれど後ろに引き下がるわけにはいかない。鼓舞するように、負けないように、むしろ前へと一歩踏み出す。
　空気が痛い。緊張の針が風に突き刺さっている。間合いは十分にとってあるが、ハボは相手の最大スピードを目の当たりにしている。相手の力をもってすれば、一瞬で縮められる距離だ。
「何で気付いた？」
　憎々しげな声でヒノヤコマは尋ねる。
　ハボは応えない。それほど彼に余裕は無かった。何故、と問われても偶然と言う他ない。一度川から顔を出したら、何か細い音が空から聞こえてきた。顔を上げて、狭い視界の中、閃光のような速さで翔ける何かを偶然見つけたのだ。そこからは咄嗟の反応だった。予想以上に水の攻撃は相手に効いたが、ちょっとでもあちらのペースに乗ったら、すぐに負けてしまいそうな気がした。集中力を一気に高めていく。心臓の音が自分の耳元で聞こえてくるようだった。
　重い沈黙。誰も微動だにしない。
　それを打ち破ったのは、思いもがけない言葉だった。
「……やめやめ、やめだ！」
　低い姿勢を保っていたヒノヤコマは翼を広げ、声をあげた。
　緊張感に満ちていた二匹も、さすがにこの行為には心が乱れる。
「え？」
　ぽかんとした声が零れる。鳥は大きく溜息をついた。
「だからやめだって言ってんだよ！　こんな暑っ苦しいことやってられっか。ったくもーまた決まらなかった！　かっこわるいよなあ。完璧だったはずなのに」
「か、完璧って……やっぱりおまえ、ラムネを食べようとしたんだな！」
「何言ってんだ、当たり前だろ。他に何に見えたんだ。でもなー俺はすっと華麗にやりたかったんだよ。音も無く、相手が抵抗する前にスッ、サッ――とな」まるで筆で文字を滑らかにはらうかのような口ぶりをしつつ、同時に翼の動作が横に滑る。直後、深い溜息。「なのにお前が邪魔したから興醒めだよ。もういいや」
　言いながらヒノヤコマはマイペースにも乱れた羽を嘴で器用に繕い始める。
「あーあー羽がめちゃくちゃだ。どうしてくれるんだよ。しかもけっこう痛かったし」
　呆気にとられたハボは言葉も出てこないでいて、どうすべきかと背後を振り返った瞬間、ただならぬ空気にびくりと心臓が跳び上がる。
「ラ、ラムネ……？」
　動揺した声にヒノヤコマは顔を上げた。
　ハボの後ろに隠れていたラムネは、先程までの恐怖とは違った震えに極まって、歯を食いしばった。
「もうっなんなのよおおおおおおお！！」
　我慢していた分一気に爆発した感情に、ヒノヤコマもたじろいだ。
「ラムネ、落ち着いて……！」
「落ち着いていられないわよ！　なんなのよ、勝手に掻き回しといてまあいいやって、あんたの都合で全部動かしてんじゃないわよ！」
「なんだてめえ、だったら今すぐにでも食ってやろうか！？」
「な、ななな何を言ってるのだめだよそんなの！　ラムネだって、気持ちは分からなくもないけどそんな風に言ったら逆撫でしちゃうだけだよ……！」
　ハボの覚束ない仲介にラムネは納得がいかない顔をしながらも押し黙る。本来強気に踏み込むことができない立場であるのは彼女自身も分かっていたが、叫ばずにはいられなかったのだ。
「……お前、変に見えて意外と肝が据わってるな。このへんで見ないし、誰だ？」
　ヒノヤコマは興味深そうにハボに視線を向ける。
「え？　……あ、僕ですか？」
「当たり前。そんなちびに大して興味なんか無いし」
　ちびという言葉に反応してまた激昂しようとしたラムネを慌ててハボは制する。手を上下に動かして落ち着くように促した。
「ええっと、僕はハボっていいます……ここらへんにはさっき来たばっかりで……」
「ハボねえ……強くなさそうな名前」
「そういうあんたはどうなのよ……」
　横から話に挟まると、ヒノヤコマはまだ何も言っていないのに胸を張る。
「俺か？　ふん、どうしようかね……お前等みたいなのに教えるほど暇じゃないが、どうしてもっていうなら――」
「あ、暇じゃないんですか！　そうですかそれはお邪魔しました！　よし、ラムネ、いこっ」
「え？」
「ほら、逃げるよ！」
「ちょっと待」


　＊


　ヒノヤコマ――もといヤコウは、狩りを邪魔され苦手とする水タイプの技を思いっきりぶつけられたにも関わらず、ハボが気に入ったらしい。飛び方や狩り方に拘りをもつ彼は自分に酔った口調で今までの武勇伝を語る。川を泳ぐ魚をほぼ水飛沫もあげずにとることができたこと、風に煽られ木から離れた実がまさに地面に到達する直前に的確に嘴で捉えたこと、枝葉で障害が多い木漏れ日の道をうまく飛ぶ際の翼のコツなどなど、彼の舌はとても軽く話題は休憩無く飛び出してくる。危うくヤコウの武勇伝の一つになりそうだったラムネは彼をあまり良く思っていないために話を聞き流していたが、一方のハボは興味津々といった風に相槌を打っていた。むしろ目を輝かせていた。自分に無い景色が広がっているヤコウの生活が憧れとして映ったのだった。そのため余計にヤコウは調子に乗っていくのだった。
「いやあ、お前は見どころのあるやつだなあ」
　満足そうにヤコウは感嘆を伝える。逆にラムネは不満そうに唇を尖らせる。
「そうかなあ〜えへへそんな風に言われるのって初めてかもなあ」
「ほんとかよ？　見る目が無いやつとつるんでたんだな。こんだけ話して楽しいのはひっさびさだ」
「あんたが一方的に喋ってるだけじゃない」
「ちびは黙ってろって言っただろ」
「もーっあんたが黙ってなさいよ話長すぎ！　あたしたちそんなに暇じゃないのよ！」
「ちっちぇえくせに態度だけはでけえよな」
　あからさまな溜息をつくヤコウ。顔を真っ赤にするラムネ。そしてハボが即座に彼女を宥めるのが定石となっていた。
「でも、僕等やらなきゃいけないことがあるのはほんとで……ラムネの大切なものを探してるんだ」
「ちょっと、余計なこと言わなくていいから」
「ちびの……？　へえ、何を探してんだ」
「あんたには関係ないでしょ。行こうよハボ」
「で、でも……僕とラムネだけじゃいつ見つかるかわかんないし……手伝ってもらった方がいいんじゃないかなあ」
「手伝うとは言ってねえけどな。ま、そこまで言うんなら手伝ってやらないこともないけど？」
「誰もそんなこと頼んでないでしょうが！　なんでそう、いちいち鼻につく言い方をするんだか……」
　ラムネは苦々しく顔を歪めるものの、ハボの言うことは的を射ているのもよく分かっていた。悔しいが、エネコの手も借りたい状況なのだ。少しでも戦力は多い方が望ましい。しかし、素直に言うのも癇に障る。
「ラムネくらいの大きさの透き通ってるまあるい石を探してるの。びいだまっていうんだって」
「びいだま？　なんだそれ、石なのか？」
「うん、川に落としちゃったんだって」
　悶々と葛藤しているラムネを置いて勝手に暴露したハボ。気が付いたラムネはきっとハボを睨みつけて彼の頬を引っ張る。柔らかい彼の肌は意外にも伸びた。
「いったたたたたたたた痛い痛いよラムネ！」
「勝手に話を進めないでよ！」
「ハハハッ川に落とすとかかっこわるいなちび」
「うるさいっ」
　そうやって馬鹿にされるのは目に見えていた。だから言いたくなかった。ハボから手を離して、ヤコウから顔を背ける。
「あんたの力なんて無くたって……きっと見つかるもの……」
　言葉と意思が噛み合っていないのは誰の目にも明らかであった。露呈するのは、重なっていく疲労と自信の無さ。
　重い沈黙が訪れる。ハボとヤコウは目を合わせた。ヤコウはふうと息をついて、突然空を仰ぎながらわざとらしく声をあげ始めた。
「あー、俺泳いでる魚とか捕まえるの得意だからさあ、けっこう目は肥えてるっていうの？　まあ水は苦手だけどここらなら浅いから眺めるだけでも十分やれるというか？」
「……」
「困ってるやつを横目にスルーするのはかっこわるいというか？」
「……あんた、さっきあたしを食べようとしたくせに」
「ま、過去のことは水に流そうぜ。川だけに」
「……」
「……」
「……」
「……なんか反応しろよ！！」
　ふふ、とラムネとヤコウの隣から小さな笑い声が零れる。
「ヤコウって面白いねえ〜」
「ハボお前ハイパーいい奴だよ」
「あー、もう……」
　ラムネは小さな肩を更に落として溜息をついた。


　＊


「でもよ、さすがにヒントが川だけってんのは、きっついな」
「そうよね……分かってる」
　くぐもった言葉。彼女らしくないその歯切れの悪さにヤコウは思わず目を細めた。
　ラムネは手元に視線を落とし、きゅっと花柱を強く握りしめる。風が吹けば飛んでいきそうなその儚げな容姿。顔を背けて縮こまらせると、その印象は更に強くなる。ヤコウは息を詰めて、焦って何か声をかけようとした。しかし、躓いたように代わりに出てきたのは乾いた咳払い。
　と、水面を蹴る音がした。ハボが再び顔を出してこちら側を覗いている。
「ハボ、どう？」
　ラムネはその場をふわりと離れて、ハボの元へと向かった。穏やかな水流を切り抜けて、ハボは陸地へと上がってラムネと向かい合う。しかし、曇った彼の表情が既に答えを物語っているようなものだった。
「うーんそれらしいものはやっぱり見つからないよ。もっと下の方へ行ったのかなあ……けっこう探したんだけど」
「そう、ね……」
　ラムネは再び足元に視線を向けた。
　影は徐々にその長さを伸ばしつつあった。それでも途方も無い探し物は顔を出さず影すらも見せない。重苦しい空気がラムネの心に纏わりついて、諦めの色が表情に塗り重ねられていく。
「壊れちゃったのかな」
「そんなことないよ！！」
　慌てるようにハボは大きな声をあげた。彼にしては弾けるような強い口調で、ラムネは驚いて顔を上げた。
「絶対、絶対僕見つけるよ！　だから諦めないで！」
　ずいっとハボの顔が一段と近づく。少し怒ったような顔にラムネには見えた。恍けているはずの顔が凛々しく光って、ラムネの背中をゆっくりと押す。しかし同時に、背徳感に似た後ろめたさが胸を僅かに突く。ほんの少しの痛みは波紋のように静かにラムネの中で広がっていき、自然と彼女の口は開いていた。
「どうして、そんなに頑張れるの？」
　ハボにとっては予想していなかった言葉だった。目を丸くするハボを前にラムネの口は止まらず、そのまま続けた。
「あたし、その……見た目の割に態度でかくて怒りっぽいし、嫌になるでしょ？　そんな奴のためなんかに時間と労力かけて、さ」
　先程のヤコウのラムネへの言葉は、彼女の考えていた以上に弱りやさぐれそうになる心に深く突き刺さっていたのだろうか。体格ではほぼ全てのものに負けていても、跳ね返さんとするような強気な彼女の姿勢。元来の性格で躱されたものの、ハボにも思わず強く冷たい言葉をいくつか投げつけている。それでも懸命にびいだまを探しラムネを励まそうとするハボに、彼女は有難さの他に戸惑いや申し訳なさを感じつつあった。
　ハボは恍けた顔を傾げ、湿ったラムネの顔をゆっくりと覗き込んだ。そのまま一歩踏み出してラムネに近付くと、その意図を汲み取れない彼女は少し怯えたように自身が握りしめている花柱に力を込める。大きなハボの瞳は僅かもずれることなく瞬きもせずにラムネを見つめ続けていた。しかしやがて、その目は不意に綻ぶ。
「ヤコウも言ってくれたでしょ、困ってるラムネを僕はほっとけないよ。僕、この通り泳ぐぐらいしか能無いし……でも、そんな僕を誰かが頼ってくれるって、嬉しいよお」
「ハボは泳ぐだけしかできないなんてことない」
「ううん、ほんとにそうだよ。さっきの水鉄砲なんて、まぐれだし。言ったでしょ、僕は力はほんと無くて、追い出されてここに来たって。ひっくり返ったら起き上がれないって。……そう、何よりラムネは僕を助けてくれたから！　そもそも発端はラムネの優しさだから！　言葉が多少きつくたって、ラムネがいい子だなんてこと、僕は最初っから見破ってるんだからねえ。ふふふ」
　ラムネの喉の奥が詰まって一気に熱を帯びる。自慢げな表情で話すハボの言葉が直通でラムネの胸に突き刺さった。魚のように唇を上下させながらも、出てくる言葉は少しも浮かんでこない。どうしてこんなに恥ずかしいことを素直にはっきりと言えるのだろう。恥ずかしさと共に素朴な疑問が浮かんでくる裏で、淡い温もりが柔らかな風のように包み込んでくる。
「僕はラムネに恩返しをしなきゃだし、ラムネも本当に見つけたいんでしょ、びいだまを。僕はどこまでだって付き合うから、頑張ろうよ。ラムネが元気なくっちゃ、僕も元気無くなっちゃうよ」
　途中からラムネはあやされた子供のように頷くことしかできなかった。裏の無い彼の気持ちをラムネも真正面から受け取る。唇をぎゅっと締めて、決意したようにラムネは最後に一つ大きく頭を縦に振った。ハボは満足げに笑顔を見せる。
　そんな二匹の背後で大きな溜息が零れ、ハボとラムネは誘われるようにヤコウの方を振り返った。
「仕方ない奴だなあ」
　言いながらヤコウは翼を広げる。ハボより少し大きい程度の彼だが、その動作一つで随分と逞しさが増す。僅かな羽音と共に飛び立った彼は、水流の中央を陣取るある一つの岩へと鮮やかに足を下ろした。
「この俺が手伝えばそんな石の一つや二つ、すぐに見つかるんだから大船に乗った気でいろよ？」
「……ヤコウ」
「……えへへ、かっこいいなあヤコウ」
「ふふん、褒めたってなんにも出ないぜ。さあ、さくっと見つけるぞ！」
「うん！」
　ハボは勢いよく川へと跳び込んだ。その飛沫がラムネにかかるけれど、彼女はもうそんなことを気にしてはいなかった。いや、気にするほど余裕は無かった。二匹の心のあたたかさ、優しさが胸を締め付ける。彼女の体に熱い衝動が駆け巡り、瞬く間に満たされていった。
　何か言わなければ、と思った。偶然に出会っただけで手伝ってくれる彼等に、何か伝えたかった。
　ハボが改めて水の中へ潜っていこうとした瞬間、彼女は口を開いた。
「あっ」
　懸命に絞り出したような声は少し裏返っていた。小さな彼女から出る声は水流の音に消されそうな風のようだけど、ハボとヤコウはすぐに気が付いて彼女を振り返った。ほんのりと頬が桃色に染まった彼女は、気持ちを振り絞る。
「ありがとう……」
　自分が思っている以上に小さな声。情けなくて、でもそれが精一杯だった。
　僅かに歪む視界の中で、それを確かに聞き届けた二匹は笑みを浮かべた。ハボは柔らかく、ヤコウは照れ臭そうに。
「頑張ろう、ラムネ」
　ハボが撫でるように声をかけると、ラムネは恥ずかしそうに、でも嬉しそうに大きく頷いた。


　＊


　――あれは、ある昼下がりの出来事だった。
　間近で叩きつけられた衝撃的な映像は色鮮やかに思い出すことができる。
　ラムネ瓶の破片が地面いっぱいに散らばっていた。目にも耳にも響いた痛々しい光景は、彼女の胸を息が止まるほど締め付けた。慌ててそのひとの元へ行く。大丈夫、と声をかける。たとえ言葉が通じなくてもそう言わずにいられなかった。そのひとの滑らかで白く小さな手には所々切れ目が刻まれていて、血がじんわりと滲んでいた。見ているだけで辛くて、思わずその手を握りしめた。そして顔を上げて、そのひとの顔を見た。けれど、不思議なことにその顔は痛そうじゃなくて、むしろ笑っていた。えへへ、とそのひとは声を漏らす。そして、足元に転がっていたビー玉を手にとった。血が伝う親指と人差し指で挟み込んで、彼女の前にかざす。彼女とほとんど大きさが変わらないそれは、手の届かないはずだったもの。出し方が分からなかったもの。丸くて、透き通っていて、美しいもの。
『とれたよ』
　ビー玉の向こうで、そのひとはにっこり笑って呟いた。


　＊


　太陽が西へと傾いていく。空の表情がぼんやりと変わっていく。時間が確実に歩いていく中で、ヤコウが姿勢を極限まで低く保って川の中を凝視しながら呟いた。
「なにか、ある」
　思わずラムネは顔を上げて、彼の元へとすぐに舞い込んだ。そして、その視線の先を追う。しかし、彼女の黒い目には特に変わったものは映らない。水の流れと、その向こうに石が敷き詰められているだけだ。
　ヤコウは足を一歩踏み出して体をぐっと前に突出し、更に水へと近付く。炎タイプを持ち合わせる彼は勿論泳げない。危険も伴うが、それを顧みず限界の居場所で更に目を細めた。
「やっぱりある――おい、ハボ！」
　後方を念入りに探しているハボに向かってヤコウは声を張り上げた。直後、潜りこんでいたハボだったが察知したのかすぐに顔を出した。
「んん、どうしたの？」
「こっち見てくれ、なんかそれらしいものがある気がするんだ！」
　ハボの表情がその瞬間に一変した。
「えっほ、ほんと……！？　待って、すぐ行く！」
　そう言うと、慌ててハボはまた顔を水の中に隠す。蓮は水流に軽快に乗って、ほんの数秒でヤコウ達のすぐ足元へと辿り着き、再び顔を覗かせる。
「どこに！？」
「あのあたり。けっこう深いから、俺の嘴じゃあ届きそうにないんだ」
　そう言いながらヤコウは長い嘴で方向を突き刺し、ハボはその先を追う。
「わかった、ちょっと行ってみるね」
　湧き上がってくる熱を無理矢理抑えて、ハボは冷静に一言かけてから潜りこんだ。蓮の葉が川底へと沈んでいく。
　二匹は高鳴る心臓の音の中でその様子を穴を空けるように見つめていた。一抹の希望と怖さが織り交ざった感情である。今までにもそれらしいものを見つけておきながら、ただのガラスの破片であるケースが多かった。破片を見つけるたび、もしかしたら本当に壊れたのかもしれない――そう絶望を突きつけられるような状況だった。今度こそ、と彼等は縛るように願う。祈る思いで、ハボが戻ってくるのを根気よく待った。
　思っていたよりもハボが戻ってくるまでの時間は長かった。緊張が迸る中、二十秒程経った後にようやく蓮の葉は地上へと浮かび上がってきた。その様子を確認した瞬間、ラムネの心臓は大きく跳ねあがった。聞き慣れた水飛沫の音が弾ける。感情を爆発させるハボなら、見つけたなら確実に喜びを即座に表すだろう。
　しかし彼はそれをしなかった。だめだったのか、と諦めの空気が流れようとしたが、ハボは決して暗い表情ではなかった。
「あった……かもしれない……！」
　彼は上ずった声でそう告げた。
　ラムネとヤコウの顔が急変し、歓喜よりもまず驚きが走る。
「ほ、ほんとなの！？」
「う、うん……なんかそんな気がする……でも、僕の体じゃあ届かないんだ」
「どういうことだ？」
　ヤコウが顔を顰めながら尋ねる。
「大きな石同士の隙間に挟まってるんだけど、その奥にあって……僕、手が短いから……」
　悔しく、そして申し訳なさそうな色をハボは声に滲ませた。あまりに短く不器用な手足。自分でひっくり返ると誰かに助けてもらわなければ起き上がれないような非力さ。ハスボーであるが故の運命を、ハボは心の底から恨みたくなる。
「なるほどな……浅ければ俺が嘴で取れるかもしれないのに」
「石を壊したらいけるかもしれないけど……」
「そんなの、危険だからだめ！！」
　ラムネは怒声を張り上げた。思いがけない叱り声にハボもヤコウも目を丸くする。
「そ、そうだよね……一緒に透明な石も壊しちゃうかもしれないし……」
「馬鹿、違うわよ！　そんなことしたらハボが怪我するじゃない！　だめ、絶対！」
　張り裂ける声は彼女の見た目よりずっと大きな迫力を持ち、ハボは言葉を失った。彼女の目は怖いくらいに鋭利に光っていて、本来の可愛らしさとはまるで離れた目つきをしていた。
「ごめん……えっと、怒らせるつもりじゃなかったんだけど、ごめんね」
　ハボはしょぼくれた声を滑らせる、弱々しい目の光は縮こまった心の内をそのまま表していて、瞬間にラムネも我に返る。まるで自分自身の発言に驚いたかのように、そして同時にハボの気の落ち込みに対して狼狽えを見せた。
「う、ううん。あたしこそ、なんか変に怒っちゃった」
　気まずい空気が漂い、身動きがとれなくなる。
　そこを羽の音が貫いた。ヤコウだ。翼をあえて大きく立てて音を鳴らしたのだ。
「じゃあどうすんだよ！　目の前にあるのにとれないなんて、かっこ悪いにも程がある……」
　勢いよく声をあげたヤコウだったが、発言を進めていくにつれそのトーンは下がっていく。悔しそうに歪んだ顔がラムネやハボの胸を打つ。
　ラムネは、ハボは、ヤコウは考える。状況を整理する。
　ヤコウは固く鋭い嘴を持つけれど水が苦手で、川に潜るのは自殺行為。ハボは水が得意だけれど、目標とする隙間は小さすぎて短い手は届かない。
　――あたしは？
　ずっと漂い続けていた自分を顧みる声がラムネの中で大きくなる。
　何もできていない。彼等の優しさに甘え続けて、せめて河原に流れ着いてないか目を配る程度しかできていない。彼等はそれぞれの得意な面を生かしている。
　自分にできること。
　ハボにもヤコウにもできなくて、自分にはできること。自分の特徴。自分の得意なこと。
　――ある。
　ラムネは唇を締める。視線を上げる。自分よりずっと大きな二匹のポケモンが、それぞれに頭を捻らせている。自分も力になりたい。はっきりと彼女は痛感した。自分に応えてくれた彼等に、今度は自分が全力で応えたいと。たとえ、怖くても。
「……私が」
　僅かに震えた声を漏らすと、ハボとヤコウは滑らかにラムネの方へと視線を集中させた。
「私が、潜って、とってくる」
　決意したように顔を上げて、ラムネは慎重に、しかしはっきりと告げたのだった。
　一瞬ハボとヤコウの表情は制止し、しかし目は強くラムネを見つめていた。四つの大きな目玉が一斉に注目している感覚がラムネは気恥ずかしく、どこか恐怖すら感じた。けれどラムネの心は決まっていた。
　小さいと言われることは嫌いだった。それだけで馬鹿にされているような気がした。実際、得をしたことなんて無かった。草むらに隠れる虫ポケモンにすら食べられそうになるし、繰り出す技だってどうしても貧弱なものになる。ちょっとの距離を歩くだけでも時間がかかる。強い突風が吹けば、懸命に花にしがみ付くしかない。川の流れだってまるで地震のようなものだ。
　小さな自分。
　でも、今、生かせるもの。
　小さいからこそできることが、目の前に在る。
「……本気なんだね」
　ハボは重い調子で確認をとる。もう決意は固まっている。瞬きの合間を置いて、ラムネは頷いた。
「お、おい、まじかよ。このあたりは少し流れが速い。お前みたいなちび、そんな石ころとる前にすぐに吹っ飛ばされるぞ！」
「僕が支える！　僕がびいだまのところまで連れて行く。蓮に捕まりながらなら大丈夫」
「ハボまで……！」
　ヤコウは信じられないとでも言いたげにハボを睨みつける。川の中から顔だけ出していたハボはゆっくりとラムネとヤコウが乗る岩の上へと足を踏み入れる。水がぽたりぽたりとたれていた。
「ラムネにとっては、それほどに大事なものなんでしょう？」
　川の流れ、風の音の中で、マイペースな彼の声は響く。
「絶対に大丈夫だよ」
　甘く笑う彼の顔が、ラムネの中に巣食う怖がる思いを不思議とふわりと取り除く。わたのように柔らかく、心地が良い。代わりに沸々と湧きあがってくる勇気。何故だろう、彼が大丈夫だと言うと、本当にそんな気がしてくる。無責任なようで、でも信じたくなる。
　ラムネは彼の言葉を噛みしめて、頷いた。
「……なあ」
　ヤコウが声をかける。
「こんな時に聞くのもなんだけど……なんでそこまでして取戻したいんだよ？　その石は、お前にとってのなんなんだ？」
「……」
　ラムネは思わず口を紡ぐ。それはハボも口にしなかったものの気にしていたことであり、改めてラムネの迷う表情に視線を落とした。
　数秒の合間が随分と長く感じられた。妙な圧迫感が空気を支配し、せっかちなヤコウが急かそうとした時、ラムネは口を開いた。
「……そのびいだまは、ほんとはあたしのものじゃないの」
　小さな唇は話し始めた。一気にハボとヤコウの驚愕が集中したのを、彼女は空気で痛感した。
「あたしの友達……とでも言えばいいのかな。人間のまだ幼い女の子で、この近くの町に住んでいるの。たまたま公園で出会って、あの子、珍しがってずっと付き纏って……最初はうざったかったのに、いつの間にかあの子が公園に遊びに来るのを、毎日楽しみにしてた。
　ラムネっていう名前はその子がつけてくれたの。あの子が持ってきてくれた、ラムネっていう飲み物がすごく美味しくて……らしくないけど、全身ですっごく喜んで」
　しゅわしゅわと口の中で弾ける爽やかな甘み。ちょっとだけ痛くも感じるのどごし。舌に溶ける砂糖の感覚。あまり感じたことのない美味しさにラムネは虜になった。空色の透明な容器は、振るとからんと可愛らしい耳に心地の良い音がした。中に入っているものが容器に当たる音だ。
「そのラムネの瓶に入っていたのが私の探してるびいだま。逆さまにしたり指を伸ばしてもどうしても取れなくて、あの子は気になるなあって笑ったの。それは私もそうだった。あんなに丸くて綺麗な石、初めて見たから。どうしてそんなところに入ってるのかも不思議で、実際に手にとってみたかった。それが通じちゃったのかな……そしたらあの子、割るって言いだしたの」
　今でも記憶にはっきりと残っている。
　ラムネは思わず空を仰いだ。
「そしたらさ、本当に割っちゃったんだ。公園の、噴水の煉瓦に瓶を力の限り叩いてさ……」
　耳を思わず塞ぎたくなる、雷のような一瞬の衝撃音。空気を切り裂く破片の群れはきらきらと太陽を照り返していた。
「まあ、変な子だったんだよ……普通あんなの実際に割るのなんて、怖くてできないもん。あの子、いっぱい手を傷つけて、血もいっぱい出て……なのに嬉しそうに笑ったの。とれたよってさ……呑気なもんでしょ。ほんと馬鹿」
　罵る言葉とは裏腹に笑っているから、本心でないことなんて手に取るように分かる。ハボもヤコウも、見守るように彼女の話に耳を傾け続けた。
「でもそれからしばらく来なくって……ようやくまた会えたと思ったら手には絆創膏いっぱい貼ってさ、ランドセルもぼろぼろで。びいだま川に落としちゃったなんて言って……笑って……ほんとばかみたい……。落としたんじゃなくて、盗られたんだってことくらいすぐに分かったわよ。ここらへんって意外と子供にとっては入りやすい場所なのよ。どんなことがあったのかは知らないけど、あの子いじめられてたみたいだし……要はそういうことだったのよ。手をいっぱい傷つけて、親にもそのことで怒られて、挙句の果て折角手に入れたものを捨てられちゃって……そのうち、笑ってたのにぼろぼろ泣き出してさ。……あたし、あの子の傷だらけの手を撫でることしかできなかった……力になってあげられなかった……！」
　もどかしかった。何もしてあげられない自分が許せなかった。自分にもっと力があれば。もっと大きな体を持っていれば。そうしたら言葉が通じなくたって、すぐにでも抱きしめて守ってあげられるのに。彼女の大粒の涙を全て受け止めてあげるのに。頭上から降り注ぐ嗚咽する声。止まらない涙の雨。鼻水を啜る音。小刻みに震える手。切り刻まれるような痛みとして伝わってくる彼女の悲しみ、悔しさ。ラムネの指の先まで底知れない歯痒さが支配した。
「……その子、近いうちに旅に出るって言ってたの。人間って、大きくなったらいろんなところを歩いて回る習慣があるんだって。あの子からしてみれば、今のいじめられてるその状況から逃げ出せる口実でもあるんだけど……あたしに言ったの。一緒に来てほしいって」
「……ラムネは、どう返したの？」
　ハボは不意に出てきた疑問を自然と声に出した。
　ラムネは淋しそうに薄らかな笑みを口元に浮かべた。
「最初、旅とかパートナーとか、言ってる意味がよくわかんなかった。だからすぐに返事できなくて……。後でちゃんと考えて、ようやく理解したんだ。だからあたし……あの子の無くしちゃった大切なものを見つけだして、返してあげて、そして一緒に行きたいって伝えたいのよ。言葉は直接通じないけど……きっと伝わる。今度こそあの子の力になってあげたい」
　傍にいたい。痛い思いをしてまでとったあの一生懸命なきらめきを、取り戻したい。その一心で、彼女は単身、ここに飛び込んだのだ。
　彼女は口を閉じる。しばらくの沈黙。それは、彼女の話が終わったことを自然と物語った。
　ハボとヤコウはしばらく言葉を発することができずにいた。どこか重苦しい空気が圧し掛かる。ただのびいだまには、彼女のたくさんの思いや考えが詰め込まれていた。それは、ハボ達には想像もできなかったものだった。
　そして、あの石をとったら。
　そうしたら、彼女は遠いどこかへ、知らない誰かと一緒に行ってしまう。
　ひと時の三人の時間は、終わりを告げるのだ。
「……そっかあ」
　ハボは隠しきれない暗いトーンを落とす。
「淋しいけど……でも、それなら尚更、とらなきゃ、だねえ」
「だな」
　ヤコウは同意し、続いて溜息をついた。
「ったく、あんま無理はすんなよな」
「分かってるわよ」
　ふいに苦笑いを浮かべて、ラムネはゆっくりとハボの方を振り返り頷いた。
「お願い、ハボ」
「うん」
　ハボは返事をした後、静かに着水した。大きな蓮。ラムネは一度肌身離さず掴んでいた青い花から降り、恐る恐るハボの蓮の葉へと向かった。水でひたひたになった彼の葉は柔らかい。川の流れが目の前にやってくる。音が一層大きくなったような気がした。唾を呑みこむ。蓮の形を囲むように出っ張った部分をしっかりと持ち、心を落ち着けるように深呼吸をする。
「じゃあ、いくよ」
　直前、ハボは声をかけた。ラムネは一気に空気を吸い込んだ。そして、僅かにラムネの足元が浮かび上がり、かと思えば一気に水が全身を襲い掛かった。思わずラムネは目を閉じる。冷たい。流れは想像以上に急だ。少し気をゆるませれば本当に流されてしまいそうだ。尚一層葉を掴む力を強め、そっと目を開く。流れ込んでくる水が痛い。
　ハボは素早くその場所に泳いでいく。時間は無い。ラムネの息が充分に残っているうちに、六本の短い足を懸命にばたつかせ、流れに沿いながら岩がひしめき合う川底へ。
　その場所へとやってくる。ハボの動きが止まったことにラムネは気が付いて、息をぐっと止めながら懸命に歪む視界を凝らした。ハボはなるべくその隙間へと蓮の葉を近付けさせる。ラムネの目に小さなきらめきが映った。灰褐色の岩とは明らかに違う、あの輝き。ラムネは確信した。あれだ、と。大きな岩と岩の間にうまく挟まっている。この流れの中でもびくともしていないとなれば、相当の力をいれなければ離れないだろう。ラムネは岩に手をかけた。全身の力をかけるためにも、一度蓮から離れる必要があることはすぐに悟った。蓮は少し縦に動いて、ラムネが流れていってしまわないように支える体制になる。着実に息の限界が近付いてくる。迷っている暇はない。ラムネはうまく岩の小さな凹凸に手をかけて、隙間へと一気に跳び込んだ。ぎりぎり手が届く。洗練された丸みのおかげで思わず滑りそうになる。負けない。強く心の中で叫んだ。意地で全身で覆うようにしがみ付く。水流が体全体を襲う。それすらも味方にしようと、流れにあえて乗るようにびいだまを引っ張った。瞬間、息に対して意識が向かなくなり、一気に呼吸が苦しくなる。目が回って、耳がおかしくなりそうだった。口の中が張り裂けそうになる。まだだ。まだだよ。どうして出てきてくれないの。どうして外れないの。どうしてもっと力が出ないの！　はやく、はやく！　焦燥が走る。手足は痺れていた。いつ離れたっておかしくない。もう一度体勢を立て直すことなんてラムネの頭には到底なかった。今、今この瞬間しかない！　無理だと思ったものをあの子が掴んだその証を、絶対に取り戻す！　はやく！　うんと体重を後ろに引き寄せる。目の前が真っ暗でも、渾身の力。ちっぽけでも、精一杯の力。はやく！　はやく！　はやく！！　痛みが走る。水の中で吠えた。これでもかってくらいエネルギーを焼き尽くして、もう残されてない力だって振り絞った。なんでもいい。体がはちきれたってかまわない。だから……！
　そして。
　ふっと唐突に体が軽くなった。
　あ、と無意識に思った瞬間に感情など無かった。
　それでもラムネは、求め続けていたびいだまを抱きしめ続けていた。
　ハボは蓮に彼女の体が蓮に届いたことを触覚で理解し、一気にそのまま垂直に上へと駆けあがろうとした。が、ラムネはびいだまで精一杯で蓮を掴んでいないため、すぐに滑り落ちる。ハボの呼吸が止まった。狭い視界の中でラムネが青ざめた顔で水流に沿って流れていく。反射的に手を伸ばした。
　直後、ハボの傍に大きな爆発のような衝撃が跳び込んでくる。何かが水の中にやってきて、しかしそれがなんであるかを確認する前に、それはまた水を飛び出していく。慌てて視界を広げると、そこにラムネはいなかった。透き通った川の中で、小さな彼女の姿が一瞬で消えた。ハボは大急ぎで水を蹴り上げ、水上へと顔を出す。ぱっと照りつける太陽の眩い光。それを背景に鮮やかに飛ぶ、一匹の朱い鳥。
　ヤコウの嘴は、やわらかくラムネを包み込んでいた。


　＊


　辺りはオレンジ色に染まり上がっていた。小さな影がぐんと黒く伸びて、まるで自分のものじゃないみたいだとハボは思った。
　疲れて体も水浸しの三匹は彼女の住処でもある公園の傍までやってきた。子供が遠くで帰っていく姿を遠目に、着々と別れの時は近付いている。
「本当に、ありがとう」
　太陽に照らされた二匹を、ラムネは愛おしそうに見つめながらゆっくりと頭を下げた。ぎりぎり抱え込めるくらいの大きさのそれが、きらりとまた光る。
「うん」
「良かったよ、ほんと。危なかったけどな」
　ハボもヤコウもそっと笑う。
「ほんとに、ハボとヤコウがいなかったら絶対に見つけることもできなかったの」
「ラムネがいたからとることができたんだよお。僕等、一匹だって欠けたらできなかったんだ」
「こーんなちっぽけな石をとるだけなのにな。不思議なもんさ」
「うん……」
　ラムネはきゅっとびいだまを強く抱く。少しだけ擦れてしまっているけれど、驚くほど鮮明な透明さは失われていない。苦労した分、最初に見たときよりもずっと輝いているようにみえた。あの子は喜んでくれるだろうか。きっと、素敵な笑顔を見せてくれる。考えると、それだけで心がふんわりとあたたかくなった。
「……ほんとは」
　ハボが小さく呟いた。
「ほんとはね、僕、もっとラムネと一緒にいたいんだあ」
　へへ、と彼は照れ臭そうに笑う。時々見せた凛々しさは影を潜め、出会ったばかりの時ののんびりとした、心がほっとする笑顔だった。
　けれど、彼から零れた本音はハボだけが抱いているものではない。ヤコウも、そしてラムネも考えていたことだった。三匹でいる時間は本当に一瞬で、しかし必死で夢中で濃密だった。だからこそ余計に、ばらばらになるのは淋しいものだった。それを全員が痛いほどに感じている。
「僕ね……」
　恥ずかしがりながらハボは徐に話し始める。
「こんな大きな蓮で、こんなに大きな嘴を持ってるでしょ。だからあんまり周りがよく見えないんだ」
　唐突に自分の体形について話し始めて不思議に思ったラムネ達だったが、口を挟まずに耳を傾ける。
「空を見るのにだって少し手に力を入れてぐっと前に突き出さないといけないし、大体の生き物はなかなか体全体を見ることってできないんだ。それを僕はずーっと淋しいなって思ってたんだあ」
　でもね、と彼は続ける。
「ラムネは小さいから……この蓮よりも背が低いから、顔も体も、ぜーんぶいつだって見える。そんなの、僕初めて見たの」
　目を丸くするラムネ。蓮の下で笑うハボ。太陽を背景に、今も彼の視界に全て入っているラムネの姿。
「僕、それがね、すっごく嬉しかったんだあ……」
　嬉しさが全面に滲み出たその言葉は、ハボらしいのんびりとした口調で、染み入るようにラムネの心へと入り込んでいく。まっすぐで素直な彼の心が伝わってきて、ラムネを抱きしめる。
「……そうだったのね」
「うん。本当に、ラムネに会えて嬉しかった。良かった」
「そっか、あたしもだよ。……あたし、自分が小さいことなんて、力も全然強くなれないし良いと思ったことなかったけど……これを取れたのは自分が小さいおかげだし、ハボにそう言ってもらえたら……少しだけ自分が好きになれる気がするよ」
　本心だった。ハボの本当の心に触れて、ラムネも誤魔化すことなく自分の素直な思いを口にしていた。実際に声に出すと、否定し続けてきた自分をようやく認めることができて、心の棘がまた一つ抜けたように感じられた。これから守っていくひとのためにも、それは必要不可欠なことであった。
　垢抜けたようなラムネの表情を見て、ハボは心の底から安堵を覚えていた。一つ、大きく頷く。
「うん、ラムネはすっごく素敵だよお。まっすぐでしっかりしてて、お姉さんみたい」
「あはは、お姉さんか。ハボは弟って感じよね」
「でへへ、そうかなあなんかそう言われると照れるなあ〜」
「もう、別に照れるようなこと言ったつもり無いんだけど！」
「おいおい、お前等だけで盛り上がんな。俺を置いてきぼりにするな！」
　不満げに横槍を入れてきたヤコウ。目の前の二匹の動向を穏やかに見守っていた彼だったが、遂に痺れを切らしたようだ。ごめんごめんと二匹は笑い、ラムネは口元に指を当ててヤコウを改めて観察する。
「ヤコウは……どうだろ？」
「お兄さんだよお、ヤコウは。頼りになるもん」
「えー、でも兄って感じかなあ？」
「失礼だな！」
　どっと三匹の間に大きな笑い声が弾けては、しかしあっという間にそれは収束して、また沈黙が訪れる。確実に迫る別れの時。既に目の前に来ていることを誰もが理解しながら、もう少しだけでもその瞬間を先延ばしにしたいと願っていた。けれど、噴水の傍に置かれたベンチには、ランドセルを抱えて座り込み待ち続けている人がいる。ラムネは、びいだまを持って彼女の元に向かわなければならない。そして、伝えなければならない。
　歩き出すきっかけは、不意に訪れるものだ。
　ハボの鼻水を啜る音が、こだました。
「……また、会おうね」大きな目に涙をいっぱいに浮かべながら、ハボは言う。「僕、ずっとあの川で待ってるから」
「仕方ねえから俺もお前等のために暇を作ってやるよ」翼を煽って格好をつけながら、ヤコウは言う。「だから怪我だけはすんじゃねーぞ」
「うん」こみあがるものを必死に我慢して、ラムネは言う。「元気でね」

　ぎゅっと詰め込まれた瞬きのような宝物は、びいだまのようにからんときらめいて、三匹の心に刻まれていった。





　了





あとがき

※6500字程度続きますので別ページに。裏話等気になる方はこちら。